教室には授業開始の十五分前にも関わらず、ほとんどの生徒が集まっていた。聞いた話によると講師は某アイドルやシンガーにレッスンをつけている有名な先生らしい。
心なしか皆の体から熱気が立ち昇って見える。クーラーは効いているのに、教室の中は熱いくらいだった。
「今日から二週間レッスンを受け持つ桐沢アリサです。厳しくいくからそのつもりで」
十センチはゆうにあるピンヒールを高らかに鳴らして入ってくるなり、アリサ先生はきつい美貌をツンと反らして言い放った。
赤い眼鏡のフレームの向こうで光る猛禽類めいた目に、教室が静まり返る。下手をすれば狩られてしまうのではないか。そんな緊張感の中、発声練習が始まった。怒声を浴びながら一通り滑舌の練習を繰り返すと、課題曲と自分の好きな曲を一人ずつ順番に歌っていくよう指示された。
「ちが~う、音程、外れてる! そんな歌、お金とって聞かせられない!」
「いいよ、エレガント。キープして」
「高音でてない、お腹から出す」
「声、汚い! 乱暴にならないのっ。美しくないよ」
「オーラが無い。もっと感情込めて」
腹の底から捻りだされた怒声が生徒を殴りつけていく。褒められている子もいるが圧倒的に罵倒が多い。中には泣きそうな顔で唇を噛んでいる子もいた。
今までの講師はみんな優しく、褒めながら駄目なところをやんわりと指摘してくれたので、皆ギャップに戸惑っているようだ。
私はここに来て初めて、社会人経験があってよかったと思った。理不尽に罵倒して来るクレーマーに比べれば、相手を伸ばすためのアリサ先生の罵声は優しく感じた。この調子なら何を言われても凹まずに済むだろう。
「はいリナちゃん全然だめ。パワーゼロ。気合入れて!」
二つ前の子が終わる。散々な言われようだった。
私の番はすぐそこだ。頭の中で楽曲をおさらいして、心の準備をする。
「では次、広子さん」
大きく息を吸い込み呼吸を整える。まずは課題曲だ。苦しいくらいの片思いソング。歌詞に出てくる女の子を頭の中にぼんやりと思い描いて、曲に言葉をのせる。
「ビブラート綺麗だよ。でももっと感情込めて!」
感情――苦しいくらいアナタが好き。それってどんな気持ちだろう。私もいつかそんなふうに誰かを想うのだろうか。二十五歳、恋愛経験ゼロ。もしかすると一生誰も好きにならないかもしれない。
「感情はっ!」
アリサ先生が険しい顔で睨んでいる。「恋して」「気持ちが入って無い」繰り返し怒鳴られ、不完全燃焼のまま一曲目が終わった。
挽回しないと。焦っていると次の曲の伴奏が始まった。選んだのは、茉理の好きなSFアニメのオープニングだ。音域が広くてアップテンポかつ難解なメロディは、上手く歌いこなせたとき最高に気持ちいい。それに、滅びゆく世界で戦う孤独な兵士の物語は自分もハマっていたから、すんなりと世界観に入り込める。
今度は叱責はほとんどなかったけど、先生は難しい顔でこちらを睨んでいた。
「広子さんは譜面はよくこなせてるし、音域も広い。声もきちんと訓練されてます。でもラブソングがダメ。感情が拙い。女性らしさをもっと出して。他のメンバーに比べて大人なんだから、もう少し感情をきちんと表現しなさい。いろいろと乏しすぎる」
「はい」
何が罵倒は慣れているだ。私はしっかり凹まされて、力なく椅子に座った。体中から力が抜けていく。女らしくない、感情が乏しい。どちらも図星なだけに辛かった。年ばかり重ねて大人になれていないのを指摘されたみたいで、情けなさが込み上げてくる。
「やだ、オバさんちょー怒られてる」
「年だけ取ってるとか」
何人かの子が意地悪く囁き合う。薄々感じていたが私はスクールで歓迎されていないらしい。ライバル同士、多かれ少なかれギスギスした所はあるものの、私の場合は更に一線引かれている。
ここでも仲間に入れてもらえないのか。諦念にも似た感情。唯一のアドバンテージである人生の経験値も崩れ、足元がぐらぐらした。
