「入部届、ですか」
高校一年生となり早二週間。
帰宅部エースとしてとっとと帰ろうとした私は、担任の塩田先生に引き留められていた。
「そうそう。ウチの高校、帰宅部禁止だからさぁ」
なんと。……なにゆえに?という、発してもいない私の疑問に、答えが返ってくるはずもなかった。
部活になんて入りたくない。
私は平穏な高校生活を送れたならそれでいい。熱い青春だとか、波乱万丈な学園生活だとか、そんなものはお呼びではないのだ。
そんな私の内心など知るよしもない塩田先生は、教室の壁にかけられた時計をちらりと見る。今日は職員会議があると言っていたし、この話を早々に切り上げたいのだろう、心底どうでもいい考察が頭をよぎる。
「そういうことだから、四月中に入部届。頼むよ」
「……はい」
不満はあれど、ルールだ校則だと言われたら抗えないのが生徒というもの。
頭では理解している。だが、職員会議に向かう塩田先生の姿が消えるまで、私はその場に立ち尽くしていた。こんな横暴なことがあっていいのか。
長いため息をつき「帰りたい」と零しながらも、私はふらふらと掲示板に向かった。廊下に張り出されたポスターを見て適当に入部し、どこかの幽霊部員になろうという魂胆である。活動に参加する気などありはしない。
色とりどりのポスターを眺め、幽霊部員になれそうな部活を探す。
「吹奏楽部、演劇部、放送部……」
この辺りは活動日数が多そうなのでパス。運動部はどこもかしこも忙しそうなので除外。文化部のみを対象に考えるものの、しっくりくる部活は見当たらない。
「新聞部に、写真部なんてのもあるのか。でもなあ……」
言っちゃ悪いが、全くもって興味ない。あと機材を購入する必要がある部活もお断りだ。
「あえて大人数の部活にするか?一人くらい幽霊部員がいても困らない程度のところとか」
となれば、書道部が有力候補か?でもなあ、うちの高校の書道部はスパルタだって聞くしなあ。おまけに私は大人数すぎるのも苦手。少人数で活動が少なくて、できれば幽霊部員ができる部はないものか。
「どうした新入生、もしかして部活迷ってる感じかー?」
「うわっ」
突然後方から響いた声に、思わず飛び退く。慌てて振り返ると、やたら顔のいい男子生徒が立っていた。身長も高い。先輩だろうか。
「あーごめんごめん、驚かせちゃったか?」
左手で頭を掻き、私に笑顔を向けてくる。無駄に眩しい。誰だあんたは。
私の考えていることが伝わったのか、男子生徒は軽く左手を上げて自己紹介をした。
「俺は乾文也、文芸部の三年生だ。よろしくなー」
なんかチャラそう。
第一印象はただひたすらにそれ。先ほどから向けられている笑顔もどこか胡散臭い。気がする。
「君新入生?部活迷ってるならうちはどうだ?歓迎するぞー?」
「うち……というと、文芸部ですか。私が?」
うんうん!と激しく頷かれる。楽しそうですね。
「……小説とか書くってこと、ですよね」
しかも部ということは、作品を人に見せるはずだ。今の私にはハードルが高すぎる。
「小説はもちろんだが、評論に短歌に俳句、なんでもござれ、ってな部活だよ」
なんならイラストも漫画も大歓迎!と軽く請け負う乾先輩。どうやら創作物なら何でもいいらしい。
「実は今、文芸部の新入生ゼロでさー、存続の危機なんだよなー」
そしてさらっと大事なことを告げられる。存続の危機って、そんな軽く言うことか?いや、そんなはずはない。危機感ないのかなこの人。
「そろそろ誰か入ってくれないと困るなー?」
チラチラ、とわざとらしく視線を送ってくる。なんだろうこの面倒くさい人に絡まれてる感。
楽しいよー部室は秘密基地っぽくて過ごしやすいよー歴代部誌も読み放題だよーと猛プッシュを受けるが、最後のは人を選ぶと思う。
「はあ……条件次第ですね」
「条件?」
乾先輩は素早く反応し、何だ何が欲しいんだと続きを催促する。うるさいうるさい。
「お金がかからないこと。できれば少人数であること。そしてとにかく活動が少ないこと。あわよくば幽霊部員でも許される部活、ですかね」
「わー、活動意欲なーい」
悪かったですね。
まだ何か言われるかと思ったが、意外にも乾先輩は、すん、と真面目な顔になった。
「まーでも真面目な話、うちの部ならその条件、完璧に満たしてるよ」
まじっすか。
「文芸で必要なものは紙と筆記用具。でもそれは部費で出るから金はかからん。次に部員数、存続の危機にある時点でお察しだが少人数の極みだ。具体的に言えば、俺と二年生一人の計二人だな。で、問題の活動内容だが」
活動内容によってはばっさり斬りますよ私。と思いつつ乾先輩のほうを見やる。
「なんと一年に一回、文化祭で部誌を発行する以外はほとんどない!」
自信に満ち溢れている。こんな好条件は文芸部以外ない、と断言する勢いだ。
「なるほど……」
確かに、これはかなりいい部活だ。私からの文句はない……が、正直に言うのも何か腹立つな。
「……少し、考えさせてください」
困ったときはこの言葉。私は一旦逃げる。
「おーう、楽しみにしてるぞ!」
そう返した乾先輩は私の答えを察しているような様子で、やっぱりムカついた。
翌日。
あのあと他の部活を見学に行ったが、どこも活動が忙しい部ばかりだった。
悔しまぎれに『文芸部』と書き殴った入部届一枚。それを朝一番に担任に提出し、私は一日中敗北感を味わっていた。乾先輩の手のひらの上で転がされているような気がしてならない。面白くない。
「空道ちゃん部活入ったの?何部〜?」
放課後、机に突っ伏している私に気後れすることなく話しかけてきたのは、隣の席の斉吉日鞠。可愛らしいものが好きで、典型的なふわふわ系女子。そのためか、いわゆる一軍女子からは目の敵にされているらしい。私は来るもの拒まず去るもの追わずのスタンスで生きていきたい人間なので、特に拒みもせずにいたら懐かれた。適度に賑やかでいいかなと思っている。
「……誰から聞いたの?」
ちなみにそんなスタンスで生きてるおかげで、特に親しい友人がいないのが現状である。特別仲が悪い人もいないため、教室内では平穏な高校生活が守られていると言える。
つまるところ、良くも悪くも、人との関わりが薄いのである。ゆえに、私が部活に入ったことを知る人物なんていないはずなのだけれど。
「朝、塩田先生に入部届出してるの見た!」
なるほど現場を押さえられていたと。
「……全然気付かなかった」
「それでそれで?何部にしたの?」
私気になってたんだぁ、と屈託のない笑顔で言われてしまい、逃げ道を塞がれる。入りたくて入ったわけじゃないんですけど。
「えっと、文芸」
「そっかぁ、文芸部かぁ!」
食い気味の反応。そんなに気になるか?
