月曜日の放課後。
私はレポートを携えて、部室へ向かった。
「失礼します」
いつもの騒がしい出迎えはなく、どうやら乾先輩はまだ来ていないらしいと知る。
土曜日のこともあり少し顔を合わせづらかった私には、好都合だった。
「……さて」
小説を進めなければそろそろ本当にまずい。乾先輩はいないが、執筆を開始する。
私は机上に白い紙を広げ、シャーペンを握り締めた。
……何も浮かばない。
力を弱める。海の風景を思い浮かべ、シャーペンの芯の先で紙に触れる。……文章にならない。ふっ、と芯の先を元の位置に戻す。その繰り返しだ。
はぁ、と息をついて立ち上がる。書けないものは書けない。人の作品を参考にしようと、部誌の置いてある棚に足を運んだ。
四月の大掃除のおかげで一冊目から順々に、きちんと並べられた歴代の文芸部誌。基本は年に一回、文化祭での発行だが、一年で十冊近く発行した年もあったらしい。比較的新しい学校であるにも関わらず、かなりの冊数に達している。
私は整然と並ぶその部誌の中から、去年のものを引き抜いた。それを手に取り、パラパラと後ろからページを手繰る。最後には、一番初めに記載される目次の欄に行き当たった。
「いや、ペンネーム……」
そこに並ぶのは独特すぎるペンネームの数々。思わずツッコミが零れる。
『猫の毛玉』、『秋扇』、『赤鼻の犬』などなど。名前の由来が気になるな……。
しかしそんな中にあってもブレない人というのはいるものだ。ペンネームとは分かるが、まだ名前っぽい人がいた。
『柊檸檬』
この人が載せているのは詩文。
乾先輩とは違う美しさ。無邪気な子どもを彷彿とさせる素直な言葉が、美しく清らかに並んでいた。
詩文は詳しくないが、この美しく優しい世界観は好きだ。これを書いた人はどんな人なのだろう。
いつか、会う機会があるといいなあ。
しかしながら、私が書くのは小説である。詩文ではない。よって、今回の私の手助けにはなりそうにない。残念だが。
はあ、乾先輩の小説でも読むか。本人から許可はもらってるし。……やっぱり、なんか負けた気がするけど。
私は一旦部誌を閉じ、乾先輩が積み上げていた原稿用紙を引っ張り出してきた。順番はおろか、違う話も色々混ざっている。……これも、掃除の時にちゃんと並べておくんだった。
若干の後悔に苛まれながら、律儀にも書かれているページ番号を頼りに並べ直していく。
……せっかくだし、この棚の紙、全部並べるか。どうせぐちゃぐちゃに混ざっているのだろうし。
そう考えた私は、棚からバサッと紙を取り出す。これはかなり量がある。一体あの人はどれだけ小説を書いているのか……ん?
何だこれ。
大量の紙の下から出てきたそれは、片付けの際にその姿を見なかったものだった。
そう、それは、
「……お菓子の、缶?」
テーマパークの土産店に置かれているような、四角い箱の形をした菓子缶。
少し大きめのサイズのその缶は、ちょうどA4の紙が入りそうな大きさで。
「先輩、この惨状にちょっとは反省したのかな……こういう片付けの仕方なら散らかることはないと踏んで持ってきた、とか」
だとしたら見識を改めなければならない。向上心はある、と。
そんなことを考えながら菓子缶を眺める。船の絵が描かれたフタには、筆記体で『It’s time to set sail.』と書かれている……が、最後の一単語が分からないので意味はとれない。後で乾先輩に聞いてみるか。
さて、さすがに中は空っぽか?
机の隅に缶を置き、フタを開ける。すると、文字に彩られた紙が顔をのぞかせた。これは原稿用紙ではなく、裏紙に書かれている。しかもかなり分厚い紙の束だ。わざわざ缶に入れているだけあって、順番もバラバラではないらしい。
「……これ、は」
読んでいいものなのだろうか。
紙の下に、まるで隠すように置かれた菓子缶。その中に収められていた、乾先輩にしては丁寧な扱いの作品。
乾先輩にとって特別な作品だということは、明らかだった。
「…………」
でも、読んでいいと言ったのは乾先輩だ。部室に置いてあるものは読んでいい、そう言ったのは乾先輩だ。缶の中の小説は読むな、とは言われていない……。
「……ちょっとだけ。ちょっとだけ、なら」
別にいい、よね?
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、私はおそるおそる、菓子缶から紙の束を取り出した。
一枚ずつ、私が読んだ形跡を残さないように、そっと読み始める。もちろん紙の端を折るなんて失態がないように、慎重に扱う。
部室の扉は固く閉ざされ、しばらく開きそうになかった。

