業務が予想よりも溜まっていて、少しだけ残業するつもりが遅くなってしまった。
「宮田さん、これ頼まれていた資料です」
「おぉ、サンキュー。よくできてるじゃん。あのさ……」
「お先に失礼します」
これ以上頼みごとをされるのはごめんだ。宮田が何か言いかけたのを聞こえなかったふりをして、私は職場を飛び出した。
六時半前。急がないと、ルナに動画をばら撒かれてしまうかもしれない。
悪魔よろしく微笑む姿が脳裏を過り、駅に急ぐ。
スーツ姿でダッシュする私に、すれ違う人が奇異の目を向ける。恥ずかしいけど、遅れたらもっと恥をかくことになる。
電車に乗る頃には汗びっしょりだった。こんなに出来の悪い『走れメロス』もない。でもなんとか、約束の五分前にシークレットベースの受付に滑り込む。
「ルナならまだ。一番奥の部屋で待ってて」
そっけなく言う奏夜に軽く会釈して、言われた通り一番奥の部屋に入る。
室内にはパイプイスとスタンドマイクがいくつか並んでいた。なんだかアーティストの仲間入りをしたみたいだ。我ながら単純だが、少しだけ気持ちが浮上する。
ルナは約束の時間を五分過ぎてやってきた。
「よしよし、ちゃんと来たわね」
待たせてごめんなさいの一言もなしに、深緑のブレザー姿でにっこり笑う。
この辺りの公立高校の制服だ。ルナは高校ではどんな感じなのだろう。やっぱり今みたいに、ツンと澄まして女王様みたいに振舞っているのだろうか。
「じゃあ早速、始めましょうか」
高校生にしては大人びた口調で、壁にかけてあったギターを手にとる。その仕草はとびきりの容貌のせいもあってか堂に入っていて、ミューズという言葉が思わず浮かんだ。
ほっそりとした指が弦を弾き、もの悲しげなイントロが流れ込んでくる。
何度聞いても綺麗な曲だ。音に導かれ体の内側から音楽が溢れてくる。
「いい感じね。けっこう響いたわ」
一曲歌いあげて軽く息を整えていると、ルナに肩を叩かれた。暖色系のアイシャドウに彩られたその瞳は、心なしか潤んで見えた。
「まだ甘いところはあるけど、良かったわ。練習したらもっと凄くなるよ」
「あっ、ありがとう」
上から目線に少し驚いたが、歌を褒められるのは嬉しい。それにルナの歌い方に学ぶところが多いのは確かだ。発声、肺活量、テクニック、どれも本格的に訓練して鍛えた上手さがある。
「もう一回、歌おう」
「当たり前でしょ」
ルナがにっと笑う。そこからは夢中だった。
声を合わせて歌うたびに、ルナと気持ちが重なる気がした。音楽で心を一つに。そんな御伽噺みたいなことが、本当にできるのではないかとすら思う。
もっともっと練習して、私の歌で誰かの心を動かしてみたい。
小さな欲求が自分の中に芽生える。こんなに夢中になるのは久しぶりだった。
時折ルナがアドバイスをくれ、声の出し方を変えたり、呼吸のタイミングを変えたりしていく。そのたびに歌がより良くなっていく。
そのうち、歌詞の意味を考えながら歌う余裕が出てきた。私ならこの歌にどんなメッセージを込めるか。この歌を聞いた人にどんな気持ちになって欲しいか。想いを歌声に換えて紡いでいく。
とはいえ、大きな声を出し続けるなんて久しぶりで、さすがに喉が疲れてきた。
「休憩しよう」
ルナがギターを壁に立てかけた時には、高い音や低い音を出すのが辛くなり、喉の奥がヒリついていた。これは明日の仕事に響きそうだ。なるべくダメージを減らそうと、水筒に口をつける。しかしすぐに空になってしまった。
「ちょっと飲みもの買ってくる」
「いってら~」
全く崩れていないメイクを直しながら、ルナがおざなりに返事する。
私は自販機で冷えたジュース買うと、その場で一気に半分ほど飲んだ。喉に炭酸の刺激が心地よく、ほどよい甘さが疲れを忘れさせてくる。
「あぁ、最高」
