カララ、と軽い音が夜の学校に響く。職員室の扉が開かれたのだ。
「……ああ、柳川先生。出張、お疲れ様です」
「ありがとうございます、ただいま戻りました。塩田先生も、お疲れ様です」
職員室に授業の準備をすべく残っていた塩田先生と、出張帰りの柳川先生が互いを労い合う。
「コーヒー、淹れましょうか」
塩田先生の申し出に、「それじゃあ、お言葉に甘えて。お願いします」と柳川先生は穏やかに答える。二人は同期であり、長い間この高校に勤務している者同士である。気安すぎず固すぎず、独特の距離感を保っていた。
「ここのところ、柳川先生は出張が続いていますねぇ」
「そうなんですよ、おかげで部活動に顔を出すことすらままなりません」
柳川先生は肩をすくめてみせた。
仕事が片付いた頃には既に活動が終わっているため、新年度になってからは一度も部活動の様子を見ていないのだ。
「柳川先生は、確か、文芸部顧問でしたか。しかし文芸部は先生がいなくとも活動できる部員ばかりでしょう?羨ましい限りですよ」
どんな指導をしたらそんなふうに部員が育つんですかねぇ、と塩田先生。柳川先生は苦笑して、特別なことは何もしていませんよ、と答える。
「彼らは自分たちの書きたいことを書いていますからね。僕は自由にさせているだけです」
「ははぁ、教師の鏡ですな」
「よしてください、ただの怠けと捉えられかねない」
トポポポ、と熱湯をカップに注ぎながら、塩田先生は愚痴を零した。
「私はつい口うるさく言ってしまうんですよ。それがいけないのか、自主的な活動がなかなか達成されないままです」
塩田先生は、柳川先生がしたように肩をすくめてみせる。
「いいじゃないですか、熱心な指導で。僕はそろそろ、『もっとちゃんと指導しろ』と怒られるんじゃないかとヒヤヒヤしていますよ」
そして柳川先生も肩をすくめる。
二人の先生は顔を見合わせ、「「ははははっ」」と笑う。教壇に立っているときとは少し違う姿だ。
塩田先生はコーヒーを淹れたカップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
それを受け取った柳川先生は、コーヒーを一口啜り、「うん、塩田先生が淹れたコーヒーはやはり美味しいですね」と頷く。
「はは、それは良かった」
塩田先生は二つのカップを手にしている。片方のコーヒーを啜り、「うむ、上出来」とつぶやいた。……ん、二つ?
「ほら、隠れていないで。出てきなさい、乾くん」
「ありゃ、バレてましたか」
そう、俺こと乾文也は、文芸部顧問たる柳川先生に話しかけるタイミングを伺っていたのだ。あわよくば驚かせようと思って潜んでいたが、先生方にはお見通しだったらしい。
バレていたなら仕方ない。俺は折口先生の机の陰からひょこっと顔を出す。
「そろそろ来る頃かなぁ、とは思っていたからね」
柳川先生はこともなげにそう言い切り、コーヒーを一口啜った。
部活の顧問に俺の行動パターンが把握されている。
さすがは柳川先生。いや、俺がわかりやすいのか?……まぁ、それはいい。
「それよか、新作できたんですよ先生!読んでください!」
「はいはい」
柳川先生は、コトリ、とカップを机に置く。
そして俺が差し出す紙の束を受け取った。俺にしては珍しく、きちんと原稿用紙に清書したものだ。
「じゃあ、読ませてもらうよ」
「お願いします」
俺の返事を聞いていたのかどうか、すぐさま柳川先生は原稿用紙に目を落とし、黙々と読み進めていた。
緊張する。
自分の作品が読まれるのは、どんな場面でも緊張するものだ。しかしながら、目の前で読まれることほど緊張することはないだろう。
少なくとも俺はそう。できる限り平気そうな顔で、柳川先生の様子を観察する。
「ほう」「ふむ」と独り言をぽつぽつ零しながら読み進める姿に、さらに緊張が高まる。
