そして、クラウンになる。

無事テントを張り終え、迎えた体育祭当日。
「空道ちゃん、次綱引きだよ!行こぉ!」
「ああ、うん!」
私が出場するのは、綱引きと全体競技である台風の目、そして大縄跳びくらいのもの。人によってはリレーや借り物競走もあるが、無難なものを選んだ私は気楽なものだ。
綱引きは純粋な力比べ……かと思いきや、我らが担任・塩田先生が必勝法をこんこんと教えてくれたおかげで、一組の準備は万端である。
共に綱引きに出場する斉吉さんのところへ駆けると同時に、私の視界に見覚えのあるキラキラが入り込む。
「……」
行ったほうがいいんだろうなあ。しかし綱引きが迫っているので無視を決め込む。何も見てない何も見てない……。
「ねぇ空道ちゃん、あの人、すごくこっちを見てるよ……?」
斉吉さんは首を傾げつつ、指をさす。うん、気になるのは分かるけど、人を指ささないほうがいいと思うよ。
「あー……あの人は気にしなくていいから」
「あれ、もしかして空道ちゃん、あのイケメンと知り合いなの!?」
斉吉さんらしくない大声が響く。ふわふわ系女子も顔がいい人間が相手なら変わるのか。あの人、顔はいいけど中身が残念だよ斉吉さん。
「あ、じゃああの噂って、もしかして……」
斉吉さんはハッと口に手を当てる。
……待て待て、噂?不名誉な噂の予感しかしないんですけど?
果たして、斉吉さんはとんでも発言をかましてみせた。
「空道ちゃん、おめでとう!かっこいい彼氏さんだね!」
「…………はあ?」
ちょっと待って。
なんで私と乾先輩が付き合ってることになってるの?
どこの誰が勘違いしたのか知らないけど、普通にあり得ないでしょうよ。
「いや、あの……は?」
あまりに予想外すぎて戸惑うしかできない私をどう見たのか、頬を赤らめる斉吉さんの口が回り出す。
「照れなくていいんだよ空道ちゃん!いいなぁ、私もあんなかっこいい人と付き合えたらなぁ〜」
「いやまず前提が間違ってるから。あの人はただの部活の先輩!知り合いたいなら間持つよ、あんまりお勧めはしないけど」
軽いし汚部屋形成マシーンだし。
「そんな無粋なことしないよ〜、末永くお幸せに!」
「いや、だから違うんだってば!」
『これより、綱引きを始めます!』
放送部のアナウンスが、私の否定の言葉を打ち消すように響いた。なんというタイミング。
「よーし、がんばろー!」
「……うん、そうだね」
もう私は疲れたよ……。
どうやら斉吉さんは恋愛が絡むとハイになるらしい。新しい一面を知ってしまったな。
ハイテンションの斉吉さんと共に競技説明を聞きながら、私はぽつりと呟いた。
「そもそも、私が恋なんて……するはずないのに」

午前の競技が終わり、弁当休憩に入った。
斉吉さんと昼休憩を取っていると、案の定というか何と言うか、乾先輩がやって来た。
「凛君、ちょっと頼みが」
「嫌です」
「まだ何も言ってないのに!」
嫌な予感がするので。
殊勝な態度を見せつつ、そう言い出した乾先輩の頼みをピシャリと断る。
「あのぉ……空道ちゃんの先輩?ですか?」
好奇心に満ちた目でそう言ったのは斉吉さん。頼むからあの噂の話はするなよ。
「おう、乾文也、高三だ。よろしく。君は……凛君の友達、かな?」
「はい!斉吉日鞠です。こちらこそよろしくお願いします〜」
イケメンと美少女って絵になるなあ。眩しい。これが少女漫画なら、ここから恋が始まるんだろうか。
しかしながら、乾先輩はそのしつこ……ごほん、粘り強さを存分に発揮し、断られたのにも構わずなおも言い募る。
「なー頼むよ凛君、そんなに面倒なことじゃないからさぁ」
私のところに持ってくる時点で面倒事では?と思ったがそれは飲み込んだ。代わりにため息。
「はぁ……とりあえず、話は聞きますよ。何ですか?」
ぱああっと乾先輩の表情が明るくなる。眩しいな。
「ありがとう凛君!実は、午後の部活動対抗リレーなんだが」
これは嫌な予感が当たるな。まさか、
「私に出場してほしい……なんて言いませんよね?」
「すまん。出てほしい」
決まりが悪そうな顔で、しかし乾先輩ははっきりとそう言った。
「……なんっで当日の、こんな直前に言うんです!?」
「悪いとは思ってる!すまん!だがうちは文化部だしそんなにガチじゃない、走ってくれたらそれでいい!頼む!」
それはそれでどうなんだ……。
「空道ちゃんも走るの?私も出るんだよぉ。一緒にがんばろうねっ」
いやまだ決まっては……まあ、いいか。
走るだけ。そう、走るだけだ。何のことはない。
「……分かりました。あまり期待はしないでくださいよ」

『これより、体育祭を再開します。午後の部のスタートを飾るのは、部活動対抗リレー。運動部の選手の皆さんは集まってください』
アナウンスに促され、ちらほらと移動し始めている。
「やっぱり陸上部が勝つのかな」
誰に言うともなく呟くと、隣の斉吉さんが反応した。
「サッカー部も速そうだよねぇ。でも、毎年一位を取ってるのは野球部らしいよぉ」
「へぇ……言われてみれば、足速そうだもんね」
よく学校周辺を走り込んでいるし、体力はかなりあるだろうな。
『それでは皆さん位置について。よーい、ドン!』
放送部の掛け声とピストルの音、そして観客の歓声が少し遅れて響く。
まずは陸上部がトップに躍り出る。それを優勝候補の野球部、そしてサッカー部が追いかける。バレー部は少しスタートが遅れ最後尾になるも、目の前を行くバスケ部をとらえて離さない。さすが普段からスポーツに取り組む運動部、全員足が速く多少の優劣はあれど全部活動が一つの団子のようになって運動場を駆け抜ける。
『さすが陸上部、一位です!第二走者にバトンが渡ります、渡りました!』
ワッ、と歓声が上がる。続いてサッカー部、野球部がバトンをつなぐ。
「野球部、三位かぁ……が、がんばれぇっ」
斉吉さんが声を張り上げ、野球部を応援する。
「野球部に知り合いでもいるの?」
「うん、幼馴染が入ってるの。一年生なんだけどね、足が速いから代表に選ばれてて……あ、ほら、今バトン渡された子!」
うちの高校の野球部は大所帯。その中で選ばれたとなると、彼は相当足が速いのだろう。
「がんばれぇっ、あ、抜ける、いけるよっ」
真面目そうな顔立ちの野球部の男子生徒が、目の前を走るサッカー部員をとらえた。ぐん、とスピードが上がり、みるみる距離が縮まる。並ぶ。……抜いた!
「やったぁ!がんばれぇっ、かずま!」
どうやら幼馴染はかずまという名らしい。サッカー部を抜いた勢いのまま、陸上部に迫る。陸上部のほうもそれに気付き、少しの焦りが見えた。
並びかける。陸上部がリード。距離を詰める。並ぶ。陸上部のリード。今度は野球部。なかなか振り払えない。走る。走る。走る。
ゴールテープは目の前だ。どちらが勝ってもおかしくない。せめぎ合いが続く。
ラストスパートだ。二人のストライドが大きくなる。
走る。走る。走る。
ゴールテープを、切った!
『ゴール!優勝は……陸上部ー!』
「あー!」
「惜しかったね……」
残念ながら斉吉さんの幼馴染は僅かな差で二位に収まった。しかし一年生であることを考えれば、十分な好成績と言えるだろう。
他の運動部も次々とゴールし、続いて文化部の部活動対抗リレーとなった。……とうとう出番が来てしまった。
「空道ちゃん、お互いがんばろうね!」
やる気に満ちた斉吉さんを前に、何も言えなくなる。私は曖昧に頷いた。
「凛くーん!」
乾先輩が小走りでこちらにやって来る。すでに息が切れているが、大丈夫なのか?
「はぁ、ふぅ……凛君は第二走者を頼むよ。だからあっちの列だ」
「……へ?第二走者?……アンカーじゃないですか!」
当日に知らされた一年生に任せるポジションじゃない!
「すまん!俺がやる訳にもいかなくてな」
「……そうですか」
何かそういうルールでもあるのだろう、私は諦めて第二走者の列に並ぶ。斉吉さんは第一走者なのでここで別れた。
『部活動対抗リレー、次は文化部です!第一走者の皆さんは、位置についてください』
放送部のアナウンスで、出場する選手が一列に並ぶ。改めて見ると多い。もしかしなくても、文化部が多すぎるせいで帰宅部禁止なのでは?
『それでは、位置について!よーい……』
乾先輩と斉吉さんは隣だ。同時に構えるのが見える。
『ドン!』
パンッという音と共に、文化部が一斉にスタートを切る。一位は吹奏楽部、次が合唱部。音楽系の部活は走り込みや筋トレをしていると聞くし、その成果だろう。
さて、文芸部、乾先輩は何位なのか。
上位から、吹奏楽部、合唱部、演劇部、放送部、新聞部、書道部………………文芸部。
なんと、ぶっちぎりの最下位である。
「いや嘘でしょ!?」
普通顔がいいやつは足も速いんじゃないのか!?
乾先輩は確かに一生懸命足を動かし腕を振って走っている。しかし、遅い。とにかく遅い。腕の勢いと足の動き、進む速さがかみ合っていない。何ということだ。
他の部員は次々とバトンを渡していく。トップをいく吹奏楽部のアンカーが初めのコーナーに差し掛かった頃、ようやく乾先輩はバトンをつないだ。
「……っ、はぁ、はぁ、ほ、ほんとに、すまん……っ、頼むぞ、凛君!」
受け取ったバトンが熱い。
乾先輩が真剣に、懸命に走ったのは明らかだった。
「……期待はしないでくださいよ!」
バトンを握りしめ、腕を力強く振る。ストライドは大きく、足は付け根から動かす。
とにかく走る。一つ前をいくパソコン部の背中が迫る。前傾姿勢は崩さない。走る。走る。走る。
――抜いた!
気は抜かない。次はいくつかの部が団子になっている。そのままの勢いでその集団に突っ込み、一人ひとり確実に抜く。
写真部、美術部、英会話部。
次々と抜いていく。今、何位なんだ?分からない。いや、それを気にするほどの余裕もないか。考えるな。走れ。とにかく走れ。
走れ、走れ、走れ!
今目の前にいるのは何部だ?知らん。とにかく抜かないと。すでに最後のコーナーに差し掛かっている。はやく、
はやく、追いつけ!
目の前の背中に、もう少しで手が届く――
白いテープが切られた。……私じゃ、ない。
『放送部、四位でゴール!続いて文芸部、大逆転ですねぇ!』
五位。
最下位スタートだったことを考えれば、いい結果だろう。
「はぁ、はぁ、……はぁ、もう、無理……」
体力を使い果たしてしまった。もう走れる気がしない。
「凛くーん!!」
大声で私の名前を呼びながら、子犬のごとく駆けてきた乾先輩。息も絶え絶えの状態からは回復しているが、興奮しているのか少し息が荒い。
「すごい、すごいぞ凛君!よくやった!」
「……どうも……というか、先輩……走るの、苦手、なんですか……」
私はまだ酸素が足りない。息も切れ切れ、言葉も途切れ途切れだ。
「実はちょっと、……いや、だいぶ苦手でな……毎年俺のせいで最下位だったくらいには……」
それは……相当ですね。
もしかして「アンカーをやる訳にはいかない」って、走るのが苦手だからって意味だったのか?
「何にせよすごいぞ凛君、最下位から五位に浮上するなんて思ってもみなかった!放送部も『ごぼう抜きだー!』って叫んでたし、話題性もバッチリだ!」
「話題性って、必要なんですか……?」
そしてアナウンスでも取り上げられていたのか、私……全然気が付かなかった。走っている間は必死で、自分の呼吸の音と砂を蹴る音が全てだったから。
先ほどから「すごい」を連発している乾先輩は無邪気な顔つきで、少年のようにはしゃいでいた。
まあ乾先輩が楽しそうで良かったかな、なんて思ったあとで、急に暑さを感じた。
そして体育祭は、無事に幕を閉じたのだった。

体育祭が終われば、次に私たちを待っているのは中間考査、つまりは定期テストである。
高校生になれば、中学生の頃とは比べ物にならないほど科目数が増える。全十一科目。絶望的な数字を突きつけられ、私はやる気を失っていた。
「よーう凛君!お、勉強か?感心、感心」
この地獄のような科目数に動じることなくケロッとしている辺り、さすが三年生である。慣れって恐ろしい。
「先輩……テスト勉強って、何をすればいいんですか」
藁にもすがりたい、まさにそんな気持ちで乾先輩に問う。しかしながら私の予想に反し、乾先輩は真面目な回答をよこした。
「んー、そうだなぁ……やっぱり問題集じゃないか?時々だが、全く同じ問題が出ることもあるし、何より実戦練習できてるのは強いぞ」
「……」
私は思わず乾先輩を凝視した。
「なんだよその目は」
「いや……意外とまともな回答だったので……」
「失敬な。言っておくが、俺は結構成績優秀なんだからな?」
本当か?
「あ、今疑ったろ?……よし、聞いて驚くなよ!俺は校内一位を取ったことがある!あと大抵の科目は十位以内に入ってる!」
疑わしいが、ここまで必死に言っているのだから信じてもいいだろう。半分くらい。
「はあ……じゃあこの問題解けます?」
乾先輩に突きつけたのは数学。私が苦手な範囲の問題だ。
「どれどれ。ああ、絶対値な。この答えは『2π-5』、だな」
「……正解です」
あっさり正解しやがった。流れるように正解にたどり着きやがった。校内一位やら十位以内やらその辺は疑わしいが、勉強ができるというのは嘘ではなさそうだ。
「おいおい、そんな苦虫を噛みつぶしたような顔するなよ……」
そんなに意外かー?とぼやく乾先輩。私からすれば、意外も意外、ってな感じなんですが。
対する私は、あまり勉強が得意ではない。この高校も面接で受かったようなものである。
……何だろう。負けた気がする。
謎の敗北感に打ちひしがれていると、部室の戸がガラゴロと音を立てた。
「文也ぁ、おるー?」
ひょこっと顔を覗かせたのは、どことなく優しそうな男子生徒。乾先輩の友達だろうか。
「升!また分からない問題、聞きに来たのか?今度は何の科目だ?」
「生物なんやけど、計算問題がえらい難しくて」
のぼる、と呼ばれた彼は、生物の教科書や問題集を乾先輩に示す。確かに難しそうな内容だ。
「どれだ、これ?これか。……ああ、これはほら、公式を使うやつで……」
乾先輩は教科書をパラパラとめくってその公式を見つけ出し、そのページを示しながら解説を始める。
……うーん、どうやら本当の本当に成績優秀らしいな。
「ああ、なるほどぉ。ありがとー、文也」
疑問点が解消されたらしい男子生徒が笑顔でお礼を言う。乾先輩は左手を軽く振って、
「これくらい大したことないって。また分かんなくなったら来いよ」
「助かるわぁ、ありがとぉ。……ところで、その子がこの前の逆転ランナー?」
逆転ランナー。
先日の体育祭の部活動対抗リレーにおいて最下位から中間層まで順位を上げた私は注目を集めてしまい、『逆転ランナー』などという二つ名をおしいただいたのだった。
「ああ、空道凛君。文芸部の期待の新人だよ。凛君、こいつは奥村升(おくむら のぼる)。俺の同級生だ」
「……はじめまして」
「はじめまして、よろしくなぁ」
柔らかい物腰で話す奥村先輩の丸メガネが光を反射し、私を映し込む。本当に穏やかそうな人だ。
「ああ、そうや。文也、折口先生が探してたで」
奥村先輩は何でもないことのように、乾先輩にそう告げた。
「え、何でだ?」
一方、キョトンとする乾先輩。心当たりはないようだ。
「国語の提出物でも出してないんとちゃうん?」
「出したと思うんだけど……まあ、一旦行ってくる」
頭をガシガシ掻きながら、乾先輩は折口先生を探しに行ってしまった。部室には、私と奥村先輩だけが残される。……とてつもなく気まずい。
「……えーっとぉ、空道さん」
「…………何ですか……?」
沈黙を破る控えめな声に、思わず控えめな声で返してしまった。内緒話でもするかのような声のトーンである。
「空道さんは、部活、どれくらいの頻度で来るん?」
「えっと、ほぼ毎日、です」
来ないと乾先輩がうるさいので。まあ居心地も悪くはないし。不本意ですけど。
「そうかぁ、そうなんや。良かった、ありがとうなぁ」
奥村先輩はホッとした表情でそう言った。
ほぼ毎日、という回答の何がそんなに良かったのか分からず、「……どういう意味ですか?」と聞き返した。
「文也、あれで寂しがりやから……誰かが部室にいてくれたら、喜ぶと思うんよ」
「寂しがり……?乾先輩が、ですか?」
『寂しがり』。
まだ出会ってから一ヶ月と少ししか経っていない。が、乾先輩の騒がしさを毎日のように実感している私にとって、それは違和感がある言葉だった。
「んー、やっぱり、そんなイメージない?そのうち分かるかも知れんけど、文也は……何て言えばええんやろ、なんかな、迷いがあるみたいなんよね。一人きりになると出てくる、恐怖、みたいな?」
「……はあ」
乾先輩は、何かに悩んでいるのだろうか。……いや、それを知ったところで、私にはどうにもできないのだが。
「あんまり実感はないかも知れんけど、これからも部活に顔出してやってなぁ。文也のことやから、部活に来て、ここにおってくれるだけで十分やろうし」
それは、そうかも。
私が執筆していなくても、乾先輩は何も言わない。そのくせ部室には来いと言うから、変な人だとは思っていた。奥村先輩の話を総合すると、一人きりは嫌だから私に部活へ来るよう言っている、ということになる。……そういうことなのか?
「別に部活に出るのはいいんですけど……奥村先輩が一緒にいるほうがいいんじゃないですか?最近会ったばかりの後輩なんかじゃなく、友達のほうが……」
私を当てにするのは間違っている。立場的にも、能力的にも。
暗にそう言ったつもりだったが、奥村先輩は困り笑いを浮かべた。
「そこなんよ、文也の難しいところは。仲良え人にこそ頼れん、というか。相談やって冗談交じりで、いつでも引ける状態でしかしてくれんし」
「……そう言うわりには、分かっていそうですけど」
仲が良いからこそ頼れない、なんて本人から聞かない限り憶測でしかない。しかし奥村先輩は、かなりの確信を持ってそう表現しているように見えた。
「僕の場合は、文也がポロッと零したのを聞いたから、知っとるんよ。でも、あの一回以降は……上手く隠しとるんかな、分かるようで分からん。悩み続けとることだけはぼんやり分かってるから、もどかしくて。せめて誰か一人、文也が本音で話せる人がおったらなぁ、って思うんよ」
「……」
乾先輩と奥村先輩は本当に仲が良いんだな。
二人の、近いようで遠く、でもやっぱり近い、そんな関係が、少し、羨ましかった。
「……っと、そろそろ文也も戻って来るやろうし、僕はこの辺で。部活部活」
唱えるように呟いて、奥村先輩は立ち上がる。何部なんだろう、とは思ったがそこまで知りたい訳でもなく、「……がんばってください」とだけ言っておいた。
「ありがとなぁ。ああ、空道さんも、あんまり気負いすぎんでええけんね。部活、というか、執筆?がんばってなぁ。応援しとるよ」
「……ありがとうございます」
部室の扉の横で軽く礼をしたら、奥村先輩は軽く手を振って答えてくれた。

