一週間、正確には五日間。
長い長い考査が明けて、私は久しぶりに部室に顔を出した。考査期間は部活動禁止だったので、実に一週間ぶり。考査二週間前からはずっと勉強会みたいなものだったけど。
「失礼します」
ガラゴロと部室の扉を開けると、机の上に紙が散乱している光景が目に飛び込んできた。
「ああ凛君、久しぶり。と言っても一週間くらいか?」
そしてその中心にいる乾先輩。……おいおいおいおい。
「うわ、また散らかして……先輩は部室を散らかさないと死ぬんですか?」
「し、辛辣っ!」
乾先輩が大げさにのけぞったせいでまた紙が床に散る。あーあー、もう動かないでください。
私はいつからこの人の世話係になったんだ、と思いつつ紙を拾い上げる。原稿用紙でも、メモ用紙でもない。きちんと印刷された紙には『文芸部文学研修』と書かれていた。
「文芸部文学研修……って、これ、」
まさか私も行くのだろうか。疑問の目を乾先輩に向けると、本人はキョトンとしていた。
「……あれ、言ってなかったっけ?」
「聞いてませんけど!?」
またか。またなのか。いい加減しっかりして頂きたい。
「え、すまん、言ったつもりでいた」
「はぁ……まあいいです。で、これはいつなんですか?」
「六月十三日」
「え」
「だから今週の土曜日だな」
は、はやく言えぇ!
今日は木曜日だから……あと二日?いや今日を入れなければあと一日じゃないか!
じとりと睨むと、乾先輩も直前すぎたと思ったのか、言いつくろい始めた。
「いや、大丈夫だ、ほとんどの費用は部費から出るし持ち物だって特別な物はないし、一応スマホとお金があれば十分なくらい!あ、ちなみに俺のときは前日に言われた!」
「うわぁ……歴史は繰り返す……」
「いやマシにはなってるから!一応!」
一日が一日と半日に延びただけですけど。
乾先輩は私の抗議の目線を遮るように、「えー……ごほんごほ、んっ、んんんんっん」と妙な咳払いをした。たぶん後半はむせてた。
「えー、この文学研修はこの時期の恒例行事で、香川の文学を知ることが目的だ。毎年、菊池寛記念館に行ってるな。顧問の柳川先生は予定が合えば来るけど、たいてい何かしらと予定が被るから生徒だけで行かされるのがお決まりだ。移動費、昼食代は部費から出る。一年目はレポート……感想文みたいなものを書かされるが、まぁ二年目以降はないから安心しろ。あ、詳細はその紙の通りだ。それは持って帰ってくれ」
「はあ……」
とりあえず概要は分かった。分かった、が……。
「……で、どうしてここまで部室が散らかっているんですか?」
今の私にとっては、こちらのほうが重要だ。なぜ乾先輩は部室を荒らさずにいられないんだ。
「あー、いやぁ……せっかく記念館行くんだし、菊池寛についての復習でもしておこうと思って。昔調べたときの資料を探してたら、いつの間にか?」
「……散らかさずに探せなかったんですか?」
ちゃんと調べてるのはすごいんですけどね。部室荒らしの犯人は「俺の知らないうちに紙が自由気ままに遊んでるんだよ……」などと供述しており。……不思議なこともあったもんですね?
