【死夢】――空道凛
――
声になり損ねた音がする。
その振動が彼らの体を震わせた。
「くる。なにかくる」
「くる。おちてくる」
「くる。おおきいなにか、おちてくる」
光など差し込むことのない、暗い暗い海の底。ざわざわと騒ぐのは何ぞや。
「きた。なにかきた」
「きた。おちてきた」
「きた。おおきいなにか、おちてきた」
彼らは闇の中を蠢き、"おちてきたおおきななにか"をその体で受け止めた。僅かに感じる質量に、彼らは体を震わせた。
「これ、ニンゲン?」
「ニンゲン、おちてきた?」
「おちてきたニンゲン、ニンゲン、おちてきた」
ニンゲンの体に、彼らの持つゼリーのような冷たさが張り付く。
にわかに、ニンゲンの体に光が宿った。
「光った。ニンゲン、光った」
「光った。ヒカリ、にげる」
「ニンゲンのヒカリ、にげた」
「どこいく、ニンゲン」
「ニンゲン、どこいく」
「ヒカリ、のぼる。どこに?」
光はニンゲンの体を離れ、上へ上へと上昇していく。その光の球は、暗く深い海の底、彼らを照らした。
「まて、ニンゲン」
彼らはその光に誘われるようにして、ふわふわと海の中を漂う。
「ニンゲン、まて」
彼らの姿が光を受けて、この暗さの中、ぼんやりと浮かび上がった。
ゼリー状の透明な体が光を反射し、静かな暖かさをその身に映す。

彼らは、くらげだった。

「ニンゲン、どこにいく」
光の球を見据え、くらげは問うた。
「これいじょう、どこにいく」
光の球は迷うように漂い続ける。一匹のくらげはその軌跡を追う。
不意に、光の球が一匹のくらげに向かって飛んだ。
その動きはこれまでと打って変わって俊敏で、くらげは何が起こったのかもよくわからなかった。
くらげと光の球がぶつかる。
「わ、」
くらげは微かな声を上げて光の球を受ける。
そして、球はぼうっと光り、くらげの中に溶けるようにして消えてしまった。
「どうした」
「だいじょうぶか」
他のくらげたちがわらわらと集まる。
光と溶け合ったくらげは、その内側にぼうっと輝く光の核を持った。光の核は暖かな灯となって、彼らを照らす。
――ここ、は
光の核を宿すくらげから、聞き覚えのない声がした。
「ここ、われらの、せかい」
「ここ、ニンゲン、うみ、と、よぶ」
残りのくらげがそう答え、光を宿すくらげは、ぷるる、とその身を震わせた。
――海。海の底。
呟くようにそう言って、光のくらげは辺りを見回すような仕草をした。
「いまはなしているのは、ニンゲン?」
「たぶん、ニンゲン、はなしてる」
「ニンゲン、ニンゲン、なんでおちてきた?」
徐々に状況を把握してきたくらげたちが問う。
こんなに暗い海の底に、地上で暮らしているらしいニンゲンがそうそう落ちてくるはずもない。くらげたちの興味を惹くには十分だった。
――私、は……
「まちがって、おちてきた?」
「だれかにおとされた?」
「そんなこと、ある?」
「ニンゲンはある、ときく」
「そうなのか」
「うえはこわい」
「こわい」
聞いておきながら、ニンゲンが言葉に詰まるとくらげたちはざわざわと話し始める。事故か他殺か、と問われているらしいと考えたニンゲンは、慌てて口を挟んだ。
――違うの。私は、自分で、海に飛び込んだの。
「なんで?」
「なんで?」
「ニンゲン、うえのせかいじゃないと、いきられない」
「ニンゲン、ここじゃ、しんじゃう」
彼らでも、ニンゲンがここでは生きていけないことを知っている。何故生きていけない場所に来たのか、彼らには理解できなかった。
――私、生きていくのが、嫌になったの。
だからジサツしたの、と静かに語るニンゲンの話を、彼らは物珍しいものでも見るかのような気分で聞いていた。
ニンゲンの話によると、ニンゲンは他のニンゲンから意地悪をされていたらしかった。それが嫌で嫌で仕方なくて、自分で命を断つ選択をしたのだ、と。
説明されても、彼らにはなお理解の及ばない考えだった。
「ニンゲン、いじわるされた。でも、しんじゃったら、なにもできない」
「ふくしゅうするのも、よくはない。でも、しんじゃったら、なんにもできない」
――それでいいの。私、疲れたんだもの。
「ニンゲン、つかれた?」
「つかれたなら、たべて、ねて、またたべなきゃ」
「ねて、おきて、ごはんたべて、ねなきゃ」
「つかれとさよならして、いきていかなきゃ」
――それが嫌でここまで来たの。なのになんで生きていかなきゃいけないの?
