翌日の夕方、授業が終わるなりさっさと出かけていったルナの甘ったるい香水の残り香を嗅ぎながら、私はガラス越しに星を眺めていた。
 静かだ。若い子たちのほとんどが家や友達の所などそれぞれの居場所に繰り出し、取り残されたのはオバサン一人。
 ホームレス、ホームレス。どこからか母の高笑い声が聞こえる気がした。

「広子さん、あなた駄目よ。もっと魅力を出して。ラブソングをまともに歌えないようじゃ、歌手にはなれないよ」

 母の声にアリサ先生のヒステリックな声が重なる。
恋愛なんて人生の一部じゃないか。歌うべきことはもっと他にもある。そう思う一方で、だんだん不安になってくる。魅力の無い私の歌を誰が聞いてくれるのだろう。私はやっぱり身の程知らずの自惚れ屋なのだろうか。誰かと話したくて茉理に『元気?』とメッセージを送る。すぐに返事がきた。

『元気。仕事は相変わらず休んでるけどね。ドキュメンタリー見たよ』
 見たんだ。どきんと心臓が跳ねた。
『どうだった?』
『イキイキしてた。広子っていつも遠慮がちだったから、新鮮』
 思わず顔がにやける。自分の進んだ道は間違っていない。そう茉理が言ってくれているような気がした。
『ねぇ、茉理、恋ってどんな感じかな?』
『え、恋? いきなりどうしたの』
『ラブソングがどうしても歌えなくて。私、恋したことがないから』
『なるほどね』
『茉理はどう? 好きな人いる?』
 藪から棒すぎただろうか。急に返信が途切れる。

『じつは私、彼氏できたんだ』

 じっとスマホを見つめていると、五分ほどして返信が来た。

 あの茉理に――。一瞬思考が凍りついた。喜ばしいことのはずなのに、最初に感じたのは寂しさだった。それから嫉妬。

『そうなんだ、よかったね』

 震える指でなんとか返信した。この話題を早く終わらせてしまいたい。茉理に裏切られたような気がして、そんなふうに思う自分が醜くて嫌だった。

『うん。今すごい幸せ。一緒にいるだけで満たされる。ゆくゆくは結婚……とか考えてる』

 長文の即レス。言いたくてうずうずしていた茉理の姿が目に浮かぶようだ。
 恋愛なんて興味無いって顔してたくせに、仕事が駄目になったら結婚に逃げるんだ。
 自分でもゾッとするほど嫌なことを考えながらも、指は『おめでとう』『幸せそうでよかった』などと打っている。
 まるで心と体が分離してしまったみたいだ。茉理から次々に送りつけられる返信を眺めていたら、ふいに視界が歪んだ。
 
 みんな恋をして女になっていく。自分だけがいつまでたっても変われない。誰にも愛されず、必要とされない。得体のしれない焦燥が募っていく。
 なぜ私だけが恋を知らないのか。どうしたら恋の歌が歌えるようになるのか。もしかしてこのまま、誰にも愛されずに一生を終えるかもしれない。

 考えているうちに、ドキュメンタリーが始まった。
放送内容は一言で言えば散々で、編集者の悪意すら感じた。
 他の女の子たちがひたむきな姿や日常の中に垣間見える可愛らしい姿を見せる中、私だけアリサ先生に注意されたり、酷いダンスを披露していたり、俯いて一人さびしく食堂でご飯をつつきまわしている場面ばかり映っている。

「オバさんと呼ばれた最高齢の二十五歳、彼女の運命やいかに」
 そんな安っぽい煽り文句までつけて。

『あんたなんて他の子の引き立て役で選ばれたのよ』

 母の言う通り、私は哀れな道化師を演じるために呼ばれたのだろうか。
 みっともなく足掻いている姿が、ダメージを受けた心に突き刺さる。きっと母や百合奈たちが見たら嗤うだろう。他の社員も、それみたことかと謗るだろう。想像しただけで捩じれそうな胃に、ぎこちなくラブソングを歌う自分の姿が追い打ちをかける。

 ずっと忘れていた息苦しさが戻ってきた。気がつけば寮を飛び出していた。

 どこに行こう。
 二十四時間営業のファミレスは明るすぎるし、あちこちから歌が聞こえてくるカラオケ店も今は嫌だ。かといって夜の公園やコンビニの駐車場に一人でいる度胸もない。

 気がつけば家の前にいた。結局、私にはここしか無いのだろうか。絶望的な気持ちで玄関を開ける。

「やっぱり、私の言う通りだったじゃない」
 リビングに入るなり、母は私を笑った。
「見たわよ、ドキュメンタリー。あんた酷かったわねぇ。正直、恥ずかしかったわ」
 楽しそうな見下した顔。
「下手なのに得意げに歌って。綺麗な子ばっかりなのにアンタだけ微妙だし。どうしてアンタはこう魅力がないのかしらねぇ。仕事もやめて、どうするの?」

 あぁ、やっぱりだ。母は私を愛していない。肉親ですらそうなのだ。この先、私を愛する人間なんてきっと現れない。そもそも人間の愛情なんて嘘っぱちだ。結局は皆、自分さえ幸せならそれでいいのだ。
 でもこのまま諦めたくなくて、私は家を飛び出した。