白い朝陽が瞼をつらぬく。
 ベッドから勢いよく起き上がると、机の上の小さなトロフィーが目に入った。蒼みがかった曲線が朝陽に透け、美しい影を描いている。

 夢じゃなかった。
 いつも通りスーツに着替えつつも、意識がなかなか仕事モードに切り替わらない。このまま会社になど顔を出さず、歌の練習や走り込みでもしたい気分だ。

「まだ起きてないの。仕事に遅れるわよ。起きてるー。仕事よー」

 一階から飛んでくる母のがなり声に、一気に現実に引き戻される。

「今日からはちゃんと働くのよ。分かってるわね」

 うんざりしながらリビングに下りていくと、顔を見るなり母が釘を刺しにくる。私は反射的に昨夜のことを思い出した。

「オーディションで優勝したの」
「アンタが優勝なんて、よっぽどレベルが低い大会なのねぇ」
 喜び勇んで報告した私に、母は冷笑を浮かべた。それきり母はすぐにテレビに顔を戻し、珍しくリビングで新聞を読んでいた父は反応すらしなかった。
 テレビでは歌自慢の一般人が採点機能付きのカラオケで、点数を競う番組が流れていた。かなりの高得点がボードに表示され、女子高生の興奮した顔がアップで映る。
「すごーい。上手」
 母が画面の中の女子高生に向かってパチパチと手を叩くのを見た瞬間、心がすっと冷えていくのを感じた。母に言いたいことは沢山あった。でも全てが無駄だと思えた。
 家族は何でも分かり合えて、一緒に泣いたり喜んだりできる存在――。母が大好きなNHKの連続ドラマではそんな風に描かれていることが多いけど、そんなの嘘だ。

 思い出しただけでもふつふつと溢れてくる悲しみや悔しさを、冷たい牛乳で流し込む。勝ち取った最高の思い出を母への恨みで焼き尽くすなんて馬鹿げている。母に愛されなくても、他人に愛されなくても、自分のことは自分が愛してあげればいい。そのためにも前だけを見よう。

 コンタクトを入れてきちんと化粧をする。出がけに母に「眼鏡のほうが良かったのに」と水を差されたが、無視して駅に向かう。
 照りかえす朝の光も霞んだ街路樹の緑も新鮮で、希望に満ちて見えた。私は今日の自分が昨日までの自分よりも好きだ。もっと早くに、自分を好きになる努力をしていればよかったと思う。
 八月からはスクールが始める。今よりももっと歌が上手くなる。想像しただけでワクワクした。今、間違いなく新しい人生が始まろうとしている。

 問題は仕事をどうするかだ。
 有給休暇はほぼ四十日まるまる残っている。理論的にはスクールの間中、休暇をとることが可能だ。でも会社がしてくれないだろう。つまり最終オーディションに挑むには、退職を検討する必要がある。
 仕事を辞めることはそんなに難しくない。退職届を出せばそれで終わり。問題はその後の人生設計だ。定職を失い、最終オーディションにも落ちたら取り返しがつかない。そしてそうなる可能性は控えめに言ってかなり高い。
 なんとか仕事を辞めずに、オーディションにも挑めないだろうか。考えているうちに職場が見えてきた。頭を仕事に切り替え席に着く。

「あれ、相田さん。だよな」

 領収書の精算をしていたら、出社してきた宮田があからさまに驚いた顔で声を掛けてきた。

「おはようございます。宮田さん」
「おう、どうした? その、イメチェン? なんで」

 もしかして似合ってないのだろうか。短い髪を掻きながら口の中で何か呟いている宮田に急に不安になる。

「宮田さぁん、おはようございますぅ。あれ、広子コンタクトにしたの? ビックリぃ。小学校の時からメガネっ子だったのに」

 珍しく始業十五分以上前に来た百合奈が大袈裟に騒ぐ。作り笑顔の下からは、広子のくせにとでも聞こえてきそうだ。

「じつは歌のオーディションを受けたの」

昨日の高揚と不安を失いたくなくて、つい話してしまう。

「オーディション? すごーい。あっ、葉月さ~ん、聞いて、広子がね」
「あら、まぁ」
 呼び止められた葉月が、話を聞いてポカンと口を開く。
「だから最近、残業してなかったのね」
「えっ、はい。あの、ご迷惑おかけしました」

 いきなり責めるように言われて思わず謝る。謝罪しなければいけないような話をしていたっけ。とっさに自分が何の話をしていたのか分からなくなった。

「いいのよ。相田さんにだって、プライベートがあるもの。今日から頑張ってくれたら充分よ」
「葉月さん優しい。よかったね、広子。あっ、でもオーディションに受かったってことは」
「なぁ、相田さん。もしかして仕事、辞めるのか?」

 宮田がぎょっとした顔で肩を掴んでくる。

「やだ、宮田くんたら。地方のオーディションに優勝したくらいでデビューできるわけないでしょ。さて、今日も頑張って働きましょうか。皆、仕事に戻ってね」

 主任らしく指示を出すと、葉月はノートパソコンを開きつつ百合奈とキミコイの話を始めた。

「あのさ、相田さん」
「あっ、先日の注文届きましたので、取引先に納品して下さい。これ請求書です」

 これ以上、台無しにされたくない。私は宮田の言葉を遮るように請求書の束を押し付けて自席に戻った。
オーディションの後に一ヵ月の合宿があり、それに参加したいのだとはとても言えなかった。
 でも、職場に残った先の景色が見えた気がした。袋小路の行き止まりだ。ただ真っ白な壁があるだけ。振り返ると後悔の二文字が輝かしい可能性の前でもやもやと踊っている。
 私はデスクから書類の束を引っ張り出した。半分くらいは葉月や百合奈の業務を受け持ったものだ。それらをがむしゃらに処理していく。たいして考えなくてもこなせる単調なタスク。達成感は無くただ擦り切れていくだけ。きっとステージで歌いきった時の百分の一の満足感も得られない。それで生活を守ったとして、それは本当に生きていると言えるのだろうか。

 息をつく間もなく、息の詰まるランチタイムがやってくる。コンタクトのこともオーディションのことも、もう誰も話題にしない。すでに終わったコンテンツなのだ。自分自身ですら忘れたような顔をして、葉月と百合奈の中身の無い会話にニコニコ相槌を打っている。
 私はただの背景。大切なのはとにかく楽しげにすること。そう自分にいい聞かせて笑っていれば、それなりにコミュニケーション力を有した普通の社会人になれる。少なくともボッチだと悩むことは無い。
 無性にシークレットベースの狭い部屋と、気ままなルナが恋しくなった。
 ねぇ、今は何してる? また昼寝?
 いよいよ夏を感じる強い日差しに目を細めながら、心の中で猫のような横顔に囁きかける。真っ白な雲が浮かんだ真っ青な空。夏はいつだって意味も無くワクワクする。会社に残れば、きっといつかそんな感覚も忘れてしまうだろう。