「えーと……以後気をつけます……」
しおらしい態度で謝罪するものだから、思わず「……はあ」と言ってしまう。強く言えない……。
その返答で、もう怒られないと勘付いたのか、乾先輩はパッといつもの調子に戻る。
「ところで凛君、小説は進んでるか?」
「いえ……難航してますね」
内容すら未定のままだ。海について調べまくったために、海の知識だけは満たされている。
「まぁ難しいよなぁ。……まずはモチーフを決めて次に構成、その次が書き起こし、最後が見直し。俺はだいたいこの手順で書いてるな、参考までに。……あ、あと部室の棚にある小説、そうそこの紙の束、それは自由に読んで良いからな。俺が書き散らしたせいで順番はぐちゃぐちゃだろうけどな!」
あはははっと快活に笑う乾先輩。本当に小説が好きで、書いて書いて書きまくってきたのだろう。棚に押し込まれた紙の束はとんでもない分厚さになっている。
「あ、そういえば……先輩、海の小説って締め切りはいつなんですか」
聞いていなかったな、と思い尋ねる。
「あ、それも言ってなかったか?八月いっぱいが締め切りだから、それまでに原稿を上げてくれ」
「分かりました」
それならまだ時間はあるか。
「……乾先輩なら、海の小説、何を書きますか」
この人に意見を乞うのは負けた気がするから嫌だったが、モチーフすら決まらない今の状況で意地を張っていたって始まらない。私は素直に聞くことにした。
「そうだなぁ……夏の海とか、貝殻とか……あ、妖怪っていう手もあるな!」
「海の妖怪……?海坊主とかですか?」
どんな小説になるんだそれ。
「おっ、それも面白そうだなぁ!有名どころで言うなら人魚とか?ああそうそう、海にも火の玉が出るんだが、それが妖怪なんだってさ。くらげ火、とか言ったか」
人魚か……まだ書きやすいかも。それにしても、なんでこの人は妖怪に詳しいのか……そういう系が好きなのか?
「ま、困ったらいつでも相談に乗るぞ」
「……はい」
相談する前はあまり乗り気ではなかったが、話してみるものだな。少し書けそうな気がしてきた。
もう少し、自分で考えてみるか。

六月十三日。
私は今、菊池寛記念館の前にいる。
「……遅いなあ……」
入部した日に招待された文芸部の連絡用チャットにて『現地集合』と知らされた私は、記念館のある建物の三階、廊下の展示物を眺めて乾先輩と柳川先生を待っていた。集合時間は九時半だったはずだが、すでに二十分ほど遅れている。電車が遅延でもしたのだろうか。
「……へぇ、色々イベントがあるんだ」
朗読会、映画鑑賞会、講習会など。一年を通して様々な催しがあるらしい。映画鑑賞会なんて、面白そうだ。
年間スケジュールや広告を眺める私の耳に、階段を駆け上がる足音と、荒い息遣いが聞こえてくる。もしやと思って振り向くと、そこには肩で息をする乾先輩が立っていた。
「すまない凛君、券売機が壊れていて……無人駅だったから、一駅分走って、一本遅い電車に乗ってきた……」
一駅分。よく走ったな。
「お疲れ様です……それで、柳川先生は?」
全く姿を見せないということは、そういうことかな。
「あー……柳川先生は出張だとさ」
やっぱりか。
「土曜日なのに?」
「土曜日なのに」
先生も大変だな。
「まぁ柳川先生は普段から忙しいしな……滅多に部活にも来ないし」
道理で、まだ見たことないなと思ったら。
部活の顧問なのだから会うことには会うだろうが、果たしていつになるのやら。
「よーし、早速入るぞ!学生証は持ってきたか?」
「はい、一応」
資料に必須って書かれていたし。
「ナイスだ凛君。菊池寛記念館は高校生以下なら無料で入館できるからな」
「無料」
「ありがたいよなー。もし俺がこの近くに住んでたら毎日でも来るぞ」
それはそれでどうなんだ。
サクサク進む乾先輩について行き、私は菊池寛記念館に足を踏み入れた。
落ち着いた雰囲気の館内、あたたかな照明。
目の前には菊池寛の銅像。あ、写真もある。
