その日の夕飯の時のことだ。いつも通り母と斜向かいに座ってカレーライスを食べていた。父は仕事人間で平日の夜はもちろん、土日すらいないことが多い。
カレーを先に食べ終えた母は、スプーンを置くなり怖い顔で私を見た。
「美守、あんた最近ずっと遊び回ってるけど、ちゃんと勉強はしているんでしょうね?」
また勉強のことか。
ため息が出そうになるのをなんとか堪えて「してるよ」とだけ返す。
遊び回っているなんて人聞き悪い。茜が来てから出掛けることが増えたし、最近は内緒で部活をはじめて学校から直帰することが少なくなったが、遊びほうけているわけじゃない。勉強は決めた時間だけ毎日欠かさずやっている。
私の素っ気ない態度が気に喰わなかったのか、母は目尻を吊り上げた。
「口ばっかりじゃないの!」
「そんなことないよ。塾にだって行ってるでしょ」
「週一回、英語と数学のたったの二科目じゃないの。そんなの、ちゃんとしてるの内に入らないわよ!」
「国語科目は得意だし、社会科は暗記科目だから塾なんか必要ないから」
「そんなこと言って、勉強したくないだけでしょう。ほんと、あんたはちっとも勉強しないんだから。従妹の志穂ちゃんはもっとちゃんとしてるわよ」
一つ年下の志穂ちゃんは頭が良くて、私より偏差値の高い高校を目指して受験勉強の真っ最中だ。確かに彼女は勉強を頑張っているが、私だってちゃんとやっている。
でも、どんなにそう主張したところで母は認めてはくれない。
母と話していると、時々まったく言葉が通じない宇宙人と喋っているような気分になって、途方に暮れてしまう。
そんなんだから、話したいことがあっても話せない。
「あんた、私に隠れて何をしているのよ」
もしかして母は、私が合唱部に入っていることに気付いているのか。まさか、そんなことあるはずがない。
「べつになにもしてないよ」
「知ってるのよ、合唱部、入ったんでしょう」
どうして。
ぽかんとする私に、母は大袈裟なほど大きな溜息を吐く。
「鞄に入部届が入ってるの、見たんだから」
嘘、最低だ。
母親だからって、娘のプライバシーを覗き見していいわけがない。
「勝手に人の鞄の中、見ないでよ」
私が目を吊り上げると、母は馬鹿にした顔になった。
「何が見ないでよ。お弁当や水筒、誰が毎日入れてあげてると思ってるのよ」
「そ、それは感謝してる。でも、わざわざ他の中身を見るのは酷いよ」
「子供が何言ってるんだか。見られて困るものなんて無いでしょ」
なにそれ。子供だからって馬鹿にしている。
机の下で思わず拳を握り締めた。
痛くなるぐらい拳を握り締めていると、ふわりと拳に柔らかいものが触れた。
机の下を見ると、茜が拳に体を摺り寄せていた。宥めるように、茜が私の拳をぺろりと舐める。
茜はもちろん狐の姿をしていたが、いつもの人間の姿の茜を想像して、私は危うく赤面しそうになった。
でもおかげで、奇妙に冷静になった。
言うなら今しかない。そう思った。茜も背中を押してくれている。
「お母さん」
「なによ」
「合唱部、ずっと入りたかったの。だから先週、入部した」
「勉強があるのに勝手なことして。まあ、しょうがないわね。そのかわり、ちゃんと勉強もしなさいよ」
呆れ顔ながらも母は入部を認めてくれた。
案外、母は勉強以外のことも話せば応援とまではいかなくても、きちんと認めてくれるのかもしれない。
楽観的な気分になった。
長年胸に秘めてきた夢を話す時がきたのだ。そう確信した。
ドクン、ドクン。
心臓が自己主張を始める。呼吸が浅くなって、視界がぼやっとする。
深呼吸して緊張を弛めると、私は思いきって口を開いた。
「お母さん、私、歌を習ってみたいんだけど」
決死の思いで口にした希望に、母は怪訝な顔をした。
「は? 何言ってるのよ、あんた。合唱部に入ったんでしょ、それで十分じゃない。歌なんて習って何になるのよ」
「歌手に、なりたい」
