この世界のどこにも自分の居場所なんて無い気がする。これは呪いだ。ここで屈したら私はまた、後悔ばかりの情けない大人に戻ってしまう。
でもどうしたらいいのかだろう。私を必要としてくれる人なんてどこにもいない気がする。
惨めな自分を認めたくなくて、あてもなく明るいほうを目指して歩く。
「あれ、広子じゃん。どうしたの一人?」
百合奈だった。アルコールの臭いがする。その後ろにはショートヘアの若い女の子と落ち着いた雰囲気の女の人、それに葉月もいた。
「あっ、この子が私の同級生で、このまえ仕事を辞めた広子。アイドル目指すんだって。すごいでしょ」
悪意を腹の底に溜め込んだ百合奈が、無邪気さを装って三人を振り返る。
嘲笑、憫笑、三人とも嗤っていた。
「ドキュメンタリー見たよ。ちょっと浮いてなかったぁ? 大変そうだよねぇ」
「ほらほら、百合奈ちゃん酔ってるの? 忙しい人の邪魔しちゃだめよ。相田さん、職場のほうは大丈夫だから気にしないでね。派遣で来てくれた新しい二人がバリバリ頑張ってくれてるから」
酔っ払い特有の絡み方をしてくる百合奈を宥めながら、葉月がにっこりと笑う。
「デビューしたらサインしてねー」
賑やかに手を振り、百合奈たちが去っていく。
惨めだった。でも自分を憐れんで泣くのは嫌だ。負けを認めたことになるし、なにより自分が選んだ道を否定したことになる。
どのくらいそうしていただろう。
いつのまにか真上から月明かりが降り注いでいた。高く浮かんだ上限の月。そこにあるだけで人を惹きつけてやまない姿は、ルナみたいだ。
思わず手を伸ばす。しかし月は見る間に分厚い雲の向こうに隠れてしまった。
なんとかしなければ。焦燥が胸を焼く。浮かんできたのは奏夜の顔だった。スマホを手に取って、縋るような気持ちでダイヤルする。
「大丈夫?」
「どうして……」
出るなりそう尋ねた奏夜に、視界がみるみる滲み、それ以上言葉が出てこない。どうして私は奏夜にかけたのだろう。どうして奏夜は欲しいタイミングで欲しい言葉をくれるのだろう。
「ドキュメンタリーずっと見てたから。ヒロはすごく頑張ってるよ。だから大丈夫」
綺羅びやかな夜の町のどこからか音楽が聞こえてきた。広告塔の巨大な液晶で、アマネが歌っている。
大丈夫。世界は残酷でも綺麗だから。優しく囁くような声。
もう、私には歌しかない。
「ダメだよ。私、恋の歌が、どうしても歌えないの」
「今どこ? すぐ行く。近くのコンビニに入ってて」
待ってと言う前に電話が切れた。こんな夜に高校生がフラフラしていたら補導されてしまう。
でもいくら掛け直しても繋がらず、言われた通りにコンビニで待っていると、十分ほどで奏夜が来た。
「お待たせ。行こうか」
バイクのヘルメットを渡される。私は言われるまま後ろに乗った。
「しっかり掴まってて」
「うん」
怖々と奏夜の腰に腕を回す。ひょろりとして見えるけど、予想よりも逞しい。
バイクが夜の道を走り出す。涼やかな風と広い背中の温もりが心地よくて私は目を閉じた。このままうんと遠くに行ってしまいたい。誰も知らないどこか。静かな音楽を奏でる地平線。そこで一人、ずっと歌い続けるのだ。
だって歌があればそれでいい。
答えるように低くメロディが聞こえた。奏夜の背中から響いている。知らない歌、風のような美しい旋律。
「もしかして、これって最終オーディションの」
思わず声を掛ける。
「うん」
それきり奏夜はまたハミングを始めた。
バイクの震動と低く響く声と他人の温もり。なんだか心がざわざわする。さっきまで冷たくなっていた指先が温かい。
気がつくと、頬をぽろぽろと温かい雫が伝っていた。合せるように雨が降り出す。汗ばんだ肌に心地い、夏の夜の温かい雨。私は雨に打たれながら、奏夜に合せて歌った。
やる前から無理なんて決めつけてたら、一生何もできないよ。
