夕方、百合奈の言葉が引っかかっていたが六時には逃げるように退社した。
 いつも通り受付の奏夜に会釈して、指定された部屋に入る。

「どうしたの? 変な顔して」
 先に来ていたルナが、顔を見るなり怪訝そうに眉を顰めた。

「えっ、変な顔してる?」
「うん。まぁ、別にいいけどね」

 酷いなぁと誤魔化し笑いをする私に事情を尋ねるでもなく、ルナが菓子パンを齧る。

「もう夕食? 早いね」
「まさか。お昼食べ損ねただけ」
 
 なんでお昼食べ損ねたの。お弁当は作ってもらえないの。そもそも高校生の娘が毎晩九時過ぎまで出歩いていても、親は心配しないの。いろいろ聞きたいことはあったが、お節介なオバさんだと思われるのが嫌で聞けないでいると、ルナがギターを手に取った。

「じゃあ、歌の練習しよっか」

 一緒に歌を歌うためだけの関係、それ以外は赤の他人。そう線引きされているようで、モヤモヤした気分になる。
 私はルナと友達にでもなりたいのだろうか。高校生、それもこんな可愛い子を相手に図々し過ぎる。自分で呆れつつ、私が百合奈のように社交的な性格だったら、もっと違った関係が築けていただろうかとますますモヤモヤする。
 だが、繰り返し歌っていうちに、モヤモヤはどこかに行ってしまった。声と一緒にマイナスの感情が全て外に出てしまったようだ。

「歌って不思議だね。心が軽くなる」
「いまさら? 音と一緒に抱えてたもの全部出せる。それが歌の魅力。だから多分、私もヒロも歌うのよ」

 何をポエムみたいなと笑われるかと思ったが、ルナは大真面目な顔でもっとポエムみたいな返答をした。

「抱えてたものかぁ」

 ルナにも何かあるの。聞こうとして口をつぐむ。
 明るい金色の髪に半ば隠された横顔は酷く寂しげだった。

「全部軽くなるの。歌って歌って、外に流すの」

 独り言のように呟くルナから、そっと目を逸らす。
 卑怯かもしれないが、他人の重たい部分に関わるような度量はない。かわりに課題曲を歌う。なんだか今の気持にぴったりな気がしたから。

いまも輝く 木洩れ日の記憶
かつて見た 眩しい世界
思わず伸ばした指先は 傷ついて
遠く 果てしない 夜に落ちる 
夢ならよかった 永遠に醒めない夢
青い香り満ちる 静かな部屋
でも ずっとはいられない
止まった針を動かして 目を開けて
一度でいいから 笑ってみせて
優しい雨に濡れる部屋を抜けだし  
今度こそ 流れる星を掴まえるから

 歌いながらふと思う。この歌はきっと夢破れた若い女性の歌だ。
 踏み出せないもどかしさと後ろ髪を引かれる気持ちの間で揺れ、光を掴もうともがきながらも心地よい悲しみにまどろんでいる。
 イ短調メロディは青い夜の美しく物悲しい風景をイメージさせる。だから哀しげながらも仄暗く甘い陶酔を込めて歌う。

 ふと気づくと、いつの間にか奏夜が目の前にいた。目を閉じて私の奏でる旋律に身を任せている。

「ねぇ、ルナさんはこの曲どう思う?」

 不意に跳ね上がった心拍数を誤魔化すように、ルナを振り返る。知りたかったのは本当だ。一緒に歌うなら解釈のすりあわせは必要だと思う。

「どういうって?」
「女の人をイメージした歌なのかな、とか、前向きな歌なのかなとか」
「あぁ、なるほどね」
「前向きになろうとしてるけど、後ろ向きに浸っているっていうか、踏み出せないことをどこか受け入れてる、私はそんな感じだと思うんだけど」

「それ、暗すぎるでしょ」
 ルナが呆れた顔をする。

「えっ、暗いかな?」
「暗いよ。昔みたいにまた頑張ろうって、決意をこめた歌だと思うんだよね」
「う~ん、そっか。でもなんとなく他力本願っぽいとこもない?」
「ない」
 間髪入れず否定される。

「じゃあ、悲しいけど歩き出したい、強くいたい。そんな気持ちで歌ってるの?」
「そうだよ。ついでに『だからみんなも踏み出して』ってとこかな」

「へぇ」

 同じ曲なのに随分と捉え方が違う。ネガティブな性格とポジティブな性格の差が、そのまま出たような感じだ。でも曲調は? 短調は一般的には暗い響きだ。そこからすると、元気いっぱいの曲とはちょっと違う気がした。

「私も前向きな雰囲気で歌ったほうがいいかな。デュエットだし統一感出さないと」
「べつに無理に合わせなくていいんじゃない」
「えっ?」
「だって私とヒロは違う人間だもん。考え方はそれぞれだし、無理して合わせても持ち悪いと思うんだよね。お互いのフィーリングに従えばいいじゃん」
「でも……」
「合わせたいなら合わせてくれてもいいけど、私は自分の感じた通り歌うから」

 適当すぎるのではと思ったが、あまりにもきっぱり言われて二の句が継げなかった。

「俺は好きだよ」

 唐突に奏夜が口を開く。
 澄んだ瞳にじっと見つめられ、一瞬どきりとした。くせなのだろうか。そんなに真っすぐ見られると落ち着かない。

「ヒロの歌い方、すごく心に響く。無理にルナのイメージに合わせること無い。曲の受け取り方は、聴く人のバックボーンや思考のクセにもよるから」

「作曲のプロもそう言ってるんだし、好きに歌いなよ」
 ルナが軽く肩を竦める。

  結局、その後の練習もそれぞれのイメージで歌った。
 ルナに合わせて歌おうとしたけど、上手く合わせられなかったのだ。このバラバラが上手く噛み合えば、まったく同じ気持ちで歌うよりももっと、別の何かが生まれる。今はそうプラスに考えておく。

「ねぇ、この後、時間は空いてる?」

 帰り支度をしていると、めずらしくルナに引き止められた。
「どうしたの。もう少し練習してく?」
「ううん。明日は土曜日だし仕事は休みでしょ。遅くなってもよかったら歌、聞いてかない?」
「いいの?」
 嬉しくてつい、くい気味に言う。
「ありがと。じゃあ一緒に来て」

 笑われるかと思ったが、ルナははにかんだ笑みを浮かべた。
 猫目のツンとした美貌からは想像できないほど柔らかい笑顔に、不覚にもどきりとする。百合奈もそうだが、ルナもちゃんと女の子だ。垢抜けていて可愛くて、綺麗。同じ性別なのに、自分とはまるで別の生き物に見える。

「と言っても、その格好はちょっと目立つわね。これに着替えて」
「えぇっ、これ着るの?」

 強引に押し付けられた服を思わず見下ろす。黒いワンピース、それもけっこう派手な。どう考えても似合わない。

「私の服だからちょっと大きいかもしれないけど大丈夫。奏夜、席までエスコートしてあげて」