早くと促されて、訳も分からずトイレで着替える。ワンピースは首回りと袖がシースルーになっていて、高校生のくせに普段からこんなセクシーな服を着ているのかと、どぎまぎしてしまう。

 鏡の前で確認する。一応、大丈夫。まぁ見られる。ルナが着たらもっと短いのだろうが、スカートはちょうど膝が隠れるくらいで安心だ。

「ピッタリだね」

 サイズのことか、似合うの意味なのか。
 奏夜の微妙なコメントにそわそわしつつ、後に続いた。
 階段を上ると、来る時はクローズドになっていたドアの看板がオープンに変わっていた。開いた扉からオレンジ色の光と共に香ばしい匂いが漂ってくる。とたんに空腹を覚えてお腹が鳴る。

「ご飯、食べてって。ルナと僕からのお礼」
「いや、さすがに高校生に奢ってもらうのは」
「いいから座ろう」

 言われるまま座ったものの、年下のイケメン相手に何を話せばいいのか分からない。
 私は所在なく薄暗い店内を見渡した。照明を控えた空間にキャンドルの炎がゆらゆらと浮かんでいる。お洒落だが慣れない。場違い感が半端ない。

「どうかした?」
「えっ〜と、なんか慣れなくて」

 どの客もリラックスして、遊び慣れた雰囲気を漂わせている。がちがちに緊張しているのはきっと私くらいだろう。

「目の前にイケメンも座ってることだし」
「へんなの」

 恥ずかしくなってわざと茶化すように言うと、思いがけず奏夜が笑った。
 表情に乏しい子だと思っていたが、笑うと子犬みたいに可愛い。

「学校でモテるでしょ」
「ぜんぜん。暗いとか変人って言われる」
「みんな見る目が無いんだね」

 思わず呟いたら奏夜はキョトンとした顔をしていた。それからまた笑った。
 やっぱり可愛い。なんだks肩から力が抜けた。
 とりあえずメニューを広げる。綺麗な筆記体で綴られたメニューはどれもなかなかいい値段だ。迷っていると、黒いサロンエプロン姿の女性ギャルソンが近づいてきて、鮮やかなサラダをテーブルに置いた。

「スモークサーモンのサラダ仕立て、グレープフルーツのソース添えでございます」
「あの、まだ注文してませんが」
「ルナとソウヤからよ。二人がいつもお世話になってます」

 おそるおそる告げた私に一礼して、ギャルソンは厨房に引っ込んでいった。

「勝手に頼んでごめん。嫌いだった?」
「ぜんせん。ありがとう。おいしそうだね」

 おずおずと覗き込む奏夜に、慌てて首を振り、さっそくサラダにフォークを突き刺す。

「うわっ、おいしい」

 グレープフルーツの爽やかな酸味が、甘いマスカットや塩気のあるスモークサーモンによくあっている。次に運ばれてきた牛頬肉の赤ワイン煮込みも最高だった。トロトロに煮込まれたダークブラウンの牛肉が、香ばしいバケットによく合う。

「よかった。喜んでもらえて」

 また奏夜が微笑む。今日はサービスデーか何かだろうか。会話こそ少ないけど久しぶりに誰かと囲む穏やかな食卓に、胸がじわっとした。

 次々と運ばれてくる料理を二人で黙々と食べていたら、奏夜がふいに鼻歌を歌いだした。聞いたこともないけど綺麗な旋律だ。鼻歌に合わせて、細長い指がリズミカルにテーブルを叩く。思わず耳を傾けていたら、ふいに音が止まった。

「あっ、ごめん。行儀悪いよね。みっともないってよく怒られる」
「ううん。凄く綺麗。ずっと聞いていたいくらい。誰の曲?」
「僕の」
「すごい。ほんとに音楽が好きなんだね」