この子変わってるなあ、と思う私に、斉吉さんは続けて「確かに空道ちゃん本好きだもんね!」と言う。私は軽く驚いた。
「……私が本好きなの、知ってたんだ?」
「もちろん!休み時間、よく本読んでるでしょ?」
へぇ。よく見てるんだな。
「文芸部、ってことは小説書くの?お話書いたら見せてほしいなぁ」
「……そのうち、ね」
まさかここで「帰宅部禁止って言われて入部しただけで、そこまで活動するつもりはない」なんて言えるはずもない。期待に輝く目を前にしてそんなことを言えるほどの勇気を持っているやつがいるなら、私に教えてほしい。
とはいうものの、昨日の文芸部アピールで乾先輩は『文化祭までは活動なし』と言っていたのだ。それまでは、きっと平穏な高校生活を送れるだろう。
……と思っていた時期が私にもありました。
これから部活だという斉吉さんを見送り、とっとと帰ろうとした私の足を止めたのは、無駄にキラキラした笑顔。
「お、新入部員君!部活始まるぞ!」
「げっ」
思わず心の声が漏れた。
「げっ……って聞こえた気がするが、気のせいか?」
「……だと思います」
すーっと目をそらし、明後日の方向を向く。気のせいっすよ。
「んー、まぁいいや。行くぞ新入部員君!」
勝手に腕を引かれる。帰らせてはくれないらしい。
「行くって、どこにです?」
「決まってるだろう?」
ニッ、と笑ったその顔は、昨日見たどこか嘘くさい笑顔ではなかった。
「ようこそ新入部員君、俺らの文芸部へ!」
好きなことを好きなままに。
そんな人だけが持つ、一番の瞳だった。
「あ、そういえば君、名前は?」
「はい?」
今更何を、とは思ったが、すぐに思い当たる。確かに一方的に名乗られただけだったな。
「……そらみち、です」
空の道。
そう聞いて何を思い浮かべるかは人それぞれだが、私は空に架かる虹を想像する。空に続く道である虹が、凛とした美しさで架かっているようで、私はこの名前を気に入っていた。
「空道凛。空道でも凛でも、好きなように呼んでください」
もっとも、私は美しさなんて持ち合わせていない。誰かの心に虹を架けることもできそうにない。そういう意味で言えば、名前負けしているのかもしれないが。
「空道、凛。いい名前だな」
乾先輩は、どこか羨ましそうな顔をしていた。
「……えっと、ありがとうございます」
私は、一拍遅れて反応した。
気に入っているとはいえ、名前を褒められるとは思っていなかったのだ。
「あ、凛君、着いたぞ」
「……」
早速名前呼びか。やっぱり軽いなこの人。
目の前には、少し古びた扉。
自己紹介をしている間に、私たちは部室にたどり着いていたらしい。
乾先輩は部室の扉を思い切り開け放った。
「じゃーん。ここが俺ら文芸部の部室だ!」
「……はあ?」
乾先輩の楽しげな声と、地獄の底から湧き上がったような私の声とが、嫌なコントラストを形成している。
というのも、文芸部の部室とやら。とんでもないゴミ屋敷だったのだ。
「なんですかこの汚部屋は」
「汚部屋!?そんなはずは……坂口安吾だって綺麗な部屋だと言うに違いない部室だぞ?」
「誰ですかその人」
聞いたことある気はするが。
「坂口安吾は無頼派の作家だ。ほら、この人」
そう言って乾先輩が見せてきたスマホ画面には、これまたものすごい汚部屋の主が写っていた。
床一面に紙がぶち撒けられているし、よくよく見てみれば空き缶のようなものも転がっている。机の上はまだマシだと思える。まだ。
だが、この部屋はどうだ。
私は画面に映し出された写真と、目の前の部室とを見比べた。結果、大きなため息が零れる。
「……何が『坂口安吾も綺麗だと言う部屋』ですか。坂口安吾もびっくりの大惨事じゃないですか」
空き缶が転がっていないだけマシではあるが、それにしたって酷い有様だ。
「言うねぇー」
そりゃ言いますとも。
備え付けの棚は本が整然と並んでいるためまだ綺麗だ。しかし部屋の真ん中、面積のほとんどを占める机の上は紙の束や辞書、本で埋め尽くされている。机の色さえ拝めない状態なのだ。極めつけは床。足の踏み場がないほどに散乱した紙、紙、紙。原稿用紙すら床に置きっぱなしなのはいかがなものか。坂口安吾よりも広範囲を、こうまで見事に汚部屋に仕立てる乾先輩は何者なんだ。いや、ただのズボラなのだろうが。
乾先輩の「部室は秘密基地っぽくて楽しい」という言葉を思い出す。実際は、ただただ部室が荒れていてこじんまりとした印象を受ける、というだけのようだった。
「……先輩、これでどう活動するんです?」
「んー?適当に物をどかしてくれればいいけど?ああそうそう、紙は自由に使っていいぞ。もちろん原稿用紙も。ただし部費で買ってるやつだから無駄遣いは自重すること!」
ビシッと決めたつもりでいるのだろうが、汚部屋の主が格好つけてもな。
私は綺麗好きでこそないが、さすがにこんな所で放課後を過ごしたくない。どうせ活動しなきゃならないなら、もっと過ごしやすい部屋がいい。こんなゴミ屋敷じゃなくて。
「先輩」
「お、どうした?インスピレーション湧いてきたか?」
「…………すよ」
「ん?」
「断捨離しますよ!部室がこんなにとっ散らかってるなんてありえませんから!捨てますよ色々!それ以外のことは全部後回しです!」