思えば私って、真面目なだけでなんの取柄も面白味も無いかもしれない。そんな人間の歌を誰が必要とするだろうか。
私は反射的にアリサ先生を盗み見た。ドンと呼びたくなるような態度のせいでかなり年上に見えるが、肌の張りや皺の無さからすると私と同じくらいかもしれない。でも私には無い迫力と魅力をきちんと備えている。
アリサ先生だけじゃない。ここにいる子はみんな魅力的だ。どの子も課題のラブソングを、感情面ではばっちりと歌いこなしている。
でも、女らしくないなんて歌の実力とは何の関係も無い。ジェンダーレスが叫ばれる時代なのに、時代錯誤の差別的発言だ。
「女性の歌手に求められるのはラブリーさよ」
アリサ先生はまるで私の反論を読みとったように、ぴしゃりと言った。
「いい、広子さん。世間はラブソングを求めてるの。好きな人のことを考えながら歌ったらラブソングなんて簡単でしょう? 恋した時の気持ちを思い出して。以上」
冷ややかに締めくくり「次」と、伴奏者に声をかける。
簡単言うけど私、恋した事なんて一度も無いんです。それって異常ですか。
心の中でアリサ先生の背中に問いかけながら悶々としているうちに、ルナが歌い出した。
聴いているこっちまで泣きたくなるような切ない歌声。恋を知らない私にさえ、報われない苦しさと押えきれないほどの愛情が伝わってくる。
続いてルナはセクシーで強気なラブソングを歌い上げた。同じ片思いを題材にしているが、課題曲とはまるで反対だ。
レパートリーの広さに内心舌を巻く。歌っているルナはいかにも女の子という感じがして、同性であるにもかかわらずドキリとさせられた。
「いいわ、ラブリーよ、ルナちゃん」
アリサ先生も満面の笑みを浮かべている。
可愛い声、感情に直接訴える歌唱力、豊かな表現力、そして容姿。今更ながらにルナのハイスペックさに圧倒される。
最高齢、ダンス下手、貧相な感受性。私はお荷物なのでは――薄々感じていた劣等感をつきつけられた気がした。
心なしか皆の体から熱気が立ち昇って見える。クーラーは効いているのに、教室の中は熱いくらいだった。
「今日から二週間レッスンを受け持つ桐沢アリサです。厳しくいくからそのつもりで」
十センチはゆうにあるピンヒールを高らかに鳴らして入ってくるなり、アリサ先生はきつい美貌をツンと反らして言い放った。
赤い眼鏡のフレームの向こうで光る猛禽類めいた目に、教室が静まり返る。下手をすれば狩られてしまうのではないか。そんな緊張感の中、発声練習が始まった。怒声を浴びながら一通り滑舌の練習を繰り返すと、課題曲と自分の好きな曲を一人ずつ順番に歌っていくよう指示された。
「ちが~う、音程、外れてる! そんな歌、お金とって聞かせられない!」
「いいよ、エレガント。キープして」
「高音でてない、お腹から出す」
「声、汚い! 乱暴にならないのっ。美しくないよ」
「オーラが無い。もっと感情込めて」
腹の底から捻りだされた怒声が生徒を殴りつけていく。褒められている子もいるが圧倒的に罵倒が多い。中には泣きそうな顔で唇を噛んでいる子もいた。
今までの講師はみんな優しく、褒めながら駄目なところをやんわりと指摘してくれたので、皆ギャップに戸惑っているようだ。
私はここに来て初めて、社会人経験があってよかったと思った。理不尽に罵倒して来るクレーマーに比べれば、相手を伸ばすためのアリサ先生の罵声は優しく感じた。この調子なら何を言われても凹まずに済むだろう。
「はいリナちゃん全然だめ。パワーゼロ。気合入れて!」
二つ前の子が終わる。散々な言われようだった。
私の番はすぐそこだ。頭の中で楽曲をおさらいして、心の準備をする。
「では次、広子さん」
大きく息を吸い込み呼吸を整える。まずは課題曲だ。苦しいくらいの片思いソング。歌詞に出てくる女の子を頭の中にぼんやりと思い描いて、曲に言葉をのせる。