仕事上がりのキンキンに冷えたビールは最高だと言う営業マンたちの気持ちが、少しだけ分かった気がした。
「あっ、ちょっとヒロ!」
部屋に戻り、さぁ練習を再開しようとペットボトルを置いた瞬間、ルナが大きな目を吊り上げて叫んだ。
「えっ、なに? どうしたの」
「どうしたのって、ヒロ、何飲んでるのよ!」
「ジュースだけど」
大袈裟な反応を驚きつつ、ホワイトソーダのボトルを掲げてみせる。
「はぁっ? 喉を酷使して、これからもうひと歌いしようって時に、そんなもの飲んでいいと思ってるの」
「駄目なの?」
「駄目に決まってるでしょ! 炭酸は刺激が強いし、甘いジュースは水分を奪うから声が出にくくなるの。おまけに乳酸飲料って痰が絡みやすくなるんだよ。フルコンボじゃん。そのくらい常識でしょ! 飲むなら常温の水がハーブティ。今度から用意してきて」
「ごめん」
そんな常識聞いたことがないが、迫力に押されて謝る。
「今度から気をつけてよね。喉に良いのは常温の水と
かハーブティだよ。どっちもここには売ってないから用意してきて」
「……ルナってすごいね」
「どういう意味?」
思わず呟いた私に、ルナは物凄く微妙な顔をした。
なんだろう。怒っている? 呆れている? 澄んだ泉のような瞳から大蛇でも出てきそうな雰囲気だ。
「ねぇ、どういう意味って聞いてるんだけど?」
「眩しいっていうか、真剣っていうか」
「当たり前のこと言わないで! 妥協してたら歌手になんて絶対なれないから!」
ドキリとするほど、はっきりとした口調だった。
高校生はまだまだ純粋だね。そんな大人の余裕や軽口なんてとうてい叩けない。
私は思わずルナを見つめ返した。
「私は絶対に歌手になるの。そのためならどんな努力もする。ヒロは違うの?」
「私は……」
どうせ駄目だろうけど。そんな風に思いながら、他人を言い訳にしてあわよくばと夢に挑もうとしていた自分が恥ずかしくなった。
ずっとそうだ。なりふり構わず努力したことが今までに一度でもあっただろうか。無理そうなことはやる前から諦めて本気で何かを掴もうとしてこなかったのではないか。
こんな私でも変われるだろうか。
冷たいボトルを握る手に力が篭る。
私の秘かな決意に気づいたみたいに、ルナがにぃっと瞳を細めた。
「これからは毎日、六時半から練習するから。これは家での筋トレメニューね。ちゃんとこなしてよ。歌うための体造り、ヒロは全然できてないから」
「いや、毎日六時半はさすがにムリだって。今日も七時でぎりぎりだったし。それになにこの鬼体育会系メニュー」
「このくらい当たり前。甘いこと言わないの。努力って死ぬ気でするものよ」
大きな目でギロリと睨まれる。
「私にも社会人の立場と義務があるの。同僚にだって迷惑かけるし。筋トレはともかく六時半はホントに無理」
「たった二週間よ。その間だけでも誰かに仕事を代わってもらえないの?」
「簡単に言うけどね……」
本当に無理だろうか。考えてみれば、私だってさんざん葉月や百合奈の代わりに仕事を引き受けている。時短勤務の葉月はともかく、百合奈の新婚が残業拒否の理由になるなら、歌の練習だって正当な理由にならないだろうか。
「やっぱり大丈夫かも」
「なにそれ、ヒロったらおかしい。自分で言ってそっこー否定って、どんなよ」
「勝手に笑ってて。とにかく、時間作るから」
「ありがとヒロ、愛してる」
ルナががばりと抱きついてくる。
自分よりずっと背が高いのに、壊れそうに繊細だ。肌は柔らかいミルク、髪は細い絹糸みたい。それにほんのりと甘い香りがする。
私もこんなふうに生まれたら人生楽しかっただろうな。
「ねぇ、会社ってどんな感じ? 面白い?」
不覚にもドキドキしていたらルナに尋ねられた。
「全然、面白くない。今日なんて最悪だったんだから」
「えっ、なになに、教えて」
大きな猫目の瞳が興味津々に輝く。