そうだ。幽霊部員とか活動の有無とか、そんなことは後でいい。とりあえずこのゴミ屋敷を何とかしない限り、話が始まらない。
「え、やだやだ、嘘だろう?捨てるものなんてないし……それにほら、慣れたら過ごしやすいからさぁ、ってああああ、それは駄目!捨てないで!それは捨てちゃ駄目なやつ!」
乾先輩は、床に散らばる原稿用紙を手に取っただけで大騒ぎする。いやさすがに必要かどうかは確認しますって。
文芸部の部室ことゴミ屋敷に、乾先輩の悲痛な叫びが響き渡った。
「わかった、片付ける!片付けるから、それだけは勘弁してくれぇー!!」
「はぁ……疲れた」
部室の掃除を開始してはや一週間。ようやく足の踏み場ができ、机の色が見えてきた。ちなみに薄い茶色だった。掃除をすればするほど「なんでこんなものが……」というものが次々と姿を現し、その度にため息を飲み込む一週間だった。
なぜ文芸部の部室から進路希望書が出てくるんだ。どうして図書室の本と返却督促状が同時に出てくるんだ。普通に考えておかしいだろう。ちなみに返却期限がとうの昔に切れたその本は、図書室にちゃんと返しに行った。
「空道ちゃん大丈夫?文芸部が忙しい?」
放課後、机に突っ伏していると、部活に向かう斉吉さんに心配された。ちなみに彼女は茶華道部。ふわふわした雰囲気の斉吉さんが茶華道……ちょっと想像つかない。本人曰く、和風のものが好きらしいけど。
「まあ、ハードだね」
掃除だけど。
文芸部がひたすら掃除をしているなんて、斉吉さんは露ほども思っていないだろうな。私だって、部室があんな有様だとは思わなかった。
「大変だねぇ……がんばって!」
「はは、ありがと……っと、時間だ。じゃあ私、部活行くね」
斉吉さんもがんばって、と声を掛けると「ありがとぉ〜」と可愛らしい返事が返ってくる。あののんびりとした雰囲気のまま茶華道に勤しむのだろうか……。
部活開始時刻までに部室に行かないと、乾先輩が教室に突撃してくる。それを学習した私は、部活開始時間になる前に部室に行くようにしていた。はあ、こんなはずじゃなかったんだけどなあ。
入部初日の部室連行、無駄にキラキラしている乾先輩のせいで目立ってしまった私は見事クラスで浮いている。相変わらず、話す相手は斉吉さんくらいのものだ。まあ私はそれでも一向に構わないのだけれど。
私の教室から文芸部の部室まではそれほど遠くない。少し歩けばすぐそこだ。
「失礼します」
「失礼するならかえ」
「失礼しましたー」
「待って速い速い帰るな!?ごめん冗談だよ!」
「知ってます」
あわよくば帰ろうと思っていたのは事実だが。
私はこの一週間で片付いた部室を見回し、達成感に浸った。うん、最低でもこのくらいは片付いてないと。
「いやー、凛君が入ってくれて助かったよ!部室は見違えるように綺麗になったし、使いやすい部屋のままだし……才能ある期待の新入部員様々だな!」
「それ褒めてます……?」
才能は才能でも、掃除の才能じゃあね。
「というか、部室の片付けに一週間かかってる時点でおかしいんですからね?もう散らかさないでくださいよ」
「へーい」
……本当に分かっているのか?
「一応部室には来ましたけど、掃除は終わりましたし私のやることはないですよね?やっぱり帰っていいですか?」
回れ右をして帰ろうとすると、乾先輩に「駄目駄目!」と止められる。
「やることはあるからな。ちょっと待ってろ」
えー、あれどこに置いたかな、と棚をゴソゴソやり出した乾先輩の周囲に紙が散る。言ったそばから散らかして……!
「お、あったあった。これに応募してくれ、凛君」
「……はい?応募……?」
『海の小説募集!資格不要、誰でも気軽にご応募ください!』
そんな文字が踊る青い広告が目に入る。……は?
「いや何勝手に、というか無理です急に、小説なんて書けませんって!」
「誰でも気軽に、って書いてあるだろう?初心者も大歓迎!ってことだよ」
そんな無茶な。
「そもそも!私、そんなに活動するつもりは――」
そうだ。私はあわよくば幽霊部員を、と思ってこの部に入ったのだ。初心忘るべからず、である。
「それに、活動は少ないって言ってたじゃないですか!こんな詐欺みたいな……!」
「騙してはいないぞ?実際、今までの活動は部誌発行だけだったし」
つまりこれからは活動を増やす、と?
嘘、騙された!
「そういう訳だから何か小説書いてくれよ、海が出てくるやつ」
「嫌ですよ!?絶対書きませんから!」
大切なことだから何度も言うが、私は平穏な高校生活を送りたい。別にそんなことがしたいんじゃない!
「そうかぁ、嫌かぁ……」
断固拒否する私に、態度を軟化させる乾先輩。そりゃ急にそんなことを言われてもできるわけないですよ。
「もし選考に残ったら、先生が美味いもん奢ってくれるんだけどなぁ〜」
「……美味いもん」
あ、しまった。思わず反応してしまった。
果たして乾先輩はにやぁと笑い、さらに続けた。
「そうそう、美味いもん。俺の時は、いちご大福だったなぁ〜」
「……いちご、大福」
「しかも、雪白屋のいちご大福!」
「えっ」
雪白屋って、あの高級和菓子店の?雪白屋のいちご大福といえば、この辺りでは知らない人はいないくらいの有名菓子。私は数回食べたことがある程度だが、高級なだけあってとても美味。それを奢ってもらった、だと?