とうとう言ってしまった。
皮膚を突き破って心臓が飛び出すんじゃないかというぐらい、胸がドキドキしていた。
やりたいことを見つけたという誇りと、それを宣言した高揚に私は紅潮していた。
私はその時、すっきりしたのと興奮でひととき幸福感に満たされていた。
ぽかんと母が口を開けた。
奇妙な生き物でも見るかのような、侮蔑と気味悪さの混じった視線が私の全身を貫く。
とたんに、私は熱していた全身の血が冷えていくのを感じた。
「何をバカなこと言ってるのよ、あんた。もう高校生でしょうに、ああ、もう」
失望した顔と声。
ああ、やっぱりこういう反応だったか。
ひょっとして応援してくれるんじゃないか。秘密を打ち明けた興奮でそんな楽観視をしていた自分を、冷静な自分が嘲笑する。
開けたと思った目の前の景色が霞んで遠ざかっていくような、そんな感覚に襲われた。
苦々しい子供の頃の記憶が走馬灯のように頭の中を目まぐるしく駆け抜けていく。
小学校一年生の頃のことだ。
歌も好きだったけど、その頃はお絵描きも大好きだった。私は将来の夢をテーマにした文集に漫画家になりたいと、たどたどしい字で書いた。その文集を見せると、母は眉根をぎゅっと寄せて大袈裟な溜息を吐きながら言った。
「漫画家なんて、あんたがなれるわけないでしょう。特別な才能がある人しかなれないんだから。智美ちゃんみたいな絵が描ける子ならともかく、あんたには無理よ」
智美ちゃんは同じクラスの女の子で、彼女の母は絵の先生をしていた。その影響か小学校一年生なのに、写実絵がとっても上手で、担任の先生からも同級生からも絵の才能を褒められていた。
そっか。私は漫画家にはなれないのか。ごく普通の絵心しかないから。
小学校一年生の私は母の言葉を素直に受け入れた。将来の夢に漫画家という職業が現れることは、それ以降二度となかった。
小学校二年生の頃、滝沢先生に歌を褒められて舞い上がっていたところに、水を差されてショックを受けた時のことも、浮かんで消えた。
いつもそうだ。あなんたには無理よ、普通なんだから。才能がある人しかなれないの。
そういう類の言葉で、母は「無理だ」と封殺されていく。
挑戦する前から、意欲を削がれ続けて、ここまできてしまった。
気力が萎えるのに比例して、恐怖の蕾が膨らんでいく。
母の言う通り勉強に励まないと、人生の落伍者になる。将来、生活保護で惨めな暮らしを送ることになる。
刷り込まれた恐怖が黒い花を咲かせようとする。
「美守!」
茜がはっきりと私の名前を呼んだ。
闇から私を一筋の鮮烈な光が照らした、そんな気がした。
「え、え? 今、茜が喋った?」
母がぎょっとした顔で私と茜を交互に見る。
奇異の目を向けられても、茜は強い眼差しで私だけをじっと見ていた。澄んだ青い瞳は少しも揺らがない。誇り高く強い光を湛えている。
「お母さん!」
「な、なによ、大声を出したりして」
「やる前から無理だとか、そんな酷いこと言わないでよ」
いつでも強い茜が乗り移ったみたいに、全身に力が漲っていた。母が嫌悪を露わにしようが、気にならない。
「私は歌手になりたい。頑張ってもその夢は叶わないかもしれないけど、挑戦せずに諦めたくない」
「馬鹿な子ね、やる気と努力でなんでもかんでもできるわけじゃないわよ。あんたのために止めてあげてるのよ」
「私のためって言うなら、応援してよ。やってみなさいって、そう言って欲しい」
「応援なんてできないわよ。そんなムダなことしてて、大学受験に失敗したらどうするのよ!」
「勉強もがんばるから。だから、歌、習わせてよ」
「ダメって言ってるでしょ!」
「だめって言われても、私、やるから!」
啖呵を切ると、残ったカレーを勢いよく掻き込む。
「ごちそうさま」
いつもはおざなりにしているあいさつをちゃんとして、台所のシンクに空のカレー皿を浸けると、唖然とする母を置き去りにして私は二階に駆けあがった。