【クラウンの涙】――乾文也
ピエロを見たことがある。
小さい頃、数日だけ町にやって来たサーカス。それを見に行った時のことだ。
定番の火の輪をくぐるライオンや空中ブランコ、綱渡りなんかも面白くはあった。しかしながら、一等俺の目を引いたのは、たった一人のピエロだった。
色鮮やかな衣装に包まれた彼のコミカルな動き。真っ白な顔に、赤い鼻と唇。
そして何よりも、愉快な格好をしてくるくると踊る彼の頬に描かれた、一筋の涙。
その涙に、どうしようもなく惹かれてしまったのだ。

ピエロの涙というものには色々な意味が込められている、と聞いたことがある。
人の悲しみに流す涙。
押し殺した本音の涙。
そして、笑われることで傷付き、流す涙。
おかしな話だろう?ピエロなんて笑われてなんぼ、笑われて笑われて人気者になれるってのに。
でもなぁ、分かるんだよ。分かってしまったんだよ、俺は。
笑ってほしい、その気持ちに嘘はない。
でも時々、笑わないでほしい、と思うことがある。
我儘だよな。笑ってくれ。俺だって、こんな滑稽なことがあれば笑うさ。
……いや、嘘だ。笑わないでくれ。辛くて苦しくて、かなわないんだ。
嘘、嘘、嘘、ウソ、ウソ、ウソ、うそ、うそ、うそ……
ああ、どれが本当か、分からないや。
本人でさえ分からないんだ、誰かに教えてもらう訳にもいかないだろうな。もしかすると、俺から“ほんとう”は抜け落ちてるのかもしれないな。……俺が道化師なばっかりに。
俺は、ただ周りに笑ってほしくて道化をしてきたはずだった。それなのに、笑われることに苦しむなんて。ほんと、何やってんだか。
……いや、それも嘘だな。俺は愛されたくて道化を演じてきたに過ぎない。愛らしい子でいれば、両親から愛される。見てもらえる。友達が友達でいてくれる。一人きりにならないで済む。そんな打算のもとで道化をしてきたんだろう?
違う、嘘だ、いや、……分からない。考えたって無駄だ。どう足掻いても暗闇の中を彷徨い続けるだけなんだから。
いつからだろう。曖昧で支離滅裂なことばかりが、俺の周りに降り積もる。積もりに積もったそれらが俺の視界を奪い、時に俺を守る城壁となり、そして俺と周囲を切り離している気がしてならない。
何も見えなくて、見る気も起こらなくて、でも見たい気もして、一人城壁の中を行ったり来たりしている。
それが、俺というモノだ。
そんな俺がピエロを見て、何を感じたと思う?
同情か。悲壮感か。仲間意識か。
そのどれとも言えるし、どれとも言えない。
俺はそのピエロを、美しいと思ったんだ。
涙を流しながら、それでも誰かのために、誰かに笑ってもらうために、演じる。その一筋の涙ほど、尊く、美しいものなんてないと思った。
俺は今まで、救われたいとどこかで思っていた。
変わらない日々、くたびれてゆく心、その二つの間でもがき苦しんで、救いの糸が垂れるのを待っていた。
救いを待つばかりの俺は、ピエロの目にどう映ったんだろう。
――酷く愚かで、哀しいモノ。
その哀しさをああも哀しいままに、美しく、清らかに表現できたなら。
その時こそ、俺は、救われるんじゃないだろうか。
ふと、俺の頭にそんな考えが浮かんだ。
いいや、それだけじゃない、もしかすると、俺に似た奴がどこかにいるとしたら、そいつを救えるかもしれない。愚かなピエロである、この俺が。
そう、一人のピエロは、一人の“救われたがり”を一人の“救いたがり”にしたんだ。
俺には何かを生み出す力がない。ピエロのような芸もない。何も持っちゃいない。
でも、言葉の力で世界を少しだけ彩ること。
それだけは、できる。
俺は昔から、文章を書くのが得意だった。本を読む間は自分の道化を忘れられる気がして、必死に本を読んだ時期があった。きっとそのおかげで、人より少し多い語彙力を身に着けたのだと思う。これを生かさない手はない。そうだろう?
俺はペンを取った。世界に少しの美しさを添えてやろう、そんな気持ちで。

