人はいくつになるまで夢を見てもいいのだろう。
ぐったりと重い体を引き摺り駅に向かう途中、ふと見上げると、濃紺の空にスポットのライトのような丸い月が浮かんでいた。
今日もよく働いた。明日もただ生きていくために――。
「もっとサポートしてくれよ。事務は数字取ってこれるわけじゃないんだからさぁ」
宮田淳平(みやたじゅんぺい)の鼻で笑う声がゾンビみたいに蘇ってきて溜息が漏れた。
仕事ができてワイルドなイケメン。女子社員には人気があるらしいけど、宮田なんて私に言わせればただの暴君だ。人使いが荒くて横柄。おまけに昼休みまで「急ぎ」と言って用事を言いつけてくる。
我儘な営業に振り回され、安月給で未来はない。
私の人生って一体なんだろう。
この先、いくら頑張っても報われないんじゃないかと、時々堪らなくなる。
世知辛い現実から逃げるように、私は青く沈んだコンクリートの谷をいつもの廃ビルに急いだ。
窓ガラスが割れところどころクラックの走るビルの中は、どことなく不気味だ。毎回、もし暗がりから不審者や不良が出てきたらと考えてしまう。でも実際は、襲われるどころか誰にも会ったことがない。仮に頭の狂った殺人鬼が現れてもその時はその時だ。誰にでもできる退屈な仕事、果てしなく続く予測可能な明日。いっそ誰かが終わらせてくれたら清々する。
投げやりなことを考えながら、暗い階段を幽鬼のような足取りで上がる。
最近は自殺者対策でどこの廃ビルも屋上のドアだけは施錠されているけど、このビルのオーナーはいい加減な性格らしい。侵入防止の対策は見当たらない。立ち入り禁止の張り紙すらされず、ただ朽ちるままに放置されている。
屋上に出たとたん、夜の香りをはらんだ風が無造作に伸ばした黒髪を攫った。
空には月、足元にはきらきらと輝く夜の町。踊るような足取りで錆びた柵に近づく。
少し身を乗り出せば永遠に退屈や後悔とさよならできる。
でも、死んだ後はどうなるのだろう。何も無くなってしまうのか、意識だけ永遠に残り続けるのか。どちらも同じくらい怖い。
胸の高さほどしかない柵が、汗ばんだ手の中でじゃりっと音を立てた。
「宮田のアホー! 少しは感謝しろーっ」
夜の町のどこかにいるだろう宮田に向かって叫ぶ。子供じみているけど、ガス抜きは必要だ。パンパンに膨らんだ風船はいつか弾けてしまう。
ようやく呼吸が少し楽になって息を吐くと、デジタルサイネージの中で歌う歌姫アマネの姿が目に入った。さすがに声は聞こえないけど、心を震わせるような歌声が耳の奥に甦る。涙が滲むくらい綺麗な声。そっと「大丈夫」だと囁いてくれる優しい歌。アマネの歌があったから今までなんとか、生きてこられた。
私もあんなふうに歌いたい。
思わず口を開く。細い歌声が夜の風に舞った。声はだんだん大きくなり夜の闇を彩る。
歌が好きだ。聞くのも歌うのも。いつか大きくなったら歌手になるのだと、小学四年生くらいまでは思っていた。
でもいつかは来なかった。
「歌手なんて無理に決まってるじゃない。そんなこと言ってると将来ホームレスになるわよ。嫌なら勉強して良い学校に入りなさい」
そんな母の脅しに反発する知恵も勇気も無く、ひたすら真面目に勉強して、気がつけばどこにでもいるつまらない会社員だ。おまけに小・中学校の同級生で、高校や大学は自分よりずっと偏差値の低い学校に通っていた明坂百合奈(あけさかゆりな)と同期入社。
どうせゴールが同じなら、学生のうちにやりたいことに打ち込んでおけばよかった。
そう後悔しても時間は巻き戻らない。あとは来世に期待するしかないのだ。
「だめだ、本当に飛び降りたくなってきた」
気持ちを切り替えようとスマートフォンでアマネの歌を再生する。知らない誰かが弾いたインストマテリアル版だ。ついでに録音アプリを起動させる。