「もちろん、甘いものじゃなくてもいいと思うぞ?うどんとか」
「いやうどんはいつも通りなんでいいです」
「……それもそうか」
我ら香川県民、うどんは普段から食べるもの。リーズナブルで美味しい、香川の最強フードである。
「まぁとにかく、選考に残れば残るほど無理聞いてくれるから、美味いもんにありつけるぞ〜」
「……そ、そこまで言うなら仕方ないなあ!」
別にいちご大福に釣られたわけじゃないけど?書いてあげてもいいかなーっていうか?
「よっしゃ釣れたぁ!」
「違います!釣られてません!」
協力してやろうって後輩に向かって、全く失礼な。
「……こほん。えっと、海が出てくる小説……を書けばいいんですか?」
「そうそう。できるだけ印象に残るように海を出したほうがいいぞ」
「印象に残るように、って……どうすれば?」
抽象的すぎて分からないんですが。
「そうだなぁ……何かモチーフを出すとか……いや、小説は聞くより盗め、だな」
えーと、書き殴ったのはこの辺にまとめたよな、と再び紙が散乱する。あとで本人に片付けさせよう。
「ん、これだ。ほれ、読んでみろ」
そう言って渡されたのは分厚い紙の束。原稿用紙ではなく、裏紙に、まさしく書き殴るように書かれた文字。何度も訂正が入り、場面の挿入もある。
「清書してないやつですまん。一応完結してるから、ぼちぼち読んでおいてくれ。書くためには読まなきゃいけないし、書くためには盗まなきゃいけない。丸々盗んだら、それはパクリだ。悪意の発露になる。でも、文章の組み立て方や話全体の構造、比喩の仕方……ちょっとずつ盗んで、自分がいいと思うものを作る。それが創作の醍醐味ってやつだよ」
「……へぇ。いいんですか、先輩から盗んじゃっても」
少しばかり意地悪な気持ちも込めて、私は乾先輩に問いかけた。
「もちろん。どんどん盗んでけ、新入部員。俺は君の中にある物語を読みたい。とびっきり面白いやつだ。そのための起爆剤になれるなら、これまで書いてきた俺の小説も、言葉も、報われるってもんだよ」
……この人は、本当に小説が好きなんだ。
読みたくて書いている人。
小説を書くのは、皆、誰かに認められたいからだと思っていた。
でも、そうか。そんな人も、いるんだ。
「あーでもあんま人には見せるなよ!清書してないし推敲の跡も残ってるからさすがに恥ずかしいし!」
「私は?」
「凛君は文芸部の仲間だからなー、特別扱いってやつ?あと、創作の苦しみがよく分かるからな……」
はは……と乾いた笑いが零れる。ええ……。
「先輩でも苦しむんですか……?」
一気に自信なくなったんですが。
「まぁなぁ……でも、その先にある喜びのために必要な苦しみだよ。生み出す苦しみと生み出す喜びは表裏一体、だからな」
「はあ……」
今の私にはよく分からない。乾先輩の小説を読めば、あるいは、実際に小説を書いてみれば、私もそう思えるようになるのだろうか。
私は乾先輩の小説を持ち帰らせてもらい、家で読んだ。
乾先輩の文章は、確かに盗めるものが多い。
言葉の一つ一つが洗練されている。一瞬の光をとらえて離さないような文章。病的なまでの美しさと、不思議で独特な世界観。修正に修正を重ねた乾先輩の文章は、とても綺麗だった。
あんな汚部屋を形成しているくせに、どこか軽い印象を与えるくせに、こんなものを書いてしまうなんて。
これは、なかなか高い壁にぶち当たってしまったな。
「くっそ……絶対超えてやる……」
私の負けず嫌いに火がついた瞬間だった。
こうなったらいちご大福は関係ない。できるところまでやってやる!
テーマは海。何をすればいいかなんて一つも分からないけど、絶対に乾先輩以上の傑作を書いてみせる……!
……と意気込んで小説の構想を練り始めたものの、全くと言っていいほど思いつかない。海がテーマということで海について調べてはみたが、これといったものが見つからない。創作のヒントは得られず、余計な知識は着々と増えていた。
はやくモチーフを決めないと、傑作なんて夢のまた夢だ。
「はぁ……」
「どうしたの?やっぱり部活の悩みごと?」
「うわびっくりした」
ため息をつくと、打てば響くといった具合に現れる神出鬼没な斉吉さん。どこから湧いて出た?
