五年前のことだ。小学校五年生だった私は、家から自転車で十分ぐらいの場所にある農業研究センターにある小さな山の森の中で、怪我をした子狐を見つけた。この小さな山は小学校低学年の頃からずっと、私の隠れ家だ。

 獣道を登っててっぺんに行くと小さな東屋があるし、森にはいろんな植物が生えているから見ていて面白いし、誰も来ないから静かだ。
 思いきり歌いたくなると、ここに来て歌っていた。

 「すぐ、助けてあげるから」

 私は弱った子狐を抱き上げ、すぐに獣医をしている叔父のところに連れて行って診てもらった。幸い子狐の怪我は軽い怪我で、しばらく栄養を摂って安静にしていれば治るだろうと叔父は言った。

 渋る母を説得して、私は子狐の面倒を見ることにした。
 毛色が夕焼け色なので(あかね)と名付けて、怪我が治るまで一緒に過ごしたのだが、彼はその時の子狐だそうだ。

 昔は腕に収まるほど小さかったけど、今は中型犬くらいの大きさだ。
 信じられないが、夢だと疑っていては話が進まないから、とりあえず信じよう。

 「あなた、茜なの?」

 試しに名前を呼ぶと、狐は頷いた。

 「ああ、茜だ。いい名前をありがとな、気に入ったから名乗らせてもらってるぜ」
 「それで、あの時の狐が今、どうして私の目の前にいるの?」

 まさか恩返しに来てくれたのだろうか。
 きっとそうだ。ごんぎつねの狐みたいに、何かお礼をしてくるつもりなのだろう。たいしたことはしていないから、感謝の気持ちだけで十分なのに。

 茜が合掌して目を閉じる。すると、狐から美少年の姿になった。

 「美守。もう一回、俺を助けてくれよ」
 茜が犬歯を見せて不敵に笑う。

 「は?」

 恩返しどころか、まさかの援助要請。冗談でしょ?
 ポカンとする私に、茜は悪びれることなく言う。 

 「腹減ってんだ。今年の秋は実りが悪くて、山に食料がねぇんだよ」
 「たかりに来たってこと?」
 「平たく言えばそうだな。それもこれも人間が環境破壊なんざするからだぜ。ここ数年で山も森もすっかり駄目になっちまった。ろくに餌がねぇんだよ」
 「そうなの?」
 「ああ、そうだぜ。熊も猪も山を降りて、人里に出てきてんだろ?」
 「た、確かに。最近、熊アラートなんて言葉ができたね」

 「山から人里に降りて見つかった熊や猪は、可哀そうに駆除されちまって。腹が減ってただけだってのに。まあ、人を襲ったあいつらもわりぃけどな。でも人間も人間だぜ。資源を取りつくして毎日のように飽食に明け暮れて、食い物粗末にして」

 「す、すみません」
 申し訳なくなって思わず謝ると、茜は苦笑した。

 私より十センチぐらい背が高い茜が、子供にするみたいにポンポンと私の頭を軽く撫でる。

 茜の見た目は私と同い年ぐらいなのに、やたらと大人びた手つきだった。
 そのせいで、相手は人間に化けた狐だというのに、不覚にもドキリとしてしまう。

 「まあお前みたいなガキに言ってもしょうがねぇな。とにかくそういうわけで、冬のあいだ食料がなくて困ってんだ。春まで居候させてくれ」
 「居候って、そんなのきゅうに言われても困るよ」
 「お前の家そこそこ裕福そうだから、俺一人ぐらいなんとかなるだろ」
 「経済的なことじゃなくって、お母さんに許してもらえないよ」
 「ああ、嫁入り前の娘が見知らぬ男と同じ屋根の下ってのは不味いよな。なら、この姿なら問題ねぇだろ」

 パンパン。茜が胸の前で二回柏を打った。
 今度は美少年から狐になる。

 狐に戻った茜が青い目でじっと私を見上げて言う。

 「頼むよ、美守」

 ああ、可愛い。モフモフだ。
 断れない。断ったら、この子は飢え死にするかもしれないし。

 「わかった。家で飼うよ。もし無理でも、台所からこっそり必ず食料を調達して、食べさせてあげるから」
 「ははっ。頼もしいな。頼んだぜ」
 「うん、任せて」
 「決まりだな。そんじゃあ話も着いたし、もう遅いから、今夜のところはお暇するとしますか。明日また来るぜ。じゃあな、美守」

 窓からベランダに出ると、茜はひらりとベランダの柵を飛び越えて、あっという間に夜の闇に紛れて消えた。
 狐というよりは猫みたいだ。

 明日から家に可愛いモフモフの狐がやってくるかもしれない。今の一連の会話が妙にリアルな夢じゃなかったらの話だけど。

 半信半疑ながらも、わくわくした気持ちで私はベッドに戻った。