翌日、会社に退職届を出した。係長は受け取るなり盛大に迷惑そうな顔をした。

「急すぎるよ」

 散々文句を言われたが、残りの有給消化はしないことで話は着いた。厳しい条件だが、退職届さえ受理してもらえるなら構わなかった。

 これで後ろには何も無い。
 不安がふと掠めたが、それ以上に心地の良い身軽さを感じた。改めて、今の会社で自分がいかに消耗していたが分かった。

「なんで私が、広子の仕事をしなきゃいけないのよ」
「少しは残される人のことも考えて欲しかったわ」

 百合奈や葉月に嫌味を言われながらも引き継ぎをし、二人が帰った後も溜まった仕事を処理して、職場を出るのは夜の十一時前だった。それもあと少しの辛抱だと思うと足取は軽い。

 もちろん、母は怒り狂った。
 騙されている、引きたて役だ、オマケの合格だ、ホームレスになりたいのか。
 散々詰られた挙句、最後には「出て行け」と叫ばれて終了。郵便で届いていたオーディションの合格通知を丸めて投げつけられた。

「なんで今さら、歌手なんてバカなこと言い出すのよ、この恩知らず!」

 真っ赤になって叫ぶ母の顔はしばらく忘れられないだろう。
 しみじみした気持ちで、出て行く準備をする私に、窓の外から細い月が笑いかける。最終オーディションでは希望に満ちた歌を歌おう。
 私は密かに月に誓った。