絶対に面白がっている。人の不幸を喜ぶなんて性格悪いなと思いながらも、私は今日の返品騒動をありのまま話した。
「何それ! ちょークソババアじゃん。ぶん殴ってやればいいのに」
「嫌だよ。暴行で捕まっちゃう」
「いいじゃない。むこうだって窃盗? 詐欺? みたいなものでしょ。今度来たら塩撒いてやりなよ」
「たしかに。もう二度と来るなって感じ」
なんだか気持ちがすっとした。
「仕事なんて辞めちゃえば? すり減るだけじゃん」
「でも生活があるしね」
「前にも言ったけど、ヒロ、死にたいって顔してた。人生はゲームオーバーになったらリプレイできないんだよ。生活もクソもないじゃん。死ぬ前に辞めなよ。生きてればいくらでもやり直せるんだからさ」
言い回しに緊迫感はないし、やり直せるなんて若いから言える台詞だ。
でも、青く澄んだ瞳は驚くくらい真剣で、私は思わず頷いていた。
「ところでルナはどうなの。高校は楽しい? ちゃんと授業は受けてるの」
「先生みたいなこと言わないでよ。一応マジメに通ってるから。午後は天気がいいから屋上で寝てたけど」
「それ、真面目って言わないから」
想像通りすぎて笑ってしまう。猫みたいに自由な子だ。他人の評価ばかり気にして優等生ぶっている自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
「なに笑ってるのよ、もう! ほら、そろそろ練習始めよ」
可愛い膨れ面をしながら、ルナがギターを手に取り歌い出す。
私も慌てて口を開く。澄んだ鈴の音みたいな声に、しっとりと深みのある声が重なり、調和する。相性ぴったりだ。そう思うのは自惚れすぎだろうか。
「呼吸も音の一つだよ。強弱つけて。お腹の奥から出
すの!」
時々ルナのげきが飛ぶ。得意だと思っていた歌で年下に指導されるのは少し悔しい。もっと技術を磨いて歌いこなしたい。もっと上手くなりたい。
まずは正しい音楽の基礎を身につけなければ。図書館でボイストレーニングの本を借りてきて、動画サイトも使って、それに体力も。特に背筋と腹筋を鍛えて、肺活量だって足りていない。
なんだか楽しくなってきた。このまま明日の朝まで練習したい。でも、終わりの時間がくるのはあっという間だった。
「やだ、もう八時半。あたしバイトだから、じゃあね。また明日」
ルナが慌ててギターや楽譜を片付け始める。髪を整えたりメイクを直したりと、こちらのことなどもう気にもしていない。
べつに友達ってわけでもないし。
心の中で呟いて私はそっと部屋を出た。淋しいと思うのはさすがに図々しい。
「駅まで送るよ」
「わっ、びっくりした」
ぬうっと廊下の角からでてきた奏夜に、思わず悲鳴を上げる。
「ごめん」
「いえ、こちらこそ」
相変わらず前髪で表情は見えないが、申し訳なさそうに首をすくめた奏夜に私も頭を下げる。
「あの、バイトはいいの?」
「休憩とったから平気」
そっけなく言う奏夜と並んで夜の街を歩いた。会話は無い。一瞬、「歌ってみた」のことを聞こうと思ったが、自分から話題にするのはちょっと恥ずかしい。
ぼんやりしていたら腕を引かれた。すらりとした見た目に反して、結構力強い。
いつの間にか、奏夜が車道側を歩いていた。
「危ないから」
一言、また黙々と歩き出す。
私は奏夜の横顔を黙って見上げた。すっと通った鼻筋、薄い唇、涼しげな切れ長の瞳。やっぱりイケメンだ。行動まで男前で、偉そうなだけの営業の宮田とは大違いだ。
奏夜はカナデさんなのだろうか。だったら少し嬉しい。そんなことを思っているうちに、あっという間に駅に着いた。
「気をつけて帰って」
「ありがとう。バイトお疲れさま」
「……明日も、また」
ぎこちない返事を聞きながら、もう少しだけ話がしたいと思った。高校生相手にこんなのおかしい。ほのかに芽生えた感情に私はそっとフタをした。
