昼間の月を見つけて

 洗い残しのある皿に、黄身と白身がマーブル状になった物体。裏は真っ黒。
 主婦なのに目玉焼きもまともに作れない人に人生をとやかく言われてきたのかと、朝からテンションがだだ下がる。

「いつまでもチンタラしてないでさっさと仕事に行きなさい。朝からのんびり朝食食べていい御身分ね!」

 ぐだぐだしていたら、母の金切り声が飛んできた。
慌ててご飯をかき込み、身だしなみを整える。
 化粧にかける時間は十分以内、背中まである黒髪は一つにまとめて、シュシュをつけるだけのお手軽スタイル。
 これでも入社一年目までは頑張っていた。今では外見に気を遣うヒマがあるなら、一分でも長く眠りたい。
 駅までの道を小走りに急ぐ。まだ週半ばというのに、道に寝転がってしまいくらい体が重い。気持ちの問題か体力の問題か。一度でも止まったら会社に行けなくなりそうだ。
 
 空は嫌になるほど晴れているのに、朝の町は不思議と灰色に淀んで見える。そこに人生の二文字が浮かんでいる気がして、ますます気分が重くなった。

 年を追うごとに毎日が退屈になっていく。

 中学生の時くらいまでは、もっといつもドキドキしていた。まだ知らない素敵な何かが自分を待っていると無邪気に信じることができたからだ。
 でも今は、日々はただの繰り返しでしかない。
 決まった電車に揺られ、毎日同じ場所で働いて。
 どこを切り取っても代わり映えのしない金太郎飴みたいな一週間を、一年を消費して、やがて年を取って死ぬ。時々そんな当たり前の人生が恐ろしくなる。

 いつもの電車、いつもと同じ車両に乗ると、ほとんど固定のメンバーがいる。疲れた顔の会社員も、会話が途切れれば世界が終るとばかりに喋り続ける女子高生も、どこか倦んだ表情だ。

 人生なんて茶番劇、誰かが一抜けたらきっとみんな喜んで降りてしまうに違いない。でも誰も最初の一人になる勇気はなく、だから明日も同じ毎日が続いていく。
 そんなことを考えながら、いつもの駅で降りる。

 ありきたりな毎日の中に小さな喜びを見つけていくのが人生だ。

 割り切っているつもりでも時々たまらなくなる。
 今日はどうやら駄目な日らしい。足がどんどん重くなっていく。何度も立ち止まりそうになりながら、オフィス街に向かう人の群れから離れて脇道に入る。
 古びたアパートの周りをぐるりと回るこの道は、遠回りになるが静かだ。生活用水の流れる小さな川に沿ってひしめくように並ぶ家々を眺めながら、柔らかい舗装路を歩く。
 建物の壁を覆う鮮やかな緑の中でスズメが賑やかに鳴いている。排水路ではセキレイが二匹水浴びをして、一本道の向こうでは太った三毛猫が伸びをしている。
 のどかな風景に少しだけ心が洗われた。優しい歌が聞こえてきそうなこの景色が好きだ。
ずっと眺めていたいが、そろそろ仕事の時間が迫っている。
 早足で歩きながら、時間に追われる生活などやめてしまいたいと思う。思ったとたん、どんどん足が重くなる。
 あぁ、やっぱり今日はダメな日だ。
 扇田商事の看板が見えた瞬間、とうとう足が止まってしまった。
 もう嫌だ。後先考えずに逃げ出してしまいたい。

 そんな時、私は月を探す。
 どこまでも青い空に浮かぶ、白い昼間の月を。

 それは私にとって小さな希望だ。荒れた地表を無様に晒す白くぼやけた月を見ていると、灰色のコンクリートに囲まれた窮屈な日本なんかじゃない、神秘的な宇宙に浮かぶ一つの青い惑星の中に自分たちは生きているのだ。そんな風に思えて救われた気持ちになる。
 
 リセットは成功したらしい。今日もなんとか会社に行けそうだ。
 普通に生きているだけなのにこんなにもしんどいのは、私だけだろうか。そんな風に思うと、酷く情けない気持ちになる。いつか自分がポッキリ折れてしまいそうで怖い。