狐の恩返し

 残念なことに茜の健脚で自転車を漕ぐと、十分もしないうちに農業研究センターに到着してしまった。

 駐輪場に自転車を停めて、敷地内にある小さな山に登っていく。

 日が沈みはじめている。木々の隙間を優しいオレンジの光が通り抜けていく。空を仰ぐと、茜の髪の色みたいな色に染まっていた。
 さっき自転車を漕いでいた時と違って、茜は私に合わせてゆっくりとした速度で隣を歩いてくれている。さり気ない優しさに小さな感動を覚えた。茜は私のことを大切に思ってくれている。それが伝わってくる。

 太陽が空から消えて、辺りが薄闇に包まれた。落ち葉と小石だらけの不安定な獣道に足を取られ、私はバランスを崩す。

 「おっと、危ねぇ」

 とっさに茜が私の体を支えてくれた。

 「鈍臭くてごめん」
 「見えづらいからしょうがねぇよ。手、貸しな」

 八重歯を見せて笑いながら、茜がこちらに手を差し出す。
 ショッピングモールの時と同じ笑顔。やっぱり、王子様というよりはお兄ちゃんという雰囲気だ。彼にとって、私はドジで目を離せない妹分なのかもしれない。嬉しいようなちょっと残念なような、曖昧な気分だ。

 手を引かれて暗い山道を登る。

 風に揺れてザワザワと常緑樹の葉が揺れる音だけしかしない、静かな森。車の音も街の騒めきも聞こえない。ここはいつもとても静かだ。一人だとホッとするような寂しいような気持ちになる。
 だけど、今は茜と二人ぼっち。世界に私と茜だけになったような錯覚は、不思議と怖いというより幸せだった。

 茜となら、人類最後の二人になってもいいかも。
 そんなことを考えた自分に苦笑する。

 人類もなにも、茜の本性は狐なのに。あまりにも茜が人間っぽい、いや、人間そのものだからつい忘れてしまう。茜は狐なのだと。

 山のてっぺん、開けた場所に出た。
 ぽつんと小さな東屋がある以外は放置された自然が息吹いているだけで、他には何もない場所。観客席もなにもない、私だけの野外ステージ。

 「美守、歌ってくれ」
 「うん」

 開けた空間の真ん中付近にぽつんと生えた木の下に立つと、私は大きく息を吸った。

 ここに来るまでにどんな曲を歌おうか、頭の中で考えていた。
 茜ならロック系の激しい歌が好きだろうか。案外、ポップで明るい曲が好きだったりして。それとも、古風な雅楽や民謡みたいな曲のほうがなじみ深いのか。

 いろいろ考えていたけど、いざ歌うとなって自然に出たのは私が好きな男性アーティストが歌う、バラード調の歌だった。
 あまりメジャーとは言い難いけど、切なげながら優しくてどこか懐かしい曲調。派手じゃないけど清廉とした美しさのある歌詞。恋愛とも友情とも解釈できる、大切な誰かに向けた曲。男の人だけど低すぎず、高いキーもある穏やかだけど起伏のあるメロディを丁寧に歌い上げていく。
 茜がうっとりとした顔で目を細め、私を見ていた。

 茜の青い瞳は今、私だけを映している。そして私もまた、茜だけを真っ直ぐに映している。たった二人きりの特別コンサート。
 この時間が永遠に続けばいいのに。
 そう思うくらいに、気持ちよくて満ち足りた時間だった。

 四分の歌唱を終えると、茜の拍手が響いた。
 合唱コンクールとは違う、私だけを称える拍手が耳に心地よく響く。

 「やっぱりいい歌声だ」
 「嬉しい、ありがとう」
 「こちらこそ、ありがとな。お前の歌は俺の宝だ」

 ちょっと臭いと思えるような台詞も、茜が言うと自然とすとんと胸に落ちた。
 短いコンサートを終えると、私と茜は東屋のベンチに腰掛けた。

 「あー、楽しかった」

 背もたれに背を預けて、うんと上に向かって伸びをする。
 観客は茜たった一人。でも、歌手になった気分が味わえてすごく楽しかった。満面の笑みを浮かべて、低い天井を仰ぐ。

 「美守は歌うのが本当に好きなんだな」
 「うん、大好き」
 「じゃあ将来は歌手だな」

 何の疑いもなく茜が言った言葉は、熱い一本の鉄の串になって私の胸を貫いた。
 小さな穴から心の奥底に沈めた本当の願いがじわじわと溢れてきて、血液のように全身を巡る。

 歌手。誰にも言えない私の大切な幻夢。
 なりたい。でも、私が特別な存在になれるはずがない。私はそこら辺にいる、その他大勢の一人に過ぎないのだから。

 数十秒の長い沈黙を経て、やっと私は口を開く。

 「……歌手は、無理かな」

 笑ったつもりだけど顔が歪んだのが自分でわかった。声だって情けなく少し震えてしまっていた。

 夢を自分で否定する苦しみがそうさせた。本当は、私が一番『無理』だなんて思いたくない。歌手になれると信じたい。 
 茜の青い瞳が一瞬、悲しげに揺れた。
 でもその次の瞬間には、茜はからりとした笑顔になった。

 「なんで無理なんだよ。やってみなきゃ分からねぇぜ」
 「ううん、無理だよ。だって、歌のレッスンだってしてないし」
 「それなら、今から歌を習えばいい。お前の家の経済状況なら、それもできるんだろう?」