ニンゲンはイライラしているらしかった。もう放っておいてよ、と棘々しく言い放つ。
「でも、ニンゲン、せっかく、いきてるのに」
何故ニンゲンが怒っているのか分からない彼らは、さらに言い募る。
「せっかく、いきてるのに、いやなやつのために、しんじゃうの?」
「いやなやつのために、しんじゃうなんて、もったいない」
「もったいない、もったいない」
「いきてなきゃ、なんにもできないんだよ」
「おはなしもできないんだよ」
「おいしいものも、たべられないんだよ」
「すきなこと、なんにもできないんだよ」
「いきるのは、つらいこともあるかもしれないけど、でも、」
「「いきてなきゃ、なんにもできないんだよ」」
光を宿したくらげの体が、ぷるるる、と震えた。
――あなたたちに、私の気持ちが分かるわけない。分かったようなこと言わないでよ……
ニンゲンは弱っていた。
「ニンゲン、ないてる?」
「ニンゲン、ないてるの?」
――泣いてなんか、
「われら、ニンゲンのかんがえ、わからない」
「ニンゲンのなやみ、わかってやれない」
――じゃあ黙っててよ……
言葉はまだ棘を持っているが、語気に力を感じない。
「だって、ニンゲン、しにたくなさそう」
くらげは静かに問うた。
「ニンゲン、いきたい?」
ニンゲンは、くらげの体をぷるぷる震わせて、絞り出すような声で答えた。
――決まってるでしょ……
生きていくなんて無理。だって、あんな環境、耐えられない。だから私は死を選んだ。だから、でも、本当は。
――私だって、生きたい。生きたかった……!
「……ニンゲン」
彼らには、理解できない。生きたいのに死を選ぶニンゲンのことを理解するには、彼らには何かが欠けていた。
しかし彼らにも、わかることはある。
「ニンゲン、つらかったな」
「ニンゲン、よくがんばった」
「ニンゲン、よくたえた」
「ニンゲン、えらい」
光を宿すくらげの周りに、わらわらとくらげが集まる。その姿は、ニンゲンを慰めているようだった。
――でも、死んじゃった。生きたかったのに、私……死んじゃった。
後悔しても時は戻らない。
不変の理を思って、ニンゲンは涙を零した。
ニンゲンの涙は海に溶けて、海の濃度を上げる。くらげたちはそれを透明な肌で感じながら、再度確かめるように問うた。
「ニンゲン、いきたいか?」
――生きたいよ。
「ニンゲン、つらいこと、きっと、またある。それでも、いきたいか?」
――うん、それでも。私は、生きたい。
「そうか。ニンゲン、いきたい」
「ニンゲン、いきたい。われら、てつだう」
――何を、
するつもりなの。
くらげたちはニンゲンの言葉を聞いてはいなかった。ニンゲンの問いかけをみなまで聞かず、光のくらげの周りにぎゅうぎゅうと集まる。
――ちょっと、苦し……
「ニンゲン、もどっても、がんばれ」
「ニンゲン、つらかったら、にげてもいい」
「ニンゲン、こうかい、するな」
「ニンゲン、しぬな」
くらげの中に宿る光がゆるゆると揺れる。くらげと光の結びつきが揺らぐ。
「「ニンゲン、生きろ!」」
その刹那、くらげと光は分離した。

――
声になり損ねた音がした。
後に続くのは静かな海の音。岸に寄せる波の音……
「わたし……」
確か、海に飛び込んで、くらげたちに。
だんだんと覚醒してきた私は、ガバっと身を起こした。目に映るのは白い砂と青い海、そして蒼い空。
くらげたちはおろか、人っ子一人いない砂浜に座り込んで唖然としている人間がいた。
それが、私。
どうやら私は砂浜に転がっていたらしかった。
「くらげたちは……私は、死んだんじゃなかったの……?」
生きている。どこまでが現実だったのだろう。今までのことは、全て夢だったのだろうか。
「……ううん。夢じゃ、ない」
証拠はない。しかし、不思議と確信があった。
きっと暗い暗い海の底では、今この瞬間もくらげたちがざわざわと騒いでいることだろう。僅かな音に、ゼリー状の体を震わせているだろう。