私が周囲を見渡している間に受付を済ませた乾先輩が、「凛君、学生証」と声をかけてくる。学生証を鞄から取り出し受付の人に見せると、無言で頷かれた。
「よし、行くぞ凛君」
乾先輩は迷いなく進む。
「あ、これは菊池寛の写真と像。中央公園にも菊池寛の銅像があったはずだ。右のは『父帰る』の群像。確か瓦町の菊池寛通りにも『父帰る』の一場面を切り取った像があったな」
「……『父帰る』?」
聞いたことはある気がするが、読んだことはない。菊池寛の作品、なのだろうか。
「『父帰る』は菊池寛の戯曲だ。何度か映画化、舞台化されている菊池寛の代表作の一つだな」
「へぇ……」
映画化されているなら、それを見るのもいいな。
そう思いつつ左を見た私の目に、次の展示物が映った。
「何ですかあの麻雀碑。菊池寛は麻雀が好きだったんですか?」
左の壁に沿うようにして置かれたガラスケースの中には、何かの優勝カップと色褪せた麻雀牌、将棋駒が並んでいた。
「ああ。そこのパネルにもある通り、菊池寛は当時あまり知られていなかった麻雀を広めようとしたんだ。日本麻雀連盟、日本一の歴史を持つアマチュアの競技麻雀団体の初代総裁を務めてたくらいだからな。ギャンブルの側面で言えば、菊池寛ほど有名な文豪もいないだろうなぁ。勝負事で負けると口を利かなくなるから、仲間内では『クチキカン』なんて呼ばれてたらしいぞ」
「『クチキカン』……ああ、並び替えたら『キクチカン』になるから、ですか」
「おっ、『カン』がいいな!」
「……ツッコみませんよ」
楽しそうにからかってくる乾先輩は一旦無視して、先へ進む。
「えっと、次は……書斎の再現?」
丸い傘のような電灯にあたたかく照らされている、再現された菊池寛の書斎。机の上に積み上がった本や原稿用紙、黒電話。横の小さな机には時計や馬の置物、奥には分厚い本が収められた本棚。まさに文士の部屋、といったものだった。
「いい雰囲気の書斎だよなぁ。俺もこういう場所で執筆してみたいよ」
書斎の再現を見ていると、乾先輩がしみじみとそう言った。形から入る、という意味ではいいと思いますけど。
「お、見ろ凛君、座談会のパネル!」
「ざだんかい……?」
「座談会、ある程度の人数が集まって話し合うというか、気楽にしゃべるような感じかな。これは菊池寛の娘さんや息子さん、お孫さんが参加した座談会ってことらしいな」
「つまり、父や祖父としての菊池寛、ってことですか」
再現された書斎の前に立てかけられたパネルに目を通す。
「……こうしてみると、香川の文豪って言われている菊池寛も、普通の父親であり、祖父だったんだって感じがしますね」
文字として、情報として知っていた「菊池寛」ではなく、一人の人間としての「菊池寛」を見ているような気分だった。
「そうだなぁ……きっと、誰よりも人間らしい人だったんじゃないかって、俺は思ってるよ。ちなみに俺個人としては、この『朝六時くらいから茶の間にいて、お茶碗を箸で叩いていた』っていうエピソードが好きだな。なんかあったよな、ご飯を催促する犬猫の動画」
「香川の文豪に向かって失礼な……」
でもちょっと分かる。
「冗談じょーだん!さ、次行くぞ!」
乾先輩は、向かって左にある部屋に入る。私もそれにならった。
「……わ」
パッと目に飛び込んできたのは、名前が書かれた壁一面のパネル。
「これは芥川龍之介賞や直木三十五賞、菊池寛賞の受賞者のパネルだ。芥川賞と直木賞は、菊池寛が設立した賞だからな。……すごいよなぁ、香川の文豪が日本で一番有名な文学賞を設立したんだから」
「へぇ……」
そうだったんだ。
文学賞にはあまり詳しくない私でさえ、芥川賞と直木賞の名前は知っている。定期的にニュースで取り上げられているから。
私にはあまり関係のない話だと思ってスルーしていたけど……そうだったんだ、菊池寛が。
まさに、香川の誇りだな。
「いいよなぁ、俺も文豪の名を冠した文学賞を受賞したいよ」
「……芥川賞と直木賞以外にもあるんですか」
菊池寛賞は、正直なところ今回初めて知った。他の『文豪』と呼ばれる人たちにも、それぞれその名を背負う文学賞があるのか。