「宮田さん、これ頼まれていた資料です」
「おぉ、サンキュー。よくできてるじゃん。あのさ……」
「お先に失礼します」
これ以上頼みごとをされるのはごめんだ。宮田が何か言いかけたのを聞こえなかったふりをして、私は職場を飛び出した。
六時半前。急がないと、ルナに動画をばら撒かれてしまうかもしれない。
悪魔よろしく微笑む姿が脳裏を過り、駅に急ぐ。
スーツ姿でダッシュする私に、すれ違う人が奇異の目を向ける。恥ずかしいけど、遅れたらもっと恥をかくことになる。
電車に乗る頃には汗びっしょりだった。こんなに出来の悪い『走れメロス』もない。でもなんとか、約束の五分前にシークレットベースの受付に滑り込む。
「ルナならまだ。一番奥の部屋で待ってて」
そっけなく言う奏夜に軽く会釈して、言われた通り一番奥の部屋に入る。
室内にはパイプイスとスタンドマイクがいくつか並んでいた。なんだかアーティストの仲間入りをしたみたいだ。我ながら単純だが、少しだけ気持ちが浮上する。
ルナは約束の時間を五分過ぎてやってきた。
「よしよし、ちゃんと来たわね」
待たせてごめんなさいの一言もなしに、深緑のブレザー姿でにっこり笑う。
この辺りの公立高校の制服だ。ルナは高校ではどんな感じなのだろう。やっぱり今みたいに、ツンと澄まして女王様みたいに振舞っているのだろうか。
「じゃあ早速、始めましょうか」
高校生にしては大人びた口調で、壁にかけてあったギターを手にとる。その仕草はとびきりの容貌のせいもあってか堂に入っていて、ミューズという言葉が思わず浮かんだ。
ほっそりとした指が弦を弾き、もの悲しげなイントロが流れ込んでくる。
何度聞いても綺麗な曲だ。音に導かれ体の内側から音楽が溢れてくる。
「いい感じね。けっこう響いたわ」
一曲歌いあげて軽く息を整えていると、ルナに肩を叩かれた。暖色系のアイシャドウに彩られたその瞳は、心なしか潤んで見えた。
「まだ甘いところはあるけど、良かったわ。練習したらもっと凄くなるよ」
「あっ、ありがとう」
上から目線に少し驚いたが、歌を褒められるのは嬉しい。それにルナの歌い方に学ぶところが多いのは確かだ。発声、肺活量、テクニック、どれも本格的に訓練して鍛えた上手さがある。
「もう一回、歌おう」
「当たり前でしょ」
ルナがにっと笑う。そこからは夢中だった。
声を合わせて歌うたびに、ルナと気持ちが重なる気がした。音楽で心を一つに。そんな御伽噺みたいなことが、本当にできるのではないかとすら思う。
もっともっと練習して、私の歌で誰かの心を動かしてみたい。
小さな欲求が自分の中に芽生える。こんなに夢中になるのは久しぶりだった。
時折ルナがアドバイスをくれ、声の出し方を変えたり、呼吸のタイミングを変えたりしていく。そのたびに歌がより良くなっていく。
そのうち、歌詞の意味を考えながら歌う余裕が出てきた。私ならこの歌にどんなメッセージを込めるか。この歌を聞いた人にどんな気持ちになって欲しいか。想いを歌声に換えて紡いでいく。
とはいえ、大きな声を出し続けるなんて久しぶりで、さすがに喉が疲れてきた。
「休憩しよう」
ルナがギターを壁に立てかけた時には、高い音や低い音を出すのが辛くなり、喉の奥がヒリついていた。これは明日の仕事に響きそうだ。なるべくダメージを減らそうと、水筒に口をつける。しかしすぐに空になってしまった。
「ちょっと飲みもの買ってくる」
「いってら~」
全く崩れていないメイクを直しながら、ルナがおざなりに返事する。
私は自販機で冷えたジュース買うと、その場で一気に半分ほど飲んだ。喉に炭酸の刺激が心地よく、ほどよい甘さが疲れを忘れさせてくる。
「あぁ、最高」
仕事上がりのキンキンに冷えたビールは最高だと言う営業マンたちの気持ちが、少しだけ分かった気がした。