「……ありがとう」
彼らのゼリーの冷たさを思い出しながら、ニンゲン――私は呟いた。
言い損ねた言葉が、彼らの体を震わせていることを祈りながら。


「……どう、ですか」
私が持ってきた小説を食い入るように読む乾先輩に感想を聞く。めっちゃ緊張するなこれ。
「…………うん、めちゃくちゃ面白い!めちゃくちゃ面白いぞ凛君!!」
「……ほ、本当ですか!?」
ああ!と満面の笑みで答える乾先輩を見て、ますます嬉しくなる。
あの日、私は帰宅してすぐ部屋に引きこもり、大急ぎでこの小説を書いた。あんなに書けなかったのが嘘のように、すらすらと言葉が出てきた。途中で何度か言葉につまりはしたものの、頭の中にしっかりとイメージがあったおかげでなんとか書き上げることができたのだった。
「ただ一つ反省点を述べるなら、応募に間に合わなかったことだなぁ……」
乾先輩はそのことを、自分のことのように悔やんでいる。
そう、今日は九月一日。
始業式を終え、無事二学期が始まったばかりだ。
「次からは締め切りに間に合うよう、気をつけます……」
私だって、間に合わなかったことは後悔している。次こそは、と思うのは自然の流れ。
「ああ、ぜひそうしてくれ」
さようなら雪白屋のいちご大福……いや、そう簡単に賞を取れるとは思ってないけど。
「となると、これは部誌掲載になるかなー……俺はどれ載せようかな、わりと短編は書いてるんだけど……」
棚をゴソゴソやりだした乾先輩がまた部室を荒らしている。もう見慣れた光景だ。
「そういえば、文化祭で部誌を発行するんでしたっけ」
それが一番メインの活動だとかなんだとか言っていた気が……ん?
「……もし応募に間に合っていたら、私は何を……?」
応募中の作品を他の場所で発表するのはアウトなはず。乾先輩は私の指摘にギクリと肩を揺らした。
「……やー、その場で詩文でも書かせようかなーなんて……はははは」
「はあ!?」
なんてことだ。ほぼノープランだったってことじゃないか。
「まぁまぁ、うちには詩文のエキスパートがいるし、そういうのもいい経験だろ?」
「詩文のエキスパート……?先輩は詩文もやるんですか?」
あまりイメージはなかったが、なるほど、あの文章なら詩文もいけそうだ、と思っていると、乾先輩はかぶりを振った。
「いーや?俺じゃなくて、もう一人の部員。ほら、二年生の」
…………そういえば、一番最初に言ってたような?
「え、待ってください、私会ったことないんですけど!」
というかもう一人部員がいるなら私が部活動対抗リレーに出なくても良かったのでは?一度も部室に来ていないのに、乾先輩お得意の部活来い来いはやらないのか?文学研修にも来ていなかったけど?
混乱する私に、乾先輩はこともなげに言い放つ。
「ああ、あいつは狙いたい賞があるからしばらく来ないんだとさ。まさか一学期中ずっと来ないとは思ってもみなかったが……まぁそれだけ本気なんだろ、あいつは一人で書きたいタイプだし」
乾先輩はさらっと言っているが、どうしてもほしい賞があるのって相当すごいことでは?何か思い入れがあるのだろうか。
「えっと……その先輩はどんな賞を狙ってるんですか?」
「何だったかなー……何かほら、あの有名な詩人の……国民詩人?って言われてるあの人の賞だよ、名前ど忘れしたけど」
国民詩人って……これまたすごそうな二つ名だな。私が知っているレベルの人だろうか。
私にはまだまだ未知の世界だ、と思っていると、後方から知らない声が答えた。
「――文也先輩、『北原白秋』です。あと私が参加したのは詩文ではなく短歌です」
「あ、そうそう、北原白秋!……あれ、詩文じゃなかったか?」
「違います」
ピシャリと言い切ったのは、文芸部の扉の前に控える女子生徒。長い黒髪が印象的な美人だ。
「ようやくご登場か、『柊檸檬』センセイ?」
「え、『柊檸檬』って」
あの、去年の文芸誌に載っていた『柊檸檬』?