先生、「ほう」って何ですか。感心って意味の「ほう」ですか。「ふむ」ってのは、直すべきところってことですか。
柳川先生の反応だけでは好感触か否かさえ分からない。
ソワソワする俺に、塩田先生はカップを差し出した。塩田先生なりの励ましだ。俺はありがたくカップを受け取り、コーヒーを一口啜る。甘い。さては砂糖多めに入れたな?俺はブラックも飲めますよ塩田先生。別に甘くてもいいけど。
「……なるほど」
俺の小説を読み終えた柳川先生が、ぽつりとつぶやく。判定やいかに。
「どうですか、わりと自信作なんですけど」
今回の小説は、仮面を売り歩くとある男の話だ。
古来より、仮面というものは自分ではない何かになるための道具だった。しかし同時に、その人物の本来の姿を象徴するものでもあるらしい。そのパラドックスに挑戦した作品だ。
「うん、面白いと思うよ。乾くんの色も出ているし」
よし、好感触だな。
柳川先生の高評価をもらい、俺は思わず顔をほころばせた。
「ただ、もう少し読者にヒントをあげてもいいんじゃないかなぁ。ちょっと伏線が薄いかもしれないね」
「やっぱりそうですかね?そこ、結構迷ってて。直してみます」
俺の小説に対する不安要素を的確に見抜く柳川先生、素直に尊敬する。
「それで、これはまた何かの賞に応募するのかい?」
はい、と原稿用紙を手渡しながら、柳川先生は問う。
「そうですね、一応出すつもりではいるんですけど……そこ、かなり容赦なく『該当作なし』を出すところなんで不安なんですよね」
数年続けて『該当作なし』もザラな小説応募。条件がいいから前々から気になってはいたんだけどな。
「まぁ、やってみなよ。もしかしたら、もしかするかもしれないよ」
「なんか、仮定法みたいな言いようですね……」
そりゃあ、賞を取るのはなかなか難しいことではあるけれども。
それに、俺自身はどこかの誰かさんと違って賞に固執するつもりはない。
認められなくてもいい。俺は、俺の小説を受け止めてくれる読者に出会いたい。
肯定はなくてもいい。ただ、俺を受け止めてくれる誰かに会いたい。
それが、俺の小説を書く理由の一つだ。
「ああ、そうだ。乾くん、これ、どういう意味か分かるかい?」
唐突にそう言って、柳川先生はおもむろにポケットからスマホを取り出し、その画面を見せてきた。
どれどれ。
スマホを覗き込んだ俺の目に、連絡アプリの画面が映った。帰宅が遅くなる旨を伝える柳川先生のメッセージと、『了解』という返事。
そしてその直後に、もう一つ、メッセージが送られている。
「これがどういう意味か、と?」
「そう、僕にはさっぱりでね」
831。
何の前触れもなく唐突に送られてきた数字に、柳川先生は困惑したのだろう。そりゃそうだ。
「これ、柳川先生の奥さんですか?」
じゃないと少々問題だがな。案の定、「そうだよ」という答えが返ってくる。ふむ、なるほど。
「奥さんは英語が得意?」
「ああ、そうだね。大学生のとき、アメリカに留学していたらしい、けど、」
なぜそれを?といった顔の柳川先生を眺める。うんうん、いい反応。
さて、ちょっと早いが、ネタ明かしといきますか。
「『831』ってのは、英語圏における愛の告白ですね。外国版の『月が綺麗ですね』っていうか」
「え、どうしてだい?」
「では柳川先生、英語で『愛してる』は?」
「『I love you』、だろう?ちょっとそれは教師を馬鹿にしすぎじゃないかなぁ」
柳川先生は、確かに英語は得意ではないけれど、と苦言を呈する。
「これはこれは、失礼しました」
少々大げさな動きで一礼してみせる。
はいはい、と軽く受け流され、俺は解説の続きを語る。
「八と三と一。八つのアルファベットと三つの単語。それらが一つの意味を表すんです。すなわち、」
「……『I love you』、か」
「はい、そういうことです」
しかし、こんな洒落たことを知っている柳川先生の奥さんって一体……いや、留学中に知ったのか?