ふいに、ルナの言葉が耳の奥に甦る。失敗に怯えて踏み出せなかった私の背を教えてくれた声。否定されてばかりの私の手を引いてくれた二人。
だから今、退屈で窒息しそうな日常から抜け出して、少しだけマシな毎日を生きている。
「ねぇ、奏夜くんの家に行ってもいい?」
「いいよ」
低く囁くような声。夜を駆けていたバイクが古いアパートの前で止まる。
「シャワー浴びてきたら?」
柔軟剤のきいたタオルと着替えのスウェットを渡される。どちらも微かに奏夜の匂いがした。
年下相手とはいえ、自分から異性の部屋に行きたいと強請るなんてどうかしている。混乱しながらもシャワーを浴びて、奏夜の部屋の用意されたクッションに座る。
男の子の部屋にしては片付いていた。あるのはギターと音楽雑誌と少し古いパソコンくらい。殺風景といってもいい。ツールームのアパートのどこにも親の気配はない。高校生なのに一人暮らしなのだろうか。
「どうぞ」
差し出されたマグカップからハーブの香りが漂ってくる。ハーブティーを淹れてくれる男子高校生というのは、ちょっと面白い。
「やっと笑った」
思わず笑っていると、奏夜がふっと目元を弛めた。
優しい笑みに思わずどきりとする。
「ヒロは誰かを好きになったことがないの?」
静かに尋ねられ、正直に頷く。
「恋愛経験も?」
頷きながらこれって、処女ですと告白しているようなものだと少し恥ずかしくなる。
「じゃあ僕とする?」
ふいに大きな手が伸びてきて、ぎゅっと抱きしめられた。
手慣れているのだろうか。大きな手、思ったよりも太い腕に抱きしめられて苦しくなる。動揺、緊張、動悸。心臓が爆発しそうだ。
「待って、本気?」
「うん。僕はヒロに歌ってもらえないと困るから」
「どうして」
尋ねながら気づく。奏夜の手は微かに震えていた。全然、慣れていないのだ。
「恋愛とかは正直分からない。でも、ヒロが大事だ」
視界がみるみる滲んでいく。自分なんかがそんな風に誰かに想って貰らえるなんて思わなかった。
「ヒロに歌って欲しい。ヒロの歌が好きだ。だから」
奏夜の手が伸びてくる。触れるか触れないかのキス。奏夜の唇は少しカサついていて、でも温かくて柔らかい。これがキスかと気恥ずかしいような、あっけないような、でもきっとこの先ずっと忘れないのだろうと思う。
「ありがとう、奏夜くん」
恋や愛が何かはやっぱりまだ分からない。でもこうして自分を想ってくれる人が一人でもいる。それで充分だ。奏夜に出会えてよかったと心から思う。
「もう少しだけ、こうしてていい?」
広い背中に手を回し、思ったより逞しい胸にもたれる。これが男の人の感触なのだ。ルナに抱きつかれた時とはまた違うときめき。怖がらず他人の胸に飛び込んでみて分かる未知の感触。明日は今より少し上手に、ラブソングが歌える気がした。
「きっとヒロは臆病なんだね」
半乾きの私の髪を撫でながら奏夜が囁く。
「うん。私なんかが受け入れて貰えるのかなって、怖くなるの」
「僕と同じだ。僕も自信が無いから」
「でもね、本当は誰かとちゃんと繋がりたいの。誰かに必要だって言って欲しいの。取柄も何もないし、上手く言えないけど、それでも」
「音楽なら気持ちを形にできる。僕らは音楽で、きっと繋がってる」
「そうだね」
頷きながら少しだけ涙が滲む。温かくて胸がざわついて、ずっとこうしていたいと思う。
どうせ私なんかを愛してくれる人はいない。私はまたそうやって、踏み出す前から諦めようとしていた。でもここにちゃんといる。愛かどうかは分からないけど、私を必要としてくれる人が。
「ねぇ、奏夜くんはカナデさん?」
奏夜が小さく頷いた。
「私を見つけてくれてありがとう」
ようやく言えた。なんだがすっきりした。この先もまだ進めそうな気がする。
