「失礼しました」
カララ、と軽い音を立て、職員室の戸が閉まる。やっぱり職員室の扉は建て付けがいいな。
国語科の折口先生に頼んでいた和歌の添削の、真っ赤な答案を受け取った俺は、職員室を後にした。
俺が和歌に興味を持ったのはごくごく最近のことだ。とある詩文&短歌オタク(なお推しが大好きすぎる模様)に影響され、ひとまず百人一首から勉強している。あいつは和歌というよりは短歌のほうが好きそうだがな。
俺はそれなりに勉強が得意だが、和歌は掛詞やら枕詞やら序詞やら縁語やら、とにかく技法が多くてかなり苦戦している。これに本歌取りや歌枕といった、さらに追加される予備知識を考えると気が遠くなる。短歌革新運動が起こる前までの歌人たちはこれを全て覚えた上で短歌を詠んでいたと言うが、さすがに誇張が混じっているのではないかと思う。そんなの人間ができることじゃないだろう。
まぁ、分からないものは仕方がない。これから少しずつ理解していけば何とかなる。
それより、今は小説のほうをどうにかしないとな。部室に戻ったら一旦完成させてー、明日からはその直しでー、と軽く予定を立てる。小説が仕上がり次第、顧問に持っていくつもりだ。
部室への道すがら、そんなことをつらつらと考えていた俺は相当周りが見えていなかった。
「わ」
「うわっ」
二つの小さな悲鳴が上がる。曲がり角で女子生徒とぶつかり、女子生徒が運んでいたらしい書類が廊下にバサッと落ちた。
「あ、すまん、ちょっと考え事してて」
とっさに謝り、書類を拾う。茶席のご案内、と書かれた紙をちらりと盗み見る。どうやらこの女子生徒は茶華道部らしい。確かに、うちの高校の茶道部の雰囲気そのものといった生徒だ。
どこかふわふわしていて、穏やかで、のんびり構えているところとか、って、ん?
この子、どこかで見たことあるぞ?
「こちらこそすみません〜、って、あ!」
向こうも俺に気付き、二人同時に叫ぶ。
「空道ちゃんの彼氏さん!」
「凛君の友達の!……ん?」
なんか今、とんでもない言葉が聞こえた気がする。
なんだって?俺が、凛君の彼氏?
「いや待て、俺は凛君の彼氏ではないぞ?部活の先輩って立ち位置のはずなんだが」
凛君はこの子、斉吉日鞠君にどんな説明をしているんだ?凛君の性格を考えれば、自分から「彼氏」なんて言わなさそうだが。
「空道ちゃんもそう言って誤魔化してたけど、私は分かります!乾先輩と空道ちゃんは相思相愛なんですよね!?」
先ほどまでの穏やかさはどこへやら。やや興奮気味にまくし立てる斉吉君はいきいきとしている。楽しそうだな、おい。
「いや、全然そんなことは……」
否定しようとした俺は、ふと口をつぐむ。
凛君の友達。凛君のクラスメイト。
俺に対してはちょっと、いやかなり冷たい態度の凛君は、斉吉君に対してはどんな面を見せているのだろう。
「……凛君は、教室ではどんな感じなんだ?」
マイペースに高校生活を謳歌していそうだと思いつつ、斉吉君に問いかける。
斉吉君はそれをどう受け取ったのか、「うんうん、彼女の普段の様子は気になりますよねぇ」と訳知り顔で頷いている。別にそういうつもりは、とは思うものの、ここで遮っての訂正はしなかった。凛君の俺に見せない面が気になったからだ。決して、彼氏と言われて満更でもなかったからではない。
とは言え、それでも別にいいだろ、ちょっとくらい夢を見させてくれ、とも思う。こちとら恋人いない歴イコール年齢なんだからな。
心の中で言い繕う俺に構うことなく、斉吉君は上機嫌で語り出した。
「空道ちゃんは物静かであまりしゃべらないんです!でもそれがミステリアスでかっこいいというか、休み時間はずっと本を読んでて、その姿もかっこいいんですよ!話しかけたら迷惑がられるかな〜って思ったけど、実際に話しかけたら全然そんなことなくて!」
だいぶ興奮気味に語る斉吉くんを見るに、ずっと誰かに語りたくて仕方がなかったんだろう。凛君のほうは、こんなふうに語られているとは夢にも思っていないだろうがな。
それにしても、静かに過ごしているのは予想がついていたが、読書をしているってのは意外だな。読書好きらしいことは、今まで一度も言わなかったのに。