「あっ、ちょっとヒロ!」
部屋に戻り、さぁ練習を再開しようとペットボトルを置いた瞬間、ルナが大きな目を吊り上げて叫んだ。
「えっ、なに? どうしたの」
「どうしたのって、ヒロ、何飲んでるのよ!」
「ジュースだけど」
大袈裟な反応を驚きつつ、ホワイトソーダのボトルを掲げてみせる。
「はぁっ? 喉を酷使して、これからもうひと歌いしようって時に、そんなもの飲んでいいと思ってるの」
「駄目なの?」
「駄目に決まってるでしょ! 炭酸は刺激が強いし、甘いジュースは水分を奪うから声が出にくくなるの。おまけに乳酸飲料って痰が絡みやすくなるんだよ。フルコンボじゃん。そのくらい常識でしょ! 飲むなら常温の水がハーブティ。今度から用意してきて」
「ごめん」
そんな常識聞いたことがないが、迫力に押されて謝る。
「今度から気をつけてよね。喉に良いのは常温の水と
かハーブティだよ。どっちもここには売ってないから用意してきて」
「……ルナってすごいね」
「どういう意味?」
思わず呟いた私に、ルナは物凄く微妙な顔をした。
なんだろう。怒っている? 呆れている? 澄んだ泉のような瞳から大蛇でも出てきそうな雰囲気だ。
「ねぇ、どういう意味って聞いてるんだけど?」
「眩しいっていうか、真剣っていうか」
「当たり前のこと言わないで! 妥協してたら歌手になんて絶対なれないから!」
ドキリとするほど、はっきりとした口調だった。
高校生はまだまだ純粋だね。そんな大人の余裕や軽口なんてとうてい叩けない。
私は思わずルナを見つめ返した。
「私は絶対に歌手になるの。そのためならどんな努力もする。ヒロは違うの?」
「私は……」
どうせ駄目だろうけど。そんな風に思いながら、他人を言い訳にしてあわよくばと夢に挑もうとしていた自分が恥ずかしくなった。
ずっとそうだ。なりふり構わず努力したことが今までに一度でもあっただろうか。無理そうなことはやる前から諦めて本気で何かを掴もうとしてこなかったのではないか。
こんな私でも変われるだろうか。
冷たいボトルを握る手に力が篭る。
私の秘かな決意に気づいたみたいに、ルナがにぃっと瞳を細めた。
「これからは毎日、六時半から練習するから。これは家での筋トレメニューね。ちゃんとこなしてよ。歌うための体造り、ヒロは全然できてないから」
「いや、毎日六時半はさすがにムリだって。今日も七時でぎりぎりだったし。それになにこの鬼体育会系メニュー」
「このくらい当たり前。甘いこと言わないの。努力って死ぬ気でするものよ」
大きな目でギロリと睨まれる。
「私にも社会人の立場と義務があるの。同僚にだって迷惑かけるし。筋トレはともかく六時半はホントに無理」
「たった二週間よ。その間だけでも誰かに仕事を代わってもらえないの?」
「簡単に言うけどね……」
本当に無理だろうか。考えてみれば、私だってさんざん葉月や百合奈の代わりに仕事を引き受けている。時短勤務の葉月はともかく、百合奈の新婚が残業拒否の理由になるなら、歌の練習だって正当な理由にならないだろうか。
「やっぱり大丈夫かも」
「なにそれ、ヒロったらおかしい。自分で言ってそっこー否定って、どんなよ」
「勝手に笑ってて。とにかく、時間作るから」
「ありがとヒロ、愛してる」
ルナががばりと抱きついてくる。
自分よりずっと背が高いのに、壊れそうに繊細だ。肌は柔らかいミルク、髪は細い絹糸みたい。それにほんのりと甘い香りがする。
私もこんなふうに生まれたら人生楽しかっただろうな。
「ねぇ、会社ってどんな感じ? 面白い?」
不覚にもドキドキしていたらルナに尋ねられた。
「全然、面白くない。今日なんて最悪だったんだから」
「えっ、なになに、教えて」
大きな猫目の瞳が興味津々に輝く。