奥村先輩の言葉通り、乾先輩は五分とかからず戻ってきた。
「いやぁ参った!見てくれよ凛君、升……って、ありゃ?升は?」
「奥村先輩なら、部活があるからと帰られましたが」
私は因数分解を睨みつけながらそう告げた。
「ああ、あいつも部活が忙しいって言ってたな。新入部員が入って色々教えないといけないからって」
嬉しい悲鳴、ってやつかな。
「それより見てくれよ凛君!」
言うが早いか、乾先輩は手にしているルーズリーフを突きつけてくる。えっと、なになに?
「『あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む』……和歌ですか?意味のところ、真っ赤ですけど」
シャーペンで書かれた現代訳に赤字で訂正が入っている。
「そうなんだよ、さすがにヘコむわ……」
机に突っ伏してみせる辺り、楽しそうではある。
「これ、宿題か何かですか?」
「いーや?」
私が問えばあっさりと顔を上げ、乾先輩は語り出す。
「ちょっと和歌に興味があってさ。だから古文の先生に添削を頼んだんだが、まぁ、毎回こんな感じだ」
手厳しいよなー、と苦く笑う。興味があることにすぐ入っていけるその積極性はすごいと思う。絶対言わないけど。
「和歌……小説にでも使うんですか」
「ゆくゆくは、な。これが案外難しいんだよ」
「へぇ……」
相槌を打ちつつ、和歌に目を通す。全部で六首。
どれもこれもどこか寂しさのある和歌だったが、その寂しさが美しいと思った。
「失礼しました」
カララ、と軽い音を立て、職員室の戸が閉まる。やっぱり職員室の扉は建て付けがいいな。
国語科の折口先生に頼んでいた和歌の添削の、真っ赤な答案を受け取った俺は、職員室を後にした。
俺が和歌に興味を持ったのはごくごく最近のことだ。とある詩文&短歌オタク(なお推しが大好きすぎる模様)に影響され、ひとまず百人一首から勉強している。あいつは和歌というよりは短歌のほうが好きそうだがな。
俺はそれなりに勉強が得意だが、和歌は掛詞やら枕詞やら序詞やら縁語やら、とにかく技法が多くてかなり苦戦している。これに本歌取りや歌枕といった、さらに追加される予備知識を考えると気が遠くなる。短歌革新運動が起こる前までの歌人たちはこれを全て覚えた上で短歌を詠んでいたと言うが、さすがに誇張が混じっているのではないかと思う。そんなの人間ができることじゃないだろう。
まぁ、分からないものは仕方がない。これから少しずつ理解していけば何とかなる。
それより、今は小説のほうをどうにかしないとな。部室に戻ったら一旦完成させてー、明日からはその直しでー、と軽く予定を立てる。小説が仕上がり次第、顧問に持っていくつもりだ。
部室への道すがら、そんなことをつらつらと考えていた俺は相当周りが見えていなかった。
「わ」
「うわっ」
二つの小さな悲鳴が上がる。曲がり角で女子生徒とぶつかり、女子生徒が運んでいたらしい書類が廊下にバサッと落ちた。
「あ、すまん、ちょっと考え事してて」
とっさに謝り、書類を拾う。茶席のご案内、と書かれた紙をちらりと盗み見る。どうやらこの女子生徒は茶華道部らしい。確かに、うちの高校の茶道部の雰囲気そのものといった生徒だ。
どこかふわふわしていて、穏やかで、のんびり構えているところとか、って、ん?
この子、どこかで見たことあるぞ?
「こちらこそすみません〜、って、あ!」
向こうも俺に気付き、二人同時に叫ぶ。
「空道ちゃんの彼氏さん!」
「凛君の友達の!……ん?」
なんか今、とんでもない言葉が聞こえた気がする。
なんだって?俺が、凛君の彼氏?
「いや待て、俺は凛君の彼氏ではないぞ?部活の先輩って立ち位置のはずなんだが」
凛君はこの子、斉吉日鞠君にどんな説明をしているんだ?凛君の性格を考えれば、自分から「彼氏」なんて言わなさそうだが。
「空道ちゃんもそう言って誤魔化してたけど、私は分かります!乾先輩と空道ちゃんは相思相愛なんですよね!?」
先ほどまでの穏やかさはどこへやら。やや興奮気味にまくし立てる斉吉君はいきいきとしている。楽しそうだな、おい。
「いや、全然そんなことは……」
否定しようとした俺は、ふと口をつぐむ。
凛君の友達。凛君のクラスメイト。
俺に対してはちょっと、いやかなり冷たい態度の凛君は、斉吉君に対してはどんな面を見せているのだろう。
「……凛君は、教室ではどんな感じなんだ?」
マイペースに高校生活を謳歌していそうだと思いつつ、斉吉君に問いかける。
斉吉君はそれをどう受け取ったのか、「うんうん、彼女の普段の様子は気になりますよねぇ」と訳知り顔で頷いている。別にそういうつもりは、とは思うものの、ここで遮っての訂正はしなかった。凛君の俺に見せない面が気になったからだ。決して、彼氏と言われて満更でもなかったからではない。
とは言え、それでも別にいいだろ、ちょっとくらい夢を見させてくれ、とも思う。こちとら恋人いない歴イコール年齢なんだからな。
心の中で言い繕う俺に構うことなく、斉吉君は上機嫌で語り出した。
「空道ちゃんは物静かであまりしゃべらないんです!でもそれがミステリアスでかっこいいというか、休み時間はずっと本を読んでて、その姿もかっこいいんですよ!話しかけたら迷惑がられるかな〜って思ったけど、実際に話しかけたら全然そんなことなくて!」
だいぶ興奮気味に語る斉吉くんを見るに、ずっと誰かに語りたくて仕方がなかったんだろう。凛君のほうは、こんなふうに語られているとは夢にも思っていないだろうがな。
それにしても、静かに過ごしているのは予想がついていたが、読書をしているってのは意外だな。読書好きらしいことは、今まで一度も言わなかったのに。
うーむ。やっぱり、人ってのは難しいな。
「空道ちゃんが本を読む姿を見るのも、私、結構好きなんです。でもやっぱり、空道ちゃんとたくさんお話したくて。だから私、放課後に話しかけるチャレンジしてるんです!」
「ああ、なるほど。休み時間は話しかけずに読書してもらう、そんでもって放課後は話しかける、と」
なかなかに想われてるなぁ、うちの部員。ほっこりすると同時に、疑問が浮かび上がる。
「なんでそこまでするんだ?凛君に何か恩でもあるのか?」
「よくぞ聞いてくれました!」
斉吉君の瞳がきらりと輝いた。どうやら俺は、斉吉君の誘導にまんまと引っかかったらしい。俺は小さく苦笑し、次の言葉を待つ。
「私、昔からのんびり屋で、どんくさくて、周りに迷惑かけてばかりだったんです……あと、思い込みが激しいらしくて」
思い込みが激しい、それはそうだろうな。本人には悪いけど。
「そのせいで、周りの子を怒らせちゃったり、嫌な気分にさせちゃうことが多くて。入学初日も、その……言われちゃって」
グズ、のろま、どんくさい。
あんた見てると、イライラする。
「同じ中学校出身の子だったんですけど、いろいろ、嫌な思いをさせちゃってた子で……私、どうすればいいか分からなくて、私が悪いって思ったんですけど、なんか、言葉が出てこなくて」
ちょっと泣きそうで、と小さな小さな声でそう言った斉吉君の目は、少し潤んでいた。
あ、何か。何か、言わないと。
俺は口を開きかけた。しかし、それは「でも!」という明るい声に遮られる。
「でも、空道ちゃんが助けてくれたんです!」
「……凛君が?」
『確かにあなたは、彼女のことでイライラしたかもしれない。それは私に関係ないことだし、私はあなたの気持ちを否定するつもりもない。でも、だからってそんな言い方しなくていいんじゃない?だって、』
彼女は自分なりに、一生懸命やってるから。
「出会ってたった一日なんですよ?もっと言えば、数時間前に初めて会った、ただのクラスメイトなんですよ?なのに、空道ちゃんは私を見て『自分なりにやっている』って、そう言ってくれたんです。今まで、どれだけ一生懸命やっても『ちゃんとしなさい』って言われたのに」
それが嬉しかった。空道ちゃんに助けてもらったから、私は空道ちゃんのためにがんばる。
そう話す斉吉君は、心から救われた人の顔をしていた。
いいなぁ。凛君、俺に対しては冷たい態度しかとらないぞ。
一種の羨ましさから出るため息をつきながら、人質のように持っていた茶華道部のプリントを斉吉君に渡した。もはやプリントそっちのけで語っていたが……そこまでの思いがあったら、まぁそうなるか。
「あ、ありがとうございます〜!じゃあ私、これを提出しないといけないので」
「おう、部活がんばれよ。あと、升によろしく」
たぶんあいつ、俺がこうしている間に茶華道部の部室に戻っているだろうしな。
そう、俺の同級生である奥村升は茶華道部の部長を務めている。のんびりまったりした升の気性は、茶華道部の雰囲気そのものなのだ。そしてそれは、斉吉君にもしっかりと受け継がれていると見た。というか、似た人間が集まってるのかもな。
「分かりましたぁ!乾先輩も、部活頑張ってください!」
「おーう」
てててっ、と駆けていく斉吉君の足取りは軽い。
おい、廊下は走るなよ。
「……空道凛、か」
斉吉君の後ろ姿を見送り、その名をつぶやく。
空道凛。空の道。
青い空に架かる虹を想起させる名前。
彼女の名前でふと思い出したのは、アメリカの詩人の言葉だった。
『Try to be a rainbow in someone else’s cloud.』
――誰かの曇った心にさす虹になりなさい。
まさに凛君は、斉吉君の心にさす虹になったんだろう。斉吉君の心を救ってみせたんだろう。
「……いいなぁ」
廊下にぽつりと落ちた独り言。これを聞く者は、誰もいなかった。
「凛君、俺も……どうか、俺を、」
見つけてくれ。救ってくれよ。
祈りの言葉は、誰にも届かない。
俺の本音は、誰にも、届かない。
一週間、正確には五日間。
長い長い考査が明けて、私は久しぶりに部室に顔を出した。考査期間は部活動禁止だったので、実に一週間ぶり。考査二週間前からはずっと勉強会みたいなものだったけど。
「失礼します」
ガラゴロと部室の扉を開けると、机の上に紙が散乱している光景が目に飛び込んできた。
「ああ凛君、久しぶり。と言っても一週間くらいか?」
そしてその中心にいる乾先輩。……おいおいおいおい。
「うわ、また散らかして……先輩は部室を散らかさないと死ぬんですか?」
「し、辛辣っ!」
乾先輩が大げさにのけぞったせいでまた紙が床に散る。あーあー、もう動かないでください。
私はいつからこの人の世話係になったんだ、と思いつつ紙を拾い上げる。原稿用紙でも、メモ用紙でもない。きちんと印刷された紙には『文芸部文学研修』と書かれていた。
「文芸部文学研修……って、これ、」
まさか私も行くのだろうか。疑問の目を乾先輩に向けると、本人はキョトンとしていた。
「……あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてませんけど!?」
またか。またなのか。いい加減しっかりして頂きたい。
「え、すまん、言ったつもりでいた」
「はぁ……まあいいです。で、これはいつなんですか?」
「六月十三日」
「え」
「だから今週の土曜日だな」
は、はやく言えぇ!
今日は木曜日だから……あと二日?いや今日を入れなければあと一日じゃないか!
じとりと睨むと、乾先輩も直前すぎたと思ったのか、言いつくろい始めた。
「いや、大丈夫だ、ほとんどの費用は部費から出るし持ち物だって特別な物はないし、一応スマホとお金があれば十分なくらい!あ、ちなみに俺のときは前日に言われた!」
「うわぁ……歴史は繰り返す……」
「いやマシにはなってるから!一応!」
一日が一日と半日に延びただけですけど。
乾先輩は私の抗議の目線を遮るように、「えー……ごほんごほ、んっ、んんんんっん」と妙な咳払いをした。たぶん後半はむせてた。
「えー、この文学研修はこの時期の恒例行事で、香川の文学を知ることが目的だ。毎年、菊池寛記念館に行ってるな。顧問の柳川先生は予定が合えば来るけど、たいてい何かしらと予定が被るから生徒だけで行かされるのがお決まりだ。移動費、昼食代は部費から出る。一年目はレポート……感想文みたいなものを書かされるが、まぁ二年目以降はないから安心しろ。あ、詳細はその紙の通りだ。それは持って帰ってくれ」
「はあ……」
とりあえず概要は分かった。分かった、が……。
「……で、どうしてここまで部室が散らかっているんですか?」
今の私にとっては、こちらのほうが重要だ。なぜ乾先輩は部室を荒らさずにいられないんだ。
「あー、いやぁ……せっかく記念館行くんだし、菊池寛についての復習でもしておこうと思って。昔調べたときの資料を探してたら、いつの間にか?」
「……散らかさずに探せなかったんですか?」
ちゃんと調べてるのはすごいんですけどね。部室荒らしの犯人は「俺の知らないうちに紙が自由気ままに遊んでるんだよ……」などと供述しており。……不思議なこともあったもんですね?
「えーと……以後気をつけます……」
しおらしい態度で謝罪するものだから、思わず「……はあ」と言ってしまう。強く言えない……。
その返答で、もう怒られないと勘付いたのか、乾先輩はパッといつもの調子に戻る。
「ところで凛君、小説は進んでるか?」
「いえ……難航してますね」
内容すら未定のままだ。海について調べまくったために、海の知識だけは満たされている。
「まぁ難しいよなぁ。……まずはモチーフを決めて次に構成、その次が書き起こし、最後が見直し。俺はだいたいこの手順で書いてるな、参考までに。……あ、あと部室の棚にある小説、そうそこの紙の束、それは自由に読んで良いからな。俺が書き散らしたせいで順番はぐちゃぐちゃだろうけどな!」
あはははっと快活に笑う乾先輩。本当に小説が好きで、書いて書いて書きまくってきたのだろう。棚に押し込まれた紙の束はとんでもない分厚さになっている。
「あ、そういえば……先輩、海の小説って締め切りはいつなんですか」
聞いていなかったな、と思い尋ねる。
「あ、それも言ってなかったか?八月いっぱいが締め切りだから、それまでに原稿を上げてくれ」
「分かりました」
それならまだ時間はあるか。
「……乾先輩なら、海の小説、何を書きますか」
この人に意見を乞うのは負けた気がするから嫌だったが、モチーフすら決まらない今の状況で意地を張っていたって始まらない。私は素直に聞くことにした。
「そうだなぁ……夏の海とか、貝殻とか……あ、妖怪っていう手もあるな!」
「海の妖怪……?海坊主とかですか?」
どんな小説になるんだそれ。
「おっ、それも面白そうだなぁ!有名どころで言うなら人魚とか?ああそうそう、海にも火の玉が出るんだが、それが妖怪なんだってさ。くらげ火、とか言ったか」
人魚か……まだ書きやすいかも。それにしても、なんでこの人は妖怪に詳しいのか……そういう系が好きなのか?
「ま、困ったらいつでも相談に乗るぞ」
「……はい」
相談する前はあまり乗り気ではなかったが、話してみるものだな。少し書けそうな気がしてきた。
もう少し、自分で考えてみるか。

