無事テントを張り終え、迎えた体育祭当日。
「空道ちゃん、次綱引きだよ!行こぉ!」
「ああ、うん!」
私が出場するのは、綱引きと全体競技である台風の目、そして大縄跳びくらいのもの。人によってはリレーや借り物競走もあるが、無難なものを選んだ私は気楽なものだ。
綱引きは純粋な力比べ……かと思いきや、我らが担任・塩田先生が必勝法をこんこんと教えてくれたおかげで、一組の準備は万端である。
共に綱引きに出場する斉吉さんのところへ駆けると同時に、私の視界に見覚えのあるキラキラが入り込む。
「……」
行ったほうがいいんだろうなあ。しかし綱引きが迫っているので無視を決め込む。何も見てない何も見てない……。
「ねぇ空道ちゃん、あの人、すごくこっちを見てるよ……?」
斉吉さんは首を傾げつつ、指をさす。うん、気になるのは分かるけど、人を指ささないほうがいいと思うよ。
「あー……あの人は気にしなくていいから」
「あれ、もしかして空道ちゃん、あのイケメンと知り合いなの!?」
斉吉さんらしくない大声が響く。ふわふわ系女子も顔がいい人間が相手なら変わるのか。あの人、顔はいいけど中身が残念だよ斉吉さん。
「あ、じゃああの噂って、もしかして……」
斉吉さんはハッと口に手を当てる。
……待て待て、噂?不名誉な噂の予感しかしないんですけど?
果たして、斉吉さんはとんでも発言をかましてみせた。
「空道ちゃん、おめでとう!かっこいい彼氏さんだね!」
「…………はあ?」
ちょっと待って。
なんで私と乾先輩が付き合ってることになってるの?
どこの誰が勘違いしたのか知らないけど、普通にあり得ないでしょうよ。
「いや、あの……は?」
あまりに予想外すぎて戸惑うしかできない私をどう見たのか、頬を赤らめる斉吉さんの口が回り出す。
「照れなくていいんだよ空道ちゃん!いいなぁ、私もあんなかっこいい人と付き合えたらなぁ〜」
「いやまず前提が間違ってるから。あの人はただの部活の先輩!知り合いたいなら間持つよ、あんまりお勧めはしないけど」
軽いし汚部屋形成マシーンだし。
「そんな無粋なことしないよ〜、末永くお幸せに!」
「いや、だから違うんだってば!」
『これより、綱引きを始めます!』
放送部のアナウンスが、私の否定の言葉を打ち消すように響いた。なんというタイミング。
「よーし、がんばろー!」
「……うん、そうだね」
もう私は疲れたよ……。
どうやら斉吉さんは恋愛が絡むとハイになるらしい。新しい一面を知ってしまったな。
ハイテンションの斉吉さんと共に競技説明を聞きながら、私はぽつりと呟いた。
「そもそも、私が恋なんて……するはずないのに」
午前の競技が終わり、弁当休憩に入った。
斉吉さんと昼休憩を取っていると、案の定というか何と言うか、乾先輩がやって来た。
「凛君、ちょっと頼みが」
「嫌です」
「まだ何も言ってないのに!」
嫌な予感がするので。
殊勝な態度を見せつつ、そう言い出した乾先輩の頼みをピシャリと断る。
「あのぉ……空道ちゃんの先輩?ですか?」
好奇心に満ちた目でそう言ったのは斉吉さん。頼むからあの噂の話はするなよ。
「おう、乾文也、高三だ。よろしく。君は……凛君の友達、かな?」
「はい!斉吉日鞠です。こちらこそよろしくお願いします〜」
イケメンと美少女って絵になるなあ。眩しい。これが少女漫画なら、ここから恋が始まるんだろうか。
しかしながら、乾先輩はそのしつこ……ごほん、粘り強さを存分に発揮し、断られたのにも構わずなおも言い募る。
「なー頼むよ凛君、そんなに面倒なことじゃないからさぁ」
私のところに持ってくる時点で面倒事では?と思ったがそれは飲み込んだ。代わりにため息。
「はぁ……とりあえず、話は聞きますよ。何ですか?」
ぱああっと乾先輩の表情が明るくなる。眩しいな。
「ありがとう凛君!実は、午後の部活動対抗リレーなんだが」
これは嫌な予感が当たるな。まさか、
「私に出場してほしい……なんて言いませんよね?」
「すまん。出てほしい」
決まりが悪そうな顔で、しかし乾先輩ははっきりとそう言った。
「……なんっで当日の、こんな直前に言うんです!?」
「悪いとは思ってる!すまん!だがうちは文化部だしそんなにガチじゃない、走ってくれたらそれでいい!頼む!」
それはそれでどうなんだ……。
「空道ちゃんも走るの?私も出るんだよぉ。一緒にがんばろうねっ」
いやまだ決まっては……まあ、いいか。
走るだけ。そう、走るだけだ。何のことはない。
「……分かりました。あまり期待はしないでくださいよ」
『これより、体育祭を再開します。午後の部のスタートを飾るのは、部活動対抗リレー。運動部の選手の皆さんは集まってください』
アナウンスに促され、ちらほらと移動し始めている。
「やっぱり陸上部が勝つのかな」
誰に言うともなく呟くと、隣の斉吉さんが反応した。
「サッカー部も速そうだよねぇ。でも、毎年一位を取ってるのは野球部らしいよぉ」
「へぇ……言われてみれば、足速そうだもんね」
よく学校周辺を走り込んでいるし、体力はかなりあるだろうな。
『それでは皆さん位置について。よーい、ドン!』
放送部の掛け声とピストルの音、そして観客の歓声が少し遅れて響く。
まずは陸上部がトップに躍り出る。それを優勝候補の野球部、そしてサッカー部が追いかける。バレー部は少しスタートが遅れ最後尾になるも、目の前を行くバスケ部をとらえて離さない。さすが普段からスポーツに取り組む運動部、全員足が速く多少の優劣はあれど全部活動が一つの団子のようになって運動場を駆け抜ける。
『さすが陸上部、一位です!第二走者にバトンが渡ります、渡りました!』
ワッ、と歓声が上がる。続いてサッカー部、野球部がバトンをつなぐ。
「野球部、三位かぁ……が、がんばれぇっ」
斉吉さんが声を張り上げ、野球部を応援する。
「野球部に知り合いでもいるの?」
「うん、幼馴染が入ってるの。一年生なんだけどね、足が速いから代表に選ばれてて……あ、ほら、今バトン渡された子!」
うちの高校の野球部は大所帯。その中で選ばれたとなると、彼は相当足が速いのだろう。
「がんばれぇっ、あ、抜ける、いけるよっ」
真面目そうな顔立ちの野球部の男子生徒が、目の前を走るサッカー部員をとらえた。ぐん、とスピードが上がり、みるみる距離が縮まる。並ぶ。……抜いた!