「まあそうだね。がんばってはいるよ、調べ物だけど」
小説に着手する前段階で諦めそうなくらい難航しているが。
「元ネタ探しってこと?すごく大変で大事なところだよね、すごい!」
「ありがと。斉吉さんは突然現れては私の自己肯定感を上げてくれるね……」
それでやる気の出る私もチョロいが、有り難いことに変わりはない。
「そう?どういたしまして!」
元気に返事をする斉吉さんはというと、部活の先輩はのんびりまったりしている人が多く、楽しくやっているとのこと。茶華道部には斉吉さんみたいな人がいっぱいいるのだろうか。
「あっ、そうだ空道ちゃん!来週の体育祭で保護者用テントを張るんだけど、人数が足りなくて。お手伝い、お願いしてもいいかな?」
「体育祭……そういえば、もう来週か」
今年の体育祭実行委員は例年に比べて少ないらしい。人員不足はそのせいだろう。
「うん、それくらいなら。いつ?」
「前日の放課後だよ。本当にありがとぉ。一緒に行こうね!」
「了解」
斉吉さん曰く、体育祭を見に来る保護者用のテントに加え、放送部席のテントも張るらしい。機械類が暑さでやられないようにするためなんだとか。
ちなみに生徒用のテントはない。五月だから熱中症にはならないかもしれないが、体調を崩す生徒はいないのだろうか……。
高校一年生となり早二週間。
帰宅部エースとしてとっとと帰ろうとした私は、担任の塩田先生に引き留められていた。
「そうそう。ウチの高校、帰宅部禁止だからさぁ」
なんと。……なにゆえに?という、発してもいない私の疑問に、答えが返ってくるはずもなかった。
部活になんて入りたくない。
私は平穏な高校生活を送れたならそれでいい。熱い青春だとか、波乱万丈な学園生活だとか、そんなものはお呼びではないのだ。
そんな私の内心など知るよしもない塩田先生は、教室の壁にかけられた時計をちらりと見る。今日は職員会議があると言っていたし、この話を早々に切り上げたいのだろう、心底どうでもいい考察が頭をよぎる。
「そういうことだから、四月中に入部届。頼むよ」
「……はい」
不満はあれど、ルールだ校則だと言われたら抗えないのが生徒というもの。
頭では理解している。だが、職員会議に向かう塩田先生の姿が消えるまで、私はその場に立ち尽くしていた。こんな横暴なことがあっていいのか。
長いため息をつき「帰りたい」と零しながらも、私はふらふらと掲示板に向かった。廊下に張り出されたポスターを見て適当に入部し、どこかの幽霊部員になろうという魂胆である。活動に参加する気などありはしない。
色とりどりのポスターを眺め、幽霊部員になれそうな部活を探す。
「吹奏楽部、演劇部、放送部……」
この辺りは活動日数が多そうなのでパス。運動部はどこもかしこも忙しそうなので除外。文化部のみを対象に考えるものの、しっくりくる部活は見当たらない。
「新聞部に、写真部なんてのもあるのか。でもなあ……」
言っちゃ悪いが、全くもって興味ない。あと機材を購入する必要がある部活もお断りだ。
「あえて大人数の部活にするか?一人くらい幽霊部員がいても困らない程度のところとか」
となれば、書道部が有力候補か?でもなあ、うちの高校の書道部はスパルタだって聞くしなあ。おまけに私は大人数すぎるのも苦手。少人数で活動が少なくて、できれば幽霊部員ができる部はないものか。
「どうした新入生、もしかして部活迷ってる感じかー?」
「うわっ」
突然後方から響いた声に、思わず飛び退く。慌てて振り返ると、やたら顔のいい男子生徒が立っていた。身長も高い。先輩だろうか。
「あーごめんごめん、驚かせちゃったか?」
左手で頭を掻き、私に笑顔を向けてくる。無駄に眩しい。誰だあんたは。
私の考えていることが伝わったのか、男子生徒は軽く左手を上げて自己紹介をした。
「俺は乾文也、文芸部の三年生だ。よろしくなー」
なんかチャラそう。
第一印象はただひたすらにそれ。先ほどから向けられている笑顔もどこか胡散臭い。気がする。
「君新入生?部活迷ってるならうちはどうだ?歓迎するぞー?」
「うち……というと、文芸部ですか。私が?」
うんうん!と激しく頷かれる。楽しそうですね。
「……小説とか書くってこと、ですよね」
しかも部ということは、作品を人に見せるはずだ。今の私にはハードルが高すぎる。
「小説はもちろんだが、評論に短歌に俳句、なんでもござれ、ってな部活だよ」
なんならイラストも漫画も大歓迎!と軽く請け負う乾先輩。どうやら創作物なら何でもいいらしい。
「実は今、文芸部の新入生ゼロでさー、存続の危機なんだよなー」
そしてさらっと大事なことを告げられる。存続の危機って、そんな軽く言うことか?いや、そんなはずはない。危機感ないのかなこの人。
「そろそろ誰か入ってくれないと困るなー?」
チラチラ、とわざとらしく視線を送ってくる。なんだろうこの面倒くさい人に絡まれてる感。
楽しいよー部室は秘密基地っぽくて過ごしやすいよー歴代部誌も読み放題だよーと猛プッシュを受けるが、最後のは人を選ぶと思う。
「はあ……条件次第ですね」
「条件?」
乾先輩は素早く反応し、何だ何が欲しいんだと続きを催促する。うるさいうるさい。
「お金がかからないこと。できれば少人数であること。そしてとにかく活動が少ないこと。あわよくば幽霊部員でも許される部活、ですかね」
「わー、活動意欲なーい」
悪かったですね。
まだ何か言われるかと思ったが、意外にも乾先輩は、すん、と真面目な顔になった。
「まーでも真面目な話、うちの部ならその条件、完璧に満たしてるよ」
まじっすか。
「文芸で必要なものは紙と筆記用具。でもそれは部費で出るから金はかからん。次に部員数、存続の危機にある時点でお察しだが少人数の極みだ。具体的に言えば、俺と二年生一人の計二人だな。で、問題の活動内容だが」
活動内容によってはばっさり斬りますよ私。と思いつつ乾先輩のほうを見やる。
「なんと一年に一回、文化祭で部誌を発行する以外はほとんどない!」
自信に満ち溢れている。こんな好条件は文芸部以外ない、と断言する勢いだ。
「なるほど……」
確かに、これはかなりいい部活だ。私からの文句はない……が、正直に言うのも何か腹立つな。
「……少し、考えさせてください」
困ったときはこの言葉。私は一旦逃げる。
「おーう、楽しみにしてるぞ!」
そう返した乾先輩は私の答えを察しているような様子で、やっぱりムカついた。
翌日。
あのあと他の部活を見学に行ったが、どこも活動が忙しい部ばかりだった。
悔しまぎれに『文芸部』と書き殴った入部届一枚。それを朝一番に担任に提出し、私は一日中敗北感を味わっていた。乾先輩の手のひらの上で転がされているような気がしてならない。面白くない。
「空道ちゃん部活入ったの?何部〜?」
放課後、机に突っ伏している私に気後れすることなく話しかけてきたのは、隣の席の斉吉日鞠。可愛らしいものが好きで、典型的なふわふわ系女子。そのためか、いわゆる一軍女子からは目の敵にされているらしい。私は来るもの拒まず去るもの追わずのスタンスで生きていきたい人間なので、特に拒みもせずにいたら懐かれた。適度に賑やかでいいかなと思っている。
「……誰から聞いたの?」
ちなみにそんなスタンスで生きてるおかげで、特に親しい友人がいないのが現状である。特別仲が悪い人もいないため、教室内では平穏な高校生活が守られていると言える。
つまるところ、良くも悪くも、人との関わりが薄いのである。ゆえに、私が部活に入ったことを知る人物なんていないはずなのだけれど。
「朝、塩田先生に入部届出してるの見た!」
なるほど現場を押さえられていたと。
「……全然気付かなかった」
「それでそれで?何部にしたの?」
私気になってたんだぁ、と屈託のない笑顔で言われてしまい、逃げ道を塞がれる。入りたくて入ったわけじゃないんですけど。
「えっと、文芸」
「そっかぁ、文芸部かぁ!」
食い気味の反応。そんなに気になるか?
