まだ八時前。人気の少ないフロアはしんと冷えている。
パソコンを立ち上げて営業宛てに届いたメールをチェックしてプリントアウトし、それぞれの担当者の机に置いておく。それが終わったら、溜まっていた伝票の処理。請求書や領収書の締め切りが近いので、できれば今日中に片付けたい。
山のような請求書をチェックしているうちに、他の社員たちが出勤してきた。いつの間にかもう始業五分前だ。
「おはよう。朝から真面目だねー広子は」
百合奈がきっちり巻いた髪を揺らし、他人事みたいに笑う。
「おはよう、明坂さん」
「もっと適当にしちゃえばいいのに」
「あはは」
こっちはそのフォローをしてるんだけど。そう言いたいのを笑って我慢する。
「それより見て。ステキでしょ」
かざされた両手の爪は涼やかな青いグラデーション、銀と白のパールや貝殻で彩られていた。
「綺麗だねー」
「自分でしたのよ。最近キット買ったの。夏って感じでしょ。付け爪だから家事の時に外せて楽チンなの」
「へぇ、便利だね」
なら仕事中は外せばいいのに。
パソコンに電源を入れる素振りすらない百合奈に内心溜息を吐きながら、まだまだ残っている請求書の山を引っ張り出す。こんなに仕事が溜まっているんだぞ、というアピールのつもり。でも百合奈はお喋りをやめない。
「広子ももう少しお洒落したら? メイクとか髪とかちゃんとしてさ。服もいつまでもリクルートスーツばっかりだし」
「べつにいいよ。誰に見せるわけでもないし」
「そんなこと言ってると、いつまでも彼氏できないよ」
「あはははは」
もう笑うしかない。
お洒落や恋愛に対する百分の一でもいいから、熱意を仕事に向けてくれないだろうか。百合奈の放り出した仕事でこっちは潰れてしまいそうだ。
そうこうしているうちに始業のベルが鳴った。それから十分ほどして、主任の吉川葉月が出勤してくる。いわゆる重役出勤。なのに今日も、黒いドレスシャツに大胆にスリットの入った白いタイトスカートと、ばっちり決まっている。
「おはよーございます、葉月さん」
「おはようユリちゃん。あっ、ネイルしてる」
遅刻の後ろめたさなど微塵も感じさせない颯爽とした動作で席に着いた葉月が、百合奈の手を見て目を丸くする。
「はい、昨日の夜やったんですぅ。どうですかぁ?」
「素敵じゃない。やっぱり家庭に入ってもお洒落しないとね」
「ですよねー。さすが、葉月さん。分かってるぅ」
百合奈が砂糖菓子みたいな声を出して、ぱっと表情を輝かせる。
「ママがみずぼらしい格好してたら、子どもとダンナがかわいそうだもの。それにお洒落な子がいると、オフィスも華やかになるし」
「ですよねー。夏は涼しげに青とか春は可愛らしくピンクとか、私、季節感にもこだわってるんですよぉ」
「おはよーっす。あっ、相田さん。これ取引先の注文履歴なんだけど、エクセルにまとめといてくれよ。今週中な」
さっそくやってきた営業の宮田が、お喋りしている二人には目もくれず、忙しくキーボードを叩いている私に、新たな仕事を寄越す。
一瞬固まった私を、宮田のぎょろっとした目が「ん?」とばかりに見つめる。
「分かりました」
反論は時間の無駄だ。大人しく分厚い発注控えの束を受け取り、ひとまず引き出しにしまう。
それから再び画面に視線を戻し、キーボードを連打。商品発注に契約書の作成、昼までに済ませたい業務は山ほどある。
「ネイルって季節感が出しやすくていいわよね。子供が小さくて時間もないし、マニキュアで我慢してるけど、キット買っちゃおうかしら」
「買っちゃいましょうよ。同期の広子はお洒落に興味ないし、職場にネイル仲間がいなくて淋しいんですぅ」
お洒落や季節感に気を遣う前に仕事をしろ。
そう思うが、美人で身綺麗な上司にそんなことを言えるはずもなく、黙々と仕事を進める。とにかく早く、でも間違ってはいけない。事務仕事は単調なわりに神経を使う。