「なるほど、確かに英語版『月が綺麗ですね』だねぇ」
「それじゃあ雑学ついでにもう一つ。『月が綺麗ですね』と言った」
「夏目漱石!」
「は有名ですが、『◯◯が綺麗ですね』という言い方は他にもある。例えば何があるか?」
「そ、そうなんだ……」
引っ掛ける意図はなかったが、シュンとしている柳川先生を見ていたらかわいそうになってきた。ごめん、先生。
「月以外なんだよね?……星、とか?」
「おっ、正解です」
柳川先生は少し考え、一発で当てた。さすが。
「ちなみに、意味は『あなたは私の気持ちを知らないでしょう』、『私はあなたに憧れています』。片想いって感じですね」
「へぇ、おしゃれだね。他にもあるのかい?」
「もちろん。虹なら、『あなたとつながっていたらいいのに』。夕日とか海とかもありますね。調べてみると、いろいろあって面白いですよ」
「詳しいねぇ。もしかして、好きな人でもいるのかな?」
「……いませんけど?」
またか。またそういう話題なのか。
「あ、もしかして新入部員の子?ずいぶん気にかけていると聞くよ」
案の定、相手は凛君だし。
「いや、ほんと違うんで勘弁してください……」
そもそも、俺は恋なんて分からない。そんな普通の人間らしい感情なんて持ち合わせていない、と思う。
「本当に〜?」とからかってくる柳川先生に「違いますって」と返しつつ、凛君のことを考える。
真っ先に思い出すのは、今日の駅でのことだ。
なんであんなことを、と自分でも不思議に思う。
あと一歩遅ければ、俺は、あのまま、落ちていた。
俺には自殺願望なんてない。まぁ考えることはあるが、実際に行動に移したことなんて一度もないし、これからもきっとない。
それなのに、どうしてだろうか。
――なんか、凛君といると、安心するんだよな。
文句を言いながらでもそばにいてくれて、なんだかんだ部活にも出てくれて。
だからなのかなぁ。自分のことなのに、分からないもんだな。
「本当の本当に?」となおも聞いてくる柳川先生を適当にかわしながら、思考をリセットする。
そうだ、『海が綺麗ですね』の意味を凛君に教えておこうか。海の小説に使えるかもしれないし。
その言葉の裏の意味を思い出す。無意識にも、凛君を相手に据えて。
耳が熱くなるのを感じた。
ああくそ、なんでかき乱されてるんだ。
少しでも気持ちを落ち着かせようと、コーヒーを飲む。時間が経って冷たくなった塩田先生のコーヒーは、少し苦かった。
――『海が綺麗ですね』の意味は、『あなたに溺れています』である。
「……ああ、柳川先生。出張、お疲れ様です」
「ありがとうございます、ただいま戻りました。塩田先生も、お疲れ様です」
職員室に授業の準備をすべく残っていた塩田先生と、出張帰りの柳川先生が互いを労い合う。
「コーヒー、淹れましょうか」
塩田先生の申し出に、「それじゃあ、お言葉に甘えて。お願いします」と柳川先生は穏やかに答える。二人は同期であり、長い間この高校に勤務している者同士である。気安すぎず固すぎず、独特の距離感を保っていた。
「ここのところ、柳川先生は出張が続いていますねぇ」
「そうなんですよ、おかげで部活動に顔を出すことすらままなりません」
柳川先生は肩をすくめてみせた。
仕事が片付いた頃には既に活動が終わっているため、新年度になってからは一度も部活動の様子を見ていないのだ。
「柳川先生は、確か、文芸部顧問でしたか。しかし文芸部は先生がいなくとも活動できる部員ばかりでしょう?羨ましい限りですよ」
どんな指導をしたらそんなふうに部員が育つんですかねぇ、と塩田先生。柳川先生は苦笑して、特別なことは何もしていませんよ、と答える。
「彼らは自分たちの書きたいことを書いていますからね。僕は自由にさせているだけです」
「ははぁ、教師の鏡ですな」
「よしてください、ただの怠けと捉えられかねない」
トポポポ、と熱湯をカップに注ぎながら、塩田先生は愚痴を零した。
「私はつい口うるさく言ってしまうんですよ。それがいけないのか、自主的な活動がなかなか達成されないままです」
塩田先生は、柳川先生がしたように肩をすくめてみせる。
「いいじゃないですか、熱心な指導で。僕はそろそろ、『もっとちゃんと指導しろ』と怒られるんじゃないかとヒヤヒヤしていますよ」
そして柳川先生も肩をすくめる。
二人の先生は顔を見合わせ、「「ははははっ」」と笑う。教壇に立っているときとは少し違う姿だ。
塩田先生はコーヒーを淹れたカップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
それを受け取った柳川先生は、コーヒーを一口啜り、「うん、塩田先生が淹れたコーヒーはやはり美味しいですね」と頷く。
「はは、それは良かった」
塩田先生は二つのカップを手にしている。片方のコーヒーを啜り、「うむ、上出来」とつぶやいた。……ん、二つ?
