高校の最寄駅より二駅離れたT駅から徒歩十五分。飲食店や映画館、雑貨や洋服など色んな店舗がそろった大きなショッピングモールが見えてきた。
加奈や梨乃とは何度か来たことがあるけど、男の子と来るのは初めてだ。
茜と歩いていると、すれ違う他の客からの視線を感じた。
「あの男の子、芸能人みたい?」
「ほんとだ、めっちゃカッコイイ!」
茜への賛辞が聞こえてくる。
「となりの女の子、まさかカノジョじゃないよね?」
「違うでしょ。顏、つりあってないじゃん」
「確かに、垢抜けないコだよね」
「なんか地味だよね」
茜への賛辞と同時に自分への批判も聞こえてくる。
言わないで。茜とつりあってないなんて、私が一番よくわかっている。
密かに小さく拳を握る。
私と茜に視線を寄せる子たちはきっと、かっこいい茜と歩いている私が羨ましくて、つい口さがないことを言ってしまうのだろう。だから悔しくない。
でもやっぱり、見知らぬ他人からの無遠慮な言葉をぶつけられるのは、いい気はしない。
「私といると茜が浮いて見えるね。なんかごめん」
居たたまれなくてつい謝罪を口にする。
いきなり茜が私の手をぎゅっと握った。
驚いて顔を上げると、茜が太陽みたいに眩しい笑顔を浮かべていた。
「俺とお前、お似合いじゃねぇか」
うん、そうだね。
そう返事をしたかったけど、言葉が喉の奥につっかえてしまった。
だって、どう逆立ちしたってお似合いなんかじゃないから。
それでも、私は茜の言葉が嬉しかった。
上手く返事ができなかったかわりに、そっと茜の手を握り返す。私よりちょっと大きい手は、すごく温かくて優しかった。
繋いだ先から伝わってくる茜の体温が、凍えた心をじわじわと溶かす。
私は自然と笑顔になっていた。
手を繋いだまま、ショッピングモールの中を歩く。
お小遣いは月三千円と多くないしバイトもしていないけれど、あんまりお金を遣わないようにしているので、それなりにお金には余裕がある。
茜にどんな服を買ってあげようかワクワクしながら、色んな洋服店を覗いて回った。
「うーん、これはいまいちかも」
「あっ、この服かっこいい。でも、高すぎる……」
「素敵なデザイン。でも室内着にするにはあんまりかも。やっぱり着心地もよくないとね」
ブツブツ独り言を言いながら服を見ていると、茜は少しぐったりした顔で私の腕を引っ張った。
「俺の服なんてなんでもいいから、とっとと買っちまおうぜ」
「ごめん。そろそろ帰りたいよね」
しょんぼり項垂れる私の頭を茜がくしゃりと撫でる。
「そうじゃねぇよ」
「え?」
「どうせなら、美守の服を見ようぜ」
茜の部屋着に柔らかくて着心地抜群の藤紫色のフリースのパーカーを買うと、今度は私の服を見るためにショッピングモールを歩き回る。
「この店の服とか似合いそうだな」
そう言って茜が指さしたのは、フェミニンが売りのアパレルショップだった。
「えぇぇっ、ここのはだめだよ」
「駄目ってなんでだ? こういう服は嫌いか?」
「好きだよ、でも」
「なら入ろうぜ」
「可愛すぎて私には似合わないよ……」
茜がキョトンとした顔で私を見る。
「項垂れるなよ、美守」
「え?」
「ただでさえ背が低いんだから、俯いてると顔が見えねぇ」
「そういう茜も、男の子の中では小さいよ」
「悪かったな、チビで。俺だってもっとデカくなりてぇわ」
あ、背が低いこと気にしてたんだ。
拗ねたような顔が可愛い。私は思わずクスッと笑い声を漏らした。
「その顔だ」
「なに?」
「そうやって笑ってな。とびきり可愛いぜ」
また可愛いって言われた。狐だから、言葉のハードルが低いのかもしれない。でもすごく嬉しい。
「ほら、入ろうぜ」
茜がこちらに手を差し出す。
王子様というよりは、迷子の妹に手を差し出すお兄ちゃんという感じだった。
そのおかげで、私は自然と茜の手を取ることができた。
「うん!」