せめて、作った書類と請求書のチェックだけでも百合奈に振りたいが、彼女のチェックはザルだ。一度ミスをスルーされて痛い目に遭って以来、時間をあけてセルフチェックするようにしている。事務で唯一、役職者の葉月は、請求書のチェックなんて地味な作業は自分の業務では無いと考えているのか、ハナから見てくれる気もない。
こうやって仕事が増えていくのだ。分かってはいても人に頼む煩わしさから、つい自分でやってしまう。
電話が鳴った。
ワンコール、ツーコール。
お喋りに夢中の二人は出ようともしない。スリーコールと同時に、私は素早く受話器を手に取った。
「はい、扇田商事の相田が承ります」
「あっ、お宅、色々な商品を扱ってるんでしょ。チラシ、見たわよ」
中年かもう少し歳のいった、女性の声。勤め人とは思えない喋り方なので相手は企業じゃない。一般家庭からの注文だろう。
「ではお名前とご希望の商品を教えてください」
「松谷よ、塩分の濃度を測りたいんだけど。うちのおばあちゃんが腎臓病でね、でも漬物とか焼き魚とか、年寄りは塩辛い物が好きでしょ」
「塩分濃度計ですね。予算や希望のメーカーはございますか」
「メーカーなんて知るわけないでしょ。とにかく安いのにして」
「承知しました。念のために塩分濃度計の用途を説明させていただいてもよろしいですか」
「塩分を計るんでしょ。そのくらい知ってる。あんた馬鹿なの?」
馬鹿って……。一瞬、胸を刺されたような気になった。でもこんなことでいちいち傷ついていては、営業事務など務まらない。
「申し訳ございません。ですが塩分濃度計で計れるのは、味噌汁やラーメンのスープなどの液体のみで、おかずの塩分は測れませんので、お客さまのご希望には……」
「あ~はいはい、分かった、分かった。セールスは結構」
面倒くさい客を引いてしまった。正直、はいはいと素直にスルーして、さっさと電話を切りたい。だけど後々クレームになるのが目に見えている。なにせうちは企業向けの商社だから、一般客の返品は認められていない。
いったん保留にして、私はフロアを見渡した。取りあえず主任の葉月に指示を仰ぐ。
「いいんじゃないの。買いたいって言ってるんでしょ。注文してあげなさいよ」
「いいんですか? なんと言うか、ちょっとクレームになりそうな感じの方で」
「だからって、お客さんを選ぶのは失礼でしょ」
「まぁ、そうなんですけど」
客はみな平等なんて綺麗ごとは無意味だ。一般客相手の売買は利益が薄いわりに、手間がかかるしトラブルは多くデメリットしかない。事務処理や後始末のコストを考えれば正直、売らないほうがマシだ。
「とにかく受けてあげて」
「分かりました」
いいのかと思いつつ、再び受話器を取る。
「いつまで待たせるのよ、このノロマ! アンタ新人でしょう」
とたんに怒鳴りつけられてますます断りたくなる。再度商品の説明をして返品はできないと告げかけた所で、電話が切れた。
受話器を置いた瞬間に、どっと疲れがのしかかる。商品引き渡し時のトラブルが目に見えるようだ。こんなことなら葉月に相談せず断ってしまえばよかった。
ガミガミと怒鳴りつける声がまだ耳の奥に残っている。こういう電話をしてくる人は、こちらを奴隷かなにかと勘違いしているのだろうか。
嫌な気分になったが、いつまでも引きずっていては仕事が進まない。さっさとT社に発注の電話をかけて、無理にでも気分を切り替える。
社会に出て働くのは大変だろうとは思っていた。でも、こんなにも理不尽で神経が磨り減るとは思わなかった。これで十数万の手取りしか残らないのだから、やってられない。
「相田さん、どんなお客様でも大切にね。営業さんたちのチャンスにつながるかもしれないでしょう」
追い打ちをかけるような葉月の言葉に、ますますテンションが下がる。
あぁ、帰りたい。思わず窓に顏を向ける。
ガラスの向こうの青空には変わらず、白い月が幻のように浮かんでいた。無限の広がりの中にたった一つかもしれない奇跡の星で、命を与えられたこと自体がとてつもなくラッキーなのだ。
そう強く意識することで、落ち込みそうになる気持ちを無理やり盛り上げて、パソコンとのにらめっこを再開する。