「ああ、有名な文豪はたいてい賞の名前になっているな。小説はもちろん、短歌や俳句の詩文、童話にも文学賞があるぞ」
「……へぇ」
「凛君はあんまり興味なさそうだな……」
私は文豪とかはよく分からないから、この反応は仕方ない。芥川龍之介とか太宰治とか、夏目漱石レベルじゃないと分かりません。
「ところで、この後ってどうするんですか」
なんかまっすぐ帰りそうにないな、と最近よく当たる私の勘がささやいているんですが。
「うーん……二択、だな」
乾先輩は顎に手を当てたかと思うと、その手で二を示す。……つまり未定だと。果たしてその二つの中に帰宅の文字はあるのかどうか。
「二択、というと?」
「中央公園と菊池寛通りに向かうか、海に行くかの二択だ」
「……ずいぶん毛色の違う二択ですね」
そして案の定、まっすぐ帰宅は頭にないらしいし。
「だって、せっかく記念館に来たんだから菊池寛関連の場所も行きたくなるだろ?ちょっと歩くけど」
ああ、そういえば中央公園には菊池寛の銅像、菊池寛通りには『父帰る』の群像があるとか言ってたっけ。
「それはまだ分かりますけど……海は?」
「んー?海をテーマに小説書くなら、本物の海を見たほうが書きやすいだろう?」
「……」
そうか。小説のため。小説応募のため、か。
一応、あれから自分で考えた結果、全体のぼんやりとした構造だけはできていた。
人魚と人間の女の子の話だ。
海に飛び込んで自殺をしようとした人間の女の子が、人魚と心を通わせていく物語。設定もおおよそとは言え完成していて、あとは文章にするだけ……なのだが。
書けなかった。上手く文章にならないままだった。まるで一枚の絵のような状態で、一場面から動いてくれなかった。人間の女の子も人魚も、風景さえも死んでいる。何一つ書けないまま、時間ばかりが過ぎている。
でも、今の私に必要なのは本物の海ではない気がした。
記念館のあと向かう場所は未定のままだが、展示を見て回る間に決めればいいだろうと考え直し、私たちは次の展示に向かった。
ここにあるのは、一人の人間が生きた証。
一人の人間が成し遂げたこと、その軌跡だった。
「乾先輩、これは?」
ガラスケースの中に展示された原稿用紙が、妙に私の目を引いた。それらは一枚ずつ、丁寧に展示されている。
「ああ、それは菊池寛が子どもたちに宛てて書いた遺書だな」
「……遺書」
「菊池寛はもともと心臓が弱く、若い頃から遺書を書いていたらしい。毎日、今日明日にでも死んでもいいように生きていたんだろうなぁ……俺にはできない生き方だ。尊敬するよ」
「……そう、ですね」
うん。やっぱり、今の私に必要なのは、本物の海ではない。
「先輩。私は、」
一人の人間が生きた、その生き方。その証。
それこそ、今の私が本当に知るべきことだ。

「はぁー……腹減った」
「そうですね……」
私たちは菊池寛記念館から中央公園まで、徒歩でやって来た。道は真っすぐで分かりやすかったが、乾先輩の言葉通り「ちょっと歩く」といった距離で、普段運動しない体には少し辛かった。
何より、私たちはかなりお腹をすかせていた。現在午後二時。当然である。
途中にあったコンビニでおにぎりやらサンドイッチやらを購入していたのもあるだろうが、そもそも記念館に少々長居しすぎた。乾先輩が一つ一つの展示を解説したり、所々に設置されている映像を全部見たりしていたせいだ。私も途中から楽しくなってきて止めなかったし、自業自得ではあるが。
「しっかし、公園でコンビニ飯とは言え弁当を食べるなんて、小中学生の遠足ぶりだなぁ。あ、これゴミ袋代わりにするか」
ポリ袋も有料になっちゃって、とぼやきながら、乾先輩は袋をバサバサと広げ、サンドイッチの包装をポイポイ入れる。袋の口を向けられたので、「……どうも」と言って、おにぎりの包装を入れさせてもらった。
いただきます、とつぶやき、おにぎりにかぶり付く。海苔がパリリ、と音を立てて崩れた。あ、これ味付き海苔だな。