茜と手を繋いで、今までずっと物欲しげに横目で見てきたアパレルショップに、初の出陣を果たした。
レースやフリルがあしらわれたトップス、ひらりと広がるフレアスカート。甘すぎない上品なフェミニンスタイルの洋服がずらりと並んでいる。飴色の板張りの床やシャンデリア風の照明、童話に登場しそうな鏡が置かれた店内も素敵だ。
「うわあ、可愛いっ」
思わず歓声を上げてしまった。
はしゃいでいる場違いで恥ずかしい客だと思われたかも。
恐る恐る店内を見回すと、一人の店員さんと目が合った。上品なミモザ丈で裾に愛らしい黒いフリルがあしらわれた深緑のスカートを纏ったおしゃれな店員さんは、私を見て柔らかい笑顔を浮かべて頭を下げた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり店内を見て回って下さい」
営業スマイル丸出しの顔じゃなく、ごく自然な笑顔。
私みたいな地味な女子でも、こういう店に来てもいいんだ。そう思わせてくれるような笑顔だった。
今までいいなあと思いながらも入らなかったけど、今度からは勇気を出さなくても入店できそうだ。
「ありがと、茜。茜のおかげだよ」
「俺は何にもしてねぇよ」
いつの間にか離れていた茜の手が、優しく頭を撫でる。
せっかくだから何か一つでも買おう。そう決心して、店内を物色する。
白いレースでふちを飾った黒のネクタイ付きのダークレッドのカッターシャツ。これなら甘すぎないから着やすい。
手に取って鏡の前で合わせてみる。
大人っぽいデザインだからか、私にはあまり似合わなかった。今着ている白いショートパンツとの組み合わせは抜群なのに、残念だ。
今度は黒いプリーツスカートを手に取る。
裾に鮮やかな青色のフリルがあしらわれているのがキュートだ。でも、短すぎる。足は細いから見せても恥ずかしくないけど、さすがにパンツがぎりぎり見えないほど短い丈のスカートをはく勇気はない。
その次はチョコレート色のベスト。
深紅の大きなリボンタイがセットなのと、裾にさり気なく黒いレースがあしらってあるのが可愛い。これなら地味な私でもギリギリ着られそうだ。でも、このベストをどう着こなせばいいか見当がつかない。
さっきからずっと、一人で鏡の前で首を捻り続けている。
「うーん、どれもすごく可愛い。でも、私に似合わないかも」
ぽつんと呟くと、店内をふらふらしていた茜が寄ってきて、フリルだらけの可愛いチュニックを合わせた鏡の中の私を見る。
茜は顎に手を当てて小さく首を捻ると、少し離れた棚にスタスタと歩いていった。
戻って来た茜の手には、ビリジアンの長袖のワンピースがあった。
袖口が広がっていて白いレースで飾られ、胸元に四つデザインが凝った金色のボタンが縫い付けられている。丈はちょうど膝上ぐらいの、Aラインのワンピースだ。
「この服はどうだ? きっと似合うぜ」
「ちょっとかわいすぎだよ」
「お前なら似合うさ。着てみろよ」
「無理だよ、恥ずかしい」
「恥ずかしがってないで、試着してみろよ」
「でも……」
茜と言い合っていると店員さんが寄ってきた。
「ご試着ですか。どうぞ」
にっこり笑って試着室を勧められて、うっかりワンピースを試着することになってしまった。
カーテンで区切られた狭い個室で、茜が選んでくれたワンピースに袖を通す。
柔らかくて上品な厚みのある生地は着心地抜群だ。腰の辺りがちゃんとくびれたデザインになっていて、すごくスタイルよく見えた。
「か、可愛いかも……」
鏡の前で軽く回ると、スカートと袖が軽やかに翻る。
いつもはべつに可愛くもなんともない自分の顔が、今は可愛く見える。
「着替えたか?」
外から茜が呼ぶ声がした。
「う、うん。着替えたよ」
返事をすると、私はおそるおそるカーテンを開ける。
「ど、どうかな? やっぱり変かな?」
似合うと自分で思ったものの、他人にそれを強要するような自信はない。