パソコンを立ち上げて営業宛てに届いたメールをチェックしてプリントアウトし、それぞれの担当者の机に置いておく。それが終わったら、溜まっていた伝票の処理。請求書や領収書の締め切りが近いので、できれば今日中に片付けたい。
山のような請求書をチェックしているうちに、他の社員たちが出勤してきた。いつの間にかもう始業五分前だ。
「おはよう。朝から真面目だねー広子は」
百合奈がきっちり巻いた髪を揺らし、他人事みたいに笑う。
「おはよう、明坂さん」
「もっと適当にしちゃえばいいのに」
「あはは」
こっちはそのフォローをしてるんだけど。そう言いたいのを笑って我慢する。
「それより見て。ステキでしょ」
かざされた両手の爪は涼やかな青いグラデーション、銀と白のパールや貝殻で彩られていた。
「綺麗だねー」
「自分でしたのよ。最近キット買ったの。夏って感じでしょ。付け爪だから家事の時に外せて楽チンなの」
「へぇ、便利だね」
なら仕事中は外せばいいのに。
パソコンに電源を入れる素振りすらない百合奈に内心溜息を吐きながら、まだまだ残っている請求書の山を引っ張り出す。こんなに仕事が溜まっているんだぞ、というアピールのつもり。でも百合奈はお喋りをやめない。
「広子ももう少しお洒落したら? メイクとか髪とかちゃんとしてさ。服もいつまでもリクルートスーツばっかりだし」
「べつにいいよ。誰に見せるわけでもないし」
「そんなこと言ってると、いつまでも彼氏できないよ」
「あはははは」
もう笑うしかない。
お洒落や恋愛に対する百分の一でもいいから、熱意を仕事に向けてくれないだろうか。百合奈の放り出した仕事でこっちは潰れてしまいそうだ。
そうこうしているうちに始業のベルが鳴った。それから十分ほどして、主任の吉川葉月が出勤してくる。いわゆる重役出勤。なのに今日も、黒いドレスシャツに大胆にスリットの入った白いタイトスカートと、ばっちり決まっている。
「おはよーございます、葉月さん」
「おはようユリちゃん。あっ、ネイルしてる」
遅刻の後ろめたさなど微塵も感じさせない颯爽とした動作で席に着いた葉月が、百合奈の手を見て目を丸くする。
「はい、昨日の夜やったんですぅ。どうですかぁ?」
「素敵じゃない。やっぱり家庭に入ってもお洒落しないとね」
「ですよねー。さすが、葉月さん。分かってるぅ」
百合奈が砂糖菓子みたいな声を出して、ぱっと表情を輝かせる。
「ママがみずぼらしい格好してたら、子どもとダンナがかわいそうだもの。それにお洒落な子がいると、オフィスも華やかになるし」
「ですよねー。夏は涼しげに青とか春は可愛らしくピンクとか、私、季節感にもこだわってるんですよぉ」
「おはよーっす。あっ、相田さん。これ取引先の注文履歴なんだけど、エクセルにまとめといてくれよ。今週中な」
さっそくやってきた営業の宮田が、お喋りしている二人には目もくれず、忙しくキーボードを叩いている私に、新たな仕事を寄越す。
一瞬固まった私を、宮田のぎょろっとした目が「ん?」とばかりに見つめる。
「分かりました」
反論は時間の無駄だ。大人しく分厚い発注控えの束を受け取り、ひとまず引き出しにしまう。
それから再び画面に視線を戻し、キーボードを連打。商品発注に契約書の作成、昼までに済ませたい業務は山ほどある。
「ネイルって季節感が出しやすくていいわよね。子供が小さくて時間もないし、マニキュアで我慢してるけど、キット買っちゃおうかしら」
「買っちゃいましょうよ。同期の広子はお洒落に興味ないし、職場にネイル仲間がいなくて淋しいんですぅ」
お洒落や季節感に気を遣う前に仕事をしろ。
そう思うが、美人で身綺麗な上司にそんなことを言えるはずもなく、黙々と仕事を進める。とにかく早く、でも間違ってはいけない。事務仕事は単調なわりに神経を使う。