この子変わってるなあ、と思う私に、斉吉さんは続けて「確かに空道ちゃん本好きだもんね!」と言う。私は軽く驚いた。
「……私が本好きなの、知ってたんだ?」
「もちろん!休み時間、よく本読んでるでしょ?」
へぇ。よく見てるんだな。
「文芸部、ってことは小説書くの?お話書いたら見せてほしいなぁ」
「……そのうち、ね」
まさかここで「帰宅部禁止って言われて入部しただけで、そこまで活動するつもりはない」なんて言えるはずもない。期待に輝く目を前にしてそんなことを言えるほどの勇気を持っているやつがいるなら、私に教えてほしい。
とはいうものの、昨日の文芸部アピールで乾先輩は『文化祭までは活動なし』と言っていたのだ。それまでは、きっと平穏な高校生活を送れるだろう。
……と思っていた時期が私にもありました。
これから部活だという斉吉さんを見送り、とっとと帰ろうとした私の足を止めたのは、無駄にキラキラした笑顔。
「お、新入部員君!部活始まるぞ!」
「げっ」
思わず心の声が漏れた。
「げっ……って聞こえた気がするが、気のせいか?」
「……だと思います」
すーっと目をそらし、明後日の方向を向く。気のせいっすよ。
「んー、まぁいいや。行くぞ新入部員君!」
勝手に腕を引かれる。帰らせてはくれないらしい。
「行くって、どこにです?」
「決まってるだろう?」
ニッ、と笑ったその顔は、昨日見たどこか嘘くさい笑顔ではなかった。
「ようこそ新入部員君、俺らの文芸部へ!」
好きなことを好きなままに。
そんな人だけが持つ、一番の瞳だった。
「あ、そういえば君、名前は?」
「はい?」
今更何を、とは思ったが、すぐに思い当たる。確かに一方的に名乗られただけだったな。
「……そらみち、です」
空の道。
そう聞いて何を思い浮かべるかは人それぞれだが、私は空に架かる虹を想像する。空に続く道である虹が、凛とした美しさで架かっているようで、私はこの名前を気に入っていた。
「空道凛。空道でも凛でも、好きなように呼んでください」
もっとも、私は美しさなんて持ち合わせていない。誰かの心に虹を架けることもできそうにない。そういう意味で言えば、名前負けしているのかもしれないが。
「空道、凛。いい名前だな」
乾先輩は、どこか羨ましそうな顔をしていた。
「……えっと、ありがとうございます」
私は、一拍遅れて反応した。
気に入っているとはいえ、名前を褒められるとは思っていなかったのだ。
「あ、凛君、着いたぞ」
「……」
早速名前呼びか。やっぱり軽いなこの人。
目の前には、少し古びた扉。
自己紹介をしている間に、私たちは部室にたどり着いていたらしい。
乾先輩は部室の扉を思い切り開け放った。
「じゃーん。ここが俺ら文芸部の部室だ!」
「……はあ?」
乾先輩の楽しげな声と、地獄の底から湧き上がったような私の声とが、嫌なコントラストを形成している。
というのも、文芸部の部室とやら。とんでもないゴミ屋敷だったのだ。
「なんですかこの汚部屋は」
「汚部屋!?そんなはずは……坂口安吾だって綺麗な部屋だと言うに違いない部室だぞ?」
「誰ですかその人」
聞いたことある気はするが。
「坂口安吾は無頼派の作家だ。ほら、この人」
そう言って乾先輩が見せてきたスマホ画面には、これまたものすごい汚部屋の主が写っていた。
床一面に紙がぶち撒けられているし、よくよく見てみれば空き缶のようなものも転がっている。机の上はまだマシだと思える。まだ。
だが、この部屋はどうだ。
私は画面に映し出された写真と、目の前の部室とを見比べた。結果、大きなため息が零れる。
「……何が『坂口安吾も綺麗だと言う部屋』ですか。坂口安吾もびっくりの大惨事じゃないですか」
空き缶が転がっていないだけマシではあるが、それにしたって酷い有様だ。
「言うねぇー」
そりゃ言いますとも。
備え付けの棚は本が整然と並んでいるためまだ綺麗だ。しかし部屋の真ん中、面積のほとんどを占める机の上は紙の束や辞書、本で埋め尽くされている。机の色さえ拝めない状態なのだ。極めつけは床。足の踏み場がないほどに散乱した紙、紙、紙。原稿用紙すら床に置きっぱなしなのはいかがなものか。坂口安吾よりも広範囲を、こうまで見事に汚部屋に仕立てる乾先輩は何者なんだ。いや、ただのズボラなのだろうが。
乾先輩の「部室は秘密基地っぽくて楽しい」という言葉を思い出す。実際は、ただただ部室が荒れていてこじんまりとした印象を受ける、というだけのようだった。
「……先輩、これでどう活動するんです?」
「んー?適当に物をどかしてくれればいいけど?ああそうそう、紙は自由に使っていいぞ。もちろん原稿用紙も。ただし部費で買ってるやつだから無駄遣いは自重すること!」
ビシッと決めたつもりでいるのだろうが、汚部屋の主が格好つけてもな。
私は綺麗好きでこそないが、さすがにこんな所で放課後を過ごしたくない。どうせ活動しなきゃならないなら、もっと過ごしやすい部屋がいい。こんなゴミ屋敷じゃなくて。
「先輩」
「お、どうした?インスピレーション湧いてきたか?」
「…………すよ」
「ん?」
「断捨離しますよ!部室がこんなにとっ散らかってるなんてありえませんから!捨てますよ色々!それ以外のことは全部後回しです!」