「やったぁ!がんばれぇっ、かずま!」
どうやら幼馴染はかずまという名らしい。サッカー部を抜いた勢いのまま、陸上部に迫る。陸上部のほうもそれに気付き、少しの焦りが見えた。
並びかける。陸上部がリード。距離を詰める。並ぶ。陸上部のリード。今度は野球部。なかなか振り払えない。走る。走る。走る。
ゴールテープは目の前だ。どちらが勝ってもおかしくない。せめぎ合いが続く。
ラストスパートだ。二人のストライドが大きくなる。
走る。走る。走る。
ゴールテープを、切った!
『ゴール!優勝は……陸上部ー!』
「あー!」
「惜しかったね……」
残念ながら斉吉さんの幼馴染は僅かな差で二位に収まった。しかし一年生であることを考えれば、十分な好成績と言えるだろう。
他の運動部も次々とゴールし、続いて文化部の部活動対抗リレーとなった。……とうとう出番が来てしまった。
「空道ちゃん、お互いがんばろうね!」
やる気に満ちた斉吉さんを前に、何も言えなくなる。私は曖昧に頷いた。
「凛くーん!」
乾先輩が小走りでこちらにやって来る。すでに息が切れているが、大丈夫なのか?
「はぁ、ふぅ……凛君は第二走者を頼むよ。だからあっちの列だ」
「……へ?第二走者?……アンカーじゃないですか!」
当日に知らされた一年生に任せるポジションじゃない!
「すまん!俺がやる訳にもいかなくてな」
「……そうですか」
何かそういうルールでもあるのだろう、私は諦めて第二走者の列に並ぶ。斉吉さんは第一走者なのでここで別れた。
『部活動対抗リレー、次は文化部です!第一走者の皆さんは、位置についてください』
放送部のアナウンスで、出場する選手が一列に並ぶ。改めて見ると多い。もしかしなくても、文化部が多すぎるせいで帰宅部禁止なのでは?
『それでは、位置について!よーい……』
乾先輩と斉吉さんは隣だ。同時に構えるのが見える。
『ドン!』
パンッという音と共に、文化部が一斉にスタートを切る。一位は吹奏楽部、次が合唱部。音楽系の部活は走り込みや筋トレをしていると聞くし、その成果だろう。
さて、文芸部、乾先輩は何位なのか。
上位から、吹奏楽部、合唱部、演劇部、放送部、新聞部、書道部………………文芸部。
なんと、ぶっちぎりの最下位である。
「いや嘘でしょ!?」
普通顔がいいやつは足も速いんじゃないのか!?
乾先輩は確かに一生懸命足を動かし腕を振って走っている。しかし、遅い。とにかく遅い。腕の勢いと足の動き、進む速さがかみ合っていない。何ということだ。
他の部員は次々とバトンを渡していく。トップをいく吹奏楽部のアンカーが初めのコーナーに差し掛かった頃、ようやく乾先輩はバトンをつないだ。
「……っ、はぁ、はぁ、ほ、ほんとに、すまん……っ、頼むぞ、凛君!」
受け取ったバトンが熱い。
乾先輩が真剣に、懸命に走ったのは明らかだった。
「……期待はしないでくださいよ!」
バトンを握りしめ、腕を力強く振る。ストライドは大きく、足は付け根から動かす。
とにかく走る。一つ前をいくパソコン部の背中が迫る。前傾姿勢は崩さない。走る。走る。走る。
――抜いた!
気は抜かない。次はいくつかの部が団子になっている。そのままの勢いでその集団に突っ込み、一人ひとり確実に抜く。
写真部、美術部、英会話部。
次々と抜いていく。今、何位なんだ?分からない。いや、それを気にするほどの余裕もないか。考えるな。走れ。とにかく走れ。
走れ、走れ、走れ!
今目の前にいるのは何部だ?知らん。とにかく抜かないと。すでに最後のコーナーに差し掛かっている。はやく、
はやく、追いつけ!
