オーディションの会場は、茉理が住んでいる所からそれほど遠くはなかった。開始前に少しでも会えたらと思い切って連絡したら、あっさり会えることになった。
茉理の指定した駅前の喫茶店で落ち合う。
落ち着いた店内には柔らかな音楽が流れていた。これはヴィヴァルディだっただろうか。心地よい音、目の前には親友。なのに、心は浮きたたない。
「茉理、ちょっと痩せた?」
私は恐る恐る尋ねた。
アニメグッズを山ほどぶら下げた鞄は相変わらずだが、茉理はかつての明るさをすっかり失っていた。頬がこけ、面長の顔がさらに長くみえる。
「うん、まあ。広子も、変わったね。いつの間にコンタクトデビューしたの?」
「つい最近だよ」
「綺麗になって。好きな人、できた、とか」
ジトッと見つめられて、一瞬ドキンとする。そのドキンの意味は分からなかったが私は早口に言った。
「好きとかじゃなくて、いろいろあって。友だち? みたいなのもできたし。茉理は……何かあったの?」
「えっと、じつは、鬱で休職してるんだよね」
鬱――。私よりもよほど勉強熱心で強かった茉理がそんなことになるなんて、思ってもみなかった。だが冗談じゃないのは一目瞭然だ。さっきからこちらを見ようともせずコップのふちばかり見つめている。喋り方も妙にゆっくりだ。
「そうだったんだ。ごめん、全然知らなくて」
思わず視線を伏せる。オーディションのついでに親友の顔を見て行こうなんて、軽い気持ちでいた自分が恨めしかった。
「いいの。言わなかったから。なんていうか、気を遣って欲しくなくて。実は、ラインを無視したのもそういうことっていうか。ごめん」
「ぜんぜん。こうして会ってくれて嬉しい。でも、どうしたのって聞いてもいい?」
「職場で二人いっぺんに産休になってね。頑張ってたんだけど、倒れちゃって。そのまま会社に行けなくなったの。情けないよね」
「そんなことないよ。私も会社で上手くいってなくて」
それきり言葉に詰まってしまった。
コンタクトでごろごろする眼をむやみに瞬く。話したいことは山ほどある。でも何なら話していいのだろう。
茉理は注文したミックスサンドにもレモンティーにも手をつけず、ひたすら手元を見つめている。パワフルに趣味を貫いていた記憶の中の茉理と、目の前の萎びた茉理が同一人物とはとても思えない。
でもきっと、私もルナたちに出会わなければいつかこうなっていた。あるいはすでに茉理と同じ状態だったのだのかもしれない。
生きていて何が楽しいの。
ルナの辛辣な、でも真理をついた言葉が頭を過る。
「広子、本当に綺麗になったね」
茉理がぽつんと呟く。
「メイク、教えてもらったから」
「へぇ、私にも今度、教えて」
「参考にならなくても知らないよ」
会話が始まったことにほっとしつつ、軽い口調で返す。
「大丈夫、基礎が分かったら、あとは自分で研究する。絵を描くのと一緒だよね。だったら私の得意分野だし」
「さすがは神筆の茉理様だね」
「それ、小学校の時あだ名だ。まだ覚えてたの」
茉理がわずかに眉を顰める。
神筆の茉理様――写生大会ではたいてい金賞、休み時間にクラスメイトにせがまれていろいろなイラストを描いていた茉理はそう一目置かれていた。中学生になると尊敬はオタクという蔑みに変わったが、本人は気にする様子もなく、休み時間に絵を描いたり漫画の話をしたりしていた。
外野の声など気にせず我が道を行く。あの頃の茉理はキラキラしていた。私はそんな茉理をひそかに尊敬していた。彼女はまだ絵を続けているのだろうか。
「特技があって羨ましかったんだ。それに尊敬してた」
「おだてても何もでないぞ」
やっと茉理が笑った。口元だけだったが、離れていた時間が一気に埋まった気がした。もっと早く会いにこればよかった。
「情けないよね。鬱なんて」
サンドイッチを一つだけ頬張って、茉理が鞄から小さな紙袋を取り出す。薬だ。抗鬱剤か何かだろう。なんとなく見ては悪い気がして、ナポリタンを食べるふりをして自分の手元に視線を落とす。
「仕事、やめようかなって思ってるの」
「ありだと思う。だって仕事のために生きてるわけじゃないし。休憩も必要だよ」
「かな。でも辞めても次のアテがないし。転職しても同じことの繰り返しかも」
そんなことはない。なんて無責任に言えない。社会に出れば自分の代わりはいくらでもいると痛感する。嫌でも生きていくために仕事にしがみつくしかないのだ。
なんか、すごく重い――。
無限の広がりを持っていた学生の時とは違う。いつの間にかいろいろな物に縛られ、地面から足が離れなくなっている。
「ねぇ茉理、夢の期限って何歳までかな?」
「え?」
「私ね、じつはこのあとオーディション受けるの」