おずおずと尋ねると、茜はパッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「すげぇ似合ってるぜ、美守。俺の選択に狂いはねぇな」
「すごい自信だね、茜は」
「間違っちゃいねぇだろ。ほら、こんなにも似合ってるんだ」
茜が私の肩を掴んで、背後の鏡の方を向かせた。
ビリジアンのワンピースに身を包んだ鏡の中の私は、確かにすごく素敵だ。さっきカーテンの中で一人、鏡を覗いた時よりももっと素敵に見えた。
不思議だ。美形な茜が隣に映っているから、補正されて私まできれいに見えるのだろうか。
買ってしまおうかな、このワンピース。
欲望がもたげて、ふと気付く。
そう言えばこのワンピース、いくらだったっけ。
「お買い上げなさいますか?」
にこにこ笑った店員さんに聞かれて、私は慌てて首を横に振る。
「あ、あのっ。他のも見てから考えます!」
「かしこまりました。ゆっくりご覧ください」
買取りを拒否した客にも優しく微笑み、店員さんが静かに試着室を離れていく。
高圧的な態度で「似合っているのにもったいないですね」とか、嫌な顔で「どうして買わないんですか」とか言われなくてよかった。
ワンピースを脱いで値段を確認する。一万二千円。うん、ぜったい買えない。
がっかりしながらワンピースをハンガーにかけて、元の売り場に戻す。
「似合ってたのに買わねぇのか?」
首を傾げる茜に小さな声で「高すぎるよ」と返事をする。
「なるほどな。悪かった、値段は見てなかった。人間社会は大変だな」
茜が緩やかに吊った眉を珍しく下げて謝罪した。
「いいよ、謝らなくて。素敵なワンピースだったから、お小遣いが溜まったら買おうって目標ができたから」
茜に笑い掛けながら、心の中で算段する。
あと二カ月しないうちにお正月だから、お年玉がもらえる。ちょっと奮発して、茜が見つけてくれたワンピースを買いにこよう。
とりあえず今回は別のものを買おう。
加奈や梨乃とは何度か来たことがあるけど、男の子と来るのは初めてだ。
茜と歩いていると、すれ違う他の客からの視線を感じた。
「あの男の子、芸能人みたい?」
「ほんとだ、めっちゃカッコイイ!」
茜への賛辞が聞こえてくる。
「となりの女の子、まさかカノジョじゃないよね?」
「違うでしょ。顏、つりあってないじゃん」
「確かに、垢抜けないコだよね」
「なんか地味だよね」
茜への賛辞と同時に自分への批判も聞こえてくる。
言わないで。茜とつりあってないなんて、私が一番よくわかっている。
密かに小さく拳を握る。
私と茜に視線を寄せる子たちはきっと、かっこいい茜と歩いている私が羨ましくて、つい口さがないことを言ってしまうのだろう。だから悔しくない。
でもやっぱり、見知らぬ他人からの無遠慮な言葉をぶつけられるのは、いい気はしない。
「私といると茜が浮いて見えるね。なんかごめん」
居たたまれなくてつい謝罪を口にする。
いきなり茜が私の手をぎゅっと握った。
驚いて顔を上げると、茜が太陽みたいに眩しい笑顔を浮かべていた。
「俺とお前、お似合いじゃねぇか」
うん、そうだね。
そう返事をしたかったけど、言葉が喉の奥につっかえてしまった。
だって、どう逆立ちしたってお似合いなんかじゃないから。
それでも、私は茜の言葉が嬉しかった。
上手く返事ができなかったかわりに、そっと茜の手を握り返す。私よりちょっと大きい手は、すごく温かくて優しかった。
繋いだ先から伝わってくる茜の体温が、凍えた心をじわじわと溶かす。
私は自然と笑顔になっていた。
手を繋いだまま、ショッピングモールの中を歩く。
お小遣いは月三千円と多くないしバイトもしていないけれど、あんまりお金を遣わないようにしているので、それなりにお金には余裕がある。
茜にどんな服を買ってあげようかワクワクしながら、色んな洋服店を覗いて回った。
