加奈と別れてとぼとぼと自宅に向かって歩く。

 今日もなんでもない一日が終わった。中学三年生、受験勉強に励んでいた時は高校生になったら、もっと楽しいことがいっぱいだと思っていた。でも、現実は違う。高校は勉強漬けで、ちっとも面白くない。

 瀬名君の顔を密かに遠くから見ることだけが、ささやかな楽しみになっていた。
 今日は一対一で会話できたから、いつもよりちょっとだけラッキーな一日だった。
 間近で見ることができた瀬名君の美貌を思い出しながらニヤニヤしていると、家の近くのイヌツゲの生垣がワサワサと揺れた。
 そこからぬっと赤みがかった薄茶色の毛の何かが姿を現す。

 「よお、美守。待ってたぜ」

 中型犬サイズの狐が目の前にちょこんと座った。

 「うそ。夢じゃなかったんだ……」

 絶句する私を、茜が呆れた顔で見る。

 「夢だと思ってたのかよ」
 「そりゃそうでしょ。昔助けた狐が人間の姿でやってくるなんて、普通は夢だと思うよ」
 「もう一度俺を助けてくれるって約束したのに、酷いじゃねぇか」

 茜の青い目が恨みがましく私をじとりと睨む。

 「ごめんごめん。ちゃんと、今からお母さんに話すから」
 「頼むぜ」

 するりと茜が私の足元に擦り寄ってきた。
 ああ、可愛い。何がなんでも、この子を助けてあげなきゃ。
 私は握り拳を握って自分を奮い立たせてから、玄関の扉を開いた。

 「茜。ちょっとここで待っていてね」
 「りょうかい」

 茜を玄関に置いて、私はリビングでお菓子片手にテレビを見ている母に近付いた。

 「お母さん、ちょっといい?」
 「なによ、あらたまった顔して」
 「狐、飼いたいんだけど」
 「は?」
 「ずっとじゃなくていいから。春が過ぎて温かくなったら山に帰すから」
 「なに言ってるのよ、あんた」
 「じつはね……」

 茜が人間の姿に変身して真夜中部屋にやって来たことはふせて、だいたいの事情をかいつまんで話した。

 母は難しい顔をしていたが、最終的には「飢え死にしたらかわいそうよね」と言って、世話は私がすることを条件に茜を飼うことを許してくれた。

 すぐに獣医をしている叔父のところに行って、茜がダニや寄生虫、病気を持っていないか簡単に検査をしてもらった。茜はいたって健康でなんの問題もなく、春までの期間限定ではあるけど、めでたく我が家にやって来た。

 家に帰ると、べつに汚れていなかったけど、風呂場で叔父からもらった動物用のシャンプーをして、茹でたササミと林檎をあげた。
 茜の食事が済むと、一緒に部屋に戻った。

 シャンプーしたおかげで、さらにふわふわできれいになった毛並みに顔を埋めて息を吸っていると、茜は軽く身を捩った。

 「耳に息がかかってくすぐってぇよ」

 母や叔父の前では喋らなかった茜が、二人きりになったとたんに喋りだした。
 言葉はすらすら喋れるし、TPOもわきまえている。茜はかなり頭がいいようだ。

 「ごめん、ついモフモフに誘われちゃって……」
 「まあ、ご自慢の毛並みだからな」

 そう言いつつ、茜は合掌して目を閉じる。
 数秒後、茜が人間の少年の姿になった。もっと撫でたかったのに残念だ。

 赤みがかった薄茶色の柔らかな癖毛、アーモンド形のぱっちりした青い目。年は同い年ぐらいの美少年姿に思わずどきりとする。服装は昨晩見た時と同じで、服装は白いVネックの半袖シャツに黒いスキニーだった。

 「美守。学校から帰って来た時に、えらくニヤけた面してたな」
 「やだ、私、そんな顏してた?」
 「ああ、してたぜ。何かいいことでもあったのかよ」
 「ちょっと、ね……」

 実は、今日瀬名君と二人きりで会話したことを話したくて、うずうずしていた。

 こんな話、梨乃と萌と愛海にはもちろんのこと、加奈にも話しにくい。私みたいな平凡な女子が学校一モテモテの美男子と二人で話したなんて知れたら、どんな恐ろしいことが起きるかわからない。女子の嫉妬は恐ろしいのだ。
 話せるのは人間社会と無縁の茜ぐらいだ。

 「なんだよ、何があったんだ?」
 「今日ね、瀬名君と喋っちゃったの!」

 つい大きな声が出てしまった。
 声に驚いたらしく、茜がアーモンド形の目を丸く見開く。

 「おいおい、なに興奮してんだよ」
 「興奮しちゃうでしょ。だって、瀬名君だよ、瀬名君。高嶺の花っていうか、もう雲の上の人なんだもん。すっごくかっこいいの、学校一美形なんだよ」
 「へえ、俺よりもか?」

 不意打ちで茜の顔が間近に迫る。
 長い睫毛。きれいな青い目。小さくて形のいい鼻。

 優美で大人びた瀬名君とはタイプがぜんぜん違うけど、茜の顔もすごくきれいだ。そんな顏で迫られたら、狐だってわかっていてもドキドキしてしまう。
 私は慌てて一歩後ろに下がった。

 「ね、ねえ。その服装だと寒くない?」

 動揺を隠すためにどうでもいい質問をしてみる。
 私の動揺に気付いているのかいないのか、茜は犬歯を見せてニッと笑った。

 「寒くねぇよ。外と比べりゃ、家の中は天国だぜ」
 「それならいいけど、明日にでも長袖のあったかそうな服、買ってきてあげるよ」
 「俺は狐なんだ、服なんざ気にしなくていい」
 「遠慮しないで。というか、私が見てて寒いから買ってくるね」
 「なら、一緒に買いに行ってもいいか?」
 「え、狐なんて連れて歩いてたら大騒ぎになりそう。柴犬ってごまかせるかな?」
 「柴犬と一緒にするなよ、俺は狐だ」
 「北海道で柴犬をキタキツネと間違えた人の話を聞いたことがあるし、いけるかもしれないでしょ」
 「いけねぇよ」
 「あ、でも柴犬に見えたところで、服の店には入れないか……。うーん、どうしたら茜と一緒に買い物ができるのかなあ」
 「馬鹿言うなよ、美守。誰が狐の姿で行くって言った?」
 「え?」

 にやりと茜が不敵に笑った。

 「人間の姿で行くんだよ」
 「人間の姿で……。それだと、で……」

 デートみたいになる。

 自分と茜が並んでショッピングしている姿を想像する。正体は狐だけど、見た目はふわふわの耳と尻尾さえ見えていなければ人間の男の子。それも、すごい美少年。

 悪くないかも。

 つい欲望に流されて、私は首を縦に振ってしまっていた。