「オーディション?」
ぎこちなくではあるが、茉理の顔に初めて表情らしいもの浮かぶ。
「うん。歌手のオーディション。コンタクトもお洒落もオーディション用」
「うそ、本当? あの真面目で引っ込み思案の広子が?」
「もう、茉理まで真面目なんて、やめてよ。知ってるでしょ。本当は私が誰より学校嫌いで、あわよくばサボろうとしてたこと」
「知ってる。いらない教科はとことん私のノート写してたもんね」
「その節はお世話になりました。でね、これに出るの」
ルナに貰ったチラシを広げる。親友が大変な時に浮かれた話はどうかと思ったが、現状を変えようともがいていることを伝えたかった。
「デュエット歌手募集? これに出るの?」
「うん」
「そっか。広子はまだ終わってないんだ」
怒るかと思った。でも茉理は静かで、怖いくらい真剣な目をしていた。
「そういえば私たち、結構カラオケ行ったよね。広子の歌、好きだったよ。歌手を目指すの、すごくいいと思う」
「ありがと」
面の向かって言われるとくすぐったい。私は誤魔化すようにハーブティーをごくごく飲んだ。
「青春に年齢制限なんてないのかもね」
茉理がふっと表情を緩める。
「だって今の広子、キラキラしてて綺麗だもん」
「うん」
「私、見に行ってもいいかな。いつまでも引き篭もってられないし、きっかけが欲しいの」
人が大勢がいる所に出て大丈夫なのだろうか。今のぼんやりした状態を見ていると、少し不安だ。それでも……。
「ありがとう、茉理」
「えっ、なになに急に」
「本当は来て欲しかったから。すごく嬉しい」
「何を今さら。私の趣味を笑わなかった広子だもん。私だって応援してあげたいよ。それより大丈夫、緊張してない?」
「大丈夫。かなり練習したし、不思議とね」
急にそわそわし始めた茉理に、おどけた調子で肩を竦めてみせる。自信が持てるくらいには努力したつもりだ。おかげで人前で喋るだけでもガチガチなる自分には珍しく、それほど緊張していない。
「そうだね。むしろ楽しみって顔してる。イラストにしたいくらい良い顔だね。これなら大丈夫」
「ありがとう。心強い応援団もいるしね。じつは会場に辿り着く自信もなくて。マツリ、早速、助けてくれるかな」
「仕方ないなぁ。じゃあそろそろ行こう」
茉理が立ち上がる。以前とはまるで違う緩慢な動きがショックだったが、立ち直ろうともがいているのは伝わってきた。
茉理の指定した駅前の喫茶店で落ち合う。
落ち着いた店内には柔らかな音楽が流れていた。これはヴィヴァルディだっただろうか。心地よい音、目の前には親友。なのに、心は浮きたたない。
「茉理、ちょっと痩せた?」
私は恐る恐る尋ねた。
アニメグッズを山ほどぶら下げた鞄は相変わらずだが、茉理はかつての明るさをすっかり失っていた。頬がこけ、面長の顔がさらに長くみえる。
「うん、まあ。広子も、変わったね。いつの間にコンタクトデビューしたの?」
「つい最近だよ」
「綺麗になって。好きな人、できた、とか」
ジトッと見つめられて、一瞬ドキンとする。そのドキンの意味は分からなかったが私は早口に言った。
「好きとかじゃなくて、いろいろあって。友だち? みたいなのもできたし。茉理は……何かあったの?」
「えっと、じつは、鬱で休職してるんだよね」
鬱――。私よりもよほど勉強熱心で強かった茉理がそんなことになるなんて、思ってもみなかった。だが冗談じゃないのは一目瞭然だ。さっきからこちらを見ようともせずコップのふちばかり見つめている。喋り方も妙にゆっくりだ。
「そうだったんだ。ごめん、全然知らなくて」
思わず視線を伏せる。オーディションのついでに親友の顔を見て行こうなんて、軽い気持ちでいた自分が恨めしかった。
「いいの。言わなかったから。なんていうか、気を遣って欲しくなくて。実は、ラインを無視したのもそういうことっていうか。ごめん」
「ぜんぜん。こうして会ってくれて嬉しい。でも、どうしたのって聞いてもいい?」
「職場で二人いっぺんに産休になってね。頑張ってたんだけど、倒れちゃって。そのまま会社に行けなくなったの。情けないよね」
「そんなことないよ。私も会社で上手くいってなくて」
それきり言葉に詰まってしまった。
コンタクトでごろごろする眼をむやみに瞬く。話したいことは山ほどある。でも何なら話していいのだろう。
茉理は注文したミックスサンドにもレモンティーにも手をつけず、ひたすら手元を見つめている。パワフルに趣味を貫いていた記憶の中の茉理と、目の前の萎びた茉理が同一人物とはとても思えない。
でもきっと、私もルナたちに出会わなければいつかこうなっていた。あるいはすでに茉理と同じ状態だったのだのかもしれない。
