狐の恩返し

 カラオケで自信がついた私は、翌日、夢への第一歩を踏みだした。

 「合唱部へようこそ、美守。嬉しいよ、一緒に歌えて」

 梨乃が橋渡しをしてくれて、私は時季外れの新入部員として合唱部に迎え入れられた。

 中学校のテニス部の上下関係を思い出してビクビクしていたものの、合唱部の先輩たちはみんな優しくて、いまさら入部した私を温かく迎え入れてくれた。

 部活での練習は控えめに言って最高だった。家みたいに近所迷惑を気にしながら発声練習したり、歌ったりしなくていいし、練習内容も本格的だ。音楽の先生が来て、上手な発声の仕方を教えてくれたり、個人個人にアドバイスをしたりしてくれた。

 練習が終わり、私は梨乃と一緒に音楽室を出た。

 「すごく楽しかった。部活に入ってよかった」

 満面の笑みを浮かべる私に、梨乃が大きく頷く。

 「やっぱり美守、歌が上手だね」
 「梨乃の歌声もきれいだった。透明感があって、うらやましい」
 「美守の声もすごく好きだよ。ずっと聞いていたくなる声って感じかな」
 「え~、照れるなあ」
 「ねえ、聞いてもいいかな?」
 「なに?」
 「美守が急に合唱部に入る気になったのは、茜くんが原因なの?」

 まさか、梨乃の口から茜の名前が出てくるなんて。

 昨日の茜に褒められて頬を赤らめた梨乃の顔がパッと鮮明に脳裏に浮かんだ。
 あのあと、梨乃と茜が一対一で喋ることはなく、帰り道でも茜はもっぱら積極的な萌や愛海と会話していて、そこに瀬名君が加わって四人で仲良くしていた。そのあいだ私と梨乃は余りもの同士ながらも楽しく喋っていた。

 おかげで私は、帰ってから茜に叱られてしまった。


 「俺がせっかくお前と瀬名が喋れるようにお膳立てしてやったのに。お前ときたら、ちっとも積極的にあの男と話そうとしねぇ」
 「ご、ごめん。でも、緊張して何を話していいかわからなくて」
 「ったく、奥手にもほどがあるぜ。俺と喋ってる時みたいにすればいいだけだろ」
 「茜はすごく話しやすいけど、瀬名君は話しにくいの!」
 「それ、得意げな顔で言うことかよ」

 狐の茜にドヤ顔を指摘されて、私はむすりと頬を膨らませた。
 不思議だ。茜といると、自分の本来の感情がするすると表に出てくる。加奈といる時と同じだ。

 「好きな人とは、そうペラペラと喋れないよ」
 「可笑しい奴だな。好きだからこそもっと知りたい、話してみたいって思わないのか?」

 首を傾げる茜を「乙女心は複雑なんだって」と、思ってもいない適当なことを言って茜を黙らせて、やっとのことで私は説教タイムから逃れた。


 そんな昨夜の家でのやりとりを思い出して小さく笑っていると、梨乃が少しだけ不安そうな顔で私を見た。

 「友達だって言っていたけど、本当は茜くんは美守の恋人なの?」
 「ち、違うよ。ただの昔の友達だから」
 「本当? 気を遣って嘘ついてない?」
 「ない。誓うよ、本当にない」
 「そっか」

 安堵の表情。

 「梨乃、やっぱり茜が好きなんだ……」
 心の中で思っただけのつもりが、声になっていた。

 「あ、え。やだ、わたしはっ、そんな」

 いつもおっとりした梨乃が慌てふためく。

 可愛い子はどんな表情でも可愛い。
 いいなあ、私にも梨乃みたいに妖精のような愛らしさがあったら、瀬名君にもっとぐいぐい積極的にいけるのに。
 梨乃を観察していると、彼女は諦めたように小さく頷いた。

 「うん、好き……かな。あ、でもその、まだ恋とかじゃなくて、友達というか、人として好きってことだから」

 違う。Likeじゃない。たぶん、Loveのほうだ。
 そう思ったけど、梨乃の気持ちに気付かないふりをして私は頷いた。

 「そっか。茜、いい人だからね」
 「また、会えたりしないかな」

 梨乃がうかがうようにちらりと私を見る。
 期待されているのを肌で感じた。

 ここは安請け合いしておけば、梨乃との友情が深くなるだろう。自分にとって利益のある都合のいい人間は嫌われることはない。ここで恩を売れば、この先しばらくは安泰だろう。そんな狡賢い計算が一瞬の内に働いた。

 「う~ん、どうだろう。茜、何かと忙しそうだから」

 反射的に、計算とは真逆の反応をしていた。
 思考とちぐはぐな体。どうして、私は梨乃の期待に応えなかったのだろう。残念そうに眉を下げた梨乃を見ても、ざまあみろだなんて思わない。申し訳ないという気持ちでいっぱいなのに。

 「そうだよね。ごめんね、変なこと言ったりして」
 「ううん。私こそ力になれなくてごめん」

 本当にごめん、梨乃。
 口の中が苦くなった気がして、私はぎゅっと胸の辺りを握り締めた。