ということはこの人が二年生の文芸部員なのか?
「なんだ凛君、知ってたのか?」
「いや知ってたっていうか、去年の部誌を読んで、この人の詩文好きだなーって思ってて」
「本当に?嬉しいわ」
にこり、と微笑む美人。ま、眩しい。なんで文芸部は美形揃いなんだ。なんで普通の顔の私が浮いてるんだ。
先輩を立ちっぱなしにさせておくのはまずいだろうと席を開け、『柊檸檬』さんに座ってもらう。
「ありがとう。まだ名乗っていなかったわね。私は三木平(みき たいら)。あまり自分の名前が好きじゃないから、苗字で呼んでくれると嬉しいわ」
「えっと、……三木先輩?」
無言でにこりと微笑まれる。
ここまで来たら美人特有の凄みを感じる。これは許諾という意味で取ってもいいのだろうか。
「はじめまして、空道凛です。三木先輩のお好きなように呼んでください」
「ありがとう。じゃあ、空道ちゃんって呼んでも良いかしら」
それはもちろん。
「でも私たち、はじめましてではないわよ」
さらりと衝撃の事実を告げられた。
「え、どこかでお会いしました?」
こんな涼しげな美人、一体どこで……
…………涼しげな?
「あ!もしかして、昨日の駅の、」
「そう。覚えていてくれたのね」
にこり肯定。
あの『北原白秋詩集』を読んでいた女の子を思い出す。まさか、あの少女が三木先輩だったとは……。
「え、でもなんであんな暑い中、駅にいたんですか?」
夏休み最終日に、わざわざあんなところにいなくても。
「だって、文芸部の連絡用チャットで『海に行きませんか』と来ていたもの。……私は四月から部活に顔を出していないし、きっと私ではないだろうとは思ったけれど、文芸部に入部した一年生がどんな子か気になったから、あの駅で待っていたの」
「えっと、……なんかすみません……」
いつ部室に行っても乾先輩しかいないものだから、もう一人先輩がいることを忘れていた……なんて、本人を前にして言えるはずがない。
「私が行きたかったから行っただけよ。私のことは忘れられているのは分かっていたし?別に気にしてなんていないもの」
ふーんだ、とそっぽを向く三木先輩。
そう言う割には気にしていそうですけど……。
「とか言ってー、結構気にしてたやつだなー?」
あ、乾先輩、そのまま言っちゃうんですね。
ちなみに乾先輩は三木先輩に足を踏まれ、「痛い痛い!すまん悪かった!」と叫び声を上げていた。
私が言えたことではないけど、三木先輩、容赦ないなあ。
こんな大人っぽい雰囲気の美人があの詩文を書いたのか?と不思議に思っていたけれど、なるほど、幼心を忘れていない人らしい。……って、こんなこと言ってたら私も足踏まれるかな。
「相変わらず減らない口ですこと……いっそ縫い付けますか?」
「いや柊センセイに縫い付けられたら口どころじゃすまな、痛い痛い、すまんもう言わないんで足どけてください!」
私は三木先輩の地雷を踏まないようにしよう。
心の中で密かに決意した。
やっと足をどけてもらえた乾先輩は、足の指先をさすっている。痛そう。
私はその光景を、この数ヶ月ですっかり馴染んだ文芸部の非日常を眺める。
乾先輩は、すっかりいつもの乾先輩だ。
クラウンであり続ける乾先輩と私は、きっとどこか似ていた。
周りのことが分からなくて、不安で、一人ぼっちが怖かった。だからクラウンの仮面を被って、不安を押し殺して、クラウンを演じてきた。
今更仮面を外すなんてできない。
乾先輩はもちろん、私だってそうだ。でもきっと、外す必要はない。仮面が苦しくなったら少し外して、少しの涙と本音を零したなら、私たちはまたクラウンになる。
寂しがりで救いたがりのクラウンたちは、そうやって生きていく。
これが、私たちの生き方だ。
「なー凛君、もし俺が『死にたい』って言ったらどうする?」
「はい……?」
考え事をしている間に話題が明後日の方向に飛んでいたらしい。三木先輩は「またか」といった表情でいる。さては慣れてるな?