そうだ。幽霊部員とか活動の有無とか、そんなことは後でいい。とりあえずこのゴミ屋敷を何とかしない限り、話が始まらない。
「え、やだやだ、嘘だろう?捨てるものなんてないし……それにほら、慣れたら過ごしやすいからさぁ、ってああああ、それは駄目!捨てないで!それは捨てちゃ駄目なやつ!」
乾先輩は、床に散らばる原稿用紙を手に取っただけで大騒ぎする。いやさすがに必要かどうかは確認しますって。
文芸部の部室ことゴミ屋敷に、乾先輩の悲痛な叫びが響き渡った。
「わかった、片付ける!片付けるから、それだけは勘弁してくれぇー!!」
「はぁ……疲れた」
部室の掃除を開始してはや一週間。ようやく足の踏み場ができ、机の色が見えてきた。ちなみに薄い茶色だった。掃除をすればするほど「なんでこんなものが……」というものが次々と姿を現し、その度にため息を飲み込む一週間だった。
なぜ文芸部の部室から進路希望書が出てくるんだ。どうして図書室の本と返却督促状が同時に出てくるんだ。普通に考えておかしいだろう。ちなみに返却期限がとうの昔に切れたその本は、図書室にちゃんと返しに行った。
「空道ちゃん大丈夫?文芸部が忙しい?」
放課後、机に突っ伏していると、部活に向かう斉吉さんに心配された。ちなみに彼女は茶華道部。ふわふわした雰囲気の斉吉さんが茶華道……ちょっと想像つかない。本人曰く、和風のものが好きらしいけど。
「まあ、ハードだね」
掃除だけど。
文芸部がひたすら掃除をしているなんて、斉吉さんは露ほども思っていないだろうな。私だって、部室があんな有様だとは思わなかった。
「大変だねぇ……がんばって!」
「はは、ありがと……っと、時間だ。じゃあ私、部活行くね」
斉吉さんもがんばって、と声を掛けると「ありがとぉ〜」と可愛らしい返事が返ってくる。あののんびりとした雰囲気のまま茶華道に勤しむのだろうか……。
部活開始時刻までに部室に行かないと、乾先輩が教室に突撃してくる。それを学習した私は、部活開始時間になる前に部室に行くようにしていた。はあ、こんなはずじゃなかったんだけどなあ。
入部初日の部室連行、無駄にキラキラしている乾先輩のせいで目立ってしまった私は見事クラスで浮いている。相変わらず、話す相手は斉吉さんくらいのものだ。まあ私はそれでも一向に構わないのだけれど。
私の教室から文芸部の部室まではそれほど遠くない。少し歩けばすぐそこだ。
「失礼します」
「失礼するならかえ」
「失礼しましたー」
「待って速い速い帰るな!?ごめん冗談だよ!」
「知ってます」
あわよくば帰ろうと思っていたのは事実だが。
私はこの一週間で片付いた部室を見回し、達成感に浸った。うん、最低でもこのくらいは片付いてないと。
「いやー、凛君が入ってくれて助かったよ!部室は見違えるように綺麗になったし、使いやすい部屋のままだし……才能ある期待の新入部員様々だな!」
「それ褒めてます……?」
才能は才能でも、掃除の才能じゃあね。
「というか、部室の片付けに一週間かかってる時点でおかしいんですからね?もう散らかさないでくださいよ」
「へーい」
……本当に分かっているのか?
「一応部室には来ましたけど、掃除は終わりましたし私のやることはないですよね?やっぱり帰っていいですか?」
回れ右をして帰ろうとすると、乾先輩に「駄目駄目!」と止められる。
「やることはあるからな。ちょっと待ってろ」
えー、あれどこに置いたかな、と棚をゴソゴソやり出した乾先輩の周囲に紙が散る。言ったそばから散らかして……!
「お、あったあった。これに応募してくれ、凛君」
「……はい?応募……?」
『海の小説募集!資格不要、誰でも気軽にご応募ください!』
そんな文字が踊る青い広告が目に入る。……は?
「いや何勝手に、というか無理です急に、小説なんて書けませんって!」
「誰でも気軽に、って書いてあるだろう?初心者も大歓迎!ってことだよ」
そんな無茶な。
「そもそも!私、そんなに活動するつもりは――」
そうだ。私はあわよくば幽霊部員を、と思ってこの部に入ったのだ。初心忘るべからず、である。
「それに、活動は少ないって言ってたじゃないですか!こんな詐欺みたいな……!」
「騙してはいないぞ?実際、今までの活動は部誌発行だけだったし」
つまりこれからは活動を増やす、と?
嘘、騙された!
「そういう訳だから何か小説書いてくれよ、海が出てくるやつ」
「嫌ですよ!?絶対書きませんから!」
大切なことだから何度も言うが、私は平穏な高校生活を送りたい。別にそんなことがしたいんじゃない!
「そうかぁ、嫌かぁ……」
断固拒否する私に、態度を軟化させる乾先輩。そりゃ急にそんなことを言われてもできるわけないですよ。
「もし選考に残ったら、先生が美味いもん奢ってくれるんだけどなぁ〜」
「……美味いもん」
あ、しまった。思わず反応してしまった。
果たして乾先輩はにやぁと笑い、さらに続けた。
「そうそう、美味いもん。俺の時は、いちご大福だったなぁ〜」
「……いちご、大福」
「しかも、雪白屋のいちご大福!」
「えっ」
雪白屋って、あの高級和菓子店の?雪白屋のいちご大福といえば、この辺りでは知らない人はいないくらいの有名菓子。私は数回食べたことがある程度だが、高級なだけあってとても美味。それを奢ってもらった、だと?