最近出たばかりの新曲だけど、もう完璧に覚えている。役に立ったためしなどないが、歌をすぐに覚えるのが私の数少ない特技だ。
月明かりをスポットライト代わりに、声は遥か夜風に乗って運ばれていく。切なげなメロディに感情が高ぶって、くらくらするほど気持ちいい。
呪われているのかと思うくらい歌うのが好きだ。幼い頃はどこでもかんでも口ずさんでいた。中学を卒業する頃にはさすがに人前で歌ったりしなくなったが、今も一人の時はふとした拍子に唇から歌が零れてくる。
「でもまぁ、好きと現実は違うから」
いつだったか親友の宮野茉理(みやのまつり)が呟いた言葉が、今でも頭に残っている。
イラストが得意だった彼女は結局、美大にはいかず理系の大学に進学した。茉理があの時に言っていたのは茉理自身のことだったけど、私にもきっちり刺さった。
だけどやっぱり、ただ歌うだけじゃ満足できない。
誰かに私の歌を聞いて欲しい。
日本中を私の歌で埋め尽くしたい。
私が歌で救われたように、この歌を必要としている誰かに届けたい。
こんなに好きなのになぜ、歌を仕事にしようと努力しなかったのだろう。
好きでもない勉強をあれほど頑張れたのだから、歌の練習ならもっと真剣に取り組めたかもしれないのに。
もしも、学生の時に本気で挑戦していたら。きちんとボイストレーニングを受けて、自分で曲が作れるように学んで――。そうすれば結果はどうであれ、こんな風に後悔することはなかっただろう。
どうしてもっと早くに、母の言葉はいち主婦の主観にすぎないと気づけなかったのか。そう恨まずにはいられない。そんな自分が堪らなく嫌だ。
張り裂けそうな想いを歌声に乗せる。誰かにこの想いが届くだろうか。どうしようもなく歌が好きな、聞いて欲しがりの気持ちが。
こうして風に吹かれて歌っていると、どこまでも歌声が届く気がする。もしもこの声が誰かに届いていたらと想像するだけでクラクラする。そんな風に感じるのだから、歌手に向いているのではないかと自分では思う。
でも現実は厳しい。試しに歌ってみた動画をアップしているけれど、チャンネル登録者数は五十に満たない。
それに歌手といっても、ただ歌が上手なだけでは務まらない。日本の歌姫と言われるアマネだって中性的なの美人だし、自分で歌も作れて踊りなどのパフォーマンスもすごい。
あいにく私はそのどれも備えていない。おまけにもう二十五歳だ。今から歌手なんてどう考えても不可能だ。
こんなものかとがっかりする反面、当然だとも思う。普通が服を着たような自分のどこを探したって、才能なんて埋まっているはずがない。こうして時々、一人きりのライブをする程度が身の丈に合っているのだ。数は少ないがコメントをくれる人もいる。
中でもカナデさんは特別だ。性別も年齢も分からない、それでも動画をアップすれば必ず見てくれる、私のファン。たった一人でも私の歌を必要としてくれているという事実に、私は救われている。
とはいえ本音を言えば、少しでも再生数を増やしたい。
アマネの歌に続いて、キミコイの主題歌のインスタマテリアルを流す。
キミコイ――『君に恋してる』は、今人気の恋愛青春ドラマだ。平均視聴率三十五%で、職場でもしばしば話題になる。これなら少しは検索にも掛かりやすいだろうなどと計算しているのが、我ながらいじましい。
ほどなくして綺麗なメロディが流れ出した。主演の桜川凛(さくらかわりん)の融けそうなくらい甘い声を真似つつ、これでもかというくらい乙女の恋心を盛り込んだ歌詞をなぞる。
気が付けばあなたのことばかり考えちゃう これって恋なの
笑う横顔が眩しすぎて 直視できない
あなたから見た私は どう?