一瞬呆気にとられたが、私は迷うことなく答えた。
「全力で止めますよ。生きていてほしいので」
死を望む人に生きてほしいと言うのは、どうがんばったって残酷だ。
でも、私は、生きてほしいと願うことをやめられない。私はクラウンだけど、この一点においては素直に、わがままになろうと思う。
それでいいんですよね、乾先輩。
八月の終わり、乾先輩が私の本音を否定しないでいてくれた。
夏の終わり、一人のクラウンが、一人のクラウンを救ってみせたのだ。
「…………」
自分から聞いておきながら、返事がない。
不審に思い乾先輩を見やれば、鼻どころか顔中を真っ赤にしたクラウンが一人。
……え、どうした。
三木先輩は「あらあらまあまあ」と微笑んでいる。その視線が痛い。
どういう状況か分からず戸惑う私の脳裏に、あの日の言葉が蘇った。
――『生きていてほしい』なんて最大の愛の告白、……
愛の告白。
「ちょっ、えっ、待っ……ち、違いますよ!?あくまで私の周りの人が死ぬのが嫌なだけで、そういう意味で言ったんじゃあ……!」
あわてて弁明しながら、頬に熱が集まるのを感じた。
今の私は、きっと乾先輩に負けないくらい真っ赤な顔をしているに違いない。
「そっ……そうだよな!うん!変なこと聞いて悪かった、すまん!」
「ほ、本当ですよ!からかうのもいい加減にしてください!」
私たちは、互いに真っ赤な顔を見合わせて叫んだ。なんだこれ、めちゃくちゃ恥ずかしい。
なお、三木先輩はこの状況を楽しんでおり、「あらあらまあまあ」と呟き続けている。
楽しんでないで何か言ってください!と目で訴えると、それが通じたのか「空に真っ赤な雲の色〜」と歌い出した。いや、皮肉れとは言ってないです。
「えっと、まぁ……おめでとう?」
「「何が!?」」
「息ぴったりね」
お似合いよ、とくすくす楽しそうに笑う三木先輩は間違いなく小悪魔だった。これも幼心がなせる技なのか。
肩で息をする私と乾先輩は顔を見合わせ、
「困ったな、絶対勘違いしてるぞ」
「絶対勘違いしてますね」
とこそこそ言い合った。クラウン流の照れ隠しである。必死に誤魔化すお互いのクラウンっぷりに、どちらからともなく、私たちは噴き出した。「「あははははっ」」と笑い出した私たちに、「え、待って、楽しそうに二人でこそこそと……私も混ぜてちょうだい」と疎外感に拗ねてみせる三木先輩。
文芸部の部室には、楽しげな笑い声が響いていた。

私たちはクラウンだ。
クラウンが恋なんてする訳ないと、ほとんどの人が否定するだろう。クラウンは人を笑わせるのが仕事で、彼らには滑稽なイメージがつきまとう。ロマンチックな恋なんて、クラウンには似合わないかもしれない。
でも、確かに私は、ひどく愚かで哀しい、そして美しいクラウンに恋をした。
誰が否定しようと、これは道化じゃない。
道化師の仮面にちらりとのぞく、本音の部分だ。
……でも、私はクラウンだから、この恋を仮面で隠してしまうだろう。果たして目の前の哀しく美しいクラウンは、私の恋心に気付くのだろうか。
気付いてほしいような、気付いてほしくないような。
どちらとも言える感情の中、私は仮面を手に取った。
一人ぼっちになりたくなくて、少しずつ傷ついて、それでも手放せなかった仮面。
仮面に入った少しの傷さえ愛おしい。名誉の傷とは少し異なる色の傷だ。
さあ、もう十分泣いた。
仮面をつけて、踊ろうか。
仮面が苦しくなった時は、目の前のクラウンに本音を零してしまえばいい。
きっと、この哀しく美しいクラウンは、静かに話を聞いてくれるから。
そして、この優しいクラウンが苦しくなったら。その時は、話を聞いて、そばにいよう。
私は、あなたの望む言葉を見つけられない。あなたを救う言葉を、見つけられない。
それでも、私はあなたを知りたい。理解したい。
あなたが苦しい時は、私がこの手をのばすから。
だからその時は、どうかこの手を取ってほしい。
それまでは、騙して、化かして、おどけよう。それがあなたで、それが私だ。
この選択は、きっと、正解ではない。
でも、間違いでもないはずだ。
だって、これが私たちの生き方なのだから。
そして、私は――私たちは、クラウンになる。