六月十三日。
私は今、菊池寛記念館の前にいる。
「……遅いなあ……」
入部した日に招待された文芸部の連絡用チャットにて『現地集合』と知らされた私は、記念館のある建物の三階、廊下の展示物を眺めて乾先輩と柳川先生を待っていた。集合時間は九時半だったはずだが、すでに二十分ほど遅れている。電車が遅延でもしたのだろうか。
「……へぇ、色々イベントがあるんだ」
朗読会、映画鑑賞会、講習会など。一年を通して様々な催しがあるらしい。映画鑑賞会なんて、面白そうだ。
年間スケジュールや広告を眺める私の耳に、階段を駆け上がる足音と、荒い息遣いが聞こえてくる。もしやと思って振り向くと、そこには肩で息をする乾先輩が立っていた。
「すまない凛君、券売機が壊れていて……無人駅だったから、一駅分走って、一本遅い電車に乗ってきた……」
一駅分。よく走ったな。
「お疲れ様です……それで、柳川先生は?」
全く姿を見せないということは、そういうことかな。
「あー……柳川先生は出張だとさ」
やっぱりか。
「土曜日なのに?」
「土曜日なのに」
先生も大変だな。
「まぁ柳川先生は普段から忙しいしな……滅多に部活にも来ないし」
道理で、まだ見たことないなと思ったら。
部活の顧問なのだから会うことには会うだろうが、果たしていつになるのやら。
「よーし、早速入るぞ!学生証は持ってきたか?」
「はい、一応」
資料に必須って書かれていたし。
「ナイスだ凛君。菊池寛記念館は高校生以下なら無料で入館できるからな」
「無料」
「ありがたいよなー。もし俺がこの近くに住んでたら毎日でも来るぞ」
それはそれでどうなんだ。
サクサク進む乾先輩について行き、私は菊池寛記念館に足を踏み入れた。
落ち着いた雰囲気の館内、あたたかな照明。
目の前には菊池寛の銅像。あ、写真もある。
私が周囲を見渡している間に受付を済ませた乾先輩が、「凛君、学生証」と声をかけてくる。学生証を鞄から取り出し受付の人に見せると、無言で頷かれた。
「よし、行くぞ凛君」
乾先輩は迷いなく進む。
「あ、これは菊池寛の写真と像。中央公園にも菊池寛の銅像があったはずだ。右のは『父帰る』の群像。確か瓦町の菊池寛通りにも『父帰る』の一場面を切り取った像があったな」
「……『父帰る』?」
聞いたことはある気がするが、読んだことはない。菊池寛の作品、なのだろうか。
「『父帰る』は菊池寛の戯曲だ。何度か映画化、舞台化されている菊池寛の代表作の一つだな」
「へぇ……」
映画化されているなら、それを見るのもいいな。
そう思いつつ左を見た私の目に、次の展示物が映った。
「何ですかあの麻雀碑。菊池寛は麻雀が好きだったんですか?」
左の壁に沿うようにして置かれたガラスケースの中には、何かの優勝カップと色褪せた麻雀牌、将棋駒が並んでいた。
「ああ。そこのパネルにもある通り、菊池寛は当時あまり知られていなかった麻雀を広めようとしたんだ。日本麻雀連盟、日本一の歴史を持つアマチュアの競技麻雀団体の初代総裁を務めてたくらいだからな。ギャンブルの側面で言えば、菊池寛ほど有名な文豪もいないだろうなぁ。勝負事で負けると口を利かなくなるから、仲間内では『クチキカン』なんて呼ばれてたらしいぞ」
「『クチキカン』……ああ、並び替えたら『キクチカン』になるから、ですか」
「おっ、『カン』がいいな!」
「……ツッコみませんよ」
楽しそうにからかってくる乾先輩は一旦無視して、先へ進む。
「えっと、次は……書斎の再現?」
丸い傘のような電灯にあたたかく照らされている、再現された菊池寛の書斎。机の上に積み上がった本や原稿用紙、黒電話。横の小さな机には時計や馬の置物、奥には分厚い本が収められた本棚。まさに文士の部屋、といったものだった。
「いい雰囲気の書斎だよなぁ。俺もこういう場所で執筆してみたいよ」
書斎の再現を見ていると、乾先輩がしみじみとそう言った。形から入る、という意味ではいいと思いますけど。
「お、見ろ凛君、座談会のパネル!」
「ざだんかい……?」
「座談会、ある程度の人数が集まって話し合うというか、気楽にしゃべるような感じかな。これは菊池寛の娘さんや息子さん、お孫さんが参加した座談会ってことらしいな」
「つまり、父や祖父としての菊池寛、ってことですか」
再現された書斎の前に立てかけられたパネルに目を通す。
「……こうしてみると、香川の文豪って言われている菊池寛も、普通の父親であり、祖父だったんだって感じがしますね」
文字として、情報として知っていた「菊池寛」ではなく、一人の人間としての「菊池寛」を見ているような気分だった。
「そうだなぁ……きっと、誰よりも人間らしい人だったんじゃないかって、俺は思ってるよ。ちなみに俺個人としては、この『朝六時くらいから茶の間にいて、お茶碗を箸で叩いていた』っていうエピソードが好きだな。なんかあったよな、ご飯を催促する犬猫の動画」
「香川の文豪に向かって失礼な……」
でもちょっと分かる。
「冗談じょーだん!さ、次行くぞ!」
乾先輩は、向かって左にある部屋に入る。私もそれにならった。
「……わ」
パッと目に飛び込んできたのは、名前が書かれた壁一面のパネル。
「これは芥川龍之介賞や直木三十五賞、菊池寛賞の受賞者のパネルだ。芥川賞と直木賞は、菊池寛が設立した賞だからな。……すごいよなぁ、香川の文豪が日本で一番有名な文学賞を設立したんだから」
「へぇ……」
そうだったんだ。
文学賞にはあまり詳しくない私でさえ、芥川賞と直木賞の名前は知っている。定期的にニュースで取り上げられているから。
私にはあまり関係のない話だと思ってスルーしていたけど……そうだったんだ、菊池寛が。
まさに、香川の誇りだな。
「いいよなぁ、俺も文豪の名を冠した文学賞を受賞したいよ」
「……芥川賞と直木賞以外にもあるんですか」
菊池寛賞は、正直なところ今回初めて知った。他の『文豪』と呼ばれる人たちにも、それぞれその名を背負う文学賞があるのか。
「ああ、有名な文豪はたいてい賞の名前になっているな。小説はもちろん、短歌や俳句の詩文、童話にも文学賞があるぞ」
「……へぇ」
「凛君はあんまり興味なさそうだな……」
私は文豪とかはよく分からないから、この反応は仕方ない。芥川龍之介とか太宰治とか、夏目漱石レベルじゃないと分かりません。
「ところで、この後ってどうするんですか」
なんかまっすぐ帰りそうにないな、と最近よく当たる私の勘がささやいているんですが。
「うーん……二択、だな」
乾先輩は顎に手を当てたかと思うと、その手で二を示す。……つまり未定だと。果たしてその二つの中に帰宅の文字はあるのかどうか。
「二択、というと?」
「中央公園と菊池寛通りに向かうか、海に行くかの二択だ」
「……ずいぶん毛色の違う二択ですね」
そして案の定、まっすぐ帰宅は頭にないらしいし。
「だって、せっかく記念館に来たんだから菊池寛関連の場所も行きたくなるだろ?ちょっと歩くけど」
ああ、そういえば中央公園には菊池寛の銅像、菊池寛通りには『父帰る』の群像があるとか言ってたっけ。
「それはまだ分かりますけど……海は?」
「んー?海をテーマに小説書くなら、本物の海を見たほうが書きやすいだろう?」
「……」
そうか。小説のため。小説応募のため、か。
一応、あれから自分で考えた結果、全体のぼんやりとした構造だけはできていた。
人魚と人間の女の子の話だ。
海に飛び込んで自殺をしようとした人間の女の子が、人魚と心を通わせていく物語。設定もおおよそとは言え完成していて、あとは文章にするだけ……なのだが。
書けなかった。上手く文章にならないままだった。まるで一枚の絵のような状態で、一場面から動いてくれなかった。人間の女の子も人魚も、風景さえも死んでいる。何一つ書けないまま、時間ばかりが過ぎている。
でも、今の私に必要なのは本物の海ではない気がした。
記念館のあと向かう場所は未定のままだが、展示を見て回る間に決めればいいだろうと考え直し、私たちは次の展示に向かった。
ここにあるのは、一人の人間が生きた証。
一人の人間が成し遂げたこと、その軌跡だった。
「乾先輩、これは?」
ガラスケースの中に展示された原稿用紙が、妙に私の目を引いた。それらは一枚ずつ、丁寧に展示されている。
「ああ、それは菊池寛が子どもたちに宛てて書いた遺書だな」
「……遺書」
「菊池寛はもともと心臓が弱く、若い頃から遺書を書いていたらしい。毎日、今日明日にでも死んでもいいように生きていたんだろうなぁ……俺にはできない生き方だ。尊敬するよ」
「……そう、ですね」
うん。やっぱり、今の私に必要なのは、本物の海ではない。
「先輩。私は、」
一人の人間が生きた、その生き方。その証。
それこそ、今の私が本当に知るべきことだ。

「はぁー……腹減った」
「そうですね……」
私たちは菊池寛記念館から中央公園まで、徒歩でやって来た。道は真っすぐで分かりやすかったが、乾先輩の言葉通り「ちょっと歩く」といった距離で、普段運動しない体には少し辛かった。
何より、私たちはかなりお腹をすかせていた。現在午後二時。当然である。
途中にあったコンビニでおにぎりやらサンドイッチやらを購入していたのもあるだろうが、そもそも記念館に少々長居しすぎた。乾先輩が一つ一つの展示を解説したり、所々に設置されている映像を全部見たりしていたせいだ。私も途中から楽しくなってきて止めなかったし、自業自得ではあるが。
「しっかし、公園でコンビニ飯とは言え弁当を食べるなんて、小中学生の遠足ぶりだなぁ。あ、これゴミ袋代わりにするか」
ポリ袋も有料になっちゃって、とぼやきながら、乾先輩は袋をバサバサと広げ、サンドイッチの包装をポイポイ入れる。袋の口を向けられたので、「……どうも」と言って、おにぎりの包装を入れさせてもらった。
いただきます、とつぶやき、おにぎりにかぶり付く。海苔がパリリ、と音を立てて崩れた。あ、これ味付き海苔だな。
「で、ここには菊池寛の銅像があるんでしたっけ?」
おにぎりを頬張りながら辺りを見渡す。……うーん、どこにあるか分からん。
「ああ。……ただ、公園の中からはあんまり見えないぞ。どっちかって言うと通りに面したところに立ってるし」
「そうなんですか」
「おう」
会話が途切れる。
二、三人の小学生が公園に落ちていたボールで遊んでいる。散歩をするおじいさんや噴水のそばにたたずむ老夫婦が、その様子をにこにこと眺めている。誰のものか分からないボールで遊ぶあたりは無法地帯という感じもするが、まあ……平和だ。
私は残りのおにぎりを口に放り込み、立ち上がる。乾先輩もいつの間にかサンドイッチを食べ終えており、ゴミ袋の口を閉じようとガサガサやっていた。
「さ、行くかぁ」
こっちだ、と方向を左手で指し示しつつ歩き出した乾先輩のあとからついていく。
「……小学生、増えてますね」
「そうだなぁ」
公園を駆け回る小学生たちが、五人、六人とその数を増やしていた。相変わらず、誰かの落とし物らしいボールで遊んでいる。
「これからだんだん増えてくるんだろうなぁ」
「……そうですね」
小学生の頃に戻りたいとは思わない。今更だし、今の私にとって小学生というのは、気楽だけれど少し窮屈な世界の住人だった。
でも、彼らの持つ無邪気な時間だけは……少し、ほんの少しだけ、羨ましいと思った。
「……っと、あったあった。これが中央公園の菊池寛の銅像だ!」
「おお……?写真で見るのとは、ちょっと印象が変わりますね」
じゃじゃーん!と大げさな演出をする乾先輩は無視し、私は銅像を見つめた。
左手を腰に当てた格好の菊池寛の銅像は、唇を真一文字に引き結んでいて、人間らしくも凛とした立ち姿だった。
「……この像は、菊池寛顕彰会や菊池寛の友人、一般市民の協力で作られているんだ。すごいよなぁ、人の心に残り続けられる人って」
「そうですね」
本当に。
私は今日、記念館に行くまで、菊池寛については、名前以外、何も知らなかった。市民からも銅像を建てられるほど思われていても、いつかの未来には、忘れ去られてしまうものだ。
……なんて、少し前の私だったら言うかな。言うだろうな。
たとえ忘れられても、残り続けるものがある。
それは記念館、銅像という形でもあるし、菊池寛通りや百舌坂という地名でもある。残そうとした人がいるから、今もこの場所に、香川に。
菊池寛は生きているんだ。
そのことを知ることができたから。今日、ここに来て良かったと、素直に思える。
「さ、そろそろ行くぞ」
「……はい。あとは菊池寛通りですか」
「ああ、菊池寛通りを突っ切って、瓦町駅で解散だな」
「了解です」
最後にもう一度、と思って振り返った私が見たのは、銅像の優しい瞳だった。
香川の町を見つめる彼の瞳に、私たちはどう映っているのだろう。
――私の未来まで見通していたりして、なんて。
菊池寛の慧眼ならありえないことではないかなあ、と思いながら、私は中央公園を後にした。