目の前の背中に、もう少しで手が届く――
白いテープが切られた。……私じゃ、ない。
『放送部、四位でゴール!続いて文芸部、大逆転ですねぇ!』
五位。
最下位スタートだったことを考えれば、いい結果だろう。
「はぁ、はぁ、……はぁ、もう、無理……」
体力を使い果たしてしまった。もう走れる気がしない。
「凛くーん!!」
大声で私の名前を呼びながら、子犬のごとく駆けてきた乾先輩。息も絶え絶えの状態からは回復しているが、興奮しているのか少し息が荒い。
「すごい、すごいぞ凛君!よくやった!」
「……どうも……というか、先輩……走るの、苦手、なんですか……」
私はまだ酸素が足りない。息も切れ切れ、言葉も途切れ途切れだ。
「実はちょっと、……いや、だいぶ苦手でな……毎年俺のせいで最下位だったくらいには……」
それは……相当ですね。
もしかして「アンカーをやる訳にはいかない」って、走るのが苦手だからって意味だったのか?
「何にせよすごいぞ凛君、最下位から五位に浮上するなんて思ってもみなかった!放送部も『ごぼう抜きだー!』って叫んでたし、話題性もバッチリだ!」
「話題性って、必要なんですか……?」
そしてアナウンスでも取り上げられていたのか、私……全然気が付かなかった。走っている間は必死で、自分の呼吸の音と砂を蹴る音が全てだったから。
先ほどから「すごい」を連発している乾先輩は無邪気な顔つきで、少年のようにはしゃいでいた。
まあ乾先輩が楽しそうで良かったかな、なんて思ったあとで、急に暑さを感じた。
そして体育祭は、無事に幕を閉じたのだった。
体育祭が終われば、次に私たちを待っているのは中間考査、つまりは定期テストである。
高校生になれば、中学生の頃とは比べ物にならないほど科目数が増える。全十一科目。絶望的な数字を突きつけられ、私はやる気を失っていた。
「よーう凛君!お、勉強か?感心、感心」
この地獄のような科目数に動じることなくケロッとしている辺り、さすが三年生である。慣れって恐ろしい。
「先輩……テスト勉強って、何をすればいいんですか」
藁にもすがりたい、まさにそんな気持ちで乾先輩に問う。しかしながら私の予想に反し、乾先輩は真面目な回答をよこした。
「んー、そうだなぁ……やっぱり問題集じゃないか?時々だが、全く同じ問題が出ることもあるし、何より実戦練習できてるのは強いぞ」
「……」
私は思わず乾先輩を凝視した。
「なんだよその目は」
「いや……意外とまともな回答だったので……」
「失敬な。言っておくが、俺は結構成績優秀なんだからな?」
本当か?
「あ、今疑ったろ?……よし、聞いて驚くなよ!俺は校内一位を取ったことがある!あと大抵の科目は十位以内に入ってる!」
疑わしいが、ここまで必死に言っているのだから信じてもいいだろう。半分くらい。
「はあ……じゃあこの問題解けます?」
乾先輩に突きつけたのは数学。私が苦手な範囲の問題だ。
「どれどれ。ああ、絶対値な。この答えは『2π-5』、だな」
「……正解です」
あっさり正解しやがった。流れるように正解にたどり着きやがった。校内一位やら十位以内やらその辺は疑わしいが、勉強ができるというのは嘘ではなさそうだ。
「おいおい、そんな苦虫を噛みつぶしたような顔するなよ……」
そんなに意外かー?とぼやく乾先輩。私からすれば、意外も意外、ってな感じなんですが。
対する私は、あまり勉強が得意ではない。この高校も面接で受かったようなものである。
……何だろう。負けた気がする。
謎の敗北感に打ちひしがれていると、部室の戸がガラゴロと音を立てた。
「文也ぁ、おるー?」
ひょこっと顔を覗かせたのは、どことなく優しそうな男子生徒。乾先輩の友達だろうか。
「升!また分からない問題、聞きに来たのか?今度は何の科目だ?」
「生物なんやけど、計算問題がえらい難しくて」
のぼる、と呼ばれた彼は、生物の教科書や問題集を乾先輩に示す。確かに難しそうな内容だ。
「どれだ、これ?これか。……ああ、これはほら、公式を使うやつで……」
乾先輩は教科書をパラパラとめくってその公式を見つけ出し、そのページを示しながら解説を始める。
……うーん、どうやら本当の本当に成績優秀らしいな。
「ああ、なるほどぉ。ありがとー、文也」
疑問点が解消されたらしい男子生徒が笑顔でお礼を言う。乾先輩は左手を軽く振って、
「これくらい大したことないって。また分かんなくなったら来いよ」
「助かるわぁ、ありがとぉ。……ところで、その子がこの前の逆転ランナー?」
逆転ランナー。
先日の体育祭の部活動対抗リレーにおいて最下位から中間層まで順位を上げた私は注目を集めてしまい、『逆転ランナー』などという二つ名をおしいただいたのだった。