絶対に面白がっている。人の不幸を喜ぶなんて性格悪いなと思いながらも、私は今日の返品騒動をありのまま話した。
「何それ! ちょークソババアじゃん。ぶん殴ってやればいいのに」
「嫌だよ。暴行で捕まっちゃう」
「いいじゃない。むこうだって窃盗? 詐欺? みたいなものでしょ。今度来たら塩撒いてやりなよ」
「たしかに。もう二度と来るなって感じ」
なんだか気持ちがすっとした。
「仕事なんて辞めちゃえば? すり減るだけじゃん」
「でも生活があるしね」
「前にも言ったけど、ヒロ、死にたいって顔してた。人生はゲームオーバーになったらリプレイできないんだよ。生活もクソもないじゃん。死ぬ前に辞めなよ。生きてればいくらでもやり直せるんだからさ」
言い回しに緊迫感はないし、やり直せるなんて若いから言える台詞だ。
でも、青く澄んだ瞳は驚くくらい真剣で、私は思わず頷いていた。
「ところでルナはどうなの。高校は楽しい? ちゃんと授業は受けてるの」
「先生みたいなこと言わないでよ。一応マジメに通ってるから。午後は天気がいいから屋上で寝てたけど」
「それ、真面目って言わないから」
想像通りすぎて笑ってしまう。猫みたいに自由な子だ。他人の評価ばかり気にして優等生ぶっている自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
「なに笑ってるのよ、もう! ほら、そろそろ練習始めよ」
可愛い膨れ面をしながら、ルナがギターを手に取り歌い出す。
私も慌てて口を開く。澄んだ鈴の音みたいな声に、しっとりと深みのある声が重なり、調和する。相性ぴったりだ。そう思うのは自惚れすぎだろうか。
「呼吸も音の一つだよ。強弱つけて。お腹の奥から出
すの!」
時々ルナのげきが飛ぶ。得意だと思っていた歌で年下に指導されるのは少し悔しい。もっと技術を磨いて歌いこなしたい。もっと上手くなりたい。
まずは正しい音楽の基礎を身につけなければ。図書館でボイストレーニングの本を借りてきて、動画サイトも使って、それに体力も。特に背筋と腹筋を鍛えて、肺活量だって足りていない。
なんだか楽しくなってきた。このまま明日の朝まで練習したい。でも、終わりの時間がくるのはあっという間だった。
「やだ、もう八時半。あたしバイトだから、じゃあね。また明日」
ルナが慌ててギターや楽譜を片付け始める。髪を整えたりメイクを直したりと、こちらのことなどもう気にもしていない。
べつに友達ってわけでもないし。
心の中で呟いて私はそっと部屋を出た。淋しいと思うのはさすがに図々しい。
「駅まで送るよ」
「わっ、びっくりした」
ぬうっと廊下の角からでてきた奏夜に、思わず悲鳴を上げる。
「ごめん」
「いえ、こちらこそ」
相変わらず前髪で表情は見えないが、申し訳なさそうに首をすくめた奏夜に私も頭を下げる。
「あの、バイトはいいの?」
「休憩とったから平気」
そっけなく言う奏夜と並んで夜の街を歩いた。会話は無い。一瞬、「歌ってみた」のことを聞こうと思ったが、自分から話題にするのはちょっと恥ずかしい。
ぼんやりしていたら腕を引かれた。すらりとした見た目に反して、結構力強い。
いつの間にか、奏夜が車道側を歩いていた。
「危ないから」
一言、また黙々と歩き出す。
私は奏夜の横顔を黙って見上げた。すっと通った鼻筋、薄い唇、涼しげな切れ長の瞳。やっぱりイケメンだ。行動まで男前で、偉そうなだけの営業の宮田とは大違いだ。
奏夜はカナデさんなのだろうか。だったら少し嬉しい。そんなことを思っているうちに、あっという間に駅に着いた。
「気をつけて帰って」
「ありがとう。バイトお疲れさま」
「……明日も、また」
ぎこちない返事を聞きながら、もう少しだけ話がしたいと思った。高校生相手にこんなのおかしい。ほのかに芽生えた感情に私はそっとフタをした。