「ビブラート綺麗だよ。でももっと感情込めて!」
感情――苦しいくらいアナタが好き。それってどんな気持ちだろう。私もいつかそんなふうに誰かを想うのだろうか。二十五歳、恋愛経験ゼロ。もしかすると一生誰も好きにならないかもしれない。
「感情はっ!」
アリサ先生が険しい顔で睨んでいる。「恋して」「気持ちが入って無い」繰り返し怒鳴られ、不完全燃焼のまま一曲目が終わった。
挽回しないと。焦っていると次の曲の伴奏が始まった。選んだのは、茉理の好きなSFアニメのオープニングだ。音域が広くてアップテンポかつ難解なメロディは、上手く歌いこなせたとき最高に気持ちいい。それに、滅びゆく世界で戦う孤独な兵士の物語は自分もハマっていたから、すんなりと世界観に入り込める。
今度は叱責はほとんどなかったけど、先生は難しい顔でこちらを睨んでいた。
「広子さんは譜面はよくこなせてるし、音域も広い。声もきちんと訓練されてます。でもラブソングがダメ。感情が拙い。女性らしさをもっと出して。他のメンバーに比べて大人なんだから、もう少し感情をきちんと表現しなさい。いろいろと乏しすぎる」
「はい」
何が罵倒は慣れているだ。私はしっかり凹まされて、力なく椅子に座った。体中から力が抜けていく。女らしくない、感情が乏しい。どちらも図星なだけに辛かった。年ばかり重ねて大人になれていないのを指摘されたみたいで、情けなさが込み上げてくる。
「やだ、オバさんちょー怒られてる」
「年だけ取ってるとか」
何人かの子が意地悪く囁き合う。薄々感じていたが私はスクールで歓迎されていないらしい。ライバル同士、多かれ少なかれギスギスした所はあるものの、私の場合は更に一線引かれている。
ここでも仲間に入れてもらえないのか。諦念にも似た感情。唯一のアドバンテージである人生の経験値も崩れ、足元がぐらぐらした。
思えば私って、真面目なだけでなんの取柄も面白味も無いかもしれない。そんな人間の歌を誰が必要とするだろうか。
私は反射的にアリサ先生を盗み見た。ドンと呼びたくなるような態度のせいでかなり年上に見えるが、肌の張りや皺の無さからすると私と同じくらいかもしれない。でも私には無い迫力と魅力をきちんと備えている。
アリサ先生だけじゃない。ここにいる子はみんな魅力的だ。どの子も課題のラブソングを、感情面ではばっちりと歌いこなしている。
でも、女らしくないなんて歌の実力とは何の関係も無い。ジェンダーレスが叫ばれる時代なのに、時代錯誤の差別的発言だ。
「女性の歌手に求められるのはラブリーさよ」
アリサ先生はまるで私の反論を読みとったように、ぴしゃりと言った。
「いい、広子さん。世間はラブソングを求めてるの。好きな人のことを考えながら歌ったらラブソングなんて簡単でしょう? 恋した時の気持ちを思い出して。以上」
冷ややかに締めくくり「次」と、伴奏者に声をかける。
簡単言うけど私、恋した事なんて一度も無いんです。それって異常ですか。
心の中でアリサ先生の背中に問いかけながら悶々としているうちに、ルナが歌い出した。
聴いているこっちまで泣きたくなるような切ない歌声。恋を知らない私にさえ、報われない苦しさと押えきれないほどの愛情が伝わってくる。
続いてルナはセクシーで強気なラブソングを歌い上げた。同じ片思いを題材にしているが、課題曲とはまるで反対だ。
レパートリーの広さに内心舌を巻く。歌っているルナはいかにも女の子という感じがして、同性であるにもかかわらずドキリとさせられた。
「いいわ、ラブリーよ、ルナちゃん」
アリサ先生も満面の笑みを浮かべている。
可愛い声、感情に直接訴える歌唱力、豊かな表現力、そして容姿。今更ながらにルナのハイスペックさに圧倒される。
最高齢、ダンス下手、貧相な感受性。私はお荷物なのでは――薄々感じていた劣等感をつきつけられた気がした。



