「田村君、交代だよ」
 警備主任の袴田が巡回から帰って来る。汗ばんだ青いワイシャツの襟元を仰いでいる。
「全くなんでこんな蒸し暑いんだか…」
「本当っすね」
 それに深夜警備のバイトをしている大学生田村がコミック雑誌から目を上げて答える。彼らのいる■■■病院は東京郊外にある小規模病院だ。元は戦前にできた個人経営の病院だったのだが、先の大戦で経営者が亡くなり、それ以降経営者が次々に変わり今に至るらしい。建設直後から何度も不審火が発生しており、その度に改築が繰り返された。四階建てで、受付や診察室、警備員室などのある一階、病室や手術室のある二〜四階という構造だ。しかし、四階に入院患者は誰もいない。元々の資金難の上、この辺りの重症患者は2駅先の大学病院に転院してしまう。そのため設備投資されず、旧式のベッドや心電計などの設備が放置されたままになっている。正直言うと、この四階の巡回が一番気味が悪い。しかしそんな気味の悪さを跳ね除ける程の破格のバイト代だった。夜間警備のバイトの中でも特にいい給料だった。田村にはこれに飛びつくだけの理由があった。大学の同級生に紹介された“先輩”から投資を勧められ、知識もないくせに生活費を全額つぎ込んだ挙句、一文無しに成り果てたのだ。
「じゃあ、4時になったら、お願いね」
 そういうと袴田は仮眠用ベッドに身を投げ出した。薄い敷布団と掛け布団に中年太りが飛び込んだためかギシッという今にも真っ二つに割れそうな音がする。
「あ、そうだ。古いエレベーター使っちゃダメだからね」
 またか、と思う。この病院には2機エレベーターがある。1機目は車椅子の患者用のエレベーターでこの病院には不釣り合いな新しいものだ。なんでも元々あった古いエレベーターの代わりらしい。2機目はこの建物相応の埃臭い狭い古めかしい昭和期の遺物だ。しかし、なぜか2個目の古いエレベーターは新しいエレベーターがあるにも関わらず残り続けているのだ。特段使う人もいないというのに。今、点検のために新しいエレベーターが止まっている。しかし患者も職員も、誰も古い方を使おうとはしない。
 4時になったので、読んでいたコミック雑誌を机に置き、パイプ椅子から立ち上がる。制帽をとり、かぶる。懐中電灯ヨシ。チラリと仮眠用ベッドを見ると袴田はすでに薄い布団に包まり寝息を立てていた。
 4時でもまだ暗く、蒸し暑い。じっとりとした暑さが身体に纏わりついてきて、鬱陶しい。こういう時に地球温暖化を感じる。一階から始め、二階、三階と進んだ。どの階でも古いエレベーターは電気が切れ、ガラスの奥には深淵が広がっているように見える。新しいエレベーターの方は使用禁止と油性マーカーで書かれた紙が無愛想に貼られていた。ゴーゴーという空調の音、カツコツカツコツという自身の革靴の音のみが淋しく、誰もいない廊下にこだまする、なんとも気の重い時間だ。消毒液のにツンとした臭いが鼻につく。真っ暗な中に、懐中電灯と非常口の緑だけが光っている。
 さて、ようやく四階だ。階段を登ってゆく。これが終われば袴田が巡回し、次の警備員と交代だ。
「痛!」
 四階に登った途端、階段の最後の段でこけてしまった。どうやら捻挫したようだ。ズキズキと痛む。田村がフッと顔を上げると、なんだかさっきよりも不気味に感じる。誰もいないところで足を挫いたからだろうか。窓の形の月明かりがなんともいえない孤独感を増長させる。痛い足を引きずり、仕事を再開する。見られてる?さっきまでは気にならなかったのになんだか視線を感じる気がする。見られてる?ひとまず一周しよう。見られてる?さっきよりも寒い?見られてる?あのベッドの下…何かいるのか?見られてる?見られてる?見られてる?見られてる?見られてる?見られてる?見られてる?
 スッと明かりが目に入った。エレベーターだ。古い、あのエレベーターだ。四角い扉と窓、そしてそこから漏れる蛍光灯の灯を見た途端、田村の中で早く一階に戻りたいという衝動が急に強くなった。足を挫いているし、乗ったとしても袴田も文句は言うまい。ボタンを押すと、扉が開いた。どうやらこの階に止まっていたようだ。
 むせ返りそうな埃臭い生ぬるい風に顔を撫でられながらカゴに乗る。天井ではエアコンが虫の羽音のような低い音で唸っている。一階のボタンを押すと扉が閉まり、カゴがゆっくりと下がりだす。やれやれ、この怪我は労災が降りるだろうか…あれ?一階から三階までの階で見た時には古いエレベーターの電気は消えていた。そもそも普通、深夜にはエレベーターのカゴは一階に戻っているはずだ。だって他には誰もエレベーターには乗っていないはずだから…
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 揺れと轟音と共に凄いスピードで下がり出す。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 3、2、1、0…と階数表示が変わってゆく。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 落ちてゆく。動けない。まるで、背中の壁から大きな手が伸びて来ていて、捕まっているようだ。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 落ちてゆく。ありえないところまで。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 落ちてゆく。それだけがわかった。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 落ちてゆく。階数表示がB¿。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 落ちてゆく。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 落ちてゆく。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 落ちてゆく。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 落ちてゆく。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 落ちてゆく。
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ
 豁「縺セ縺」縺




 
「浅田さん、警備主任からです」
「ああ、ありがとう」
 人事担当の浅田は書類に目を通す。
「今月3人目か…全く、また新しい警備員探さないと」
「浅田さん」
「ん?」
「なんでうちみたいな小さな病院に警備員が必要なんですか?看護師に任せればいいんじゃないんですか?」
「いやねぇ…エレベーターがね…」
「あの古いヤツですか?」
「ああ、あれがいるからねェ…」
「エレベーターの所為なんですか?工事すればいいのに」
「したんだよ…そしたらエレベーター以外、燃えたらしいのよ」