中央公園から少し歩けば、すぐに菊池寛通りの看板が見えた。
「ちょっと歩けば、『父帰る』の群像が……ほら、あれだ」
乾先輩が指さす先に、五人の像が並んでいた。まさに一場面を切り取ったというような銅像で、これはどんな場面なのかが気になった。
「記念館から中央公園までの距離を考えれば、本当にすぐですね……」
それをどちらも「ちょっと」と表現する乾先輩の感覚はどうなっているんだ。小説を書くときの語彙力はどこに行ったんだ。
「凛君はまだ『父帰る』を読んでいないんだよな?」
「はい」
じゃあ余計なことを言わないようにしないと、と口の前でバツ印を作る乾先輩。来る前に読んでくれば良かったな……後悔しても後の祭り、今更どうしようもないけど。
「そういえば、電車の時間は大丈夫なんですか?」
「ああ、確認してなかったな。ちょっと待ってろ」
乾先輩がスマホを取り出し、電車の時刻表を調べる。その間に私は、群像のそばに立てられた看板を読んだ。
『明治四十年ごろ、南海道の海岸にある小都会……』
その看板によると、借金を残して行方不明になった父が帰って来たことが話の取っ掛かりらしい。長男は父を拒んだが、出ていこうとする父を弟が引き留める。
うわあ、気になる。読んでみたい。けど、文豪と呼ばれる人の文章を私が読めるのか。それは甚だ疑問である。
一回、挑戦してみようかな。
もし無理そうだったら、映画のほうを先に見るという手も……。
看板とにらめっこをするように考え込む。
電車の時間を調べ終えた乾先輩に声を掛けられ、それでようやく我に返った。
「凛君、電車だが、いい時間らしいぞ。長尾線なら、今から向かえばすぐ乗れると思う」
「あ、私長尾です」
「おっ、じゃあ行くか」
「はい。先輩も長尾線ですか?」
「ああ、俺は水田で降りる」
じゃあ途中下車か。
私たちは駅のホームに向かう。
長いようで短い文学研修だった。
「さて、これで今日の活動は終わりだが……どうだった?」
スマホを片手に、乾先輩はそう問いかける。
「そうですね……正直に言えば、初めはあんまり興味なかったですし昼食代浮くのラッキー、程度に思っていました」
「よ、容赦ないな凛君……」
まあ乾先輩相手だしいいでしょう。
「……でも」
「でも?」
「色々参考になったし……香川の、地元の偉人を知ることができたのは、良かったと思います」
菊池寛。五十九年の生涯の中には、戦争の時代もあった。編集室に乗り込まれ刃物や銃口を向けられても、言論の自由を守ろうとした菊池寛。彼を知らないまま自由を享受し続けるのと、それを知った上で書く文章は、きっと何かが違ってくるだろうから。
「……そうか。収穫があったなら、何よりだ」
口にしなかった思いもあるが、乾先輩は深く追及してはこなかった。心に残るものがあるならそれでいい、とでも言いたげに。
「あとはそれをレポートに書けば完成だな!用紙は昨日渡したやつ、提出は次の月曜日だ。忘れるなよ?」
「はやくないですか……?」
今日明日でレポートを完成させろと?
「記憶が新しいうちに終わらせとけ。一週間後に書くとか、逆に辛いだろ?」
「それは……そうですね」
一理あるどころではなく、完璧な正論でした。私には反論の余地もない。
ちぇっ、と思いながら切符を購入し、長尾線の駅のホームへ下りる。
はあ、ここまでかなり歩いたし、疲れた。電車を待つ間に少し寝たいくらいだ。乾先輩も今日一日元気にはしゃぎ回り解説しまくっていたせいか、眠そうだ。
レポート、今日中に終わらせようかなあ……海の小説のほうも、いい加減書き始めないと……いくら締め切りが夏休みいっぱいとは言え、このままじゃ終わらないし……でも、前に比べたらまだ書けそうな気がしてきたな……。
悶々と小説のことを思い悩んでいた私は、乾先輩にさほど意識を向けていなかった。
そのことが、災いした。
そろそろ電車が来るはずだ、と顔を上げたそのとき。
乾先輩は、点字ブロックを踏み越していた。
あと一歩進めば、落ちる。
「ちょっ、何やって……!」
――飛び込み自殺って、痛いかな。
そう言って哀しく笑うあの子の顔が脳裏に咲いた。
やめろ。思い出すな、そんなこと。
決して広くはないプラットフォームを、全力で駆ける。乾先輩の右足が、宙に浮く。
「――先輩!」
やや乱暴に、乾先輩の腕をつかむ。宙に浮いた右足は、さまよった結果、点字ブロックの黄色の上に着地した。それと同時に、電車も到着する。
「……凛、君」
電車の音にかき消されそうだった。
その声も、乾先輩自身も。
乾先輩らしくない、迷子の子どものような表情がやけに印象に残った。
「……乗りますよ」
何か他に言うべきことがあった気がする。それと同時に、何を言っても間違いだと思った。
「……あ、ああ。すまん、ちょっとぼーっとしててさ……」
乾先輩は、乗り込みながら弁明するように言葉を重ねる。その姿に、私は「そう、ですか」としか返せなかった。
……やっぱり私は、あのときのまま。
何一つ、変わっていないんだ。
カララ、と軽い音が夜の学校に響く。職員室の扉が開かれたのだ。
「……ああ、柳川先生。出張、お疲れ様です」
「ありがとうございます、ただいま戻りました。塩田先生も、お疲れ様です」
職員室に授業の準備をすべく残っていた塩田先生と、出張帰りの柳川先生が互いを労い合う。
「コーヒー、淹れましょうか」
塩田先生の申し出に、「それじゃあ、お言葉に甘えて。お願いします」と柳川先生は穏やかに答える。二人は同期であり、長い間この高校に勤務している者同士である。気安すぎず固すぎず、独特の距離感を保っていた。
「ここのところ、柳川先生は出張が続いていますねぇ」
「そうなんですよ、おかげで部活動に顔を出すことすらままなりません」
柳川先生は肩をすくめてみせた。
仕事が片付いた頃には既に活動が終わっているため、新年度になってからは一度も部活動の様子を見ていないのだ。
「柳川先生は、確か、文芸部顧問でしたか。しかし文芸部は先生がいなくとも活動できる部員ばかりでしょう?羨ましい限りですよ」
どんな指導をしたらそんなふうに部員が育つんですかねぇ、と塩田先生。柳川先生は苦笑して、特別なことは何もしていませんよ、と答える。
「彼らは自分たちの書きたいことを書いていますからね。僕は自由にさせているだけです」
「ははぁ、教師の鏡ですな」
「よしてください、ただの怠けと捉えられかねない」
トポポポ、と熱湯をカップに注ぎながら、塩田先生は愚痴を零した。
「私はつい口うるさく言ってしまうんですよ。それがいけないのか、自主的な活動がなかなか達成されないままです」
塩田先生は、柳川先生がしたように肩をすくめてみせる。
「いいじゃないですか、熱心な指導で。僕はそろそろ、『もっとちゃんと指導しろ』と怒られるんじゃないかとヒヤヒヤしていますよ」
そして柳川先生も肩をすくめる。
二人の先生は顔を見合わせ、「「ははははっ」」と笑う。教壇に立っているときとは少し違う姿だ。
塩田先生はコーヒーを淹れたカップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
それを受け取った柳川先生は、コーヒーを一口啜り、「うん、塩田先生が淹れたコーヒーはやはり美味しいですね」と頷く。
「はは、それは良かった」
塩田先生は二つのカップを手にしている。片方のコーヒーを啜り、「うむ、上出来」とつぶやいた。……ん、二つ?
「ほら、隠れていないで。出てきなさい、乾くん」
「ありゃ、バレてましたか」
そう、俺こと乾文也は、文芸部顧問たる柳川先生に話しかけるタイミングを伺っていたのだ。あわよくば驚かせようと思って潜んでいたが、先生方にはお見通しだったらしい。
バレていたなら仕方ない。俺は折口先生の机の陰からひょこっと顔を出す。
「そろそろ来る頃かなぁ、とは思っていたからね」
柳川先生はこともなげにそう言い切り、コーヒーを一口啜った。
部活の顧問に俺の行動パターンが把握されている。
さすがは柳川先生。いや、俺がわかりやすいのか?……まぁ、それはいい。
「それよか、新作できたんですよ先生!読んでください!」
「はいはい」
柳川先生は、コトリ、とカップを机に置く。
そして俺が差し出す紙の束を受け取った。俺にしては珍しく、きちんと原稿用紙に清書したものだ。
「じゃあ、読ませてもらうよ」
「お願いします」
俺の返事を聞いていたのかどうか、すぐさま柳川先生は原稿用紙に目を落とし、黙々と読み進めていた。
緊張する。
自分の作品が読まれるのは、どんな場面でも緊張するものだ。しかしながら、目の前で読まれることほど緊張することはないだろう。
少なくとも俺はそう。できる限り平気そうな顔で、柳川先生の様子を観察する。
「ほう」「ふむ」と独り言をぽつぽつ零しながら読み進める姿に、さらに緊張が高まる。
先生、「ほう」って何ですか。感心って意味の「ほう」ですか。「ふむ」ってのは、直すべきところってことですか。
柳川先生の反応だけでは好感触か否かさえ分からない。
ソワソワする俺に、塩田先生はカップを差し出した。塩田先生なりの励ましだ。俺はありがたくカップを受け取り、コーヒーを一口啜る。甘い。さては砂糖多めに入れたな?俺はブラックも飲めますよ塩田先生。別に甘くてもいいけど。
「……なるほど」
俺の小説を読み終えた柳川先生が、ぽつりとつぶやく。判定やいかに。
「どうですか、わりと自信作なんですけど」
今回の小説は、仮面を売り歩くとある男の話だ。
古来より、仮面というものは自分ではない何かになるための道具だった。しかし同時に、その人物の本来の姿を象徴するものでもあるらしい。そのパラドックスに挑戦した作品だ。
「うん、面白いと思うよ。乾くんの色も出ているし」
よし、好感触だな。
柳川先生の高評価をもらい、俺は思わず顔をほころばせた。
「ただ、もう少し読者にヒントをあげてもいいんじゃないかなぁ。ちょっと伏線が薄いかもしれないね」
「やっぱりそうですかね?そこ、結構迷ってて。直してみます」
俺の小説に対する不安要素を的確に見抜く柳川先生、素直に尊敬する。
「それで、これはまた何かの賞に応募するのかい?」
はい、と原稿用紙を手渡しながら、柳川先生は問う。
「そうですね、一応出すつもりではいるんですけど……そこ、かなり容赦なく『該当作なし』を出すところなんで不安なんですよね」
数年続けて『該当作なし』もザラな小説応募。条件がいいから前々から気になってはいたんだけどな。
「まぁ、やってみなよ。もしかしたら、もしかするかもしれないよ」
「なんか、仮定法みたいな言いようですね……」
そりゃあ、賞を取るのはなかなか難しいことではあるけれども。
それに、俺自身はどこかの誰かさんと違って賞に固執するつもりはない。
認められなくてもいい。俺は、俺の小説を受け止めてくれる読者に出会いたい。
肯定はなくてもいい。ただ、俺を受け止めてくれる誰かに会いたい。
それが、俺の小説を書く理由の一つだ。
「ああ、そうだ。乾くん、これ、どういう意味か分かるかい?」
唐突にそう言って、柳川先生はおもむろにポケットからスマホを取り出し、その画面を見せてきた。
どれどれ。
スマホを覗き込んだ俺の目に、連絡アプリの画面が映った。帰宅が遅くなる旨を伝える柳川先生のメッセージと、『了解』という返事。
そしてその直後に、もう一つ、メッセージが送られている。
「これがどういう意味か、と?」
「そう、僕にはさっぱりでね」
831。
何の前触れもなく唐突に送られてきた数字に、柳川先生は困惑したのだろう。そりゃそうだ。
「これ、柳川先生の奥さんですか?」
じゃないと少々問題だがな。案の定、「そうだよ」という答えが返ってくる。ふむ、なるほど。
「奥さんは英語が得意?」
「ああ、そうだね。大学生のとき、アメリカに留学していたらしい、けど、」
なぜそれを?といった顔の柳川先生を眺める。うんうん、いい反応。
さて、ちょっと早いが、ネタ明かしといきますか。
「『831』ってのは、英語圏における愛の告白ですね。外国版の『月が綺麗ですね』っていうか」
「え、どうしてだい?」
「では柳川先生、英語で『愛してる』は?」
「『I love you』、だろう?ちょっとそれは教師を馬鹿にしすぎじゃないかなぁ」
柳川先生は、確かに英語は得意ではないけれど、と苦言を呈する。
「これはこれは、失礼しました」
少々大げさな動きで一礼してみせる。
はいはい、と軽く受け流され、俺は解説の続きを語る。
「八と三と一。八つのアルファベットと三つの単語。それらが一つの意味を表すんです。すなわち、」
「……『I love you』、か」
「はい、そういうことです」
しかし、こんな洒落たことを知っている柳川先生の奥さんって一体……いや、留学中に知ったのか?
「なるほど、確かに英語版『月が綺麗ですね』だねぇ」
「それじゃあ雑学ついでにもう一つ。『月が綺麗ですね』と言った」
「夏目漱石!」
「は有名ですが、『◯◯が綺麗ですね』という言い方は他にもある。例えば何があるか?」
「そ、そうなんだ……」
引っ掛ける意図はなかったが、シュンとしている柳川先生を見ていたらかわいそうになってきた。ごめん、先生。
「月以外なんだよね?……星、とか?」
「おっ、正解です」
柳川先生は少し考え、一発で当てた。さすが。
「ちなみに、意味は『あなたは私の気持ちを知らないでしょう』、『私はあなたに憧れています』。片想いって感じですね」
「へぇ、おしゃれだね。他にもあるのかい?」
「もちろん。虹なら、『あなたとつながっていたらいいのに』。夕日とか海とかもありますね。調べてみると、いろいろあって面白いですよ」
「詳しいねぇ。もしかして、好きな人でもいるのかな?」
「……いませんけど?」
またか。またそういう話題なのか。
「あ、もしかして新入部員の子?ずいぶん気にかけていると聞くよ」
案の定、相手は凛君だし。
「いや、ほんと違うんで勘弁してください……」
そもそも、俺は恋なんて分からない。そんな普通の人間らしい感情なんて持ち合わせていない、と思う。
「本当に〜?」とからかってくる柳川先生に「違いますって」と返しつつ、凛君のことを考える。
真っ先に思い出すのは、今日の駅でのことだ。
なんであんなことを、と自分でも不思議に思う。
あと一歩遅ければ、俺は、あのまま、落ちていた。
俺には自殺願望なんてない。まぁ考えることはあるが、実際に行動に移したことなんて一度もないし、これからもきっとない。
それなのに、どうしてだろうか。
――なんか、凛君といると、安心するんだよな。
文句を言いながらでもそばにいてくれて、なんだかんだ部活にも出てくれて。
だからなのかなぁ。自分のことなのに、分からないもんだな。
「本当の本当に?」となおも聞いてくる柳川先生を適当にかわしながら、思考をリセットする。
そうだ、『海が綺麗ですね』の意味を凛君に教えておこうか。海の小説に使えるかもしれないし。
その言葉の裏の意味を思い出す。無意識にも、凛君を相手に据えて。
耳が熱くなるのを感じた。
ああくそ、なんでかき乱されてるんだ。
少しでも気持ちを落ち着かせようと、コーヒーを飲む。時間が経って冷たくなった塩田先生のコーヒーは、少し苦かった。
――『海が綺麗ですね』の意味は、『あなたに溺れています』である。
月曜日の放課後。
私はレポートを携えて、部室へ向かった。
「失礼します」
いつもの騒がしい出迎えはなく、どうやら乾先輩はまだ来ていないらしいと知る。
土曜日のこともあり少し顔を合わせづらかった私には、好都合だった。
「……さて」
小説を進めなければそろそろ本当にまずい。乾先輩はいないが、執筆を開始する。
私は机上に白い紙を広げ、シャーペンを握り締めた。
……何も浮かばない。
力を弱める。海の風景を思い浮かべ、シャーペンの芯の先で紙に触れる。……文章にならない。ふっ、と芯の先を元の位置に戻す。その繰り返しだ。
はぁ、と息をついて立ち上がる。書けないものは書けない。人の作品を参考にしようと、部誌の置いてある棚に足を運んだ。
四月の大掃除のおかげで一冊目から順々に、きちんと並べられた歴代の文芸部誌。基本は年に一回、文化祭での発行だが、一年で十冊近く発行した年もあったらしい。比較的新しい学校であるにも関わらず、かなりの冊数に達している。
私は整然と並ぶその部誌の中から、去年のものを引き抜いた。それを手に取り、パラパラと後ろからページを手繰る。最後には、一番初めに記載される目次の欄に行き当たった。
「いや、ペンネーム……」
そこに並ぶのは独特すぎるペンネームの数々。思わずツッコミが零れる。
『猫の毛玉』、『秋扇』、『赤鼻の犬』などなど。名前の由来が気になるな……。
しかしそんな中にあってもブレない人というのはいるものだ。ペンネームとは分かるが、まだ名前っぽい人がいた。
『柊檸檬』
この人が載せているのは詩文。
乾先輩とは違う美しさ。無邪気な子どもを彷彿とさせる素直な言葉が、美しく清らかに並んでいた。
詩文は詳しくないが、この美しく優しい世界観は好きだ。これを書いた人はどんな人なのだろう。
いつか、会う機会があるといいなあ。
しかしながら、私が書くのは小説である。詩文ではない。よって、今回の私の手助けにはなりそうにない。残念だが。
はあ、乾先輩の小説でも読むか。本人から許可はもらってるし。……やっぱり、なんか負けた気がするけど。
私は一旦部誌を閉じ、乾先輩が積み上げていた原稿用紙を引っ張り出してきた。順番はおろか、違う話も色々混ざっている。……これも、掃除の時にちゃんと並べておくんだった。
若干の後悔に苛まれながら、律儀にも書かれているページ番号を頼りに並べ直していく。
……せっかくだし、この棚の紙、全部並べるか。どうせぐちゃぐちゃに混ざっているのだろうし。
そう考えた私は、棚からバサッと紙を取り出す。これはかなり量がある。一体あの人はどれだけ小説を書いているのか……ん?
何だこれ。
大量の紙の下から出てきたそれは、片付けの際にその姿を見なかったものだった。
そう、それは、
「……お菓子の、缶?」
テーマパークの土産店に置かれているような、四角い箱の形をした菓子缶。
少し大きめのサイズのその缶は、ちょうどA4の紙が入りそうな大きさで。
「先輩、この惨状にちょっとは反省したのかな……こういう片付けの仕方なら散らかることはないと踏んで持ってきた、とか」
だとしたら見識を改めなければならない。向上心はある、と。
そんなことを考えながら菓子缶を眺める。船の絵が描かれたフタには、筆記体で『It’s time to set sail.』と書かれている……が、最後の一単語が分からないので意味はとれない。後で乾先輩に聞いてみるか。
さて、さすがに中は空っぽか?
机の隅に缶を置き、フタを開ける。すると、文字に彩られた紙が顔をのぞかせた。これは原稿用紙ではなく、裏紙に書かれている。しかもかなり分厚い紙の束だ。わざわざ缶に入れているだけあって、順番もバラバラではないらしい。
「……これ、は」
読んでいいものなのだろうか。
紙の下に、まるで隠すように置かれた菓子缶。その中に収められていた、乾先輩にしては丁寧な扱いの作品。
乾先輩にとって特別な作品だということは、明らかだった。
「…………」
でも、読んでいいと言ったのは乾先輩だ。部室に置いてあるものは読んでいい、そう言ったのは乾先輩だ。缶の中の小説は読むな、とは言われていない……。
「……ちょっとだけ。ちょっとだけ、なら」
別にいい、よね?
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、私はおそるおそる、菓子缶から紙の束を取り出した。
一枚ずつ、私が読んだ形跡を残さないように、そっと読み始める。もちろん紙の端を折るなんて失態がないように、慎重に扱う。
部室の扉は固く閉ざされ、しばらく開きそうになかった。