可愛いって思ってくれてたら ちょっと嬉しい
直視できない横顔ってなんだろうとか、可愛いと思われたいとかどういう心境だろうとか、心の中でいちいち突っ込みながら歌う。正直、甘ったるいラブソングは苦手だ。そもそも恋なんてしたことがない。誰かが自分を好きなることはもちろん、自分が異性を好きになることも想像できない。きっと一生、恋愛には縁が無いだろうとすら思う。
当然、ラブソングにも気持ちが入らない。
「なんか、やっぱりいまいちかも」
「うん、アマネの歌のほうが良い」
独り言に被せて、低い声が囁いた。
屋上のドアが開き、ぬぅっと大きな影が現われる。
「見つけた」
静かな、でも深く響く良い声だった。
ゆるくパーマのかかった黒髪に隠れて、顔はよく見えない。細身で猫背だが背の高い青年だった。青年がふらりと近づいてくる。たぶんまだ若い。少年と言っても差し支えないかもしれない。
「僕の歌姫(ディーバ)になって」
「えっ?」
骨ばった長い指が手に触れた。予想に反して温かい。同時に何かを握らされる。小さな紙片だ。アルファベットの店名、もしかしてホストクラブのカードだろうか。
「ここに来て。なるべく早く。いつでもいいから」
青年が静かに告げる。矛盾した言いようだ。
夜風に煽られ、長い前髪の隙間から切れ長の目が覗いた。不思議な色の瞳に黒々とした長い睫毛が影を落とし、はっとするほど綺麗だ。
「あの……」
「じゃあ」
青年はくるりと踵を返した。ほとんど足音も立てず、来た時と同じくらい唐突に去っていく。
「一体なに?」
訳も分からず手の中の紙を見つめる。
シークレットシークレットベース。黒いカードに白い文字で印刷されていた。住所と電話番号が右下に載っている。やっぱりホストの営業か。でもあんなふうに髪の毛で顔を隠したホストいうのも変だ。それに口下手な感じがした。
「歌姫か……まさかね」
戸惑いながらもどこかドキドキしている私を、黄金の満月が見下ろしていた。
ぐったりと重い体を引き摺り駅に向かう途中、ふと見上げると、濃紺の空にスポットのライトのような丸い月が浮かんでいた。
今日もよく働いた。明日もただ生きていくために――。
「もっとサポートしてくれよ。事務は数字取ってこれるわけじゃないんだからさぁ」
宮田淳平(みやたじゅんぺい)の鼻で笑う声がゾンビみたいに蘇ってきて溜息が漏れた。
仕事ができてワイルドなイケメン。女子社員には人気があるらしいけど、宮田なんて私に言わせればただの暴君だ。人使いが荒くて横柄。おまけに昼休みまで「急ぎ」と言って用事を言いつけてくる。
我儘な営業に振り回され、安月給で未来はない。
私の人生って一体なんだろう。
この先、いくら頑張っても報われないんじゃないかと、時々堪らなくなる。
世知辛い現実から逃げるように、私は青く沈んだコンクリートの谷をいつもの廃ビルに急いだ。
窓ガラスが割れところどころクラックの走るビルの中は、どことなく不気味だ。毎回、もし暗がりから不審者や不良が出てきたらと考えてしまう。でも実際は、襲われるどころか誰にも会ったことがない。仮に頭の狂った殺人鬼が現れてもその時はその時だ。誰にでもできる退屈な仕事、果てしなく続く予測可能な明日。いっそ誰かが終わらせてくれたら清々する。
投げやりなことを考えながら、暗い階段を幽鬼のような足取りで上がる。
最近は自殺者対策でどこの廃ビルも屋上のドアだけは施錠されているけど、このビルのオーナーはいい加減な性格らしい。侵入防止の対策は見当たらない。立ち入り禁止の張り紙すらされず、ただ朽ちるままに放置されている。
屋上に出たとたん、夜の香りをはらんだ風が無造作に伸ばした黒髪を攫った。
空には月、足元にはきらきらと輝く夜の町。踊るような足取りで錆びた柵に近づく。