答えるように奏夜がまたハミングを始めた。低く遠く響く声。早くこの歌を歌いたいと思った。
でもどうしたらいいのかだろう。私を必要としてくれる人なんてどこにもいない気がする。
惨めな自分を認めたくなくて、あてもなく明るいほうを目指して歩く。
「あれ、広子じゃん。どうしたの一人?」
百合奈だった。アルコールの臭いがする。その後ろにはショートヘアの若い女の子と落ち着いた雰囲気の女の人、それに葉月もいた。
「あっ、この子が私の同級生で、このまえ仕事を辞めた広子。アイドル目指すんだって。すごいでしょ」
悪意を腹の底に溜め込んだ百合奈が、無邪気さを装って三人を振り返る。
嘲笑、憫笑、三人とも嗤っていた。
「ドキュメンタリー見たよ。ちょっと浮いてなかったぁ? 大変そうだよねぇ」
「ほらほら、百合奈ちゃん酔ってるの? 忙しい人の邪魔しちゃだめよ。相田さん、職場のほうは大丈夫だから気にしないでね。派遣で来てくれた新しい二人がバリバリ頑張ってくれてるから」
酔っ払い特有の絡み方をしてくる百合奈を宥めながら、葉月がにっこりと笑う。
「デビューしたらサインしてねー」
賑やかに手を振り、百合奈たちが去っていく。
惨めだった。でも自分を憐れんで泣くのは嫌だ。負けを認めたことになるし、なにより自分が選んだ道を否定したことになる。
どのくらいそうしていただろう。
いつのまにか真上から月明かりが降り注いでいた。高く浮かんだ上限の月。そこにあるだけで人を惹きつけてやまない姿は、ルナみたいだ。
思わず手を伸ばす。しかし月は見る間に分厚い雲の向こうに隠れてしまった。
なんとかしなければ。焦燥が胸を焼く。浮かんできたのは奏夜の顔だった。スマホを手に取って、縋るような気持ちでダイヤルする。
「大丈夫?」
「どうして……」
出るなりそう尋ねた奏夜に、視界がみるみる滲み、それ以上言葉が出てこない。どうして私は奏夜にかけたのだろう。どうして奏夜は欲しいタイミングで欲しい言葉をくれるのだろう。
「ドキュメンタリーずっと見てたから。ヒロはすごく頑張ってるよ。だから大丈夫」
綺羅びやかな夜の町のどこからか音楽が聞こえてきた。広告塔の巨大な液晶で、アマネが歌っている。
大丈夫。世界は残酷でも綺麗だから。優しく囁くような声。
もう、私には歌しかない。
「ダメだよ。私、恋の歌が、どうしても歌えないの」
「今どこ? すぐ行く。近くのコンビニに入ってて」
待ってと言う前に電話が切れた。こんな夜に高校生がフラフラしていたら補導されてしまう。
でもいくら掛け直しても繋がらず、言われた通りにコンビニで待っていると、十分ほどで奏夜が来た。
「お待たせ。行こうか」
バイクのヘルメットを渡される。私は言われるまま後ろに乗った。
「しっかり掴まってて」
「うん」
怖々と奏夜の腰に腕を回す。ひょろりとして見えるけど、予想よりも逞しい。
バイクが夜の道を走り出す。涼やかな風と広い背中の温もりが心地よくて私は目を閉じた。このままうんと遠くに行ってしまいたい。誰も知らないどこか。静かな音楽を奏でる地平線。そこで一人、ずっと歌い続けるのだ。
だって歌があればそれでいい。
答えるように低くメロディが聞こえた。奏夜の背中から響いている。知らない歌、風のような美しい旋律。
「もしかして、これって最終オーディションの」
思わず声を掛ける。
「うん」
それきり奏夜はまたハミングを始めた。
バイクの震動と低く響く声と他人の温もり。なんだか心がざわざわする。さっきまで冷たくなっていた指先が温かい。
気がつくと、頬をぽろぽろと温かい雫が伝っていた。合せるように雨が降り出す。汗ばんだ肌に心地い、夏の夜の温かい雨。私は雨に打たれながら、奏夜に合せて歌った。
やる前から無理なんて決めつけてたら、一生何もできないよ。