「ああ、空道凛君。文芸部の期待の新人だよ。凛君、こいつは奥村升。俺の同級生だ」
「……はじめまして」
「はじめまして、よろしくなぁ」
柔らかい物腰で話す奥村先輩の丸メガネが光を反射し、私を映し込む。本当に穏やかそうな人だ。
「ああ、そうや。文也、折口先生が探してたで」
奥村先輩は何でもないことのように、乾先輩にそう告げた。
「え、何でだ?」
一方、キョトンとする乾先輩。心当たりはないようだ。
「国語の提出物でも出してないんとちゃうん?」
「出したと思うんだけど……まあ、一旦行ってくる」
頭をガシガシ掻きながら、乾先輩は折口先生を探しに行ってしまった。部室には、私と奥村先輩だけが残される。……とてつもなく気まずい。
「……えーっとぉ、空道さん」
「…………何ですか……?」
沈黙を破る控えめな声に、思わず控えめな声で返してしまった。内緒話でもするかのような声のトーンである。
「空道さんは、部活、どれくらいの頻度で来るん?」
「えっと、ほぼ毎日、です」
来ないと乾先輩がうるさいので。まあ居心地も悪くはないし。不本意ですけど。
「そうかぁ、そうなんや。良かった、ありがとうなぁ」
奥村先輩はホッとした表情でそう言った。
ほぼ毎日、という回答の何がそんなに良かったのか分からず、「……どういう意味ですか?」と聞き返した。
「文也、あれで寂しがりやから……誰かが部室にいてくれたら、喜ぶと思うんよ」
「寂しがり……?乾先輩が、ですか?」
『寂しがり』。
まだ出会ってから一ヶ月と少ししか経っていない。が、乾先輩の騒がしさを毎日のように実感している私にとって、それは違和感がある言葉だった。
「んー、やっぱり、そんなイメージない?そのうち分かるかも知れんけど、文也は……何て言えばええんやろ、なんかな、迷いがあるみたいなんよね。一人きりになると出てくる、恐怖、みたいな?」
「……はあ」
乾先輩は、何かに悩んでいるのだろうか。……いや、それを知ったところで、私にはどうにもできないのだが。
「あんまり実感はないかも知れんけど、これからも部活に顔出してやってなぁ。文也のことやから、部活に来て、ここにおってくれるだけで十分やろうし」
それは、そうかも。
私が執筆していなくても、乾先輩は何も言わない。そのくせ部室には来いと言うから、変な人だとは思っていた。奥村先輩の話を総合すると、一人きりは嫌だから私に部活へ来るよう言っている、ということになる。……そういうことなのか?
「別に部活に出るのはいいんですけど……奥村先輩が一緒にいるほうがいいんじゃないですか?最近会ったばかりの後輩なんかじゃなく、友達のほうが……」
私を当てにするのは間違っている。立場的にも、能力的にも。
暗にそう言ったつもりだったが、奥村先輩は困り笑いを浮かべた。
「そこなんよ、文也の難しいところは。仲良え人にこそ頼れん、というか。相談やって冗談交じりで、いつでも引ける状態でしかしてくれんし」
「……そう言うわりには、分かっていそうですけど」
仲が良いからこそ頼れない、なんて本人から聞かない限り憶測でしかない。しかし奥村先輩は、かなりの確信を持ってそう表現しているように見えた。
「僕の場合は、文也がポロッと零したのを聞いたから、知っとるんよ。でも、あの一回以降は……上手く隠しとるんかな、分かるようで分からん。悩み続けとることだけはぼんやり分かってるから、もどかしくて。せめて誰か一人、文也が本音で話せる人がおったらなぁ、って思うんよ」
「……」
乾先輩と奥村先輩は本当に仲が良いんだな。
二人の、近いようで遠く、でもやっぱり近い、そんな関係が、少し、羨ましかった。
「……っと、そろそろ文也も戻って来るやろうし、僕はこの辺で。部活部活」
唱えるように呟いて、奥村先輩は立ち上がる。何部なんだろう、とは思ったがそこまで知りたい訳でもなく、「……がんばってください」とだけ言っておいた。
「ありがとなぁ。ああ、空道さんも、あんまり気負いすぎんでええけんね。部活、というか、執筆?がんばってなぁ。応援しとるよ」
「……ありがとうございます」
部室の扉の横で軽く礼をしたら、奥村先輩は軽く手を振って答えてくれた。
奥村先輩の言葉通り、乾先輩は五分とかからず戻ってきた。
「いやぁ参った!見てくれよ凛君、升……って、ありゃ?升は?」
「奥村先輩なら、部活があるからと帰られましたが」
私は因数分解を睨みつけながらそう告げた。
「ああ、あいつも部活が忙しいって言ってたな。新入部員が入って色々教えないといけないからって」
嬉しい悲鳴、ってやつかな。
「それより見てくれよ凛君!」
言うが早いか、乾先輩は手にしているルーズリーフを突きつけてくる。えっと、なになに?