少し身を乗り出せば永遠に退屈や後悔とさよならできる。
でも、死んだ後はどうなるのだろう。何も無くなってしまうのか、意識だけ永遠に残り続けるのか。どちらも同じくらい怖い。
胸の高さほどしかない柵が、汗ばんだ手の中でじゃりっと音を立てた。
「宮田のアホー! 少しは感謝しろーっ」
夜の町のどこかにいるだろう宮田に向かって叫ぶ。子供じみているけど、ガス抜きは必要だ。パンパンに膨らんだ風船はいつか弾けてしまう。
ようやく呼吸が少し楽になって息を吐くと、デジタルサイネージの中で歌う歌姫アマネの姿が目に入った。さすがに声は聞こえないけど、心を震わせるような歌声が耳の奥に甦る。涙が滲むくらい綺麗な声。そっと「大丈夫」だと囁いてくれる優しい歌。アマネの歌があったから今までなんとか、生きてこられた。
私もあんなふうに歌いたい。
思わず口を開く。細い歌声が夜の風に舞った。声はだんだん大きくなり夜の闇を彩る。
歌が好きだ。聞くのも歌うのも。いつか大きくなったら歌手になるのだと、小学四年生くらいまでは思っていた。
でもいつかは来なかった。
「歌手なんて無理に決まってるじゃない。そんなこと言ってると将来ホームレスになるわよ。嫌なら勉強して良い学校に入りなさい」
そんな母の脅しに反発する知恵も勇気も無く、ひたすら真面目に勉強して、気がつけばどこにでもいるつまらない会社員だ。おまけに小・中学校の同級生で、高校や大学は自分よりずっと偏差値の低い学校に通っていた明坂百合奈(あけさかゆりな)と同期入社。
どうせゴールが同じなら、学生のうちにやりたいことに打ち込んでおけばよかった。
そう後悔しても時間は巻き戻らない。あとは来世に期待するしかないのだ。
「だめだ、本当に飛び降りたくなってきた」
気持ちを切り替えようとスマートフォンでアマネの歌を再生する。知らない誰かが弾いたインストマテリアル版だ。ついでに録音アプリを起動させる。
最近出たばかりの新曲だけど、もう完璧に覚えている。役に立ったためしなどないが、歌をすぐに覚えるのが私の数少ない特技だ。
月明かりをスポットライト代わりに、声は遥か夜風に乗って運ばれていく。切なげなメロディに感情が高ぶって、くらくらするほど気持ちいい。
呪われているのかと思うくらい歌うのが好きだ。幼い頃はどこでもかんでも口ずさんでいた。中学を卒業する頃にはさすがに人前で歌ったりしなくなったが、今も一人の時はふとした拍子に唇から歌が零れてくる。
「でもまぁ、好きと現実は違うから」
いつだったか親友の宮野茉理(みやのまつり)が呟いた言葉が、今でも頭に残っている。
イラストが得意だった彼女は結局、美大にはいかず理系の大学に進学した。茉理があの時に言っていたのは茉理自身のことだったけど、私にもきっちり刺さった。
だけどやっぱり、ただ歌うだけじゃ満足できない。
誰かに私の歌を聞いて欲しい。
日本中を私の歌で埋め尽くしたい。
私が歌で救われたように、この歌を必要としている誰かに届けたい。
こんなに好きなのになぜ、歌を仕事にしようと努力しなかったのだろう。
好きでもない勉強をあれほど頑張れたのだから、歌の練習ならもっと真剣に取り組めたかもしれないのに。
もしも、学生の時に本気で挑戦していたら。きちんとボイストレーニングを受けて、自分で曲が作れるように学んで――。そうすれば結果はどうであれ、こんな風に後悔することはなかっただろう。
どうしてもっと早くに、母の言葉はいち主婦の主観にすぎないと気づけなかったのか。そう恨まずにはいられない。そんな自分が堪らなく嫌だ。
張り裂けそうな想いを歌声に乗せる。誰かにこの想いが届くだろうか。どうしようもなく歌が好きな、聞いて欲しがりの気持ちが。