「で、ここには菊池寛の銅像があるんでしたっけ?」
おにぎりを頬張りながら辺りを見渡す。……うーん、どこにあるか分からん。
「ああ。……ただ、公園の中からはあんまり見えないぞ。どっちかって言うと通りに面したところに立ってるし」
「そうなんですか」
「おう」
会話が途切れる。
二、三人の小学生が公園に落ちていたボールで遊んでいる。散歩をするおじいさんや噴水のそばにたたずむ老夫婦が、その様子をにこにこと眺めている。誰のものか分からないボールで遊ぶあたりは無法地帯という感じもするが、まあ……平和だ。
私は残りのおにぎりを口に放り込み、立ち上がる。乾先輩もいつの間にかサンドイッチを食べ終えており、ゴミ袋の口を閉じようとガサガサやっていた。
「さ、行くかぁ」
こっちだ、と方向を左手で指し示しつつ歩き出した乾先輩のあとからついていく。
「……小学生、増えてますね」
「そうだなぁ」
公園を駆け回る小学生たちが、五人、六人とその数を増やしていた。相変わらず、誰かの落とし物らしいボールで遊んでいる。
「これからだんだん増えてくるんだろうなぁ」
「……そうですね」
小学生の頃に戻りたいとは思わない。今更だし、今の私にとって小学生というのは、気楽だけれど少し窮屈な世界の住人だった。
でも、彼らの持つ無邪気な時間だけは……少し、ほんの少しだけ、羨ましいと思った。
「……っと、あったあった。これが中央公園の菊池寛の銅像だ!」
「おお……?写真で見るのとは、ちょっと印象が変わりますね」
じゃじゃーん!と大げさな演出をする乾先輩は無視し、私は銅像を見つめた。
左手を腰に当てた格好の菊池寛の銅像は、唇を真一文字に引き結んでいて、人間らしくも凛とした立ち姿だった。
「……この像は、菊池寛顕彰会や菊池寛の友人、一般市民の協力で作られているんだ。すごいよなぁ、人の心に残り続けられる人って」
「そうですね」
本当に。
私は今日、記念館に行くまで、菊池寛については、名前以外、何も知らなかった。市民からも銅像を建てられるほど思われていても、いつかの未来には、忘れ去られてしまうものだ。
……なんて、少し前の私だったら言うかな。言うだろうな。
たとえ忘れられても、残り続けるものがある。
それは記念館、銅像という形でもあるし、菊池寛通りや百舌坂という地名でもある。残そうとした人がいるから、今もこの場所に、香川に。
菊池寛は生きているんだ。
そのことを知ることができたから。今日、ここに来て良かったと、素直に思える。
「さ、そろそろ行くぞ」
「……はい。あとは菊池寛通りですか」
「ああ、菊池寛通りを突っ切って、瓦町駅で解散だな」
「了解です」
最後にもう一度、と思って振り返った私が見たのは、銅像の優しい瞳だった。
香川の町を見つめる彼の瞳に、私たちはどう映っているのだろう。
――私の未来まで見通していたりして、なんて。
菊池寛の慧眼ならありえないことではないかなあ、と思いながら、私は中央公園を後にした。

中央公園から少し歩けば、すぐに菊池寛通りの看板が見えた。
「ちょっと歩けば、『父帰る』の群像が……ほら、あれだ」
乾先輩が指さす先に、五人の像が並んでいた。まさに一場面を切り取ったというような銅像で、これはどんな場面なのかが気になった。
「記念館から中央公園までの距離を考えれば、本当にすぐですね……」
それをどちらも「ちょっと」と表現する乾先輩の感覚はどうなっているんだ。小説を書くときの語彙力はどこに行ったんだ。
「凛君はまだ『父帰る』を読んでいないんだよな?」
「はい」
じゃあ余計なことを言わないようにしないと、と口の前でバツ印を作る乾先輩。来る前に読んでくれば良かったな……後悔しても後の祭り、今更どうしようもないけど。
「そういえば、電車の時間は大丈夫なんですか?」
「ああ、確認してなかったな。ちょっと待ってろ」
乾先輩がスマホを取り出し、電車の時刻表を調べる。その間に私は、群像のそばに立てられた看板を読んだ。