「『あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む』……和歌ですか?意味のところ、真っ赤ですけど」
シャーペンで書かれた現代訳に赤字で訂正が入っている。
「そうなんだよ、さすがにヘコむわ……」
机に突っ伏してみせる辺り、楽しそうではある。
「これ、宿題か何かですか?」
「いーや?」
私が問えばあっさりと顔を上げ、乾先輩は語り出す。
「ちょっと和歌に興味があってさ。だから古文の先生に添削を頼んだんだが、まぁ、毎回こんな感じだ」
手厳しいよなー、と苦く笑う。興味があることにすぐ入っていけるその積極性はすごいと思う。絶対言わないけど。
「和歌……小説にでも使うんですか」
「ゆくゆくは、な。これが案外難しいんだよ」
「へぇ……」
相槌を打ちつつ、和歌に目を通す。全部で六首。
どれもこれもどこか寂しさのある和歌だったが、その寂しさが美しいと思った。
「空道ちゃん、次綱引きだよ!行こぉ!」
「ああ、うん!」
私が出場するのは、綱引きと全体競技である台風の目、そして大縄跳びくらいのもの。人によってはリレーや借り物競走もあるが、無難なものを選んだ私は気楽なものだ。
綱引きは純粋な力比べ……かと思いきや、我らが担任・塩田先生が必勝法をこんこんと教えてくれたおかげで、一組の準備は万端である。
共に綱引きに出場する斉吉さんのところへ駆けると同時に、私の視界に見覚えのあるキラキラが入り込む。
「……」
行ったほうがいいんだろうなあ。しかし綱引きが迫っているので無視を決め込む。何も見てない何も見てない……。
「ねぇ空道ちゃん、あの人、すごくこっちを見てるよ……?」
斉吉さんは首を傾げつつ、指をさす。うん、気になるのは分かるけど、人を指ささないほうがいいと思うよ。
「あー……あの人は気にしなくていいから」
「あれ、もしかして空道ちゃん、あのイケメンと知り合いなの!?」
斉吉さんらしくない大声が響く。ふわふわ系女子も顔がいい人間が相手なら変わるのか。あの人、顔はいいけど中身が残念だよ斉吉さん。
「あ、じゃああの噂って、もしかして……」
斉吉さんはハッと口に手を当てる。
……待て待て、噂?不名誉な噂の予感しかしないんですけど?
果たして、斉吉さんはとんでも発言をかましてみせた。
「空道ちゃん、おめでとう!かっこいい彼氏さんだね!」
「…………はあ?」
ちょっと待って。
なんで私と乾先輩が付き合ってることになってるの?
どこの誰が勘違いしたのか知らないけど、普通にあり得ないでしょうよ。
「いや、あの……は?」
あまりに予想外すぎて戸惑うしかできない私をどう見たのか、頬を赤らめる斉吉さんの口が回り出す。
「照れなくていいんだよ空道ちゃん!いいなぁ、私もあんなかっこいい人と付き合えたらなぁ〜」
「いやまず前提が間違ってるから。あの人はただの部活の先輩!知り合いたいなら間持つよ、あんまりお勧めはしないけど」
軽いし汚部屋形成マシーンだし。
「そんな無粋なことしないよ〜、末永くお幸せに!」
「いや、だから違うんだってば!」
『これより、綱引きを始めます!』
放送部のアナウンスが、私の否定の言葉を打ち消すように響いた。なんというタイミング。
「よーし、がんばろー!」
「……うん、そうだね」
もう私は疲れたよ……。
どうやら斉吉さんは恋愛が絡むとハイになるらしい。新しい一面を知ってしまったな。
ハイテンションの斉吉さんと共に競技説明を聞きながら、私はぽつりと呟いた。
「そもそも、私が恋なんて……するはずないのに」
午前の競技が終わり、弁当休憩に入った。
斉吉さんと昼休憩を取っていると、案の定というか何と言うか、乾先輩がやって来た。
「凛君、ちょっと頼みが」
「嫌です」
「まだ何も言ってないのに!」
嫌な予感がするので。
殊勝な態度を見せつつ、そう言い出した乾先輩の頼みをピシャリと断る。
「あのぉ……空道ちゃんの先輩?ですか?」
好奇心に満ちた目でそう言ったのは斉吉さん。頼むからあの噂の話はするなよ。
「おう、乾文也、高三だ。よろしく。君は……凛君の友達、かな?」
「はい!斉吉日鞠です。こちらこそよろしくお願いします〜」
イケメンと美少女って絵になるなあ。眩しい。これが少女漫画なら、ここから恋が始まるんだろうか。
しかしながら、乾先輩はそのしつこ……ごほん、粘り強さを存分に発揮し、断られたのにも構わずなおも言い募る。
「なー頼むよ凛君、そんなに面倒なことじゃないからさぁ」
私のところに持ってくる時点で面倒事では?と思ったがそれは飲み込んだ。代わりにため息。
「はぁ……とりあえず、話は聞きますよ。何ですか?」
ぱああっと乾先輩の表情が明るくなる。眩しいな。
「ありがとう凛君!実は、午後の部活動対抗リレーなんだが」
これは嫌な予感が当たるな。まさか、
「私に出場してほしい……なんて言いませんよね?」
「すまん。出てほしい」
決まりが悪そうな顔で、しかし乾先輩ははっきりとそう言った。
「……なんっで当日の、こんな直前に言うんです!?」
「悪いとは思ってる!すまん!だがうちは文化部だしそんなにガチじゃない、走ってくれたらそれでいい!頼む!」
それはそれでどうなんだ……。
「空道ちゃんも走るの?私も出るんだよぉ。一緒にがんばろうねっ」
いやまだ決まっては……まあ、いいか。
走るだけ。そう、走るだけだ。何のことはない。
「……分かりました。あまり期待はしないでくださいよ」
『これより、体育祭を再開します。午後の部のスタートを飾るのは、部活動対抗リレー。運動部の選手の皆さんは集まってください』
アナウンスに促され、ちらほらと移動し始めている。
「やっぱり陸上部が勝つのかな」
誰に言うともなく呟くと、隣の斉吉さんが反応した。
「サッカー部も速そうだよねぇ。でも、毎年一位を取ってるのは野球部らしいよぉ」
「へぇ……言われてみれば、足速そうだもんね」
よく学校周辺を走り込んでいるし、体力はかなりあるだろうな。
『それでは皆さん位置について。よーい、ドン!』
放送部の掛け声とピストルの音、そして観客の歓声が少し遅れて響く。
まずは陸上部がトップに躍り出る。それを優勝候補の野球部、そしてサッカー部が追いかける。バレー部は少しスタートが遅れ最後尾になるも、目の前を行くバスケ部をとらえて離さない。さすが普段からスポーツに取り組む運動部、全員足が速く多少の優劣はあれど全部活動が一つの団子のようになって運動場を駆け抜ける。
『さすが陸上部、一位です!第二走者にバトンが渡ります、渡りました!』
ワッ、と歓声が上がる。続いてサッカー部、野球部がバトンをつなぐ。
「野球部、三位かぁ……が、がんばれぇっ」
斉吉さんが声を張り上げ、野球部を応援する。
「野球部に知り合いでもいるの?」
「うん、幼馴染が入ってるの。一年生なんだけどね、足が速いから代表に選ばれてて……あ、ほら、今バトン渡された子!」
うちの高校の野球部は大所帯。その中で選ばれたとなると、彼は相当足が速いのだろう。
「がんばれぇっ、あ、抜ける、いけるよっ」
真面目そうな顔立ちの野球部の男子生徒が、目の前を走るサッカー部員をとらえた。ぐん、とスピードが上がり、みるみる距離が縮まる。並ぶ。……抜いた!