「うーん、これはいまいちかも」
「あっ、この服かっこいい。でも、高すぎる……」
「素敵なデザイン。でも室内着にするにはあんまりかも。やっぱり着心地もよくないとね」
ブツブツ独り言を言いながら服を見ていると、茜は少しぐったりした顔で私の腕を引っ張った。
「俺の服なんてなんでもいいから、とっとと買っちまおうぜ」
「ごめん。そろそろ帰りたいよね」
しょんぼり項垂れる私の頭を茜がくしゃりと撫でる。
「そうじゃねぇよ」
「え?」
「どうせなら、美守の服を見ようぜ」
茜の部屋着に柔らかくて着心地抜群の藤紫色のフリースのパーカーを買うと、今度は私の服を見るためにショッピングモールを歩き回る。
「この店の服とか似合いそうだな」
そう言って茜が指さしたのは、フェミニンが売りのアパレルショップだった。
「えぇぇっ、ここのはだめだよ」
「駄目ってなんでだ? こういう服は嫌いか?」
「好きだよ、でも」
「なら入ろうぜ」
「可愛すぎて私には似合わないよ……」
茜がキョトンとした顔で私を見る。
「項垂れるなよ、美守」
「え?」
「ただでさえ背が低いんだから、俯いてると顔が見えねぇ」
「そういう茜も、男の子の中では小さいよ」
「悪かったな、チビで。俺だってもっとデカくなりてぇわ」
あ、背が低いこと気にしてたんだ。
拗ねたような顔が可愛い。私は思わずクスッと笑い声を漏らした。
「その顔だ」
「なに?」
「そうやって笑ってな。とびきり可愛いぜ」
また可愛いって言われた。狐だから、言葉のハードルが低いのかもしれない。でもすごく嬉しい。
「ほら、入ろうぜ」
茜がこちらに手を差し出す。
王子様というよりは、迷子の妹に手を差し出すお兄ちゃんという感じだった。
そのおかげで、私は自然と茜の手を取ることができた。
「うん!」
茜と手を繋いで、今までずっと物欲しげに横目で見てきたアパレルショップに、初の出陣を果たした。
レースやフリルがあしらわれたトップス、ひらりと広がるフレアスカート。甘すぎない上品なフェミニンスタイルの洋服がずらりと並んでいる。飴色の板張りの床やシャンデリア風の照明、童話に登場しそうな鏡が置かれた店内も素敵だ。
「うわあ、可愛いっ」
思わず歓声を上げてしまった。
はしゃいでいる場違いで恥ずかしい客だと思われたかも。
恐る恐る店内を見回すと、一人の店員さんと目が合った。上品なミモザ丈で裾に愛らしい黒いフリルがあしらわれた深緑のスカートを纏ったおしゃれな店員さんは、私を見て柔らかい笑顔を浮かべて頭を下げた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、ごゆっくり店内を見て回って下さい」
営業スマイル丸出しの顔じゃなく、ごく自然な笑顔。
私みたいな地味な女子でも、こういう店に来てもいいんだ。そう思わせてくれるような笑顔だった。
今までいいなあと思いながらも入らなかったけど、今度からは勇気を出さなくても入店できそうだ。
「ありがと、茜。茜のおかげだよ」
「俺は何にもしてねぇよ」
いつの間にか離れていた茜の手が、優しく頭を撫でる。
せっかくだから何か一つでも買おう。そう決心して、店内を物色する。
白いレースでふちを飾った黒のネクタイ付きのダークレッドのカッターシャツ。これなら甘すぎないから着やすい。
手に取って鏡の前で合わせてみる。
大人っぽいデザインだからか、私にはあまり似合わなかった。今着ている白いショートパンツとの組み合わせは抜群なのに、残念だ。
今度は黒いプリーツスカートを手に取る。
裾に鮮やかな青色のフリルがあしらわれているのがキュートだ。でも、短すぎる。足は細いから見せても恥ずかしくないけど、さすがにパンツがぎりぎり見えないほど短い丈のスカートをはく勇気はない。
その次はチョコレート色のベスト。