【クラウンの涙】――乾文也
ピエロを見たことがある。
小さい頃、数日だけ町にやって来たサーカス。それを見に行った時のことだ。
定番の火の輪をくぐるライオンや空中ブランコ、綱渡りなんかも面白くはあった。しかしながら、一等俺の目を引いたのは、たった一人のピエロだった。
色鮮やかな衣装に包まれた彼のコミカルな動き。真っ白な顔に、赤い鼻と唇。
そして何よりも、愉快な格好をしてくるくると踊る彼の頬に描かれた、一筋の涙。
その涙に、どうしようもなく惹かれてしまったのだ。

ピエロの涙というものには色々な意味が込められている、と聞いたことがある。
人の悲しみに流す涙。
押し殺した本音の涙。
そして、笑われることで傷付き、流す涙。
おかしな話だろう?ピエロなんて笑われてなんぼ、笑われて笑われて人気者になれるってのに。
でもなぁ、分かるんだよ。分かってしまったんだよ、俺は。
笑ってほしい、その気持ちに嘘はない。
でも時々、笑わないでほしい、と思うことがある。
我儘だよな。笑ってくれ。俺だって、こんな滑稽なことがあれば笑うさ。
……いや、嘘だ。笑わないでくれ。辛くて苦しくて、かなわないんだ。
嘘、嘘、嘘、ウソ、ウソ、ウソ、うそ、うそ、うそ……
ああ、どれが本当か、分からないや。
本人でさえ分からないんだ、誰かに教えてもらう訳にもいかないだろうな。もしかすると、俺から“ほんとう”は抜け落ちてるのかもしれないな。……俺が道化師なばっかりに。
俺は、ただ周りに笑ってほしくて道化をしてきたはずだった。それなのに、笑われることに苦しむなんて。ほんと、何やってんだか。
……いや、それも嘘だな。俺は愛されたくて道化を演じてきたに過ぎない。愛らしい子でいれば、両親から愛される。見てもらえる。友達が友達でいてくれる。一人きりにならないで済む。そんな打算のもとで道化をしてきたんだろう?
違う、嘘だ、いや、……分からない。考えたって無駄だ。どう足掻いても暗闇の中を彷徨い続けるだけなんだから。
いつからだろう。曖昧で支離滅裂なことばかりが、俺の周りに降り積もる。積もりに積もったそれらが俺の視界を奪い、時に俺を守る城壁となり、そして俺と周囲を切り離している気がしてならない。
何も見えなくて、見る気も起こらなくて、でも見たい気もして、一人城壁の中を行ったり来たりしている。
それが、俺というモノだ。
そんな俺がピエロを見て、何を感じたと思う?
同情か。悲壮感か。仲間意識か。
そのどれとも言えるし、どれとも言えない。
俺はそのピエロを、美しいと思ったんだ。
涙を流しながら、それでも誰かのために、誰かに笑ってもらうために、演じる。その一筋の涙ほど、尊く、美しいものなんてないと思った。
俺は今まで、救われたいとどこかで思っていた。
変わらない日々、くたびれてゆく心、その二つの間でもがき苦しんで、救いの糸が垂れるのを待っていた。
救いを待つばかりの俺は、ピエロの目にどう映ったんだろう。
――酷く愚かで、哀しいモノ。
その哀しさをああも哀しいままに、美しく、清らかに表現できたなら。
その時こそ、俺は、救われるんじゃないだろうか。
ふと、俺の頭にそんな考えが浮かんだ。
いいや、それだけじゃない、もしかすると、俺に似た奴がどこかにいるとしたら、そいつを救えるかもしれない。愚かなピエロである、この俺が。
そう、一人のピエロは、一人の“救われたがり”を一人の“救いたがり”にしたんだ。
俺には何かを生み出す力がない。ピエロのような芸もない。何も持っちゃいない。
でも、言葉の力で世界を少しだけ彩ること。
それだけは、できる。
俺は昔から、文章を書くのが得意だった。本を読む間は自分の道化を忘れられる気がして、必死に本を読んだ時期があった。きっとそのおかげで、人より少し多い語彙力を身に着けたのだと思う。これを生かさない手はない。そうだろう?
俺はペンを取った。世界に少しの美しさを添えてやろう、そんな気持ちで。

……本当は分かっている。
これはただのエゴだ。言葉で人を救えるなんて、自分が救われるなんて、ただの夢物語だ。
でも、俺は言葉に縋ることしかできない。他に何を頼れば良いのか、分からないから。
結局のところ、独りよがりなんだ。
分かってるんだよ、そんなことは。
それでも、誰か、誰でもいい、何でもいい、
俺を、■■■■■


最後の言葉は黒く塗りつぶされていて、読めなかった。
……分からない。よく分からなかった。
ピエロの涙に共感して、何か感じるものがあって、だから小説を書いている。
救われたがり。救いたがり。哀しいものを、美しく書く。
乾先輩の根幹には、何があるんだろう。
『道化』ということは、普段の乾先輩は、あの明るさは、……嘘?
土曜日のプラットフォームでのことが脳裏をかすめる。
乾先輩は、もしかして、
「……凛、君?」
はっと顔を上げると、固く閉ざされていたはずの扉は開け放たれ、乾先輩が呆然と立っていた。
「…………先輩、これ、」
前に読んだものとは明らかに異なる雰囲気のこの小説は、もしかしなくても、乾先輩の、本当の。
「……あー……読んじゃった、か」
「…………はい」
「そっかぁ……」
その反応を見れば、ほぼ正解なのだと確信してしまった。
全てを書いているとは限らない。しかし、本当のことも書いている。だから、人に見られるのが怖いのではないか。
「……い、乾、先ぱ」
「すまん凛君!今日はちょっと用事があるんだった!」
何と言えばいいか分からなくても、それでも、何か言葉を。
そう思って発せられた私の言葉は、乾先輩に遮られた。「じゃあまた今度!」と左手を上げ、乾先輩は逃げるように部室を飛び出していった。
「ちょっと、待っ……!」
追いかけようとほぼ無意識に伸ばした腕が、菓子缶を弾き飛ばす。菓子缶は鋭い金属音を響かせ、その中身、残りの紙を床に吐き出した。
あ、紙が。
私はあわてて紙を拾い上げる。その間に、廊下から乾先輩の姿は消えていた。
菓子缶から吐き出された残りの紙に、私は目を移す。
「まだ、終わりじゃない……?」
続きがあったのか。
私はてっきり、あれで終わりだとばかり。
拾い上げた紙に目を通す。
「……ちがう」
続きじゃない。これ、は。
『小学生の頃、近所にやって来たサーカスを見に行った時のことだ。』
同じ内容、異なる言葉、何度も消され、修正された文章たち。
「……同じ、話だ……」
乾先輩は一体、何度この話を書き直したのだろう。
缶から取り出した紙の量が、答えだった。
一度や二度ではない。
何度も何度も、誰に見せるでもなく、ひたすら書いて書いて、書きまくって。
きっと乾先輩は、これを人に見せるつもりなんてなかった。それでも書いたのは、何度も何度も、書いて書いて、書き続けたのは、
書かなきゃ生きていけなかったからだろう。
「……なんで」
なんで、そんなにも重いものを、一人で抱えているんですか。なんで、その悲しみを、苦しみを、隠してしまうんですか。なんで、
「辛くても、笑うんですか……」
その日、乾先輩が部室に戻ってくることはなかった。
次の日もその次の日も、部室に顔を出すことさえなかった。
そして乾先輩と会えないまま、高一の夏が始まった。

なし崩し的に夏休みに突入してしまったため、夏休み中の部活の日程なんて一つも分からなかった。文芸部は活動予定表もないし。
一応、平日は毎日部室に顔を出すようにしている。これでは夏休みの意味がない気もする。
しかも。
「…………書けない」
どうせ部活に行くなら、と海の小説に毎日取り組んでいるが、本当に進まない。書けない。無理に推し進めてみても、言葉が死んでいる。言いたいことと言葉とが分離して、私の手から逃げていく。
書いたそばから消しゴムをかける。書けば書くほど、言葉が分離する。苦しい。
「ちがう、私が言いたいのは、……」
苦しい。苦しい苦しい苦しい。苦しくてたまらない。
書くことって、こんなに苦しいものだっけ。
昔はもっと、楽しかったはずなのに。
「はぁ……」
一週間、二週間、三週間。
書けない書けないと苦しいんでいる間にも、時間は容赦なく過ぎていく。小説の締め切りも着々と近づいていた。
「……」
本当は分かっている。
こんなにも書けないのは、文章にならないまま苦しいんでいるのは、あの日のことが引っかかっているからだ。
ずっと落ちないでいる胸のモヤモヤの原因は、乾先輩のこと。
例の小説、『クラウンの涙』はあの後、また菓子缶に戻し、棚に置いて紙を被せ、元通りにしておいた。
しかし、意識してしまうからなのか何なのか、私はその缶が、正確にはその缶の中身が気になって仕方なかった。
鞄からスマホを取り出し、電源を入れる。
決まって開くのは、文芸部の連絡用チャットだ。
私と乾先輩とのつながりは、文芸部しかない。きっと四月のあの日、帰宅部禁止だと言われなかったら、他の部の幽霊部員になっていたら、話すことはおろか顔を合わせることもなかった。
……ああ、そういえば、初めは幽霊部員を目指していたんだっけ。
数ヶ月前のことなのに、ひどく昔のことのように思えた。
文芸部に入部してからというもの、乾先輩に振り回されっぱなしだった。その間に、幽霊部員のことが頭から抜け落ちていたらしい。
「まあ……なんだかんだ……」
楽しいしなあ。
文句を言って、たまに辛辣なことも言ってみて、でも、なんだかんだ、乾先輩の隣は居心地が良くて。
このまま、乾先輩が部室に来ないのは、
「それは……嫌、だなあ……」
うん。嫌だ。嫌なんだ、私。
わがままだけど、今更だけど、私は、文芸部が好きだ。乾先輩のことも、まあ、嫌いじゃない。
明るくて、自由で、ちょっとその場任せだとか、適当なところもあって、ついでに汚部屋の主で。
でも小説に対しては真剣で、本が好きで、書きたくて書いてきた人。書かなきゃ生きていけなかった人。
乾先輩が何に悩んでいるのか、私はぼんやりとしか分からない。『クラウンの涙』のどこまでが本当で、どこからが嘘なのか、私には分からない。
でも、私は、
「……謝らないと」
本人が読んでいいと言っていたとはいえ、読まれることを想定していないものを読んでしまった。薄々気付いていたのに、見て見ぬふりをした。
私は乾先輩に、謝らないといけない。
だから、唯一乾先輩とつながれるこのチャットで一言でも謝れたら、と、思うのに。
いざ書こうとすると、うまく言葉にならない。無理に文章にしたとしても、それを送信する勇気がない。送信する前に、せっかく文章に昇華した思いを消してしまう。
皮肉なものだ。進まない小説、送れない言葉。
虚構も現実も、同じ結果なんて。
『生み出す苦しみと生み出す喜びは表裏一体』
いつだったか、乾先輩が言っていたことを思い出す。こんなに苦しいのに、この裏には本当に喜びがあるのだろうか。
「……もう、わかんないよ……なにも」
私は机に突っ伏して、目を閉じた。

こんな夢をみた。
知らない海を眺めながら、私は一人、白砂に座り込んでいる。
なんでここにいるんだったかなあ、とぼんやり考えていると、後ろから声をかけられた。
「りーんちゃんっ」
「……みすみ、ちゃん」
ふりかえると、私の知っている少女が、にこにこと私を見ていた。一つにまとめられた黒髪が、海風になびいている。
私がその名を呼ぶよりはやく、彼女の右手が私の右腕をつかんだ。思いのほか力が強く、私は腕を引かれ立ち上がる。
そして彼女に腕を引かれるまま、海辺を歩く。
「……ねぇ、みすみちゃん、どこに」
どこに、向かっているの。
問いかけた私の口は、突如走り出した彼女によって閉ざされる。ここはどこなんだろう、とぼんやり考えながら、彼女に合わせて私も走り出す。
どこに向かっているかは知らないが、まあ、彼女が行きたい場所なら、いいか。
そんな風に呑気に構えていると、彼女は急に方向を変えた。
視界が青く染まる。
私たちが走る先に見えるのは、……海。
「だめっ!」
思わずそう叫び、彼女につかまれていた右腕の、右手の指を精一杯のばして彼女の右腕をつかみ返す。間髪入れず、右腕を自分のほうに引き寄せた。
ザアァァ……と海が波打ち、二人の足が濡れる。私たちは、波打ち際に立ち尽くしていた。
よかった。
私は知らぬ間に詰めていた息を吐き出す。
本当に、よかった。
海の底はきっと、暗くて、冷たいから。
私は心底ほっとして、波が引いていくのを眺めていた。
正しいことをしたと思う。しかし、彼女の意思を無視したことへの罪悪感が、波とともに押し寄せてきた。
私はきっと、何度でも同じ選択をするだろう。してしまうだろう。
顔を上げられない。
しかし、私の思いとは裏腹に、彼女……いや、彼は言った。
「――凛君なら、そう言ってくれると思ってた」