「もちろん、甘いものじゃなくてもいいと思うぞ?うどんとか」
「いやうどんはいつも通りなんでいいです」
「……それもそうか」
我ら香川県民、うどんは普段から食べるもの。リーズナブルで美味しい、香川の最強フードである。
「まぁとにかく、選考に残れば残るほど無理聞いてくれるから、美味いもんにありつけるぞ〜」
「……そ、そこまで言うなら仕方ないなあ!」
別にいちご大福に釣られたわけじゃないけど?書いてあげてもいいかなーっていうか?
「よっしゃ釣れたぁ!」
「違います!釣られてません!」
協力してやろうって後輩に向かって、全く失礼な。
「……こほん。えっと、海が出てくる小説……を書けばいいんですか?」
「そうそう。できるだけ印象に残るように海を出したほうがいいぞ」
「印象に残るように、って……どうすれば?」
抽象的すぎて分からないんですが。
「そうだなぁ……何かモチーフを出すとか……いや、小説は聞くより盗め、だな」
えーと、書き殴ったのはこの辺にまとめたよな、と再び紙が散乱する。あとで本人に片付けさせよう。
「ん、これだ。ほれ、読んでみろ」
そう言って渡されたのは分厚い紙の束。原稿用紙ではなく、裏紙に、まさしく書き殴るように書かれた文字。何度も訂正が入り、場面の挿入もある。
「清書してないやつですまん。一応完結してるから、ぼちぼち読んでおいてくれ。書くためには読まなきゃいけないし、書くためには盗まなきゃいけない。丸々盗んだら、それはパクリだ。悪意の発露になる。でも、文章の組み立て方や話全体の構造、比喩の仕方……ちょっとずつ盗んで、自分がいいと思うものを作る。それが創作の醍醐味ってやつだよ」
「……へぇ。いいんですか、先輩から盗んじゃっても」
少しばかり意地悪な気持ちも込めて、私は乾先輩に問いかけた。
「もちろん。どんどん盗んでけ、新入部員。俺は君の中にある物語を読みたい。とびっきり面白いやつだ。そのための起爆剤になれるなら、これまで書いてきた俺の小説も、言葉も、報われるってもんだよ」
……この人は、本当に小説が好きなんだ。
読みたくて書いている人。
小説を書くのは、皆、誰かに認められたいからだと思っていた。
でも、そうか。そんな人も、いるんだ。
「あーでもあんま人には見せるなよ!清書してないし推敲の跡も残ってるからさすがに恥ずかしいし!」
「私は?」
「凛君は文芸部の仲間だからなー、特別扱いってやつ?あと、創作の苦しみがよく分かるからな……」
はは……と乾いた笑いが零れる。ええ……。
「先輩でも苦しむんですか……?」
一気に自信なくなったんですが。
「まぁなぁ……でも、その先にある喜びのために必要な苦しみだよ。生み出す苦しみと生み出す喜びは表裏一体、だからな」
「はあ……」
今の私にはよく分からない。乾先輩の小説を読めば、あるいは、実際に小説を書いてみれば、私もそう思えるようになるのだろうか。
私は乾先輩の小説を持ち帰らせてもらい、家で読んだ。
乾先輩の文章は、確かに盗めるものが多い。
言葉の一つ一つが洗練されている。一瞬の光をとらえて離さないような文章。病的なまでの美しさと、不思議で独特な世界観。修正に修正を重ねた乾先輩の文章は、とても綺麗だった。
あんな汚部屋を形成しているくせに、どこか軽い印象を与えるくせに、こんなものを書いてしまうなんて。
これは、なかなか高い壁にぶち当たってしまったな。
「くっそ……絶対超えてやる……」
私の負けず嫌いに火がついた瞬間だった。
こうなったらいちご大福は関係ない。できるところまでやってやる!
テーマは海。何をすればいいかなんて一つも分からないけど、絶対に乾先輩以上の傑作を書いてみせる……!
……と意気込んで小説の構想を練り始めたものの、全くと言っていいほど思いつかない。海がテーマということで海について調べてはみたが、これといったものが見つからない。創作のヒントは得られず、余計な知識は着々と増えていた。
はやくモチーフを決めないと、傑作なんて夢のまた夢だ。
「はぁ……」
「どうしたの?やっぱり部活の悩みごと?」
「うわびっくりした」
ため息をつくと、打てば響くといった具合に現れる神出鬼没な斉吉さん。どこから湧いて出た?
「まあそうだね。がんばってはいるよ、調べ物だけど」
小説に着手する前段階で諦めそうなくらい難航しているが。
「元ネタ探しってこと?すごく大変で大事なところだよね、すごい!」
「ありがと。斉吉さんは突然現れては私の自己肯定感を上げてくれるね……」
それでやる気の出る私もチョロいが、有り難いことに変わりはない。
「そう?どういたしまして!」
元気に返事をする斉吉さんはというと、部活の先輩はのんびりまったりしている人が多く、楽しくやっているとのこと。茶華道部には斉吉さんみたいな人がいっぱいいるのだろうか。
「あっ、そうだ空道ちゃん!来週の体育祭で保護者用テントを張るんだけど、人数が足りなくて。お手伝い、お願いしてもいいかな?」
「体育祭……そういえば、もう来週か」
今年の体育祭実行委員は例年に比べて少ないらしい。人員不足はそのせいだろう。
「うん、それくらいなら。いつ?」
「前日の放課後だよ。本当にありがとぉ。一緒に行こうね!」
「了解」
斉吉さん曰く、体育祭を見に来る保護者用のテントに加え、放送部席のテントも張るらしい。機械類が暑さでやられないようにするためなんだとか。
ちなみに生徒用のテントはない。五月だから熱中症にはならないかもしれないが、体調を崩す生徒はいないのだろうか……。