せめて、作った書類と請求書のチェックだけでも百合奈に振りたいが、彼女のチェックはザルだ。一度ミスをスルーされて痛い目に遭って以来、時間をあけてセルフチェックするようにしている。事務で唯一、役職者の葉月は、請求書のチェックなんて地味な作業は自分の業務では無いと考えているのか、ハナから見てくれる気もない。
こうやって仕事が増えていくのだ。分かってはいても人に頼む煩わしさから、つい自分でやってしまう。
電話が鳴った。
ワンコール、ツーコール。
お喋りに夢中の二人は出ようともしない。スリーコールと同時に、私は素早く受話器を手に取った。
「はい、扇田商事の相田が承ります」
「あっ、お宅、色々な商品を扱ってるんでしょ。チラシ、見たわよ」
中年かもう少し歳のいった、女性の声。勤め人とは思えない喋り方なので相手は企業じゃない。一般家庭からの注文だろう。
「ではお名前とご希望の商品を教えてください」
「松谷よ、塩分の濃度を測りたいんだけど。うちのおばあちゃんが腎臓病でね、でも漬物とか焼き魚とか、年寄りは塩辛い物が好きでしょ」
「塩分濃度計ですね。予算や希望のメーカーはございますか」
「メーカーなんて知るわけないでしょ。とにかく安いのにして」
「承知しました。念のために塩分濃度計の用途を説明させていただいてもよろしいですか」
「塩分を計るんでしょ。そのくらい知ってる。あんた馬鹿なの?」
馬鹿って……。一瞬、胸を刺されたような気になった。でもこんなことでいちいち傷ついていては、営業事務など務まらない。
「申し訳ございません。ですが塩分濃度計で計れるのは、味噌汁やラーメンのスープなどの液体のみで、おかずの塩分は測れませんので、お客さまのご希望には……」
「あ~はいはい、分かった、分かった。セールスは結構」
面倒くさい客を引いてしまった。正直、はいはいと素直にスルーして、さっさと電話を切りたい。だけど後々クレームになるのが目に見えている。なにせうちは企業向けの商社だから、一般客の返品は認められていない。
いったん保留にして、私はフロアを見渡した。取りあえず主任の葉月に指示を仰ぐ。
「いいんじゃないの。買いたいって言ってるんでしょ。注文してあげなさいよ」
「いいんですか? なんと言うか、ちょっとクレームになりそうな感じの方で」
「だからって、お客さんを選ぶのは失礼でしょ」
「まぁ、そうなんですけど」
客はみな平等なんて綺麗ごとは無意味だ。一般客相手の売買は利益が薄いわりに、手間がかかるしトラブルは多くデメリットしかない。事務処理や後始末のコストを考えれば正直、売らないほうがマシだ。
「とにかく受けてあげて」
「分かりました」
いいのかと思いつつ、再び受話器を取る。
「いつまで待たせるのよ、このノロマ! アンタ新人でしょう」
とたんに怒鳴りつけられてますます断りたくなる。再度商品の説明をして返品はできないと告げかけた所で、電話が切れた。
受話器を置いた瞬間に、どっと疲れがのしかかる。商品引き渡し時のトラブルが目に見えるようだ。こんなことなら葉月に相談せず断ってしまえばよかった。
ガミガミと怒鳴りつける声がまだ耳の奥に残っている。こういう電話をしてくる人は、こちらを奴隷かなにかと勘違いしているのだろうか。
嫌な気分になったが、いつまでも引きずっていては仕事が進まない。さっさとT社に発注の電話をかけて、無理にでも気分を切り替える。
社会に出て働くのは大変だろうとは思っていた。でも、こんなにも理不尽で神経が磨り減るとは思わなかった。これで十数万の手取りしか残らないのだから、やってられない。
「相田さん、どんなお客様でも大切にね。営業さんたちのチャンスにつながるかもしれないでしょう」
追い打ちをかけるような葉月の言葉に、ますますテンションが下がる。
あぁ、帰りたい。思わず窓に顏を向ける。
ガラスの向こうの青空には変わらず、白い月が幻のように浮かんでいた。無限の広がりの中にたった一つかもしれない奇跡の星で、命を与えられたこと自体がとてつもなくラッキーなのだ。
そう強く意識することで、落ち込みそうになる気持ちを無理やり盛り上げて、パソコンとのにらめっこを再開する。