こうして風に吹かれて歌っていると、どこまでも歌声が届く気がする。もしもこの声が誰かに届いていたらと想像するだけでクラクラする。そんな風に感じるのだから、歌手に向いているのではないかと自分では思う。
でも現実は厳しい。試しに歌ってみた動画をアップしているけれど、チャンネル登録者数は五十に満たない。
それに歌手といっても、ただ歌が上手なだけでは務まらない。日本の歌姫と言われるアマネだって中性的なの美人だし、自分で歌も作れて踊りなどのパフォーマンスもすごい。
あいにく私はそのどれも備えていない。おまけにもう二十五歳だ。今から歌手なんてどう考えても不可能だ。
こんなものかとがっかりする反面、当然だとも思う。普通が服を着たような自分のどこを探したって、才能なんて埋まっているはずがない。こうして時々、一人きりのライブをする程度が身の丈に合っているのだ。数は少ないがコメントをくれる人もいる。
中でもカナデさんは特別だ。性別も年齢も分からない、それでも動画をアップすれば必ず見てくれる、私のファン。たった一人でも私の歌を必要としてくれているという事実に、私は救われている。
とはいえ本音を言えば、少しでも再生数を増やしたい。
アマネの歌に続いて、キミコイの主題歌のインスタマテリアルを流す。
キミコイ――『君に恋してる』は、今人気の恋愛青春ドラマだ。平均視聴率三十五%で、職場でもしばしば話題になる。これなら少しは検索にも掛かりやすいだろうなどと計算しているのが、我ながらいじましい。
ほどなくして綺麗なメロディが流れ出した。主演の桜川凛(さくらかわりん)の融けそうなくらい甘い声を真似つつ、これでもかというくらい乙女の恋心を盛り込んだ歌詞をなぞる。
気が付けばあなたのことばかり考えちゃう これって恋なの
笑う横顔が眩しすぎて 直視できない
あなたから見た私は どう?
可愛いって思ってくれてたら ちょっと嬉しい
直視できない横顔ってなんだろうとか、可愛いと思われたいとかどういう心境だろうとか、心の中でいちいち突っ込みながら歌う。正直、甘ったるいラブソングは苦手だ。そもそも恋なんてしたことがない。誰かが自分を好きなることはもちろん、自分が異性を好きになることも想像できない。きっと一生、恋愛には縁が無いだろうとすら思う。
当然、ラブソングにも気持ちが入らない。
「なんか、やっぱりいまいちかも」
「うん、アマネの歌のほうが良い」
独り言に被せて、低い声が囁いた。
屋上のドアが開き、ぬぅっと大きな影が現われる。
「見つけた」
静かな、でも深く響く良い声だった。
ゆるくパーマのかかった黒髪に隠れて、顔はよく見えない。細身で猫背だが背の高い青年だった。青年がふらりと近づいてくる。たぶんまだ若い。少年と言っても差し支えないかもしれない。
「僕の歌姫(ディーバ)になって」
「えっ?」
骨ばった長い指が手に触れた。予想に反して温かい。同時に何かを握らされる。小さな紙片だ。アルファベットの店名、もしかしてホストクラブのカードだろうか。
「ここに来て。なるべく早く。いつでもいいから」
青年が静かに告げる。矛盾した言いようだ。
夜風に煽られ、長い前髪の隙間から切れ長の目が覗いた。不思議な色の瞳に黒々とした長い睫毛が影を落とし、はっとするほど綺麗だ。
「あの……」
「じゃあ」
青年はくるりと踵を返した。ほとんど足音も立てず、来た時と同じくらい唐突に去っていく。
「一体なに?」
訳も分からず手の中の紙を見つめる。
シークレットシークレットベース。黒いカードに白い文字で印刷されていた。住所と電話番号が右下に載っている。やっぱりホストの営業か。でもあんなふうに髪の毛で顔を隠したホストいうのも変だ。それに口下手な感じがした。
「歌姫か……まさかね」
戸惑いながらもどこかドキドキしている私を、黄金の満月が見下ろしていた。