「やったぁ!がんばれぇっ、かずま!」
どうやら幼馴染はかずまという名らしい。サッカー部を抜いた勢いのまま、陸上部に迫る。陸上部のほうもそれに気付き、少しの焦りが見えた。
並びかける。陸上部がリード。距離を詰める。並ぶ。陸上部のリード。今度は野球部。なかなか振り払えない。走る。走る。走る。
ゴールテープは目の前だ。どちらが勝ってもおかしくない。せめぎ合いが続く。
ラストスパートだ。二人のストライドが大きくなる。
走る。走る。走る。
ゴールテープを、切った!
『ゴール!優勝は……陸上部ー!』
「あー!」
「惜しかったね……」
残念ながら斉吉さんの幼馴染は僅かな差で二位に収まった。しかし一年生であることを考えれば、十分な好成績と言えるだろう。
他の運動部も次々とゴールし、続いて文化部の部活動対抗リレーとなった。……とうとう出番が来てしまった。
「空道ちゃん、お互いがんばろうね!」
やる気に満ちた斉吉さんを前に、何も言えなくなる。私は曖昧に頷いた。
「凛くーん!」
乾先輩が小走りでこちらにやって来る。すでに息が切れているが、大丈夫なのか?
「はぁ、ふぅ……凛君は第二走者を頼むよ。だからあっちの列だ」
「……へ?第二走者?……アンカーじゃないですか!」
当日に知らされた一年生に任せるポジションじゃない!
「すまん!俺がやる訳にもいかなくてな」
「……そうですか」
何かそういうルールでもあるのだろう、私は諦めて第二走者の列に並ぶ。斉吉さんは第一走者なのでここで別れた。
『部活動対抗リレー、次は文化部です!第一走者の皆さんは、位置についてください』
放送部のアナウンスで、出場する選手が一列に並ぶ。改めて見ると多い。もしかしなくても、文化部が多すぎるせいで帰宅部禁止なのでは?
『それでは、位置について!よーい……』
乾先輩と斉吉さんは隣だ。同時に構えるのが見える。
『ドン!』
パンッという音と共に、文化部が一斉にスタートを切る。一位は吹奏楽部、次が合唱部。音楽系の部活は走り込みや筋トレをしていると聞くし、その成果だろう。
さて、文芸部、乾先輩は何位なのか。
上位から、吹奏楽部、合唱部、演劇部、放送部、新聞部、書道部………………文芸部。
なんと、ぶっちぎりの最下位である。
「いや嘘でしょ!?」
普通顔がいいやつは足も速いんじゃないのか!?
乾先輩は確かに一生懸命足を動かし腕を振って走っている。しかし、遅い。とにかく遅い。腕の勢いと足の動き、進む速さがかみ合っていない。何ということだ。
他の部員は次々とバトンを渡していく。トップをいく吹奏楽部のアンカーが初めのコーナーに差し掛かった頃、ようやく乾先輩はバトンをつないだ。
「……っ、はぁ、はぁ、ほ、ほんとに、すまん……っ、頼むぞ、凛君!」
受け取ったバトンが熱い。
乾先輩が真剣に、懸命に走ったのは明らかだった。
「……期待はしないでくださいよ!」
バトンを握りしめ、腕を力強く振る。ストライドは大きく、足は付け根から動かす。
とにかく走る。一つ前をいくパソコン部の背中が迫る。前傾姿勢は崩さない。走る。走る。走る。
――抜いた!
気は抜かない。次はいくつかの部が団子になっている。そのままの勢いでその集団に突っ込み、一人ひとり確実に抜く。
写真部、美術部、英会話部。
次々と抜いていく。今、何位なんだ?分からない。いや、それを気にするほどの余裕もないか。考えるな。走れ。とにかく走れ。
走れ、走れ、走れ!
今目の前にいるのは何部だ?知らん。とにかく抜かないと。すでに最後のコーナーに差し掛かっている。はやく、
はやく、追いつけ!