 その時、前方のステージの照明がぱっと点いた。
 何か始まるようだ。客たちの視線がステージに集まる。
 出てきたのは淡いブルーのワンピースに身を包んだルナだった。無造作に下ろしていた髪をアップに結って、窮屈そうな制服姿よりもずっとキラキラとしている。
 月並みだけど、まさに歌姫という感じだ。思わず見とれていると、柔らかなピアノの音にルナの透き通った歌声が重なった。

 低く交わされていたお喋りがピタリとやむ。
 皆うっすらと口を開いて、音楽を味わっている。

 すごい、これがルナの実力なんだ――。

 魅力的な歌唱力もさることながら、白い頬に落ちる睫毛の影、薄く綻ぶ桜色の唇、その一つ一つがサマになっていて視線が離せない。

「ルナみたいな人を、カリスマって言うんだろうね」

 綺麗な顔、綺麗な声――ルナは私の欲しいものを全て持っている。
 魅惑のディーバを私は黙って見つめた。なんだか泣いてしまいそうだ。正直に言うと少し悔しい。自分にもルナのような若さと才能が有ったらと思う。
 あちこちから小さく鼻を啜る音が聞こえてきた。私もあんな風に、歌で誰かの気持ちを揺さぶりたい。

「ヒロも同じだ。できるよ。僕やルナをちゃんと揺らしたから」

 漣のような拍手が響く中、奏夜ははっきりと言った。どうやら顔に出ていたらしい。恥ずかしくて、でも嬉しかった。こんな風に誰かに肯定されたことなんて今まで無い。私の周りはいつだって母の否定ばかりだ。

「優しいね。奏夜くんは」

 本当にできるだろうか。私はステージに視線を戻した。
 ルナが優雅にお辞儀をする。堂々として自信に溢れた一礼。ルナはきっと本当に歌で人生を渡っていくだろう。ありふれた人生ではなく、彼女だけに許された生き方。そんなことを予感させるくらい、スポットライトの下のルナは輝いて見えた。

 二曲目が始まった。一曲目とは違い、目立たないよう静かなに歌っている。

 ステージに釘付けだった客の視線が、それぞれのテーブルに戻っていく。
 あくまで、心地のいい背景としての音楽。主張せず寄り添うように控えている。きっとそう歌うようオーダーされているのだろう。
 ルナとピアノの奏でる調べをBGMに、みんなリラックスした様子で食事やお喋りを楽しんでいる。

「ルナはプロだね」

 オーダー通り密やかに、でも一音一音心を込めて。
 それになんて幸せそうに歌うのだろう。その満ち足りた豊かな顔を、私は飽きることなく眺めた。

 三曲目は明るく軽快な曲を、四曲目は甘いバラードを。ルナは器用に色々なジャンルを歌いこなし、一曲終わるたびに疎らだけど惜しみない拍手が起こった。

「ここで一曲、特別ゲストに歌ってもらいます」

 ルナが高らかに宣言する。
 一体どんな人が来るのだろう。きょろきょろしていると、猫目の瞳と目が合った。
 
 そんなはずない。でも、ルナは間違いなくこちらを見ている。
 私は慌てて首を横に振る。いきなり人前で歌うなんて無理だ。それもお金を払って来ている人たちの前で。下手な歌で店の評判を下げてしまっても責任なんて取れない。素人の歌を聴かされる客だって可哀想だ。

「行って。ステージの練習。ヒロならできる」

 奏夜が囁く。
 ルナがずんずんとこちらに向かってくる。
 若さゆえの無鉄砲か。高校生、怖すぎる。

「こちらが今夜の特別ゲストです」

「ほら早く」
 背中に奏夜の手が触れた。大きくて温かい手。

 私はルナに引き摺られるようにしてステージに上がった。

 視線が一気に集まり血の気が引く。
 訝しげな目。あまり期待していない目。好奇の目。好意的というよりは批判的で懐疑的な視線の中に、一つだけ期待に満ちた目。

 奏夜が真っすぐに私を見つめていた。
 絶対に無理。今にもそう紡いでしまいそうな口を引き結び、私は奏夜を見つめ返した。
 足は緊張で震えている。心臓は今にも口から飛び出しそうだ。でも、私の歌を待っている人が少なくとも一人はいる。だったら歌わなければ。