ふいに、ルナの言葉が耳の奥に甦る。失敗に怯えて踏み出せなかった私の背を教えてくれた声。否定されてばかりの私の手を引いてくれた二人。
だから今、退屈で窒息しそうな日常から抜け出して、少しだけマシな毎日を生きている。
「ねぇ、奏夜くんの家に行ってもいい?」
「いいよ」
低く囁くような声。夜を駆けていたバイクが古いアパートの前で止まる。
「シャワー浴びてきたら?」
柔軟剤のきいたタオルと着替えのスウェットを渡される。どちらも微かに奏夜の匂いがした。
年下相手とはいえ、自分から異性の部屋に行きたいと強請るなんてどうかしている。混乱しながらもシャワーを浴びて、奏夜の部屋の用意されたクッションに座る。
男の子の部屋にしては片付いていた。あるのはギターと音楽雑誌と少し古いパソコンくらい。殺風景といってもいい。ツールームのアパートのどこにも親の気配はない。高校生なのに一人暮らしなのだろうか。
「どうぞ」
差し出されたマグカップからハーブの香りが漂ってくる。ハーブティーを淹れてくれる男子高校生というのは、ちょっと面白い。
「やっと笑った」
思わず笑っていると、奏夜がふっと目元を弛めた。
優しい笑みに思わずどきりとする。
「ヒロは誰かを好きになったことがないの?」
静かに尋ねられ、正直に頷く。
「恋愛経験も?」
頷きながらこれって、処女ですと告白しているようなものだと少し恥ずかしくなる。
「じゃあ僕とする?」
ふいに大きな手が伸びてきて、ぎゅっと抱きしめられた。
手慣れているのだろうか。大きな手、思ったよりも太い腕に抱きしめられて苦しくなる。動揺、緊張、動悸。心臓が爆発しそうだ。
「待って、本気?」
「うん。僕はヒロに歌ってもらえないと困るから」
「どうして」
尋ねながら気づく。奏夜の手は微かに震えていた。全然、慣れていないのだ。
「恋愛とかは正直分からない。でも、ヒロが大事だ」
視界がみるみる滲んでいく。自分なんかがそんな風に誰かに想って貰らえるなんて思わなかった。
「ヒロに歌って欲しい。ヒロの歌が好きだ。だから」
奏夜の手が伸びてくる。触れるか触れないかのキス。奏夜の唇は少しカサついていて、でも温かくて柔らかい。これがキスかと気恥ずかしいような、あっけないような、でもきっとこの先ずっと忘れないのだろうと思う。
「ありがとう、奏夜くん」
恋や愛が何かはやっぱりまだ分からない。でもこうして自分を想ってくれる人が一人でもいる。それで充分だ。奏夜に出会えてよかったと心から思う。
「もう少しだけ、こうしてていい?」
広い背中に手を回し、思ったより逞しい胸にもたれる。これが男の人の感触なのだ。ルナに抱きつかれた時とはまた違うときめき。怖がらず他人の胸に飛び込んでみて分かる未知の感触。明日は今より少し上手に、ラブソングが歌える気がした。
「きっとヒロは臆病なんだね」
半乾きの私の髪を撫でながら奏夜が囁く。
「うん。私なんかが受け入れて貰えるのかなって、怖くなるの」
「僕と同じだ。僕も自信が無いから」
「でもね、本当は誰かとちゃんと繋がりたいの。誰かに必要だって言って欲しいの。取柄も何もないし、上手く言えないけど、それでも」
「音楽なら気持ちを形にできる。僕らは音楽で、きっと繋がってる」
「そうだね」
頷きながら少しだけ涙が滲む。温かくて胸がざわついて、ずっとこうしていたいと思う。
どうせ私なんかを愛してくれる人はいない。私はまたそうやって、踏み出す前から諦めようとしていた。でもここにちゃんといる。愛かどうかは分からないけど、私を必要としてくれる人が。
「ねぇ、奏夜くんはカナデさん?」
奏夜が小さく頷いた。
「私を見つけてくれてありがとう」
ようやく言えた。なんだがすっきりした。この先もまだ進めそうな気がする。
答えるように奏夜がまたハミングを始めた。低く遠く響く声。早くこの歌を歌いたいと思った。



