ぼんやりとしているうちに電車が駅に着いた。
 駅から家まで十五分ちょっと。なんだか体が軽くて、いつもは疲れ切ってうんざりするだけの道のりを、いっそ走り出したくなる。

 しんと透んだ夜風と幽き星明りが心地いい。お供にはハ長調の明るい歌。切なく胸を震わす曲もいいけど、たまには弾むようなポップな曲も悪くない。

 歌って、ご飯を食べて、眠って。

 シンプルかもしれないけど、そんな風に暮らせたらいいのに。
 そんなことを考えながら頭に浮かんだ曲を次々に口ずさんでいたら、前から人が歩いて来て、慌てて口をつぐむ。
 日本がもっと自由に歌える国になったらいい。楽しい時も歌、悲しい時も歌。ごく当たり前に皆が互いの音色に耳を傾け合う。それってなんだか素敵だ。

 どうやら私は、思った以上に音楽を愛しているらしい。気づいてなんだか照れ臭くなる。

 こんなに好きなら、もっと早くに本気で歌手を目指しておけばよかった。でも今からでもきっと遅くない。だって一緒に夢を追いかけてくれる仲間が二人もできた。

「ただいま」

 明るい気持ちが自然と声を出させる。
 でも返事は無い。かわりに聞こえたのは姦しいテレビと母の笑い声だ。きっとバラエティ番組でも見ているのだろう。

 高揚していた気分が一気に醒めていく。この家ではいつもそうだ。「いってきます」も「ただいま」も全部、独り言になってしまう。

「台所使うなら早くしてよ。片付けたいんだけど」

「別に一緒に洗ってくれるわけじゃないんだから、先に片付ければいいじゃない」

 リビングに入るなり文句を言われ、仏頂面で返しながら、カップラーメンにお湯を注ぐ。
 
 散らかったテーブルでテレビの音と母の独り言をBGMにラーメンを啜りながら、つくづく世の中の理不尽だと思う。努力しろ、優等生であれ。そう娘に呪いをかけ続けてきた母は、努力してきた私より恵まれた生活をしている。

「あっ、そうそう。お父さんが『家にもっとお金入れろ』って言ってたわよ」

「もっとって、どのくらい?」

 軽い口調で言う母に、内心「げっ」と思いながら聞き返す。

「家賃三万にプラスして食費、光熱費、水道代を半額ずつ払ってほしいって」

「無理だよ。そんなに払ったらお給料残らないって」

「なに甘いこと言ってるのよ。一人暮らしに比べたら安いでしょ」

「だったら、お父さんもお母さんも節約してよね。電気点けっぱなしたり、クーラーすぐ点けたり、もったいないよ。食費も高すぎ。お菓子ばっかり食べるし、無計画に買い物してすぐ賞味期限切らすし」

「なに細かいこと言ってるのよ。ケチな子ね」

「ケチじゃなくて当たり前のことでしょ。それに私、仕事辞めるかもしれないから」

「なに馬鹿言ってるの!」

 こっちも軽い気持ちで口走ったら、とたんに母が眼を剥いた。

「仕事辞めてどうするつもりっ。働かなきゃ生きていけないでしょ。あんたの面倒見る余裕なんてウチには無いんだからね!」

 母のことだ。仮に私が病気で働けなくなっても、働かずにどうやって生きていくのと罵るだろう。時々、生きるために働いているのか、働くために生きているのか分からなくなる。仕事にやりがいを見出しているならそれでもいいかもしれないけれど、私は望んで今の職場にいるわけじゃない。

 夢に期限は無いよ。
 当たり前のような口調で言った奏夜の声が耳の奥に甦った。

「私、歌手になりたい」

 それこそ人生を賭けてもいい。口にしたら胸がすっとした。
 窒息しそうになりながら生きるくらいなら、いっそ夢に挑んで玉砕したほうがマシだ。
 道端でふと立ち止まって空を泳いでいく鳥をぼんやりと見送ったり、記憶に沁みこむような夕日に目を細めたり、なにげない町の景色に胸を締めつけられる。歌とともにそんな風に生きたい。
 そして余計なお世話かもしれないけど、毎朝、電車で俯いているサラリーマンや女子高生にも、そんな世界を見せてあげたい。私に世界はもっと美しいと歌で語りかけてくれたアマネのように、私も歌で誰かの心を揺らすのだ。

「は? 歌手? あんたが?」

 母が脂肪がついて重たくなった瞼を持ち上げる。丸い目。鳩が豆鉄砲ってこういう顔を言うのだろうか。そう思った瞬間、耳障りな笑い声が弾けた。

「あはははっ。やだっ、バカじゃないの。あんたなんかが歌手になれるわけないじゃない。才能も無いのに。いい年して、あーおかしい」

 いつもむっつりと口をブルドックにしている母の、こんなに楽しそうな顔は久しぶりだ。

「馬鹿でも挑戦するから」
 
 腹が立つのを通り越して哀しくなった。ぴしゃりと言い放ち、踵を返す。

 心臓がドキドキして息が苦しい。やっぱり子供じみた馬鹿な夢なのだろうか。
 部屋に飛び込むや力が抜けた。戸に背中を預けて低い天井を見上げる。
 似たようなことが小学三年生の時にもあった。