『明治四十年ごろ、南海道の海岸にある小都会……』
その看板によると、借金を残して行方不明になった父が帰って来たことが話の取っ掛かりらしい。長男は父を拒んだが、出ていこうとする父を弟が引き留める。
うわあ、気になる。読んでみたい。けど、文豪と呼ばれる人の文章を私が読めるのか。それは甚だ疑問である。
一回、挑戦してみようかな。
もし無理そうだったら、映画のほうを先に見るという手も……。
看板とにらめっこをするように考え込む。
電車の時間を調べ終えた乾先輩に声を掛けられ、それでようやく我に返った。
「凛君、電車だが、いい時間らしいぞ。長尾線なら、今から向かえばすぐ乗れると思う」
「あ、私長尾です」
「おっ、じゃあ行くか」
「はい。先輩も長尾線ですか?」
「ああ、俺は水田で降りる」
じゃあ途中下車か。
私たちは駅のホームに向かう。
長いようで短い文学研修だった。
「さて、これで今日の活動は終わりだが……どうだった?」
スマホを片手に、乾先輩はそう問いかける。
「そうですね……正直に言えば、初めはあんまり興味なかったですし昼食代浮くのラッキー、程度に思っていました」
「よ、容赦ないな凛君……」
まあ乾先輩相手だしいいでしょう。
「……でも」
「でも?」
「色々参考になったし……香川の、地元の偉人を知ることができたのは、良かったと思います」
菊池寛。五十九年の生涯の中には、戦争の時代もあった。編集室に乗り込まれ刃物や銃口を向けられても、言論の自由を守ろうとした菊池寛。彼を知らないまま自由を享受し続けるのと、それを知った上で書く文章は、きっと何かが違ってくるだろうから。
「……そうか。収穫があったなら、何よりだ」
口にしなかった思いもあるが、乾先輩は深く追及してはこなかった。心に残るものがあるならそれでいい、とでも言いたげに。
「あとはそれをレポートに書けば完成だな!用紙は昨日渡したやつ、提出は次の月曜日だ。忘れるなよ?」
「はやくないですか……?」
今日明日でレポートを完成させろと?
「記憶が新しいうちに終わらせとけ。一週間後に書くとか、逆に辛いだろ?」
「それは……そうですね」
一理あるどころではなく、完璧な正論でした。私には反論の余地もない。
ちぇっ、と思いながら切符を購入し、長尾線の駅のホームへ下りる。
はあ、ここまでかなり歩いたし、疲れた。電車を待つ間に少し寝たいくらいだ。乾先輩も今日一日元気にはしゃぎ回り解説しまくっていたせいか、眠そうだ。
レポート、今日中に終わらせようかなあ……海の小説のほうも、いい加減書き始めないと……いくら締め切りが夏休みいっぱいとは言え、このままじゃ終わらないし……でも、前に比べたらまだ書けそうな気がしてきたな……。
悶々と小説のことを思い悩んでいた私は、乾先輩にさほど意識を向けていなかった。
そのことが、災いした。
そろそろ電車が来るはずだ、と顔を上げたそのとき。
乾先輩は、点字ブロックを踏み越していた。
あと一歩進めば、落ちる。
「ちょっ、何やって……!」
――飛び込み自殺って、痛いかな。
そう言って哀しく笑うあの子の顔が脳裏に咲いた。
やめろ。思い出すな、そんなこと。
決して広くはないプラットフォームを、全力で駆ける。乾先輩の右足が、宙に浮く。
「――先輩!」
やや乱暴に、乾先輩の腕をつかむ。宙に浮いた右足は、さまよった結果、点字ブロックの黄色の上に着地した。それと同時に、電車も到着する。
「……凛、君」
電車の音にかき消されそうだった。
その声も、乾先輩自身も。
乾先輩らしくない、迷子の子どものような表情がやけに印象に残った。
「……乗りますよ」
何か他に言うべきことがあった気がする。それと同時に、何を言っても間違いだと思った。
「……あ、ああ。すまん、ちょっとぼーっとしててさ……」
乾先輩は、乗り込みながら弁明するように言葉を重ねる。その姿に、私は「そう、ですか」としか返せなかった。
……やっぱり私は、あのときのまま。
何一つ、変わっていないんだ。