哀しい笑顔の残像が、まだ視界の端にチラついている。
私はそっと目を開けた。
こんなタイミングで、あの子と乾先輩の夢をみるなんて。何か意味が隠されているのではないかと疑ってしまう。
もしかすると、私はあの子と乾先輩を同一視しているのかもしれない。
そうだとすれば、余計にどうすればいいのか分からなくなる。分からなくなる、けど。
私は机の上に投げ出されていたスマホを手繰り寄せ、もう一度起動させた。閉じる前と同じ、文芸部連絡用チャットの画面が開く。
私は一言二言打ち込み、少し迷ってから、青い送信ボタンを押した。
『先輩』
『海、行きませんか』
送ってすぐ既読がつき、乾先輩から返信があった。
『いつ、どこの海だ?』と。
乾先輩もこのチャットを開いて、迷っていたのだろうか。もしそうなら、私たちは似た者同士だな。
夏休みの間であればいつでも、どこでもいいと返すと、乾先輩は地図アプリのリンクを送ってきた。
『八月三十一日、この海で会おう』

八月のきつい日差しが、電車の中にも容赦なくふりかかる。
私は電車を乗り継いで、乾先輩が指定した海の近くの駅で降車した。走ってもいないのに、頬に汗がつたう。夏の残り香が漂う駅に、一人取り残されている気分だった。
しかし、そこまで悲観的にはならなかった。
電車を待っているらしい一人の女の子がいたおかげで、少なくとも私は一人きりではなかったから。本を読み続ける彼女の周りだけ、暑さを忘れたかのような空気が漂っていた。
その横をすれ違う時、ちらりとその題名を盗み見た。
『北原白秋詩集』。
……すごいの読んでるな。
駅を出て少し歩けば、すぐ海が見えてくる。
「……ついた」
着いてしまった。
目印の赤い自動販売機の前で、乾先輩が来るのを待つ。
乾先輩が来たら、私はどんな顔で何と言えばいいのだろうか。まずは謝罪だ。乾先輩の大事なものを勝手に見てしまったことを謝って、それで。
聞きたい。
知りたい。
乾先輩の、『本当』を。
でも、それは、
「よっ、凛君。久しぶりだなぁ!元気だったか?」
「…………先輩」
考え込んでいたせいで反応が遅れ、それまでの考えが全て吹き飛んだ。
久しぶりに見た乾先輩は、私が知っている乾先輩そのままだった。
「お久しぶりです。まあ元気ですよ、暑いけど」
「ははっ、八月ももう終わるんだがなぁ」
いや、むしろ八月の終わりだからか?と乾先輩は快活に笑う。
ああ、すっかりタイミングを逃してしまった。
私は肩にかけた鞄の紐をぎゅっと握りしめ、謝らなければ、言い出さなければ、と焦る。
はやく、はやく謝ってしまえ――
「なぁ、凛君」
言い出そうとした謝罪の言葉は、他でもない乾先輩に遮られた。
見入ってしまったのは、言葉を失ってしまったのは、夢で見たのと同じ光景が広がっていたから。
「少し、歩かないか?」
そう言う乾先輩は、哀しく笑っていた。

波の音だけが辺りを支配している。
私たちは無言で、海のそばを歩いていた。
手には、僅かな冷たさを残すサイダー。先ほどの自販機で、「熱中症対策に」と奢られたものだ。お金は持ってきていたのに、乾先輩が自分の分と合わせて払ってしまったのだ。意地でも後でお金は返すつもりでいる。
「……」
「……」
ずっと、無言。
海や白砂に目をやりながら無言で歩く先輩を見、私はその後ろを歩いている。乾先輩はただ静かに歩き続けるだけで。
「……っ、あの!」
ようやく意を決し、私は声を上げた。
振り返って私を見る乾先輩の目を、私は見つめ返す。
もう、逃げない。
「この間は、勝手に缶を開けて、先輩の大事なものを勝手に読んでしまって、ごめんなさい。私のせいで、先輩を嫌な気持ちにさせてしまって」
「あー、いいっていいって。そんな堅苦しい謝罪はなし!」 
乾先輩はきっぱりと私の謝罪を断ち切る。
でも、と続けようとし、再び遮られた。
「確かに、あれは人に見られたいものではなかったよ。でも、本当に見られたくないなら、もっと他に置く場所はあった。そうだろ?わざわざ部室に置いて、自分でも何やってんだろって思ってたんだけど……見つけてほしかったのかもなぁ、俺」
見つけてほしかった。何を?
乾先輩が見つけてほしかったものを、私は本当に見つけられている?
……いや、まだ。まだ、乾先輩は。
ぐるぐると考え込む私を見て、乾先輩は口を開いた。
「……凛君。君はあれを読んで、どう思った?」
何かを覚悟したような声色だった。今更ながらに、あの缶の中に眠る独白のような文章は乾先輩の本心なのだと確信する。
どう思ったか。
あの話を、他でもない自分自身の『本当』を、どう思ったのか。
この問いの切実さに、私は言葉を失った。そして呆れた。
この人は、繊細すぎるんだ。あの子と同じように。
『寂しがり』。
奥村先輩の言っていたことを思い出す。一人ぼっちになりたくないから、この人は、こんな不器用な距離の測り方をしているんだろう。してきたんだろう。
「私は……」
きっと、この答えで全て決まる。
この答えが、これからの私と乾先輩の距離、関係性、どの面を見せる相手かを決める一手になる。
普通なら、間違えてはいけないと意気込むところだ。
でも、私には気の利いた回答なんてできない。
私の言葉は、誰も救わない。
「……分かりません。私から見た乾先輩は、明るくて、ずっと楽しそうで、悩みなんて一つもなさそうで……それなのに、あの小説では、本当は、ずっと苦しんで、悩み続けているみたいで。……分からないんです、何も」
先輩。乾先輩。あなたは、
「何に、縛られているんですか……」
救えないと分かっていながら聞くのは、どうがんばったって残酷だ。
でも、私はそうせずにはいられない。
私の頭の片隅に住み続けているあの子、彼女のことを忘れられない限りは、ずっと。
「……俺は」
乾先輩は視線を落とした。すがるように、ペットボトルを持つ右手に力を込めている。
「俺、は……」
言いたいことが胸の中で渦を巻いているのか、言い出すのをためらっているのか。
乾先輩は、いつかと同じ、迷子の子どもの顔をしていた。
八月の太陽が、これでもかとばかりに私たちを責め立てる。波の音が、私たちの静寂を埋めている。
先に口を開いたのは、私だった。

あまりに強く照りつける太陽から逃れ、私たちは海の近くの木陰に座り込んだ。
すでに冷たさを忘れたサイダーを開封する。
プシュッ、と音を立てて、炭酸が泡を生んだ。
「うわっ」
小さく上がった声に横を見れば、吹き出したサイダーの泡が乾先輩の手を濡らしていた。私のサイダーはかろうじて耐えている。
初めはおそるおそる、ある程度泡が落ち着いてきた頃には思いきり、私はサイダーを喉に流し込んだ。
緊張のせいか暑さのせいか、先ほどから渇きを訴えていた喉に心地よい刺激が広がる。乾先輩もなんとかサイダーを口にし、「ぬるいな」と呟いていた。返事をすべきかどうかと考えているうちに、乾先輩が「さっきの続きだけど」と語り出す。
「確かに、人から見た俺は、明るくて、悩みなんかなさそうな人間なんだろうと思うよ。凛君の言う通りだ。だけど、俺は、」
乾先輩の手に力が入る。
ペットボトルのへこむ音が虚しく響いた。
「本当の俺は……クラウンなんだ」

昔から、人とズレている気がしていた。
特別な根拠はない。人と話しているうちに、もともとの価値観というか、感性みたいなものがずいぶん食い違っていることに気が付いた。それだけ。
初めはそんなに気にかけていなかった。それなのに、だんだんと不安が積もっていったんだ。
俺は人と上手くやれるのか、とか。
つまらないやつだと、面白くないやつだと思われていないか、とか。
いつか周りが俺から離れていって、……俺は、一人ぼっちになるんじゃないか、とか。
どこからそんな考えが降って湧いたのかは分からない。いつの間にか、気が付いたら俺は、一人ぼっちになる未来に怯える少年になっていた。
馬鹿馬鹿しいだろう?でも、これが俺なんだ。影も形もない未来の孤独から逃れようと足掻く子ども、それが俺だった。
一人ぼっちにならないために、どうするか。
俺は考えた。寝ても覚めても、何をするにも付きまとう恐怖を追い払うために、俺ができること。
考えて考えて、たどり着いたのが「道化を演じること」だった。
人を惹きつけて離さない魅力を、「あいつは面白い」と言われるだけのものを持っていれば、一人ぼっちにはならないと思った。なり得ないと思った。
だから、俺は仮面を被った。演じ続けてきた。
面白くて、愉快で、底抜けに明るくて、一緒にいて退屈しないやつ。
周りにそう思われるように上手く立ち回って、笑わせて、お前馬鹿だなぁって笑わせて。
目論見は成功したよ。
一緒にいると楽しいと言ってくれるやつが集まって来て、俺は一人ぼっちになんかならなかった。
嬉しかった。
道化を続けていけば、孤独になんて一生ならないと思った。
……だけど、同時に、苦しくもあってさ。
なんでだろうな、望んでつけた仮面なのに、どうしようもなく苦しくて、哀しくて、いっそ外してしまいたいと思う日もあって。
誰かと話していても、今こいつと話しているのは俺じゃない、道化の仮面だ、と思ってしまうと、本当の俺は置いていかれているようで、一人ぼっちじゃないのに、寂しかった。
本当に馬鹿だよな。俺もそう思う。
これじゃ本末転倒、何の意味もない。
でも、今更仮面を外すなんてできなかった。
面白くて、愉快で、底抜けに明るくて、一緒にいて退屈しないやつ。
そんな馬鹿な道化師のまま、俺は生きていたんだ。生きてきたんだ。
転機が訪れたのは、小学六年生の頃。
町に来ていたサーカスを同級生と見に行った時のことだ。
俺はそこで、一人のピエロの涙を見た。
その辺りはあの小説の通りだ。ピエロの涙に共鳴した俺は、俺のできることで、哀しいものを哀しいままに、美しく描こうと思った。
俺は、『救われたがり』から『救いたがり』になった。ある意味で救われたんだ。
でも、それだけじゃ足りなかった。
誰にも見せることのない道化師の涙が積もりに積もって、俺を飲み込んでいった。
俺はクラウンの涙の海に、溺れていた。
海面は遥か遠く、太陽の光は届かない。
表面上は人に囲まれて楽しそうに笑っていても、俺は海の中で一人ぼっちだった。暗くて寂しくて、手を伸ばしても届かないと絶望して。
涙を流せば流すほど、俺は暗く冷たい海の底へ沈んでいった。
……ああ、そうだ、凛君。知ってるか?
『ピエロ』っていうのは、道化師、つまり『クラウン』の一種なんだ。日本じゃ、道化師=『ピエロ』ってのが一般的だけどな。本当は、道化師と『クラウン』が同義なんだ。
知らなかっただろ?

知らなかった。
いつも明るい乾先輩が、本当は孤独に怯え続けていたなんて。
何も、知らなかった。知ろうともしなかった。
クラウン。道化師。
孤独から逃れるための、乾先輩の武器。
……演じることは、本当の自分を見せないことは、悪いことなのか。
ふと頭をよぎったその考えに、私の何かがぐらついた。
本当の、私。
私は本当に、本当の私のことを知っているのだろうか?
――違う。今考えるべきは、乾先輩のことだ。
頭の片隅に膨らみ始めた疑念を打ち消すようにして、私は乾先輩のことを考えた。
乾先輩は、綺麗だ。
顔がいいとか、そんな意味ではなく、好かれたい、愛されたい、一人になりたくないと、必死に演じるクラウンの、乾先輩の、その姿。
その姿は、何よりも哀しく、愚かで、そして美しかった。
目の前の美しいクラウンは、静寂を埋めるようにサイダーを飲み下す。
「……」
こんな時、何と言えばいいのか。
やっぱり、私には分からなかった。正解なんてない気がして、さらに言葉が出てこなくなる。
でも、一つだけ。
一つだけ、聞いてみたいと思った。
息を吸い込む。できるだけ自然な声で、問う。
「乾先輩は、一人が、嫌で……誰かに必要とされたかった、ということですか?」
サイダーをあおる手が止まり、乾先輩は静かにペットボトルを下ろした。
「そうなのかなぁ……そう、だったのかもしれないな」 
答えるというより、心の声が零れるような口調だった。
「……私は、話を聞いていても、先輩の苦悩が分かりません。でも」
「でも?」
不思議そうに私の顔をのぞき込む乾先輩の声が、ひどく優しかったから。
「でも、一人ぼっちになりたくないのは、それは、……分かります」
気が付けば、私は、誰にも話すつもりのなかったことを、私の本音を、乾先輩に打ち明けていた。

本当のことを言うと、私、小説を書いたことがあったんです。文芸部に入るよりずっと前。小学生の頃の話です。
私は昔から本を読むのが好きで、お話を考えるのが好きでした。そんな私が小説を書くようになるのは、自然な流れでした。……もっとも、中学生に上がる頃には書かなくなりましたけど。
どうして書かなくなったのか?
簡単な話、私が小説を書いたって無意味だと悟ったからです。
私の言葉では誰も救えないと、分かってしまったからです。
私には、一人の親友がいました。
野辺美墨。
優しすぎるくらい優しくて、繊細で、周りをよく見ている女の子です。彼女の隣は居心地が良くて、面倒見のいい彼女のそばは私にとって、安心できる場所でした。
今思えば、私は彼女に甘えすぎていました。本当の姉のように慕って、わがままもたくさん言いました。
彼女が悩んでいることに、気付きもしないで。
「死にたい」
ある日、彼女はぽつりとそう零しました。
二人きりの、下校中のことでした。
私は思いもよらない言葉に気が動転して、そんなこと言わないで、どうしてそう思うの、と問いかけることしかできなかった。
後から調べて分かったんですけどね、「死にたい」と思う人に「そんなこと言わないで」は禁句なんですよね。否定しないで話を聞く、これが常套手段なんだって。小学生の私はそんなこと、一つも知らずに、彼女の言葉を初めに否定してしまった。
後悔しても時は戻らないってことくらい知ってます。でも、それでも、時が戻ってくれたらと思わずにはいられません。
唯一の救いは、彼女の言葉を即座に否定してしまった私に、彼女は話をしてくれたことですね。彼女の話を聞けば、色々なことが重なって「死にたい」という発言につながったことが分かりました。
両親の不仲、クラスの男子からの暴言、見た目へのコンプレックス、将来への不安。
自分なんかが生きていていいのか分からない、と彼女は言いました。
自分なんかが生きていたって仕方ない、それならいっそ、死んでしまいたい、と。
彼女の悩みを聞いて、私は力になりたいと思いました。当然です。大事な親友で、姉のように慕っている彼女が悩んでいると言うなら、妹たる私が支えたかったから。
でも、家族の問題も容姿コンプレックスも、未来のことも、私には手の出しようがありませんでした。
私はただの小学生だったから。
ただ物書きの真似事をしているだけの、世間知らずの子どもだったから。
暴言も、こちらがやめてと言ったところで止まることはありません。それは私も身を以て知っていました。私も「バカ」だの「アホ」だの言われていましたから。これに関しては、犬に吠えられているようなものだと思う他ありませんでした。言い返せば言い返すほど面白がって悪口を重ねる男子がいたものだから、私は「あんなやつの悪口なんて気にすることないよ」「そのうち興味なくして、言ってこなくなるから」なんて、ズレたアドバイスしかできませんでした。
そんな言葉がほしい訳ではないと、それだけは分かるのに、何を言えばいいのか、具体的なことが何一つ分からなかったんです。
そして何より、どうして「死にたい」とまで思うのか、私には分かりませんでした。
実際に経験していないからだろうと思うことにしていましたが、死を望む彼女の気持ちが、私には分かりませんでした。
死んだら、それで終わりです。
死んだら好きなこともできないし、好きな本も読めないのに、どうして死にたいと思うのか。
確かに、生きていれば辛いこともあります。でも、私は死にたいとまでは思いません。だから、彼女の気持ちが、一つも分からなかった。
さすがに口にはしませんでしたが、この疑問が、ずっと私の中に残り続けました。
「死にたい」「どうやったら楽に死ねるかな」と零す親友に、かける言葉を見つけられなかったのも、これが原因だったんだと思います。
「もう少しだけ生きてみようよ」
「私は死んでほしくない」
「死ぬのはきっと痛いよ」
「きっと苦しいよ」
なんとかして彼女をつなぎとめるのに必死で、死を望む彼女自身の気持ちは見えないふりをしていました。きっと今だけだと、一瞬の気の迷いだと思い込んで、彼女にありったけの言葉を手渡しました。
私は、……私は、一人ぼっちになりたくないから、彼女を生かそうと躍起になっていたんです。
なにが親友だ。
自分勝手な思いばかりを優先して、彼女の気持ちに寄り添わなかったくせに。
変えるために動いていれば、何かが変わったかもしれないのに。
中学校に上がってクラスが離れ、私と彼女が話すことは減りました。しかし、中学三年生でクラスが同じになり、また昔のような仲に戻りました。
そして、彼女が「死にたい」と言うことはなくなっていました。