「それでいいのよ。失敗したら許さないから」
 ルナが天使の容貌に悪魔の笑みを浮かべて囁く。

「羨ましそうにこっち見てたんだもん。本当はここに立ちたかったんでしょ」

 反論する前にマイクを渡された。
 ルナの細長い指がギターの弦を弾く。少し前までさんざん練習していたあの曲だ。
 さっきまで緊張でどうにかなってしまいそうだったのに、反射のように歌が溢れだした。
 大勢の視線が心地いい。憧れのアマネの姿に自分が重なる。
 私は一人一人の顔を見つめ、語りかけるように歌った。一人でも多くの感情を揺らしたい。そんな想いがメロディとなり、自分の発したメロディにさらに胸が高鳴っていく。
 興奮の波がどんどん広がっていく。もっと、もっと。感情の高ぶりが押えられない。歌詞に込められた光への憧れが、ずっと抱き続けてきた想いと重なり歌となって流れ出す。

 はっと我に返る。大きな拍手が鼓膜を叩いた。
 終わってしまった。とたんに喪失感が襲ってくる。ステージを降りるのが名残惜しい。もっと歌いたい。
 私の想いに応えるようにルナが演奏を始める。
 キミコイの主題歌だった。わっと会場が沸く。
 もっと楽しませたい。とっさにそんな思いが過った。自然と笑顔が浮かび、苦手分野だというのも忘れて全身で拍子を取り、思いっきり可愛らしい声でメロディを紡いでいく。

「ほかにフルで歌える曲はある? とりあえず全部教えて」

 長いイントロの合間に、ルナが顔を寄せてそっと尋ねてきた。
 私は覚えている曲を片端から羅列した。ルナはそれらを次々に演奏していった。
 アニソンや学校で習った曲、少し前のアーティストの曲など、ジャンルはどれもバラバラだったが、どの曲も完璧に弾きこなしている。レパートリーの広さに、音楽への愛と努力を感じた。
 気づけば十曲近く歌いあげていた。

「イッちゃいそうでしょ」
 悪戯っぽく囁くルナに思わず頷く。

 私もルナも客も奏夜も――全てが音楽で繋がっている。興奮で体中に鳥肌がたった。世の中にこれ以上楽しいことなんてきっと無い。
 私はふわふわした足取りで、ステージを降りた。
 音楽によって溶け合う感覚、突き刺さる観客の視線。こんなに興奮したのは初めてだ。あまりの心地よさに眩暈がする。一方でルナとの実力差を思い知らされた。もっと練習しなければ。

「すごく良かった。最終オーディションまでにぜったい曲、仕上げるから」
「まだ一次も受かってないよ。でも、がんばる」

 気の早い奏夜に苦笑しつつ頷く。まだ頬が熱い。夢なら二度と覚めなければいいのに。
 いくら会社で頑張っても、この先こんな風に人々の視線を集め、心を動かすことなんてない。そんなのきっと耐えられない。なんとしてでもこの夢を見続けたい。
 どんどん気持ちが固まっていく。

「一度ステージに立つ快感を味わったらもう逃げられないよ、ヒロ」
 いつのまにかステージから降りてきたルナがにやりとする。

「うん、楽しくてどうかしちゃいそうだった」
「今度はもっと大きなステージで歌うんだから」

 笑いながらルナがスマホの画面をこちらに向ける。そこには一次審査合格の文字が躍っていた。

「うそっ、やった。夢じゃないよね」
「ないよ。気合入れよーね」

 ルナがすっと手を伸ばす。私はそこに自分の手を重ねた。さらに奏夜の手が重なる。今、チームが本当に一つになったのを感じた。