業務の整理に引き継ぎに、とにかく忙しい一週間が過ぎた。

「今までお世話になりました」

 最終日、帰る直前フロアに向かって一言あいさつだけして、私は寄せ書きや花束を贈られることもなく職場を後にした。

「ホントに辞めるのか。考え直せよ」

 宮田だけがそう引き留めてくれた。仕事を頼める相手がいなくて困るだけかもしれないが嬉しかった。でも会社にはなんの未練も無かった。
 この三年はなんだったのだろう。虚しさすら覚えて駅に向かう。途中、職場のロッカーに上着を忘れてきたことを思い出した。クーラー対策の安物のカーディガンだ。置いて来ても惜しくはなかったが、会社に繋がりを残していくようで気にかかり、来た道を引き返す。

 幸い同じ部署の人間とは擦れ違うこともなく、女子更衣室の前まで来た。

「ねぇ、広子のことどう思います?」

 ノブに手を掛けたところで、百合奈の声が聞えてきた。こんな時間に百合奈が残っているなんて珍しい。少し考えて、今日は部署別の飲み会だったとを思い出す。辞める人間だからと不参加にしたのだった。
 一体、誰と何を話しているのだろう。
 いやらしいと思いつつ、ドアに耳をくっつける。

「二十五歳にもなって歌手になるって仕事辞めるとか、ヤバくないですか?」
「ちょっと夢見がちよね。急にコンタクトにしたりして、浮かれてたみたいだし」
「それ。広子って昔から地味だったんですよ。芸能人とか考えられない。ネクラさんって芸名でお笑い目指すほうがまだしっくりくるぅ」
「やだ、百合奈ちゃんったらひどぉい」
 きゃはははっ。笑い声が弾けた。
「でも結果はどうであれ、夢を見るのは自由じゃない」
「葉月さんもひどぉい。あっ、そろそろ行かないと、飲み会に遅れちゃいますね」
「ほんとだわ。急ぎましょう」
「はーい。今日は飲むぞぉ」

 馬鹿にするな。そう怒鳴りたいのを堪えて、慌てて壁の後ろに隠れる。カツカツと賑やかなヒールの足音が遠ざかっていった。
 残業は無理でも、飲み会には参加できるらしい。誰もそれを咎めたりしない。ふいに笑いが込み上げてきた。石の上にも三年だなんて言わず、こんな会社はもっと早くに辞めるべきだった。

「相田さん」

 振り返ると宮田が立っていた。まだ仕事をしていたのだろうか。商品のカタログを片手に抱えている。営業職って大変なんだと今更ながらに思う。

「マジで歌手目指すの?」

 宮田が男らしい眉根を寄せる。細めた目は泣きだしそうにも怒っているようにも見えた。この人、やっぱり苦手だ。でも最後くらいは逃げたくない。

「はい。小さい頃からの夢でしたから」
 私は宮田を真っすぐ見返して言った。
「そっか。一生懸命仕事してたのにもったいないよ。俺、すごい助かってたから。でもまぁ、頑張れよ。あと、これ忘れ物」

 ロッカーに忘れたカーディガンだった。届けてくれようとしていたのだろうか。

「あ、ありがとうございます」
「しっかりしてそうに見えて、案外おっちょこちょいなんだな」

 宮田が顔をくしゃくしゃにして笑う。苦笑にも似た笑い。でも温かい気持ちが隠れている気がした。
 もしかして私は宮田を勝手に誤解して、一方的に悪く見ていたのかもしれない。いいようにこき使われていると思ったのも、頼りにしてくれていただけなのだろうか。
 何か言わなければと思った。でも上手く言葉にならない。ぼんやりしている間に、宮田が踵を返す。

「よかったら、見ていてください。今度はちゃんと、全力で取り組みますから」

 苦い気持ちを残したままにしたくなくて思わず叫んだら、宮田が後ろ姿のまま右手を上げた。それだけで少し救われた気がした。
 でもできれば夢を掴んだ姿を宮田に見せたい。彼だけじゃない。更衣室で笑っていた百合奈や葉月、それに母にも。本当の私はこういう人間なんだと知って欲しい。
 細い月が頼りなく照らす帰り道を、私は踏みしめるように歩いた。