「彼女……美墨ちゃんは、私とは別の高校に進学しました。今も連絡は取っていて、楽しく高校生活を過ごせているらしいです」
でも、その裏でまた苦しんでいないか、不安になってしまう。
それに。
「初めは、時間が解決してくれたんだと思って、それまで死を先延ばしにして良かったんだと思っていたんです。でも、少しずつ、不安になってきたんです」
傷つきやすい繊細な彼女が、優しすぎる彼女が、周りに傷を見せないように上手く隠しているだけなのではないか。
本当は解決なんてしていなくて、今も悩み続けているのではないか。
「私の身勝手さのせいでもありますけど、私は、言葉の無力さを痛いほど感じました。私の言葉は誰も救わない。誰にも響かない。むしろ傷つけてしまうんじゃないかと思うと、何も言えなくなってしまって……」
救いたいと思って小説を書く乾先輩とは大違い。
私は自分の言葉の無力さを知って、小説を捨てた。本を読むことだけは嫌いになれなかったけれど、自分でお話を考えることはなくなった。
私の言葉は、誰も救わないと知ってしまったから。無意味なんだと、気付いてしまったから。
そして、下手をすれば、誰かを傷つけてしまうと思ったから。
「乾先輩。『死にたい』と思う人を引き止めるのは、『生きてほしい』と願うのは……間違っているんでしょうか」
ずっと、知りたかった。
ずっと、吐き出してしまいたかった。
何が正解で何が間違いか、分からなかった。
「死にたい」と思うその気持ちを否定するのも、肯定するのも、どちらも正解には思えなくなっていた。間違いとも思えなかった。
ぐらぐら揺れる世界の中で、それでも平気そうな顔で、平気なふりで生きてきた。私は大丈夫だと言い聞かせて、生きてきた。
無自覚のクラウン。
私は無自覚に、自分すらもだまして、演じていたんだ。無自覚クラウン。なんてお似合いなんだろう。なんて滑稽なんだろう。乾先輩のような美しいクラウンなんて、私は持っていやしない。
私は、馬鹿げた滑稽さと踊る無自覚のクラウンだったんだ。
「まぁ、確かに正解ではないかも知れんが……別に間違いでもないだろ」
「…………え、」
一陣の風が、木陰に吹き込む。木々がざわざわと葉を揺らす。
『間違いでもない』。
私は、乾先輩の言葉を信じられない思いで受け取った。
どうして。それは本当?何を根拠に、そんなことを。
言いたいことが、私の胸の中で渦を巻いていた。
ずいぶん久しぶりの感覚だ。
何を言えばいいのか。何が正解なのか。
それが分からなかった。ずっと、迷い続けていたのに。
「だってそうだろう?死にたいっていうのは本当なんだろうけどな。……なぁ、凛君。『生きてほしい』なんて言われて、嬉しくない人間がいるのか?俺だったら喜ぶんだが」
まぁそこは人それぞれかもしれないけどな、と乾先輩はあっけらかんと言い切る。
「俺はさ、時々、『こうすれば死ねるかも』なんて考えがよぎるよ。何もかもに疲れて、全部終わらせてしまいたい時なんて、特に。悩みなんて人それぞれだし、死にたい理由だって色々あるし、ほしい言葉なんてそれこそ一人一人違ってくる。だがまぁ少なくとも、『生きてほしい』なんていう最大の愛の告白、そこまで嫌がるやつもそうそういないんじゃないか?」
「…………あ、愛の告白?」
いきなり何を言い出すのだと乾先輩を見やれば、キョトンとした顔が返ってくる。
「え、だってそうだろう?『死にたい』っていう相手の願いを叶えられないほど生きてほしくて、そいつのそばにいたくて、これからもずっと、そいつに会いたくて、話がしたい。『生きてほしい』ってのは、そういうことじゃないのか?」
すとん、と何かが腑に落ちた。
ずっと、その言葉を探していた気がする。
そうか。
私は、彼女に生きていてほしかった。
彼女のそばにいたかった。
彼女のいない明日は、想像することさえできなかった。彼女は、美墨ちゃんは、私にとってかけがえのない存在だったから。
そうか。そうだったんだ。
私は、明日も、生きている彼女に会いたかったんだ。
一ヶ月後も一年後も、ずっとずっと未来まで。美墨ちゃんに会いたかった。美墨ちゃんの『死にたい』気持ちを否定してでも、生きてほしいと思った。一緒に、生きていきたいと思った。
そう、ただ、それだけだった。
きっと、これは正しい答えではない。
でも、間違いでもないんだって、信じたい。
彼女に、生きてほしいと思ったこと。これは、私の“ほんとう”なのだから。
「あっ、ちょっ、凛君!?ごめん、俺何か変なこと言った!?」
急にあたふたし出す乾先輩を不思議に思って眺めていると、続いて「なんで泣いてんの!?」と素っ頓狂な悲鳴が上がった。
「え、私、泣いてなんか……」
頬に触れた手が、熱い水滴に濡れる。
汗かと思ったが、確かにそれは、私の目の端から流れているらしかった。
ごめんほんとごめん、と謝りながらハンカチを探し、ポケットに手を突っ込む乾先輩。その必死な姿を見ていると、何だか笑えてきて。
「……くっ、あはははっ!」
突然笑い出した私に驚きつつ、大丈夫らしいと察した乾先輩も、つられて笑い出した。
二人のクラウンの涙と、笑い声が夏の空に溶けていった。
海風が木々を揺らし、葉が音を立てる。それに合わせて、影が揺れた。
……ああ、今なら、書けるかもしれない。
ずっと封じ込めていた小説の構想が、頭の中で渦を巻いていた。
海、砂浜、生きていること。
いつだったか、私の書く小説を読んで、「面白い」と言ってくれた彼女に届くような、そんな小説を書こう。
数年後の私から、あの頃のあなたに、とびきりの言葉を贈ろう。何年経っても色褪せないような、人の心に残り続ける物語を贈ろう。
そして、あの頃の私も丸ごと救うような、とびきり面白い小説を書いてみせよう。
炭酸の抜け始めたサイダーは夏の最後の日差しを浴びて、しゅわしゅわと輝いていた。
【死夢】――空道凛
――
声になり損ねた音がする。
その振動が彼らの体を震わせた。
「くる。なにかくる」
「くる。おちてくる」
「くる。おおきいなにか、おちてくる」
光など差し込むことのない、暗い暗い海の底。ざわざわと騒ぐのは何ぞや。
「きた。なにかきた」
「きた。おちてきた」
「きた。おおきいなにか、おちてきた」
彼らは闇の中を蠢き、"おちてきたおおきななにか"をその体で受け止めた。僅かに感じる質量に、彼らは体を震わせた。
「これ、ニンゲン?」
「ニンゲン、おちてきた?」
「おちてきたニンゲン、ニンゲン、おちてきた」
ニンゲンの体に、彼らの持つゼリーのような冷たさが張り付く。
にわかに、ニンゲンの体に光が宿った。
「光った。ニンゲン、光った」
「光った。ヒカリ、にげる」
「ニンゲンのヒカリ、にげた」
「どこいく、ニンゲン」
「ニンゲン、どこいく」
「ヒカリ、のぼる。どこに?」
光はニンゲンの体を離れ、上へ上へと上昇していく。その光の球は、暗く深い海の底、彼らを照らした。
「まて、ニンゲン」
彼らはその光に誘われるようにして、ふわふわと海の中を漂う。
「ニンゲン、まて」
彼らの姿が光を受けて、この暗さの中、ぼんやりと浮かび上がった。
ゼリー状の透明な体が光を反射し、静かな暖かさをその身に映す。

彼らは、くらげだった。

「ニンゲン、どこにいく」
光の球を見据え、くらげは問うた。
「これいじょう、どこにいく」
光の球は迷うように漂い続ける。一匹のくらげはその軌跡を追う。
不意に、光の球が一匹のくらげに向かって飛んだ。
その動きはこれまでと打って変わって俊敏で、くらげは何が起こったのかもよくわからなかった。
くらげと光の球がぶつかる。
「わ、」
くらげは微かな声を上げて光の球を受ける。
そして、球はぼうっと光り、くらげの中に溶けるようにして消えてしまった。
「どうした」
「だいじょうぶか」
他のくらげたちがわらわらと集まる。
光と溶け合ったくらげは、その内側にぼうっと輝く光の核を持った。光の核は暖かな灯となって、彼らを照らす。
――ここ、は
光の核を宿すくらげから、聞き覚えのない声がした。
「ここ、われらの、せかい」
「ここ、ニンゲン、うみ、と、よぶ」
残りのくらげがそう答え、光を宿すくらげは、ぷるる、とその身を震わせた。
――海。海の底。
呟くようにそう言って、光のくらげは辺りを見回すような仕草をした。
「いまはなしているのは、ニンゲン?」
「たぶん、ニンゲン、はなしてる」
「ニンゲン、ニンゲン、なんでおちてきた?」
徐々に状況を把握してきたくらげたちが問う。
こんなに暗い海の底に、地上で暮らしているらしいニンゲンがそうそう落ちてくるはずもない。くらげたちの興味を惹くには十分だった。
――私、は……
「まちがって、おちてきた?」
「だれかにおとされた?」
「そんなこと、ある?」
「ニンゲンはある、ときく」
「そうなのか」
「うえはこわい」
「こわい」
聞いておきながら、ニンゲンが言葉に詰まるとくらげたちはざわざわと話し始める。事故か他殺か、と問われているらしいと考えたニンゲンは、慌てて口を挟んだ。
――違うの。私は、自分で、海に飛び込んだの。
「なんで?」
「なんで?」
「ニンゲン、うえのせかいじゃないと、いきられない」
「ニンゲン、ここじゃ、しんじゃう」
彼らでも、ニンゲンがここでは生きていけないことを知っている。何故生きていけない場所に来たのか、彼らには理解できなかった。
――私、生きていくのが、嫌になったの。
だからジサツしたの、と静かに語るニンゲンの話を、彼らは物珍しいものでも見るかのような気分で聞いていた。
ニンゲンの話によると、ニンゲンは他のニンゲンから意地悪をされていたらしかった。それが嫌で嫌で仕方なくて、自分で命を断つ選択をしたのだ、と。
説明されても、彼らにはなお理解の及ばない考えだった。
「ニンゲン、いじわるされた。でも、しんじゃったら、なにもできない」
「ふくしゅうするのも、よくはない。でも、しんじゃったら、なんにもできない」
――それでいいの。私、疲れたんだもの。
「ニンゲン、つかれた?」
「つかれたなら、たべて、ねて、またたべなきゃ」
「ねて、おきて、ごはんたべて、ねなきゃ」
「つかれとさよならして、いきていかなきゃ」
――それが嫌でここまで来たの。なのになんで生きていかなきゃいけないの?
ニンゲンはイライラしているらしかった。もう放っておいてよ、と棘々しく言い放つ。
「でも、ニンゲン、せっかく、いきてるのに」
何故ニンゲンが怒っているのか分からない彼らは、さらに言い募る。
「せっかく、いきてるのに、いやなやつのために、しんじゃうの?」
「いやなやつのために、しんじゃうなんて、もったいない」
「もったいない、もったいない」
「いきてなきゃ、なんにもできないんだよ」
「おはなしもできないんだよ」
「おいしいものも、たべられないんだよ」
「すきなこと、なんにもできないんだよ」
「いきるのは、つらいこともあるかもしれないけど、でも、」
「「いきてなきゃ、なんにもできないんだよ」」
光を宿したくらげの体が、ぷるるる、と震えた。
――あなたたちに、私の気持ちが分かるわけない。分かったようなこと言わないでよ……
ニンゲンは弱っていた。
「ニンゲン、ないてる?」
「ニンゲン、ないてるの?」
――泣いてなんか、
「われら、ニンゲンのかんがえ、わからない」
「ニンゲンのなやみ、わかってやれない」
――じゃあ黙っててよ……
言葉はまだ棘を持っているが、語気に力を感じない。
「だって、ニンゲン、しにたくなさそう」
くらげは静かに問うた。
「ニンゲン、いきたい?」
ニンゲンは、くらげの体をぷるぷる震わせて、絞り出すような声で答えた。
――決まってるでしょ……
生きていくなんて無理。だって、あんな環境、耐えられない。だから私は死を選んだ。だから、でも、本当は。
――私だって、生きたい。生きたかった……!
「……ニンゲン」
彼らには、理解できない。生きたいのに死を選ぶニンゲンのことを理解するには、彼らには何かが欠けていた。
しかし彼らにも、わかることはある。
「ニンゲン、つらかったな」
「ニンゲン、よくがんばった」
「ニンゲン、よくたえた」
「ニンゲン、えらい」
光を宿すくらげの周りに、わらわらとくらげが集まる。その姿は、ニンゲンを慰めているようだった。
――でも、死んじゃった。生きたかったのに、私……死んじゃった。
後悔しても時は戻らない。
不変の理を思って、ニンゲンは涙を零した。
ニンゲンの涙は海に溶けて、海の濃度を上げる。くらげたちはそれを透明な肌で感じながら、再度確かめるように問うた。
「ニンゲン、いきたいか?」
――生きたいよ。
「ニンゲン、つらいこと、きっと、またある。それでも、いきたいか?」
――うん、それでも。私は、生きたい。
「そうか。ニンゲン、いきたい」
「ニンゲン、いきたい。われら、てつだう」
――何を、
するつもりなの。
くらげたちはニンゲンの言葉を聞いてはいなかった。ニンゲンの問いかけをみなまで聞かず、光のくらげの周りにぎゅうぎゅうと集まる。
――ちょっと、苦し……
「ニンゲン、もどっても、がんばれ」
「ニンゲン、つらかったら、にげてもいい」
「ニンゲン、こうかい、するな」
「ニンゲン、しぬな」
くらげの中に宿る光がゆるゆると揺れる。くらげと光の結びつきが揺らぐ。
「「ニンゲン、生きろ!」」
その刹那、くらげと光は分離した。