「ほら、隠れていないで。出てきなさい、乾くん」
「ありゃ、バレてましたか」
そう、俺こと乾文也は、文芸部顧問たる柳川先生に話しかけるタイミングを伺っていたのだ。あわよくば驚かせようと思って潜んでいたが、先生方にはお見通しだったらしい。
バレていたなら仕方ない。俺は折口先生の机の陰からひょこっと顔を出す。
「そろそろ来る頃かなぁ、とは思っていたからね」
柳川先生はこともなげにそう言い切り、コーヒーを一口啜った。
部活の顧問に俺の行動パターンが把握されている。
さすがは柳川先生。いや、俺がわかりやすいのか?……まぁ、それはいい。
「それよか、新作できたんですよ先生!読んでください!」
「はいはい」
柳川先生は、コトリ、とカップを机に置く。
そして俺が差し出す紙の束を受け取った。俺にしては珍しく、きちんと原稿用紙に清書したものだ。
「じゃあ、読ませてもらうよ」
「お願いします」
俺の返事を聞いていたのかどうか、すぐさま柳川先生は原稿用紙に目を落とし、黙々と読み進めていた。
緊張する。
自分の作品が読まれるのは、どんな場面でも緊張するものだ。しかしながら、目の前で読まれることほど緊張することはないだろう。
少なくとも俺はそう。できる限り平気そうな顔で、柳川先生の様子を観察する。
「ほう」「ふむ」と独り言をぽつぽつ零しながら読み進める姿に、さらに緊張が高まる。
先生、「ほう」って何ですか。感心って意味の「ほう」ですか。「ふむ」ってのは、直すべきところってことですか。
柳川先生の反応だけでは好感触か否かさえ分からない。
ソワソワする俺に、塩田先生はカップを差し出した。塩田先生なりの励ましだ。俺はありがたくカップを受け取り、コーヒーを一口啜る。甘い。さては砂糖多めに入れたな?俺はブラックも飲めますよ塩田先生。別に甘くてもいいけど。
「……なるほど」
俺の小説を読み終えた柳川先生が、ぽつりとつぶやく。判定やいかに。
「どうですか、わりと自信作なんですけど」
今回の小説は、仮面を売り歩くとある男の話だ。
古来より、仮面というものは自分ではない何かになるための道具だった。しかし同時に、その人物の本来の姿を象徴するものでもあるらしい。そのパラドックスに挑戦した作品だ。
「うん、面白いと思うよ。乾くんの色も出ているし」
よし、好感触だな。
柳川先生の高評価をもらい、俺は思わず顔をほころばせた。
「ただ、もう少し読者にヒントをあげてもいいんじゃないかなぁ。ちょっと伏線が薄いかもしれないね」
「やっぱりそうですかね?そこ、結構迷ってて。直してみます」
俺の小説に対する不安要素を的確に見抜く柳川先生、素直に尊敬する。
「それで、これはまた何かの賞に応募するのかい?」
はい、と原稿用紙を手渡しながら、柳川先生は問う。
「そうですね、一応出すつもりではいるんですけど……そこ、かなり容赦なく『該当作なし』を出すところなんで不安なんですよね」
数年続けて『該当作なし』もザラな小説応募。条件がいいから前々から気になってはいたんだけどな。
「まぁ、やってみなよ。もしかしたら、もしかするかもしれないよ」
「なんか、仮定法みたいな言いようですね……」
そりゃあ、賞を取るのはなかなか難しいことではあるけれども。
それに、俺自身はどこかの誰かさんと違って賞に固執するつもりはない。
認められなくてもいい。俺は、俺の小説を受け止めてくれる読者に出会いたい。
肯定はなくてもいい。ただ、俺を受け止めてくれる誰かに会いたい。
それが、俺の小説を書く理由の一つだ。
「ああ、そうだ。乾くん、これ、どういう意味か分かるかい?」
唐突にそう言って、柳川先生はおもむろにポケットからスマホを取り出し、その画面を見せてきた。
どれどれ。
スマホを覗き込んだ俺の目に、連絡アプリの画面が映った。帰宅が遅くなる旨を伝える柳川先生のメッセージと、『了解』という返事。
そしてその直後に、もう一つ、メッセージが送られている。