うーむ。やっぱり、人ってのは難しいな。
「空道ちゃんが本を読む姿を見るのも、私、結構好きなんです。でもやっぱり、空道ちゃんとたくさんお話したくて。だから私、放課後に話しかけるチャレンジしてるんです!」
「ああ、なるほど。休み時間は話しかけずに読書してもらう、そんでもって放課後は話しかける、と」
なかなかに想われてるなぁ、うちの部員。ほっこりすると同時に、疑問が浮かび上がる。
「なんでそこまでするんだ?凛君に何か恩でもあるのか?」
「よくぞ聞いてくれました!」
斉吉君の瞳がきらりと輝いた。どうやら俺は、斉吉君の誘導にまんまと引っかかったらしい。俺は小さく苦笑し、次の言葉を待つ。
「私、昔からのんびり屋で、どんくさくて、周りに迷惑かけてばかりだったんです……あと、思い込みが激しいらしくて」
思い込みが激しい、それはそうだろうな。本人には悪いけど。
「そのせいで、周りの子を怒らせちゃったり、嫌な気分にさせちゃうことが多くて。入学初日も、その……言われちゃって」
グズ、のろま、どんくさい。
あんた見てると、イライラする。
「同じ中学校出身の子だったんですけど、いろいろ、嫌な思いをさせちゃってた子で……私、どうすればいいか分からなくて、私が悪いって思ったんですけど、なんか、言葉が出てこなくて」
ちょっと泣きそうで、と小さな小さな声でそう言った斉吉君の目は、少し潤んでいた。
あ、何か。何か、言わないと。
俺は口を開きかけた。しかし、それは「でも!」という明るい声に遮られる。
「でも、空道ちゃんが助けてくれたんです!」
「……凛君が?」
『確かにあなたは、彼女のことでイライラしたかもしれない。それは私に関係ないことだし、私はあなたの気持ちを否定するつもりもない。でも、だからってそんな言い方しなくていいんじゃない?だって、』
彼女は自分なりに、一生懸命やってるから。
「出会ってたった一日なんですよ?もっと言えば、数時間前に初めて会った、ただのクラスメイトなんですよ?なのに、空道ちゃんは私を見て『自分なりにやっている』って、そう言ってくれたんです。今まで、どれだけ一生懸命やっても『ちゃんとしなさい』って言われたのに」
それが嬉しかった。空道ちゃんに助けてもらったから、私は空道ちゃんのためにがんばる。
そう話す斉吉君は、心から救われた人の顔をしていた。
いいなぁ。凛君、俺に対しては冷たい態度しかとらないぞ。
一種の羨ましさから出るため息をつきながら、人質のように持っていた茶華道部のプリントを斉吉君に渡した。もはやプリントそっちのけで語っていたが……そこまでの思いがあったら、まぁそうなるか。
「あ、ありがとうございます〜!じゃあ私、これを提出しないといけないので」
「おう、部活がんばれよ。あと、升によろしく」
たぶんあいつ、俺がこうしている間に茶華道部の部室に戻っているだろうしな。
そう、俺の同級生である奥村升は茶華道部の部長を務めている。のんびりまったりした升の気性は、茶華道部の雰囲気そのものなのだ。そしてそれは、斉吉君にもしっかりと受け継がれていると見た。というか、似た人間が集まってるのかもな。
「分かりましたぁ!乾先輩も、部活頑張ってください!」
「おーう」
てててっ、と駆けていく斉吉君の足取りは軽い。
おい、廊下は走るなよ。
「……空道凛、か」
斉吉君の後ろ姿を見送り、その名をつぶやく。
空道凛。空の道。
青い空に架かる虹を想起させる名前。
彼女の名前でふと思い出したのは、アメリカの詩人の言葉だった。
『Try to be a rainbow in someone else’s cloud.』
――誰かの曇った心にさす虹になりなさい。
まさに凛君は、斉吉君の心にさす虹になったんだろう。斉吉君の心を救ってみせたんだろう。
「……いいなぁ」
廊下にぽつりと落ちた独り言。これを聞く者は、誰もいなかった。
「凛君、俺も……どうか、俺を、」
見つけてくれ。救ってくれよ。
祈りの言葉は、誰にも届かない。
俺の本音は、誰にも、届かない。