――
声になり損ねた音がした。
後に続くのは静かな海の音。岸に寄せる波の音……
「わたし……」
確か、海に飛び込んで、くらげたちに。
だんだんと覚醒してきた私は、ガバっと身を起こした。目に映るのは白い砂と青い海、そして蒼い空。
くらげたちはおろか、人っ子一人いない砂浜に座り込んで唖然としている人間がいた。
それが、私。
どうやら私は砂浜に転がっていたらしかった。
「くらげたちは……私は、死んだんじゃなかったの……?」
生きている。どこまでが現実だったのだろう。今までのことは、全て夢だったのだろうか。
「……ううん。夢じゃ、ない」
証拠はない。しかし、不思議と確信があった。
きっと暗い暗い海の底では、今この瞬間もくらげたちがざわざわと騒いでいることだろう。僅かな音に、ゼリー状の体を震わせているだろう。
「……ありがとう」
彼らのゼリーの冷たさを思い出しながら、ニンゲン――私は呟いた。
言い損ねた言葉が、彼らの体を震わせていることを祈りながら。


「……どう、ですか」
私が持ってきた小説を食い入るように読む乾先輩に感想を聞く。めっちゃ緊張するなこれ。
「…………うん、めちゃくちゃ面白い!めちゃくちゃ面白いぞ凛君!!」
「……ほ、本当ですか!?」
ああ!と満面の笑みで答える乾先輩を見て、ますます嬉しくなる。
あの日、私は帰宅してすぐ部屋に引きこもり、大急ぎでこの小説を書いた。あんなに書けなかったのが嘘のように、すらすらと言葉が出てきた。途中で何度か言葉につまりはしたものの、頭の中にしっかりとイメージがあったおかげでなんとか書き上げることができたのだった。
「ただ一つ反省点を述べるなら、応募に間に合わなかったことだなぁ……」
乾先輩はそのことを、自分のことのように悔やんでいる。
そう、今日は九月一日。
始業式を終え、無事二学期が始まったばかりだ。
「次からは締め切りに間に合うよう、気をつけます……」
私だって、間に合わなかったことは後悔している。次こそは、と思うのは自然の流れ。
「ああ、ぜひそうしてくれ」
さようなら雪白屋のいちご大福……いや、そう簡単に賞を取れるとは思ってないけど。
「となると、これは部誌掲載になるかなー……俺はどれ載せようかな、わりと短編は書いてるんだけど……」
棚をゴソゴソやりだした乾先輩がまた部室を荒らしている。もう見慣れた光景だ。
「そういえば、文化祭で部誌を発行するんでしたっけ」
それが一番メインの活動だとかなんだとか言っていた気が……ん?
「……もし応募に間に合っていたら、私は何を……?」
応募中の作品を他の場所で発表するのはアウトなはず。乾先輩は私の指摘にギクリと肩を揺らした。
「……やー、その場で詩文でも書かせようかなーなんて……はははは」
「はあ!?」
なんてことだ。ほぼノープランだったってことじゃないか。
「まぁまぁ、うちには詩文のエキスパートがいるし、そういうのもいい経験だろ?」
「詩文のエキスパート……?先輩は詩文もやるんですか?」
あまりイメージはなかったが、なるほど、あの文章なら詩文もいけそうだ、と思っていると、乾先輩はかぶりを振った。
「いーや?俺じゃなくて、もう一人の部員。ほら、二年生の」
…………そういえば、一番最初に言ってたような?
「え、待ってください、私会ったことないんですけど!」
というかもう一人部員がいるなら私が部活動対抗リレーに出なくても良かったのでは?一度も部室に来ていないのに、乾先輩お得意の部活来い来いはやらないのか?文学研修にも来ていなかったけど?
混乱する私に、乾先輩はこともなげに言い放つ。
「ああ、あいつは狙いたい賞があるからしばらく来ないんだとさ。まさか一学期中ずっと来ないとは思ってもみなかったが……まぁそれだけ本気なんだろ、あいつは一人で書きたいタイプだし」
乾先輩はさらっと言っているが、どうしてもほしい賞があるのって相当すごいことでは?何か思い入れがあるのだろうか。
「えっと……その先輩はどんな賞を狙ってるんですか?」
「何だったかなー……何かほら、あの有名な詩人の……国民詩人?って言われてるあの人の賞だよ、名前ど忘れしたけど」
国民詩人って……これまたすごそうな二つ名だな。私が知っているレベルの人だろうか。
私にはまだまだ未知の世界だ、と思っていると、後方から知らない声が答えた。
「――文也先輩、『北原白秋』です。あと私が参加したのは詩文ではなく短歌です」
「あ、そうそう、北原白秋!……あれ、詩文じゃなかったか?」
「違います」
ピシャリと言い切ったのは、文芸部の扉の前に控える女子生徒。長い黒髪が印象的な美人だ。
「ようやくご登場か、『柊檸檬』センセイ?」
「え、『柊檸檬』って」
あの、去年の文芸誌に載っていた『柊檸檬』?
ということはこの人が二年生の文芸部員なのか?
「なんだ凛君、知ってたのか?」
「いや知ってたっていうか、去年の部誌を読んで、この人の詩文好きだなーって思ってて」
「本当に?嬉しいわ」
にこり、と微笑む美人。ま、眩しい。なんで文芸部は美形揃いなんだ。なんで普通の顔の私が浮いてるんだ。
先輩を立ちっぱなしにさせておくのはまずいだろうと席を開け、『柊檸檬』さんに座ってもらう。
「ありがとう。まだ名乗っていなかったわね。私は三木平(みき たいら)。あまり自分の名前が好きじゃないから、苗字で呼んでくれると嬉しいわ」
「えっと、……三木先輩?」
無言でにこりと微笑まれる。
ここまで来たら美人特有の凄みを感じる。これは許諾という意味で取ってもいいのだろうか。
「はじめまして、空道凛です。三木先輩のお好きなように呼んでください」
「ありがとう。じゃあ、空道ちゃんって呼んでも良いかしら」
それはもちろん。
「でも私たち、はじめましてではないわよ」
さらりと衝撃の事実を告げられた。
「え、どこかでお会いしました?」
こんな涼しげな美人、一体どこで……
…………涼しげな?
「あ!もしかして、昨日の駅の、」
「そう。覚えていてくれたのね」
にこり肯定。
あの『北原白秋詩集』を読んでいた女の子を思い出す。まさか、あの少女が三木先輩だったとは……。
「え、でもなんであんな暑い中、駅にいたんですか?」
夏休み最終日に、わざわざあんなところにいなくても。
「だって、文芸部の連絡用チャットで『海に行きませんか』と来ていたもの。……私は四月から部活に顔を出していないし、きっと私ではないだろうとは思ったけれど、文芸部に入部した一年生がどんな子か気になったから、あの駅で待っていたの」
「えっと、……なんかすみません……」
いつ部室に行っても乾先輩しかいないものだから、もう一人先輩がいることを忘れていた……なんて、本人を前にして言えるはずがない。
「私が行きたかったから行っただけよ。私のことは忘れられているのは分かっていたし?別に気にしてなんていないもの」
ふーんだ、とそっぽを向く三木先輩。
そう言う割には気にしていそうですけど……。
「とか言ってー、結構気にしてたやつだなー?」
あ、乾先輩、そのまま言っちゃうんですね。
ちなみに乾先輩は三木先輩に足を踏まれ、「痛い痛い!すまん悪かった!」と叫び声を上げていた。
私が言えたことではないけど、三木先輩、容赦ないなあ。
こんな大人っぽい雰囲気の美人があの詩文を書いたのか?と不思議に思っていたけれど、なるほど、幼心を忘れていない人らしい。……って、こんなこと言ってたら私も足踏まれるかな。
「相変わらず減らない口ですこと……いっそ縫い付けますか?」
「いや柊センセイに縫い付けられたら口どころじゃすまな、痛い痛い、すまんもう言わないんで足どけてください!」
私は三木先輩の地雷を踏まないようにしよう。
心の中で密かに決意した。
やっと足をどけてもらえた乾先輩は、足の指先をさすっている。痛そう。
私はその光景を、この数ヶ月ですっかり馴染んだ文芸部の非日常を眺める。
乾先輩は、すっかりいつもの乾先輩だ。
クラウンであり続ける乾先輩と私は、きっとどこか似ていた。
周りのことが分からなくて、不安で、一人ぼっちが怖かった。だからクラウンの仮面を被って、不安を押し殺して、クラウンを演じてきた。
今更仮面を外すなんてできない。
乾先輩はもちろん、私だってそうだ。でもきっと、外す必要はない。仮面が苦しくなったら少し外して、少しの涙と本音を零したなら、私たちはまたクラウンになる。
寂しがりで救いたがりのクラウンたちは、そうやって生きていく。
これが、私たちの生き方だ。
「なー凛君、もし俺が『死にたい』って言ったらどうする?」
「はい……?」
考え事をしている間に話題が明後日の方向に飛んでいたらしい。三木先輩は「またか」といった表情でいる。さては慣れてるな?
一瞬呆気にとられたが、私は迷うことなく答えた。
「全力で止めますよ。生きていてほしいので」
死を望む人に生きてほしいと言うのは、どうがんばったって残酷だ。
でも、私は、生きてほしいと願うことをやめられない。私はクラウンだけど、この一点においては素直に、わがままになろうと思う。
それでいいんですよね、乾先輩。
八月の終わり、乾先輩が私の本音を否定しないでいてくれた。
夏の終わり、一人のクラウンが、一人のクラウンを救ってみせたのだ。
「…………」
自分から聞いておきながら、返事がない。
不審に思い乾先輩を見やれば、鼻どころか顔中を真っ赤にしたクラウンが一人。
……え、どうした。
三木先輩は「あらあらまあまあ」と微笑んでいる。その視線が痛い。
どういう状況か分からず戸惑う私の脳裏に、あの日の言葉が蘇った。
――『生きていてほしい』なんて最大の愛の告白、……
愛の告白。
「ちょっ、えっ、待っ……ち、違いますよ!?あくまで私の周りの人が死ぬのが嫌なだけで、そういう意味で言ったんじゃあ……!」
あわてて弁明しながら、頬に熱が集まるのを感じた。
今の私は、きっと乾先輩に負けないくらい真っ赤な顔をしているに違いない。
「そっ……そうだよな!うん!変なこと聞いて悪かった、すまん!」
「ほ、本当ですよ!からかうのもいい加減にしてください!」
私たちは、互いに真っ赤な顔を見合わせて叫んだ。なんだこれ、めちゃくちゃ恥ずかしい。
なお、三木先輩はこの状況を楽しんでおり、「あらあらまあまあ」と呟き続けている。
楽しんでないで何か言ってください!と目で訴えると、それが通じたのか「空に真っ赤な雲の色〜」と歌い出した。いや、皮肉れとは言ってないです。
「えっと、まぁ……おめでとう?」
「「何が!?」」
「息ぴったりね」
お似合いよ、とくすくす楽しそうに笑う三木先輩は間違いなく小悪魔だった。これも幼心がなせる技なのか。
肩で息をする私と乾先輩は顔を見合わせ、
「困ったな、絶対勘違いしてるぞ」
「絶対勘違いしてますね」
とこそこそ言い合った。クラウン流の照れ隠しである。必死に誤魔化すお互いのクラウンっぷりに、どちらからともなく、私たちは噴き出した。「「あははははっ」」と笑い出した私たちに、「え、待って、楽しそうに二人でこそこそと……私も混ぜてちょうだい」と疎外感に拗ねてみせる三木先輩。
文芸部の部室には、楽しげな笑い声が響いていた。

私たちはクラウンだ。
クラウンが恋なんてする訳ないと、ほとんどの人が否定するだろう。クラウンは人を笑わせるのが仕事で、彼らには滑稽なイメージがつきまとう。ロマンチックな恋なんて、クラウンには似合わないかもしれない。
でも、確かに私は、ひどく愚かで哀しい、そして美しいクラウンに恋をした。
誰が否定しようと、これは道化じゃない。
道化師の仮面にちらりとのぞく、本音の部分だ。
……でも、私はクラウンだから、この恋を仮面で隠してしまうだろう。果たして目の前の哀しく美しいクラウンは、私の恋心に気付くのだろうか。
気付いてほしいような、気付いてほしくないような。
どちらとも言える感情の中、私は仮面を手に取った。
一人ぼっちになりたくなくて、少しずつ傷ついて、それでも手放せなかった仮面。
仮面に入った少しの傷さえ愛おしい。名誉の傷とは少し異なる色の傷だ。
さあ、もう十分泣いた。
仮面をつけて、踊ろうか。
仮面が苦しくなった時は、目の前のクラウンに本音を零してしまえばいい。
きっと、この哀しく美しいクラウンは、静かに話を聞いてくれるから。
そして、この優しいクラウンが苦しくなったら。その時は、話を聞いて、そばにいよう。
私は、あなたの望む言葉を見つけられない。あなたを救う言葉を、見つけられない。
それでも、私はあなたを知りたい。理解したい。
あなたが苦しい時は、私がこの手をのばすから。
だからその時は、どうかこの手を取ってほしい。
それまでは、騙して、化かして、おどけよう。それがあなたで、それが私だ。
この選択は、きっと、正解ではない。
でも、間違いでもないはずだ。
だって、これが私たちの生き方なのだから。
そして、私は――私たちは、クラウンになる。
君はサーカスを見たことがあるかい?
……うんうん。見たことがある子もいれば、まだ見たことないよって子もいるね。
俺かい?俺はもちろん、見たことあるよ。
空中ブランコ、火の輪くぐりに綱渡り。わくわくするよなぁ。俺も好きだ。
だけど、一番みんなを楽しませてくれるのはピエロなんだ。嘘じゃないさ、ほんとだぞ?
だって彼らは、自分が笑われたっていいからと、必死におどけているんだぞ。健気じゃないか。
……え、なになに、それじゃピエロがかわいそう?なるほど、君の言うことももっともだ。
でもね、彼らは、笑っていてほしいんだよ。
他でもない君たちに。
え、仮面を外せばいいだろうって?ピエロをやめてしまえばいい?
そりゃ、君、横暴ってやつさ。
彼らはもう、仮面を外せないんだから。彼らにとっては、今さらなんだろうさ。
……でも、まぁ、そうだね。
ピエロが辛いと、助けてと君たちに言ったなら、君たちは助けてやればいい。
このお話に出てきたクラウンたちもおんなじだ。
苦しくなったそのときに、力になってやればいいんだ。
だって彼らの一番の願いは、君たちに笑っていてもらうこと。
そして、誰かを救うこと。
一人ぼっちじゃなくなったクラウンたちは、今ここにいる君たちの笑顔を望んでいるんだよ。
だから、笑ってみせてくれ。
笑えないなら、話を聞くさ。泣き止むまでそばにいて、お話をしてあげよう。
十分泣いたと思えたら、笑ってみせてくれ。
大丈夫、笑えないなら、クラウンが笑わせてくれるから。
ん、なんだって?クラウンなんて本当はいないだろう?君、ずいぶんませた子だね。
いいかい、君、周りをよく見てごらん。
君の周りには、きっと、君をよく見ていて、君に笑っていてほしいと願う人がいるだろう。
本当だって、俺は嘘もつくけれど、これは嘘じゃないぞ。
え、絶対にいない?そうか、断言しちゃうのか。
残念だが、それは間違いだ。……はいはい、本当にいないって、そんなに必死に言わなくても。
いいかい、君に笑ってほしいと思うやつは君の目の前にいるんだよ。
あ、ちょっと、そこの君、どこ見てるんだい。
ここだよ、ここ。
ここに一人、君の笑顔を望むクラウンがいるだろう?
そう、俺だ。
驚いたか?
はじめまして、俺はクラウン。とある人から伝言を頼まれた、一人のクラウンだ。
とある人が誰かって?いやあ、それは言えないなぁ。……なんて言ったら、あっちの疑り深い彼が嘘だと言い始めるだろうから言っておこうか。ここだけの話だぞ?
クラウンになったとある女の子。
その子が、君たちに笑っていてほしいからと、このお話を届けるように俺に言ったのさ。え、名前?それはさすがに言えないなぁ……でも君たちは、薄々気付いているだろう?そう、その子で合ってるよ。
全く人使い、違った、クラウン使いが荒いんだから。困ったものだよ。
さて、そろそろお別れだ。
幕は閉ざされ、俺はクラウンの仮面を外す。でも君たちは、その姿を見ることができるかな。
クラウンというのは、道化師だ。
本音を隠すのが仕事だよ。
それを通り越して、君たちは俺たちの本音を見つけ出すことができるかな?……うんうん、楽しみにしているよ。
では諸君、閉幕だ!
また会う日まで、さようなら!



――な、上手くおどけて魅せただろ?

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