本節では、はじめに「学校の怪談」の定義とその特徴について考察する。「学校の怪談」は、小学校、中学校、高校までの学校を舞台として展開される、恐怖や不思議な出来事を描いた物話である。物語は基本的に、学校内で体験するものが対象となり、登場人物が児童・生徒や教職員であっても、怪異に見舞われた舞台や経緯が学校と密接に結びついていなければ、それは「学校の怪談」とはみなされない。

 例えば、児童が塾の帰り道に小学校の校舎内に人影を見た、という怪談は「学校の怪談」であると判断できる。一方、児童が学校の帰り道に交差点で妙な人影を見た、という怪談は、発生場所が「交差点」であり、学校との因果関係が明確ではないため、「学校の怪談」であるとは呼び難い。ただし、学校で発生した怪異が家庭などに持ち込まれる場合は、発生源が学校であることから、「学校の怪談」と判じて差し支えない。

 このように、「学校の怪談」は物語の根幹が学校という特定の舞台に限定される点に特徴がある。代表的な例として、「トイレの花子さん」が挙げられる。定番のエピソードでは、特定の女子トイレの個室に花子さんが存在し、三回のノックの後に「花子さんいますか?」、あるいは「花子さん遊びましょ」と呼びかけると、少女の声で返事があるという。たとえ、通学先の小学校に花子さんが出現する噂があるトイレが存在しなくとも、「トイレの花子さん」は広く知られている「学校の怪談」である。さらに子供だけでなく、大人たちにも認知されている点に、これら「学校の怪談」の独自性が見られるだろう。

 誰から教わった覚えがなくとも、「学校の怪談」は耳に入り、幼い子供たちに恐怖を与え、大人になっても記憶に残る。この点について岩尾幹夫は「学校は幼いころの原風景であり、全国的にほぼ同じ原体験を持たせる舞台装置」と、学校を舞台とした怪談が広く膾炙している理由と説明し、「学校の怪談」とは「子供は当事者として、大人は子供時代へとタイムスリップしたような感覚を得られる特別な存在」としている[岩尾 2001]。また御園依子は「学校の怪談は寓話的存在である」とし、夜遅く起こる怪談を「子どもたちが遅くまで学校に残らない・戻らないことを暗に求めている」と述べ、「学校の怪談」には教育的的側面があると指摘している[御園 1999]。

 さらに、「トイレの花子さん」を研究対象とする試みもなされている。谷地かなえは全国的に「トイレの花子さん」伝承を集め、それを類型化した[谷地 2005]。他にも「学校の怪談」を対象とした研究には、中西俊己が関西圏と関東圏で「音楽室で鳴るピアノの音」を調査し、奏でられる曲や物語の設定の違いを比較考察した[中西 1999]。立花大翔は儀式化された怪談に着目し、特定の手順を踏んで四次元や異界に取り込まれる手段としての「学校の怪談」を論じ、学校という閉塞感からの子供たちの解放欲求が怪談に反映されている可能性を挙げた[立花 2011]。沼田舞花は、1990年代と2020年代での「学校の怪談」の変遷を比較し、「鏡」の役割が「デジタル機器の画面」に移行している事例を報告した[沼田 2022]。