カララ、と軽い音を立て、職員室の戸が閉まる。やっぱり職員室の扉は建て付けがいいな。
国語科の折口先生に頼んでいた和歌の添削の、真っ赤な答案を受け取った俺は、職員室を後にした。
俺が和歌に興味を持ったのはごくごく最近のことだ。とある詩文&短歌オタク(なお推しが大好きすぎる模様)に影響され、ひとまず百人一首から勉強している。あいつは和歌というよりは短歌のほうが好きそうだがな。
俺はそれなりに勉強が得意だが、和歌は掛詞やら枕詞やら序詞やら縁語やら、とにかく技法が多くてかなり苦戦している。これに本歌取りや歌枕といった、さらに追加される予備知識を考えると気が遠くなる。短歌革新運動が起こる前までの歌人たちはこれを全て覚えた上で短歌を詠んでいたと言うが、さすがに誇張が混じっているのではないかと思う。そんなの人間ができることじゃないだろう。
まぁ、分からないものは仕方がない。これから少しずつ理解していけば何とかなる。
それより、今は小説のほうをどうにかしないとな。部室に戻ったら一旦完成させてー、明日からはその直しでー、と軽く予定を立てる。小説が仕上がり次第、顧問に持っていくつもりだ。
部室への道すがら、そんなことをつらつらと考えていた俺は相当周りが見えていなかった。
「わ」
「うわっ」
二つの小さな悲鳴が上がる。曲がり角で女子生徒とぶつかり、女子生徒が運んでいたらしい書類が廊下にバサッと落ちた。
「あ、すまん、ちょっと考え事してて」
とっさに謝り、書類を拾う。茶席のご案内、と書かれた紙をちらりと盗み見る。どうやらこの女子生徒は茶華道部らしい。確かに、うちの高校の茶道部の雰囲気そのものといった生徒だ。
どこかふわふわしていて、穏やかで、のんびり構えているところとか、って、ん?
この子、どこかで見たことあるぞ?
「こちらこそすみません〜、って、あ!」
向こうも俺に気付き、二人同時に叫ぶ。
「空道ちゃんの彼氏さん!」
「凛君の友達の!……ん?」
なんか今、とんでもない言葉が聞こえた気がする。
なんだって?俺が、凛君の彼氏?
「いや待て、俺は凛君の彼氏ではないぞ?部活の先輩って立ち位置のはずなんだが」
凛君はこの子、斉吉日鞠君にどんな説明をしているんだ?凛君の性格を考えれば、自分から「彼氏」なんて言わなさそうだが。
「空道ちゃんもそう言って誤魔化してたけど、私は分かります!乾先輩と空道ちゃんは相思相愛なんですよね!?」
先ほどまでの穏やかさはどこへやら。やや興奮気味にまくし立てる斉吉君はいきいきとしている。楽しそうだな、おい。
「いや、全然そんなことは……」
否定しようとした俺は、ふと口をつぐむ。
凛君の友達。凛君のクラスメイト。
俺に対してはちょっと、いやかなり冷たい態度の凛君は、斉吉君に対してはどんな面を見せているのだろう。
「……凛君は、教室ではどんな感じなんだ?」
マイペースに高校生活を謳歌していそうだと思いつつ、斉吉君に問いかける。
斉吉君はそれをどう受け取ったのか、「うんうん、彼女の普段の様子は気になりますよねぇ」と訳知り顔で頷いている。別にそういうつもりは、とは思うものの、ここで遮っての訂正はしなかった。凛君の俺に見せない面が気になったからだ。決して、彼氏と言われて満更でもなかったからではない。
とは言え、それでも別にいいだろ、ちょっとくらい夢を見させてくれ、とも思う。こちとら恋人いない歴イコール年齢なんだからな。
心の中で言い繕う俺に構うことなく、斉吉君は上機嫌で語り出した。
「空道ちゃんは物静かであまりしゃべらないんです!でもそれがミステリアスでかっこいいというか、休み時間はずっと本を読んでて、その姿もかっこいいんですよ!話しかけたら迷惑がられるかな〜って思ったけど、実際に話しかけたら全然そんなことなくて!」
だいぶ興奮気味に語る斉吉くんを見るに、ずっと誰かに語りたくて仕方がなかったんだろう。凛君のほうは、こんなふうに語られているとは夢にも思っていないだろうがな。
それにしても、静かに過ごしているのは予想がついていたが、読書をしているってのは意外だな。読書好きらしいことは、今まで一度も言わなかったのに。