深紅の大きなリボンタイがセットなのと、裾にさり気なく黒いレースがあしらってあるのが可愛い。これなら地味な私でもギリギリ着られそうだ。でも、このベストをどう着こなせばいいか見当がつかない。
さっきからずっと、一人で鏡の前で首を捻り続けている。
「うーん、どれもすごく可愛い。でも、私に似合わないかも」
ぽつんと呟くと、店内をふらふらしていた茜が寄ってきて、フリルだらけの可愛いチュニックを合わせた鏡の中の私を見る。
茜は顎に手を当てて小さく首を捻ると、少し離れた棚にスタスタと歩いていった。
戻って来た茜の手には、ビリジアンの長袖のワンピースがあった。
袖口が広がっていて白いレースで飾られ、胸元に四つデザインが凝った金色のボタンが縫い付けられている。丈はちょうど膝上ぐらいの、Aラインのワンピースだ。
「この服はどうだ? きっと似合うぜ」
「ちょっとかわいすぎだよ」
「お前なら似合うさ。着てみろよ」
「無理だよ、恥ずかしい」
「恥ずかしがってないで、試着してみろよ」
「でも……」
茜と言い合っていると店員さんが寄ってきた。
「ご試着ですか。どうぞ」
にっこり笑って試着室を勧められて、うっかりワンピースを試着することになってしまった。
カーテンで区切られた狭い個室で、茜が選んでくれたワンピースに袖を通す。
柔らかくて上品な厚みのある生地は着心地抜群だ。腰の辺りがちゃんとくびれたデザインになっていて、すごくスタイルよく見えた。
「か、可愛いかも……」
鏡の前で軽く回ると、スカートと袖が軽やかに翻る。
いつもはべつに可愛くもなんともない自分の顔が、今は可愛く見える。
「着替えたか?」
外から茜が呼ぶ声がした。
「う、うん。着替えたよ」
返事をすると、私はおそるおそるカーテンを開ける。
「ど、どうかな? やっぱり変かな?」
似合うと自分で思ったものの、他人にそれを強要するような自信はない。
おずおずと尋ねると、茜はパッと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「すげぇ似合ってるぜ、美守。俺の選択に狂いはねぇな」
「すごい自信だね、茜は」
「間違っちゃいねぇだろ。ほら、こんなにも似合ってるんだ」
茜が私の肩を掴んで、背後の鏡の方を向かせた。
ビリジアンのワンピースに身を包んだ鏡の中の私は、確かにすごく素敵だ。さっきカーテンの中で一人、鏡を覗いた時よりももっと素敵に見えた。
不思議だ。美形な茜が隣に映っているから、補正されて私まできれいに見えるのだろうか。
買ってしまおうかな、このワンピース。
欲望がもたげて、ふと気付く。
そう言えばこのワンピース、いくらだったっけ。
「お買い上げなさいますか?」
にこにこ笑った店員さんに聞かれて、私は慌てて首を横に振る。
「あ、あのっ。他のも見てから考えます!」
「かしこまりました。ゆっくりご覧ください」
買取りを拒否した客にも優しく微笑み、店員さんが静かに試着室を離れていく。
高圧的な態度で「似合っているのにもったいないですね」とか、嫌な顔で「どうして買わないんですか」とか言われなくてよかった。
ワンピースを脱いで値段を確認する。一万二千円。うん、ぜったい買えない。
がっかりしながらワンピースをハンガーにかけて、元の売り場に戻す。
「似合ってたのに買わねぇのか?」
首を傾げる茜に小さな声で「高すぎるよ」と返事をする。
「なるほどな。悪かった、値段は見てなかった。人間社会は大変だな」
茜が緩やかに吊った眉を珍しく下げて謝罪した。
「いいよ、謝らなくて。素敵なワンピースだったから、お小遣いが溜まったら買おうって目標ができたから」
茜に笑い掛けながら、心の中で算段する。
あと二カ月しないうちにお正月だから、お年玉がもらえる。ちょっと奮発して、茜が見つけてくれたワンピースを買いにこよう。
とりあえず今回は別のものを買おう。