 茜の言う通りだ。私の家はわりと生活に余裕があるほうで、習いごとが一つ増えてもへっちゃらだ。でも、問題はお金じゃない。母の存在だ。

 狐なのに、茜は人間のことをよく知っている。人間に変身してしまえる特別な狐だし、きっと彼はすごく頭がいいのだろう。それに理由はわからないけど、人間のことを勉強しているに違いない。
 コスプレって言葉は知らなかったけど、自転車は戸惑うことなく乗りこなしていたし、言葉もスラスラと喋っている。整形という言葉も口にしていた。
 だけど、人間社会の複雑な部分はきっとそこまで理解していない。
 だから簡単に、歌手になれるだなんて言うんだ。

 「歌を習っても、やっぱり私は歌手になれないよ。だから、習わない」
 「何故、一人でこんな場所で歌うくらい歌が好きなのにやらないんだ? 趣味で続けられればそれでいいっていう考えか?」
 「そんな軽い気持ちの好きじゃないよ!」

 つい大声を出した私に茜は驚くことなく、じっとこちらを見詰めていた。

 「美守の本当の気持ち、話してくれよ」
 「歌手になりたい。それが無理でも、音大に行って歌の仕事がしたい。でも、無理なの。お母さんがだめって言うから」

 「母親が認めなくても、自分の小遣いで歌を習うなり、出世払いで習いにいけるようにしたらいいじゃねぇか。独学で部屋で練習するぐらい真剣なんだろう。俺は知ってる。お前がどれだけ歌の世界に惹かれていることか」

 茜の言う通りだ。図書館でボイストレーニングの本を借りて部屋で練習したり、腹筋や背筋を鍛えたりして、学校の勉強の合間に真剣に歌に取り組んでいる。歌手なんか大それた夢は見ていないと自分を誤魔化しながら、矛盾したことに自由な時間を遣っている。

 「何故、やりたいことをやらないんだ?」

 詰問するふうでもなく、責めるふうでもない、純粋な疑問。
 茜の疑問は私自身の疑問になりはじめていた。

 「どうしてって……」

 理由を考えはじめると、目を吊り上げた母の顔がパッと頭に浮かんだ。

 『美守、勉強しないと将来ニートになるわよ』
 耳の中に母の尖ったキンキン声が響く。

 「どうせ歌手になんてなれないのに歌手を目指して勉強をしなかったら、大学受験に失敗しちゃうから」
 「大学受験に失敗するとお前は死んじまうのか?」
 「死ぬって、そこまでは……。でも、将来ニートになっちゃう」
 「ニートってなんだ?」
 「仕事が無くて生活できない人だよ」
 「大学に行けなかったら、仕事はできないのか?」
 「そんなことない。高卒でだって働いている人はいるよ」
 「だったら勉強ばっかしてねぇで、やりたいことをやれよ」
 「簡単に言わないでよ」
 「簡単に言っているように聞こえるか?」
 「うん。狐の茜には、わからないよ」

 ナイフみたいな言葉だった。

 しまったと後悔した時にはその言葉は音になっていて、茜に鋭く突き刺さっていた。
 いつも強い彼が儚げにそっと目を伏せたのがやけにスローモーションに見えた。

 違う、茜を傷付けたかったわけじゃない。ごめんね、茜。

 謝罪の言葉はこんな時に限って、喉の奥に引っかかって出てきてくれない。
 眉を下げて情けない顔で茜を見る。茜は静かな笑顔を浮かべた。

 「俺の兄貴は去年、病気で突然死んだ」
 「え……」
 「これから結婚して、楽しく家族で暮らそうって言ってたのにな。あっけなく死んじまったよ」

 茜が胸が痛くなるくらい、明るく軽やかな笑顔を浮かべる。

 「将来って、そん時生きてる保証なんてないんだぜ。だから、いつ死んでも後悔しねぇようにやりたいことをやる。お前にはそういうふうに生きて欲しいんだよ」

 もしも今死んでしまったら。

 死んでしまった茜のお兄さんの姿を思い浮かべながら、想像する。
 大学に受かるまでの我慢。大学に受かれば今度は就職するまでの我慢。そうやって我慢して手にした職業はまったく興味のない、安定だけが得られる仕事。
 そんなもののために、今の時間を好きでもない勉強だけに注いでいる。今死んだら、一生成仏できない幽霊になって現世を彷徨い続ける。そんな気がした。

 学生の本分は勉強だ。勉強が好きじゃないけど、しなくてはいけないし、ちゃんとする。だけど、勉強のためにすべてを犠牲にするのは間違っている。そんな気がしてきた。

 「……私、やっぱり諦めたくない」
 「それなら、前に進まねぇとな」
 「うん。ちゃんと歌手の夢に挑戦する」
 「ああ。たとえ結果が同じでも、やらずに後悔するよりは、やってみねぇと。やらずにする後悔はきっと、やって後悔するよりももっと、ずっと苦い」
 「まず、お母さんを説得する」

 一つ決意を言葉にすると、重たい荷物を一つ手放したみたいに体がすっと軽くなった。

 「腹が決まったみたいだな。応援してるぜ」

 茜の言葉が優しく頭に響く。
 あんたにできるわけないじゃない。呪いの言葉を消して、茜のエールだけが耳の奥に残っていた。

 「そろそろ帰るか」
 「そうだね」

 私と茜は軽やかな足取りで山を下りた。