うーむ。やっぱり、人ってのは難しいな。
「空道ちゃんが本を読む姿を見るのも、私、結構好きなんです。でもやっぱり、空道ちゃんとたくさんお話したくて。だから私、放課後に話しかけるチャレンジしてるんです!」
「ああ、なるほど。休み時間は話しかけずに読書してもらう、そんでもって放課後は話しかける、と」
なかなかに想われてるなぁ、うちの部員。ほっこりすると同時に、疑問が浮かび上がる。
「なんでそこまでするんだ?凛君に何か恩でもあるのか?」
「よくぞ聞いてくれました!」
斉吉君の瞳がきらりと輝いた。どうやら俺は、斉吉君の誘導にまんまと引っかかったらしい。俺は小さく苦笑し、次の言葉を待つ。
「私、昔からのんびり屋で、どんくさくて、周りに迷惑かけてばかりだったんです……あと、思い込みが激しいらしくて」
思い込みが激しい、それはそうだろうな。本人には悪いけど。
「そのせいで、周りの子を怒らせちゃったり、嫌な気分にさせちゃうことが多くて。入学初日も、その……言われちゃって」
グズ、のろま、どんくさい。
あんた見てると、イライラする。
「同じ中学校出身の子だったんですけど、いろいろ、嫌な思いをさせちゃってた子で……私、どうすればいいか分からなくて、私が悪いって思ったんですけど、なんか、言葉が出てこなくて」
ちょっと泣きそうで、と小さな小さな声でそう言った斉吉君の目は、少し潤んでいた。
あ、何か。何か、言わないと。
俺は口を開きかけた。しかし、それは「でも!」という明るい声に遮られる。
「でも、空道ちゃんが助けてくれたんです!」
「……凛君が?」
『確かにあなたは、彼女のことでイライラしたかもしれない。それは私に関係ないことだし、私はあなたの気持ちを否定するつもりもない。でも、だからってそんな言い方しなくていいんじゃない?だって、』
彼女は自分なりに、一生懸命やってるから。
「出会ってたった一日なんですよ?もっと言えば、数時間前に初めて会った、ただのクラスメイトなんですよ?なのに、空道ちゃんは私を見て『自分なりにやっている』って、そう言ってくれたんです。今まで、どれだけ一生懸命やっても『ちゃんとしなさい』って言われたのに」
それが嬉しかった。空道ちゃんに助けてもらったから、私は空道ちゃんのためにがんばる。
そう話す斉吉君は、心から救われた人の顔をしていた。
いいなぁ。凛君、俺に対しては冷たい態度しかとらないぞ。
一種の羨ましさから出るため息をつきながら、人質のように持っていた茶華道部のプリントを斉吉君に渡した。もはやプリントそっちのけで語っていたが……そこまでの思いがあったら、まぁそうなるか。
「あ、ありがとうございます〜!じゃあ私、これを提出しないといけないので」
「おう、部活がんばれよ。あと、升によろしく」
たぶんあいつ、俺がこうしている間に茶華道部の部室に戻っているだろうしな。
そう、俺の同級生である奥村升は茶華道部の部長を務めている。のんびりまったりした升の気性は、茶華道部の雰囲気そのものなのだ。そしてそれは、斉吉君にもしっかりと受け継がれていると見た。というか、似た人間が集まってるのかもな。
「分かりましたぁ!乾先輩も、部活頑張ってください!」
「おーう」
てててっ、と駆けていく斉吉君の足取りは軽い。
おい、廊下は走るなよ。
「……空道凛、か」
斉吉君の後ろ姿を見送り、その名をつぶやく。
空道凛。空の道。
青い空に架かる虹を想起させる名前。
彼女の名前でふと思い出したのは、アメリカの詩人の言葉だった。
『Try to be a rainbow in someone else’s cloud.』
――誰かの曇った心にさす虹になりなさい。
まさに凛君は、斉吉君の心にさす虹になったんだろう。斉吉君の心を救ってみせたんだろう。
「……いいなぁ」
廊下にぽつりと落ちた独り言。これを聞く者は、誰もいなかった。
「凛君、俺も……どうか、俺を、」
見つけてくれ。救ってくれよ。
祈りの言葉は、誰にも届かない。
俺の本音は、誰にも、届かない。
