翌朝、私は早起きして腹筋と背筋をした。ルナの課したノルマは最低一日二十回三セット。華奢で可憐な見た目に反して、中身は意外と体育会系だ。

「昨日の夜、歌ってたでしょ。みっともない。歌手なんて言ってないで働くのが嫌なら結婚でもしたらいいじゃない」

 トレーニングを終えてリビングに下りると、母に渋い顔をされた。
 無視して黙々と朝食を口に運ぶ。
 オーディションで優勝すれば母を見返せる。

 出勤にはまだ早かったので、スマホでボイストレーニングや歌唱力アップについて調べる。こうして調べると、改めて歌は奥が深い。呼吸や発声の仕方一つとっても、技術が要される。
 腹式呼吸なんて基礎中の基礎。できているつもりだが、詳しく知ると本当にできているか怪しく思えてくる。背中に空気を入れるイメージ、息を吸うときに腹を膨らませ、吐くとき凹ませる。意識してやってみるとなんだかわざとらしい気がしてくる。
 さらに進んだ歌の技法を調べ、サウンドビームだのエッジボイスといった理論や実践を一通り読み終える頃には、頭はパンク寸前だった。でも数式や英単語をひたすら覚えていたあの頃と違って、不思議な充実感がある。

「朝からスマホばっかり弄ってないで、さっさと仕事に行きなさい」

 母の金切り声に我に帰り、慌てて立ち上がる。
 大人になるって窮屈だ。先の尖ったパンプスに足を無理やり突っ込んで、うんざりしながら駅までの道を急ぐ。

「あれ、広子じゃない」

 いつもより三本以上遅い電車に乗ったら、百合奈に会った。

「こんな時間に珍しいね。寝坊?」
「べつにそういうわけじゃないけど」
「ふぅん。あ、昨日の『ハッピースタジオ』見た?」
「ごめん、見てない」
「えぇー、なんで? 昨日も早く帰ったんでしょ。何してたの?」
「ちょっと用事があって」

 子供みたいに口を尖らせる百合奈に、曖昧にはぐらかす。学生じゃあるまいし、皆が見ている番組を見る義務はない。百合奈とはこういう所が合わないなと思う。

「ふーん、そうなんだぁ」

 百合奈はスマホを弄りながら、興味なさそうに呟いた。

 駅に着くとお互い義務のように並んで歩いた。何か喋らなければと思ったが、肝心の話題が浮かばない。答えを探すように空を仰ぐと、朝にしては随分とくっきりした青が目を焼いた。

「そろそろ夏だね。今年は暑くなりそう」

 水分の多い空気を肺一杯に吸い込む。思いつきで腹式呼吸に挑戦してみると、朝の練習の成果か違和感なくできた。

「最悪。夏とかいらない。日焼けするし、駅から歩くのしんどいし」
「私は結構、好きだけどな。夏の空気って何となく賑やかでしょ」
「なにそれ。広子、小学生みたい」

 やけによそよそしく笑うと、百合奈はそれきり黙り込んでしまった。
 居心地の悪い沈黙が座る。綺麗に巻いた髪から覗く澄ました横顔がひどく遠い。小学生の時はいつも一緒に走り回り、川や畑に寄り道して遊んでいたのが信じられなかった。

 百合奈は中学になったとたん、私から離れていった。「登校班がないから、これからは毎朝一緒に学校に行けるね」なんて言っていたのに、一緒に登校したのは最初の一週間だけ。地味でダサかった私を切り捨て、キラキラしたお洒落な子たちのグループにいってしまったのだ。

 こうして同期として再会した今も、あからさまに私より葉月と仲良くしたがっている。小学生の頃はあだ名で呼び合っていたのに、今はかたや名前で呼び捨て、かたや名字にさんづけ。それでも「よそよそしい」と言われないくらい、私たちの距離は遠い。
 並んでいてもお喋りひとつまともにできない。狭い世界で生きていた子供の頃よりもずっと話題は豊富なはずなのに、おかしなものだ。

 ふいに息苦しくなって視線を巡らせる。

 建物を覆う蔦からスズメがちょこんと顔を出していた。店前の金魚鉢では真っ赤な金魚が数匹口をパクパクしている。その一つ一つが私には面白く感じたが、今の百合奈に言っても通じないだろうと思うと、言葉にする気もなくなった。

「ねぇ、さっきの人、格好良くなかった?」
「えっ」

 突然の弾んだ声に、慌てて背筋を伸ばす。
 アッシュグレーの髪をした後ろ姿が見えた。大学生くらいだろうか。すらっとした長身に細身のダメージジーンズがよく似合っている。

「背が高いし、イケメンだったよね」
「うん、確かに」

 背中しか見えなかったが、とりあえず同調しておく。
 何が気に食わなかったのか、百合奈は眉間をぐっと寄せた。

「広子って、男の人にあんまり興味ないよね」
「そんなことないけど」
「もしかしてまだ?」
「新婚なのによそ見しちゃ駄目だよ」
「まぁ、どうでもいいけどね」

 適当にスルーした私を小さく鼻で笑ったきり、百合奈はこちらを見ようともしなかった。
 葉月といる時のお喋りぶりが嘘のように無口な百合奈は、しきりにアップにまとめた髪の後れ毛を指先で弄んでいる。緩く巻いた茶髪をくるくると器用に巻き取っては離す白い指先と、毛先をチェックする真剣な眼差しを、私はぼんやりと眺めた。
 なんだか自分だけが幼い少女のまま、少しも成長できてないように思えた。

「広子、残業サボってるでしょ。葉月さんが『仕事も放りだして何してるのかしら』ってぼやいてたわよ」
「えっ、本当?」
「うん。ちょっと怒ってるぽかったな。私は別にいいと思ういけどさ」

 意地の悪い顔だった。本当は百合奈こそ不満に思っているのだろう。女の「○○が言ってた」は大抵、本人のことだ。

「別にサボってるわけでは無いんだけど」
「ねぇ、もしかして彼氏でもできた?」
「そんなんじゃないよ。ちょっと親知らずが痛くて歯医者に通ってるだけ」
「ふ~ん、でも、もうちょっと真面目に仕事したほうがいいよ。広子は家庭があるわけでもないんだしさ」

 百合奈はそれきり黙ってしまった。

 何それ。そう言いたいのを辛うじて飲み込む。独身女には予定なんてないのだから、既婚者より余分に仕事をしておけという意味だろうか。

 結婚して子供を産み育てる妻の役割でも、労働力として消費される勤め人の役割でもない。人生における自分だけの価値が欲しい。

 例えばルナみたいに振る舞えたらどんなにいいだろう。初対面の社会人を脅してデュエットに誘う。そんな無鉄砲なバイタリティが羨ましい。彼女の自信家ぶりと自己中心主義には振り回されることもあるが、縮こまって流されて結局、何者にもなれていない私よりよほど上等だ。