茜が私に寄り添うようについて来てくれた。
カレーを先に食べ終えた母は、スプーンを置くなり怖い顔で私を見た。
「美守、あんた最近ずっと遊び回ってるけど、ちゃんと勉強はしているんでしょうね?」
また勉強のことか。
ため息が出そうになるのをなんとか堪えて「してるよ」とだけ返す。
遊び回っているなんて人聞き悪い。茜が来てから出掛けることが増えたし、最近は内緒で部活をはじめて学校から直帰することが少なくなったが、遊びほうけているわけじゃない。勉強は決めた時間だけ毎日欠かさずやっている。
私の素っ気ない態度が気に喰わなかったのか、母は目尻を吊り上げた。
「口ばっかりじゃないの!」
「そんなことないよ。塾にだって行ってるでしょ」
「週一回、英語と数学のたったの二科目じゃないの。そんなの、ちゃんとしてるの内に入らないわよ!」
「国語科目は得意だし、社会科は暗記科目だから塾なんか必要ないから」
「そんなこと言って、勉強したくないだけでしょう。ほんと、あんたはちっとも勉強しないんだから。従妹の志穂ちゃんはもっとちゃんとしてるわよ」
一つ年下の志穂ちゃんは頭が良くて、私より偏差値の高い高校を目指して受験勉強の真っ最中だ。確かに彼女は勉強を頑張っているが、私だってちゃんとやっている。
でも、どんなにそう主張したところで母は認めてはくれない。
母と話していると、時々まったく言葉が通じない宇宙人と喋っているような気分になって、途方に暮れてしまう。
そんなんだから、話したいことがあっても話せない。
「あんた、私に隠れて何をしているのよ」
もしかして母は、私が合唱部に入っていることに気付いているのか。まさか、そんなことあるはずがない。
「べつになにもしてないよ」
「知ってるのよ、合唱部、入ったんでしょう」
どうして。
ぽかんとする私に、母は大袈裟なほど大きな溜息を吐く。
「鞄に入部届が入ってるの、見たんだから」
嘘、最低だ。
母親だからって、娘のプライバシーを覗き見していいわけがない。
「勝手に人の鞄の中、見ないでよ」
私が目を吊り上げると、母は馬鹿にした顔になった。
「何が見ないでよ。お弁当や水筒、誰が毎日入れてあげてると思ってるのよ」
「そ、それは感謝してる。でも、わざわざ他の中身を見るのは酷いよ」
「子供が何言ってるんだか。見られて困るものなんて無いでしょ」
なにそれ。子供だからって馬鹿にしている。
机の下で思わず拳を握り締めた。
痛くなるぐらい拳を握り締めていると、ふわりと拳に柔らかいものが触れた。
机の下を見ると、茜が拳に体を摺り寄せていた。宥めるように、茜が私の拳をぺろりと舐める。
茜はもちろん狐の姿をしていたが、いつもの人間の姿の茜を想像して、私は危うく赤面しそうになった。
でもおかげで、奇妙に冷静になった。
言うなら今しかない。そう思った。茜も背中を押してくれている。
「お母さん」
「なによ」
「合唱部、ずっと入りたかったの。だから先週、入部した」
「勉強があるのに勝手なことして。まあ、しょうがないわね。そのかわり、ちゃんと勉強もしなさいよ」
呆れ顔ながらも母は入部を認めてくれた。
案外、母は勉強以外のことも話せば応援とまではいかなくても、きちんと認めてくれるのかもしれない。
楽観的な気分になった。
長年胸に秘めてきた夢を話す時がきたのだ。そう確信した。
ドクン、ドクン。
心臓が自己主張を始める。呼吸が浅くなって、視界がぼやっとする。
深呼吸して緊張を弛めると、私は思いきって口を開いた。
「お母さん、私、歌を習ってみたいんだけど」
決死の思いで口にした希望に、母は怪訝な顔をした。
「は? 何言ってるのよ、あんた。合唱部に入ったんでしょ、それで十分じゃない。歌なんて習って何になるのよ」
「歌手に、なりたい」
とうとう言ってしまった。
皮膚を突き破って心臓が飛び出すんじゃないかというぐらい、胸がドキドキしていた。