目の前の背中に、もう少しで手が届く――
白いテープが切られた。……私じゃ、ない。
『放送部、四位でゴール!続いて文芸部、大逆転ですねぇ!』
五位。
最下位スタートだったことを考えれば、いい結果だろう。
「はぁ、はぁ、……はぁ、もう、無理……」
体力を使い果たしてしまった。もう走れる気がしない。
「凛くーん!!」
大声で私の名前を呼びながら、子犬のごとく駆けてきた乾先輩。息も絶え絶えの状態からは回復しているが、興奮しているのか少し息が荒い。
「すごい、すごいぞ凛君!よくやった!」
「……どうも……というか、先輩……走るの、苦手、なんですか……」
私はまだ酸素が足りない。息も切れ切れ、言葉も途切れ途切れだ。
「実はちょっと、……いや、だいぶ苦手でな……毎年俺のせいで最下位だったくらいには……」
それは……相当ですね。
もしかして「アンカーをやる訳にはいかない」って、走るのが苦手だからって意味だったのか?
「何にせよすごいぞ凛君、最下位から五位に浮上するなんて思ってもみなかった!放送部も『ごぼう抜きだー!』って叫んでたし、話題性もバッチリだ!」
「話題性って、必要なんですか……?」
そしてアナウンスでも取り上げられていたのか、私……全然気が付かなかった。走っている間は必死で、自分の呼吸の音と砂を蹴る音が全てだったから。
先ほどから「すごい」を連発している乾先輩は無邪気な顔つきで、少年のようにはしゃいでいた。
まあ乾先輩が楽しそうで良かったかな、なんて思ったあとで、急に暑さを感じた。
そして体育祭は、無事に幕を閉じたのだった。
体育祭が終われば、次に私たちを待っているのは中間考査、つまりは定期テストである。
高校生になれば、中学生の頃とは比べ物にならないほど科目数が増える。全十一科目。絶望的な数字を突きつけられ、私はやる気を失っていた。
「よーう凛君!お、勉強か?感心、感心」
この地獄のような科目数に動じることなくケロッとしている辺り、さすが三年生である。慣れって恐ろしい。
「先輩……テスト勉強って、何をすればいいんですか」
藁にもすがりたい、まさにそんな気持ちで乾先輩に問う。しかしながら私の予想に反し、乾先輩は真面目な回答をよこした。
「んー、そうだなぁ……やっぱり問題集じゃないか?時々だが、全く同じ問題が出ることもあるし、何より実戦練習できてるのは強いぞ」
「……」
私は思わず乾先輩を凝視した。
「なんだよその目は」
「いや……意外とまともな回答だったので……」
「失敬な。言っておくが、俺は結構成績優秀なんだからな?」
本当か?
「あ、今疑ったろ?……よし、聞いて驚くなよ!俺は校内一位を取ったことがある!あと大抵の科目は十位以内に入ってる!」
疑わしいが、ここまで必死に言っているのだから信じてもいいだろう。半分くらい。
「はあ……じゃあこの問題解けます?」
乾先輩に突きつけたのは数学。私が苦手な範囲の問題だ。
「どれどれ。ああ、絶対値な。この答えは『2π-5』、だな」
「……正解です」
あっさり正解しやがった。流れるように正解にたどり着きやがった。校内一位やら十位以内やらその辺は疑わしいが、勉強ができるというのは嘘ではなさそうだ。
「おいおい、そんな苦虫を噛みつぶしたような顔するなよ……」
そんなに意外かー?とぼやく乾先輩。私からすれば、意外も意外、ってな感じなんですが。
対する私は、あまり勉強が得意ではない。この高校も面接で受かったようなものである。
……何だろう。負けた気がする。
謎の敗北感に打ちひしがれていると、部室の戸がガラゴロと音を立てた。
「文也ぁ、おるー?」
ひょこっと顔を覗かせたのは、どことなく優しそうな男子生徒。乾先輩の友達だろうか。
「升!また分からない問題、聞きに来たのか?今度は何の科目だ?」
「生物なんやけど、計算問題がえらい難しくて」
のぼる、と呼ばれた彼は、生物の教科書や問題集を乾先輩に示す。確かに難しそうな内容だ。
「どれだ、これ?これか。……ああ、これはほら、公式を使うやつで……」
乾先輩は教科書をパラパラとめくってその公式を見つけ出し、そのページを示しながら解説を始める。
……うーん、どうやら本当の本当に成績優秀らしいな。
「ああ、なるほどぉ。ありがとー、文也」
疑問点が解消されたらしい男子生徒が笑顔でお礼を言う。乾先輩は左手を軽く振って、
「これくらい大したことないって。また分かんなくなったら来いよ」
「助かるわぁ、ありがとぉ。……ところで、その子がこの前の逆転ランナー?」
逆転ランナー。
先日の体育祭の部活動対抗リレーにおいて最下位から中間層まで順位を上げた私は注目を集めてしまい、『逆転ランナー』などという二つ名をおしいただいたのだった。
「ああ、空道凛君。文芸部の期待の新人だよ。凛君、こいつは奥村升。俺の同級生だ」
「……はじめまして」
「はじめまして、よろしくなぁ」
柔らかい物腰で話す奥村先輩の丸メガネが光を反射し、私を映し込む。本当に穏やかそうな人だ。
「ああ、そうや。文也、折口先生が探してたで」
奥村先輩は何でもないことのように、乾先輩にそう告げた。
「え、何でだ?」
一方、キョトンとする乾先輩。心当たりはないようだ。