生きていて何が楽しいの。
ルナの辛辣な、でも真理をついた言葉が頭を過る。
「広子、本当に綺麗になったね」
茉理がぽつんと呟く。
「メイク、教えてもらったから」
「へぇ、私にも今度、教えて」
「参考にならなくても知らないよ」
会話が始まったことにほっとしつつ、軽い口調で返す。
「大丈夫、基礎が分かったら、あとは自分で研究する。絵を描くのと一緒だよね。だったら私の得意分野だし」
「さすがは神筆の茉理様だね」
「それ、小学校の時あだ名だ。まだ覚えてたの」
茉理がわずかに眉を顰める。
神筆の茉理様――写生大会ではたいてい金賞、休み時間にクラスメイトにせがまれていろいろなイラストを描いていた茉理はそう一目置かれていた。中学生になると尊敬はオタクという蔑みに変わったが、本人は気にする様子もなく、休み時間に絵を描いたり漫画の話をしたりしていた。
外野の声など気にせず我が道を行く。あの頃の茉理はキラキラしていた。私はそんな茉理をひそかに尊敬していた。彼女はまだ絵を続けているのだろうか。
「特技があって羨ましかったんだ。それに尊敬してた」
「おだてても何もでないぞ」
やっと茉理が笑った。口元だけだったが、離れていた時間が一気に埋まった気がした。もっと早く会いにこればよかった。
「情けないよね。鬱なんて」
サンドイッチを一つだけ頬張って、茉理が鞄から小さな紙袋を取り出す。薬だ。抗鬱剤か何かだろう。なんとなく見ては悪い気がして、ナポリタンを食べるふりをして自分の手元に視線を落とす。
「仕事、やめようかなって思ってるの」
「ありだと思う。だって仕事のために生きてるわけじゃないし。休憩も必要だよ」
「かな。でも辞めても次のアテがないし。転職しても同じことの繰り返しかも」
そんなことはない。なんて無責任に言えない。社会に出れば自分の代わりはいくらでもいると痛感する。嫌でも生きていくために仕事にしがみつくしかないのだ。
なんか、すごく重い――。
無限の広がりを持っていた学生の時とは違う。いつの間にかいろいろな物に縛られ、地面から足が離れなくなっている。
「ねぇ茉理、夢の期限って何歳までかな?」
「え?」
「私ね、じつはこのあとオーディション受けるの」
「オーディション?」
ぎこちなくではあるが、茉理の顔に初めて表情らしいもの浮かぶ。
「うん。歌手のオーディション。コンタクトもお洒落もオーディション用」
「うそ、本当? あの真面目で引っ込み思案の広子が?」
「もう、茉理まで真面目なんて、やめてよ。知ってるでしょ。本当は私が誰より学校嫌いで、あわよくばサボろうとしてたこと」
「知ってる。いらない教科はとことん私のノート写してたもんね」
「その節はお世話になりました。でね、これに出るの」
ルナに貰ったチラシを広げる。親友が大変な時に浮かれた話はどうかと思ったが、現状を変えようともがいていることを伝えたかった。
「デュエット歌手募集? これに出るの?」
「うん」
「そっか。広子はまだ終わってないんだ」
怒るかと思った。でも茉理は静かで、怖いくらい真剣な目をしていた。
「そういえば私たち、結構カラオケ行ったよね。広子の歌、好きだったよ。歌手を目指すの、すごくいいと思う」
「ありがと」
面の向かって言われるとくすぐったい。私は誤魔化すようにハーブティーをごくごく飲んだ。
「青春に年齢制限なんてないのかもね」
茉理がふっと表情を緩める。
「だって今の広子、キラキラしてて綺麗だもん」
「うん」
「私、見に行ってもいいかな。いつまでも引き篭もってられないし、きっかけが欲しいの」
人が大勢がいる所に出て大丈夫なのだろうか。今のぼんやりした状態を見ていると、少し不安だ。それでも……。
「ありがとう、茉理」
「えっ、なになに急に」
「本当は来て欲しかったから。すごく嬉しい」
「何を今さら。私の趣味を笑わなかった広子だもん。私だって応援してあげたいよ。それより大丈夫、緊張してない?」
「大丈夫。かなり練習したし、不思議とね」
急にそわそわし始めた茉理に、おどけた調子で肩を竦めてみせる。自信が持てるくらいには努力したつもりだ。おかげで人前で喋るだけでもガチガチなる自分には珍しく、それほど緊張していない。
「そうだね。むしろ楽しみって顔してる。イラストにしたいくらい良い顔だね。これなら大丈夫」
「ありがとう。心強い応援団もいるしね。じつは会場に辿り着く自信もなくて。マツリ、早速、助けてくれるかな」
「仕方ないなぁ。じゃあそろそろ行こう」
茉理が立ち上がる。以前とはまるで違う緩慢な動きがショックだったが、立ち直ろうともがいているのは伝わってきた。



