下足室に行くと、花岡加奈(はなおかかな)が待っていた。

 「おつかれ~、美守」
 「加奈、お疲れさま」
 「帰ろっか」
 「うん」

 加奈の顔を見るといつもホッとする。

 つぶらな瞳、ぼんやりした眉。加奈は平凡だけど温かみのある顔立ちをしている。中学からの友達で、私と同じごく普通の真面目な女子高生。将来の夢は彼女の両親と同じ公務員。理由は安定した将来を送れるからだそうだ。

 気を遣わなくていい、一番の親友の加奈。彼女といる時間は平穏だ。加奈は五組で私は二組。同じクラスだったらよかったのに。
 一歩外に出ると凍える風が頬に吹き付けた。今年はよく冷える。

 「美守、二年の進路決めた?」
 「文系か理系かだよね。まだ決めてない。加奈はどう?」
 「うちは理系かな~。公務員試験ダメだったらさ、理系のほうが就職有利だし」

 もう大学卒業後の進路をはっきり考えているのか。
 将来に向かって着実に歩を進めている加奈が羨ましい。私はまだ、就職先のことはぜんぜん考えていない。

 「教職か公務員なら、一生安泰よ。それが無理なら銀行員にしなさい」

 母はそう言っていたけど、母が勧めるどの職業にも私は興味がない。

 今はただ、少しでも偏差値の高い大学に入るためだけに勉強しているだけで、将来のことは漠然としている。大学に入ったら思いきり好きなことをしたい、それだけがはっきりしている。

 「美守も理系にしたら? うちと同じクラスになれるかもだしさ~」
 「それは魅力的だけど、私数学苦手だからなあ」
 「そっか、国語得意だもんね。じゃあ文系か。ざんねん」
 「同じクラスじゃなくても、友達でいてね」
 「あったりまえじゃん。うちら、平凡同盟だし」

 自虐的な同盟だなあ。

 そう思ったけど、口には出さなかった。本当にその通りで否定できないから。

 加奈も私もおしゃれじゃないし、奥手で男の子と自分から話すこともできない。目立たないその他大勢の一人。地味な子同士つるむのは、自分を守るために必要なことだ。おたがいの気持ちがわかるから気を張らずに済むし、励ましあえる。

 萌や愛海といると楽しいし、自分の知らない世界に触れられて新鮮だけど、話す内容に気を遣って疲れることがある。温和な梨乃とだけなら加奈と話すみたいに、相手の反応をうかがうことなく自由に喋れるのだけど、萌や愛海だとためらってしまう。

 「加奈はすごいね、将来までもう決めてて。いいなあ」
 「堅実なだけの将来だし、羨むようなことじゃないって。本当はさ、漫画家とかイラストレーターになりたいんだけどさ。そこまで絵上手くないし、まあ、ムリだから」
 「無理かなあ。加奈の絵、素敵だと思うけどね」
 「それなりに描けるだけで、職業として食べていく自信ないし。美守はなんかやりたいこととかあったりする?」
 「私は―…」

 私は本当はね、歌手になりたいの。

 喉まで出かかった言葉を慌てて呑み込む。
 いくら相手が加奈とはいえ、歌手になりたいなんて言ったら引かれるかもしれない。

 母の言葉が鮮明に頭の中に甦る。

 「あんた、歌が褒められたからってなによ。それが何の役に立つの? あんたが歌手になれるわけもないんだから」

 小学校二年生の時、担任だった音楽の滝沢先生に歌が上手いから合唱団に入って歌を学んでみないかと誘われたことを母に話したら、母は呆れた顔をした。

 「それにね、滝沢先生の誉め言葉を間に受けるのもどうかと思うわよ。仲良くなるために全員にそう言ってるに決まってるわよ」

 ただのお世辞だったのか。
 すごくショックを受けたことを今でもはっきり覚えている。

 歌が上手いと言われて舞い上がっていた自分が恥ずかしくて、滝沢先生に褒められたと母に自慢してしまったことをすごく後悔した。
 歌を習いたい。その言葉を、小学校二年の私は飲み込んだ。

 歌番組に煌びやかな衣装で出演する歌手やアイドルが羨ましかった。私もあんなふうにみんなの前で歌いたい、歌を聴いて欲しい。そんな願望がずっとある。
 だけど、そんなことを表に出したら「お前なんかが歌手なんて」と、失笑されるに決まっている。

 大学に入ったら、歌を習えばいい。
 そう自分に言い聞かせつつ、心の片隅で不安になる。

 歌手の募集はだいたい二十歳ぐらいまでが多い。容姿が平凡で、目を瞠るような才能があるわけでもない私が大学に入ってから悠長に学び始めたところで、歌手にはきっとなれない。今から学ばなくてはとうてい歌手にはなれないのだ。

 つまり、私の歌手になる夢は一生叶わない。頑張る前から、もう終わっている。
 今生はめいっぱい徳を積んで、来世に期待するしかないな。
 かなり非現実的だけど、そんなふうに考えて、自分の気持ちを心の奥底に沈める。

 「私はやりたいことはまだないかな。大学に入ってから探すよ」

 歌手の夢がすり減っていくのを感じつつも、無難な答えを口にする。
 安心する答えだったようで、加奈はちょっとだけほっとした顔をしていた。

 「そっか。まあ、今はとりあえず大学受験をガンバらないとだからね~」
 「そうだね」

 加奈に同意しつつも、心の奥がズキンと痛むのを感じていた。

 心の底に沈めた箱に、本当の想いがたくさん詰まっている。
 本当はやりたかったこと。好きな人のこと。言い返したかった言葉。
 冷たい液体になってしまったその感情は心の箱に閉じ込められ、心を凍えさせている。
 だんだん自分が何事にも冷めた性格になっているのは、これのせいかもしれない。