……本当は分かっている。
これはただのエゴだ。言葉で人を救えるなんて、自分が救われるなんて、ただの夢物語だ。
でも、俺は言葉に縋ることしかできない。他に何を頼れば良いのか、分からないから。
結局のところ、独りよがりなんだ。
分かってるんだよ、そんなことは。
それでも、誰か、誰でもいい、何でもいい、
俺を、■■■■■


最後の言葉は黒く塗りつぶされていて、読めなかった。
……分からない。よく分からなかった。
ピエロの涙に共感して、何か感じるものがあって、だから小説を書いている。
救われたがり。救いたがり。哀しいものを、美しく書く。
乾先輩の根幹には、何があるんだろう。
『道化』ということは、普段の乾先輩は、あの明るさは、……嘘?
土曜日のプラットフォームでのことが脳裏をかすめる。
乾先輩は、もしかして、
「……凛、君?」
はっと顔を上げると、固く閉ざされていたはずの扉は開け放たれ、乾先輩が呆然と立っていた。
「…………先輩、これ、」
前に読んだものとは明らかに異なる雰囲気のこの小説は、もしかしなくても、乾先輩の、本当の。
「……あー……読んじゃった、か」
「…………はい」
「そっかぁ……」
その反応を見れば、ほぼ正解なのだと確信してしまった。
全てを書いているとは限らない。しかし、本当のことも書いている。だから、人に見られるのが怖いのではないか。
「……い、乾、先ぱ」
「すまん凛君!今日はちょっと用事があるんだった!」
何と言えばいいか分からなくても、それでも、何か言葉を。
そう思って発せられた私の言葉は、乾先輩に遮られた。「じゃあまた今度!」と左手を上げ、乾先輩は逃げるように部室を飛び出していった。
「ちょっと、待っ……!」
追いかけようとほぼ無意識に伸ばした腕が、菓子缶を弾き飛ばす。菓子缶は鋭い金属音を響かせ、その中身、残りの紙を床に吐き出した。
あ、紙が。
私はあわてて紙を拾い上げる。その間に、廊下から乾先輩の姿は消えていた。
菓子缶から吐き出された残りの紙に、私は目を移す。
「まだ、終わりじゃない……?」
続きがあったのか。
私はてっきり、あれで終わりだとばかり。
拾い上げた紙に目を通す。
「……ちがう」
続きじゃない。これ、は。
『小学生の頃、近所にやって来たサーカスを見に行った時のことだ。』
同じ内容、異なる言葉、何度も消され、修正された文章たち。
「……同じ、話だ……」
乾先輩は一体、何度この話を書き直したのだろう。
缶から取り出した紙の量が、答えだった。
一度や二度ではない。
何度も何度も、誰に見せるでもなく、ひたすら書いて書いて、書きまくって。
きっと乾先輩は、これを人に見せるつもりなんてなかった。それでも書いたのは、何度も何度も、書いて書いて、書き続けたのは、
書かなきゃ生きていけなかったからだろう。
「……なんで」
なんで、そんなにも重いものを、一人で抱えているんですか。なんで、その悲しみを、苦しみを、隠してしまうんですか。なんで、
「辛くても、笑うんですか……」
その日、乾先輩が部室に戻ってくることはなかった。
次の日もその次の日も、部室に顔を出すことさえなかった。
そして乾先輩と会えないまま、高一の夏が始まった。

なし崩し的に夏休みに突入してしまったため、夏休み中の部活の日程なんて一つも分からなかった。文芸部は活動予定表もないし。
一応、平日は毎日部室に顔を出すようにしている。これでは夏休みの意味がない気もする。
しかも。
「…………書けない」
どうせ部活に行くなら、と海の小説に毎日取り組んでいるが、本当に進まない。書けない。無理に推し進めてみても、言葉が死んでいる。言いたいことと言葉とが分離して、私の手から逃げていく。
書いたそばから消しゴムをかける。書けば書くほど、言葉が分離する。苦しい。
「ちがう、私が言いたいのは、……」
苦しい。苦しい苦しい苦しい。苦しくてたまらない。
書くことって、こんなに苦しいものだっけ。
昔はもっと、楽しかったはずなのに。