やりたいことを見つけたという誇りと、それを宣言した高揚に私は紅潮していた。
私はその時、すっきりしたのと興奮でひととき幸福感に満たされていた。
ぽかんと母が口を開けた。
奇妙な生き物でも見るかのような、侮蔑と気味悪さの混じった視線が私の全身を貫く。
とたんに、私は熱していた全身の血が冷えていくのを感じた。
「何をバカなこと言ってるのよ、あんた。もう高校生でしょうに、ああ、もう」
失望した顔と声。
ああ、やっぱりこういう反応だったか。
ひょっとして応援してくれるんじゃないか。秘密を打ち明けた興奮でそんな楽観視をしていた自分を、冷静な自分が嘲笑する。
開けたと思った目の前の景色が霞んで遠ざかっていくような、そんな感覚に襲われた。
苦々しい子供の頃の記憶が走馬灯のように頭の中を目まぐるしく駆け抜けていく。
小学校一年生の頃のことだ。
歌も好きだったけど、その頃はお絵描きも大好きだった。私は将来の夢をテーマにした文集に漫画家になりたいと、たどたどしい字で書いた。その文集を見せると、母は眉根をぎゅっと寄せて大袈裟な溜息を吐きながら言った。
「漫画家なんて、あんたがなれるわけないでしょう。特別な才能がある人しかなれないんだから。智美ちゃんみたいな絵が描ける子ならともかく、あんたには無理よ」
智美ちゃんは同じクラスの女の子で、彼女の母は絵の先生をしていた。その影響か小学校一年生なのに、写実絵がとっても上手で、担任の先生からも同級生からも絵の才能を褒められていた。
そっか。私は漫画家にはなれないのか。ごく普通の絵心しかないから。
小学校一年生の私は母の言葉を素直に受け入れた。将来の夢に漫画家という職業が現れることは、それ以降二度となかった。
小学校二年生の頃、滝沢先生に歌を褒められて舞い上がっていたところに、水を差されてショックを受けた時のことも、浮かんで消えた。
いつもそうだ。あなんたには無理よ、普通なんだから。才能がある人しかなれないの。
そういう類の言葉で、母は「無理だ」と封殺されていく。
挑戦する前から、意欲を削がれ続けて、ここまできてしまった。
気力が萎えるのに比例して、恐怖の蕾が膨らんでいく。
母の言う通り勉強に励まないと、人生の落伍者になる。将来、生活保護で惨めな暮らしを送ることになる。
刷り込まれた恐怖が黒い花を咲かせようとする。
「美守!」
茜がはっきりと私の名前を呼んだ。
闇から私を一筋の鮮烈な光が照らした、そんな気がした。
「え、え? 今、茜が喋った?」
母がぎょっとした顔で私と茜を交互に見る。
奇異の目を向けられても、茜は強い眼差しで私だけをじっと見ていた。澄んだ青い瞳は少しも揺らがない。誇り高く強い光を湛えている。
「お母さん!」
「な、なによ、大声を出したりして」
「やる前から無理だとか、そんな酷いこと言わないでよ」
いつでも強い茜が乗り移ったみたいに、全身に力が漲っていた。母が嫌悪を露わにしようが、気にならない。
「私は歌手になりたい。頑張ってもその夢は叶わないかもしれないけど、挑戦せずに諦めたくない」
「馬鹿な子ね、やる気と努力でなんでもかんでもできるわけじゃないわよ。あんたのために止めてあげてるのよ」
「私のためって言うなら、応援してよ。やってみなさいって、そう言って欲しい」
「応援なんてできないわよ。そんなムダなことしてて、大学受験に失敗したらどうするのよ!」
「勉強もがんばるから。だから、歌、習わせてよ」
「ダメって言ってるでしょ!」
「だめって言われても、私、やるから!」
啖呵を切ると、残ったカレーを勢いよく掻き込む。
「ごちそうさま」
いつもはおざなりにしているあいさつをちゃんとして、台所のシンクに空のカレー皿を浸けると、唖然とする母を置き去りにして私は二階に駆けあがった。
茜が私に寄り添うようについて来てくれた。