「これがどういう意味か、と?」
「そう、僕にはさっぱりでね」
831。
何の前触れもなく唐突に送られてきた数字に、柳川先生は困惑したのだろう。そりゃそうだ。
「これ、柳川先生の奥さんですか?」
じゃないと少々問題だがな。案の定、「そうだよ」という答えが返ってくる。ふむ、なるほど。
「奥さんは英語が得意?」
「ああ、そうだね。大学生のとき、アメリカに留学していたらしい、けど、」
なぜそれを?といった顔の柳川先生を眺める。うんうん、いい反応。
さて、ちょっと早いが、ネタ明かしといきますか。
「『831』ってのは、英語圏における愛の告白ですね。外国版の『月が綺麗ですね』っていうか」
「え、どうしてだい?」
「では柳川先生、英語で『愛してる』は?」
「『I love you』、だろう?ちょっとそれは教師を馬鹿にしすぎじゃないかなぁ」
柳川先生は、確かに英語は得意ではないけれど、と苦言を呈する。
「これはこれは、失礼しました」
少々大げさな動きで一礼してみせる。
はいはい、と軽く受け流され、俺は解説の続きを語る。
「八と三と一。八つのアルファベットと三つの単語。それらが一つの意味を表すんです。すなわち、」
「……『I love you』、か」
「はい、そういうことです」
しかし、こんな洒落たことを知っている柳川先生の奥さんって一体……いや、留学中に知ったのか?
「なるほど、確かに英語版『月が綺麗ですね』だねぇ」
「それじゃあ雑学ついでにもう一つ。『月が綺麗ですね』と言った」
「夏目漱石!」
「は有名ですが、『◯◯が綺麗ですね』という言い方は他にもある。例えば何があるか?」
「そ、そうなんだ……」
引っ掛ける意図はなかったが、シュンとしている柳川先生を見ていたらかわいそうになってきた。ごめん、先生。
「月以外なんだよね?……星、とか?」
「おっ、正解です」
柳川先生は少し考え、一発で当てた。さすが。
「ちなみに、意味は『あなたは私の気持ちを知らないでしょう』、『私はあなたに憧れています』。片想いって感じですね」
「へぇ、おしゃれだね。他にもあるのかい?」
「もちろん。虹なら、『あなたとつながっていたらいいのに』。夕日とか海とかもありますね。調べてみると、いろいろあって面白いですよ」
「詳しいねぇ。もしかして、好きな人でもいるのかな?」
「……いませんけど?」
またか。またそういう話題なのか。
「あ、もしかして新入部員の子?ずいぶん気にかけていると聞くよ」
案の定、相手は凛君だし。
「いや、ほんと違うんで勘弁してください……」
そもそも、俺は恋なんて分からない。そんな普通の人間らしい感情なんて持ち合わせていない、と思う。
「本当に〜?」とからかってくる柳川先生に「違いますって」と返しつつ、凛君のことを考える。
真っ先に思い出すのは、今日の駅でのことだ。
なんであんなことを、と自分でも不思議に思う。
あと一歩遅ければ、俺は、あのまま、落ちていた。
俺には自殺願望なんてない。まぁ考えることはあるが、実際に行動に移したことなんて一度もないし、これからもきっとない。
それなのに、どうしてだろうか。
――なんか、凛君といると、安心するんだよな。
文句を言いながらでもそばにいてくれて、なんだかんだ部活にも出てくれて。
だからなのかなぁ。自分のことなのに、分からないもんだな。
「本当の本当に?」となおも聞いてくる柳川先生を適当にかわしながら、思考をリセットする。
そうだ、『海が綺麗ですね』の意味を凛君に教えておこうか。海の小説に使えるかもしれないし。
その言葉の裏の意味を思い出す。無意識にも、凛君を相手に据えて。
耳が熱くなるのを感じた。
ああくそ、なんでかき乱されてるんだ。
少しでも気持ちを落ち着かせようと、コーヒーを飲む。時間が経って冷たくなった塩田先生のコーヒーは、少し苦かった。
――『海が綺麗ですね』の意味は、『あなたに溺れています』である。