「国語の提出物でも出してないんとちゃうん?」
「出したと思うんだけど……まあ、一旦行ってくる」
頭をガシガシ掻きながら、乾先輩は折口先生を探しに行ってしまった。部室には、私と奥村先輩だけが残される。……とてつもなく気まずい。
「……えーっとぉ、空道さん」
「…………何ですか……?」
沈黙を破る控えめな声に、思わず控えめな声で返してしまった。内緒話でもするかのような声のトーンである。
「空道さんは、部活、どれくらいの頻度で来るん?」
「えっと、ほぼ毎日、です」
来ないと乾先輩がうるさいので。まあ居心地も悪くはないし。不本意ですけど。
「そうかぁ、そうなんや。良かった、ありがとうなぁ」
奥村先輩はホッとした表情でそう言った。
ほぼ毎日、という回答の何がそんなに良かったのか分からず、「……どういう意味ですか?」と聞き返した。
「文也、あれで寂しがりやから……誰かが部室にいてくれたら、喜ぶと思うんよ」
「寂しがり……?乾先輩が、ですか?」
『寂しがり』。
まだ出会ってから一ヶ月と少ししか経っていない。が、乾先輩の騒がしさを毎日のように実感している私にとって、それは違和感がある言葉だった。
「んー、やっぱり、そんなイメージない?そのうち分かるかも知れんけど、文也は……何て言えばええんやろ、なんかな、迷いがあるみたいなんよね。一人きりになると出てくる、恐怖、みたいな?」
「……はあ」
乾先輩は、何かに悩んでいるのだろうか。……いや、それを知ったところで、私にはどうにもできないのだが。
「あんまり実感はないかも知れんけど、これからも部活に顔出してやってなぁ。文也のことやから、部活に来て、ここにおってくれるだけで十分やろうし」
それは、そうかも。
私が執筆していなくても、乾先輩は何も言わない。そのくせ部室には来いと言うから、変な人だとは思っていた。奥村先輩の話を総合すると、一人きりは嫌だから私に部活へ来るよう言っている、ということになる。……そういうことなのか?
「別に部活に出るのはいいんですけど……奥村先輩が一緒にいるほうがいいんじゃないですか?最近会ったばかりの後輩なんかじゃなく、友達のほうが……」
私を当てにするのは間違っている。立場的にも、能力的にも。
暗にそう言ったつもりだったが、奥村先輩は困り笑いを浮かべた。
「そこなんよ、文也の難しいところは。仲良え人にこそ頼れん、というか。相談やって冗談交じりで、いつでも引ける状態でしかしてくれんし」
「……そう言うわりには、分かっていそうですけど」
仲が良いからこそ頼れない、なんて本人から聞かない限り憶測でしかない。しかし奥村先輩は、かなりの確信を持ってそう表現しているように見えた。
「僕の場合は、文也がポロッと零したのを聞いたから、知っとるんよ。でも、あの一回以降は……上手く隠しとるんかな、分かるようで分からん。悩み続けとることだけはぼんやり分かってるから、もどかしくて。せめて誰か一人、文也が本音で話せる人がおったらなぁ、って思うんよ」
「……」
乾先輩と奥村先輩は本当に仲が良いんだな。
二人の、近いようで遠く、でもやっぱり近い、そんな関係が、少し、羨ましかった。
「……っと、そろそろ文也も戻って来るやろうし、僕はこの辺で。部活部活」
唱えるように呟いて、奥村先輩は立ち上がる。何部なんだろう、とは思ったがそこまで知りたい訳でもなく、「……がんばってください」とだけ言っておいた。
「ありがとなぁ。ああ、空道さんも、あんまり気負いすぎんでええけんね。部活、というか、執筆?がんばってなぁ。応援しとるよ」
「……ありがとうございます」
部室の扉の横で軽く礼をしたら、奥村先輩は軽く手を振って答えてくれた。
奥村先輩の言葉通り、乾先輩は五分とかからず戻ってきた。
「いやぁ参った!見てくれよ凛君、升……って、ありゃ?升は?」
「奥村先輩なら、部活があるからと帰られましたが」
私は因数分解を睨みつけながらそう告げた。
「ああ、あいつも部活が忙しいって言ってたな。新入部員が入って色々教えないといけないからって」
嬉しい悲鳴、ってやつかな。
「それより見てくれよ凛君!」
言うが早いか、乾先輩は手にしているルーズリーフを突きつけてくる。えっと、なになに?
「『あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む』……和歌ですか?意味のところ、真っ赤ですけど」
シャーペンで書かれた現代訳に赤字で訂正が入っている。
「そうなんだよ、さすがにヘコむわ……」
机に突っ伏してみせる辺り、楽しそうではある。
「これ、宿題か何かですか?」
「いーや?」
私が問えばあっさりと顔を上げ、乾先輩は語り出す。
「ちょっと和歌に興味があってさ。だから古文の先生に添削を頼んだんだが、まぁ、毎回こんな感じだ」
手厳しいよなー、と苦く笑う。興味があることにすぐ入っていけるその積極性はすごいと思う。絶対言わないけど。
「和歌……小説にでも使うんですか」
「ゆくゆくは、な。これが案外難しいんだよ」
「へぇ……」
相槌を打ちつつ、和歌に目を通す。全部で六首。
どれもこれもどこか寂しさのある和歌だったが、その寂しさが美しいと思った。
