狐の恩返し

 「歌だ」
 「へ、うた? うたって、あのドレミファソの歌のこと?」
 「ああ、歌ってくれよ美守。俺はお前の歌が好きなんだ」
 「私、歌なんて聞かせたっけ?」
 「まだ子狐だった俺を拾って世話してくれてた時、歌ってくれただろ」
 「そうだっけ?」

 家で歌うと母が嫌な顔をするから、あまり家でおおっぴらに歌った記憶はない。こっそりと部屋で発声練習をするぐらいだ。
 昔過ぎて覚えていないだけで、あの頃は家でもよく歌っていたのだろうか。

 「本当に私なんかの歌がお礼でいいの?」
 「お前なんかじゃねぇよ、お前だからだ」

 さらっとそんな恥ずかしいことを言ってしまえる茜が羨ましい。
 人間と狐の差なのだろうか。それとも、茜だから言えるのだろうか。

 「歌なら、お安い御用だよ。でも、家で歌うと怒られるかも」
 「怒られるのか?」
 「うん。お母さんにうるさいって言われる」
 「あんなに綺麗な歌声なのに?」

 びっくりした顔で茜が口にした誉め言葉に、足元がふわふわする。

 「私の歌、上手いかな?」
 「ああ。とびっきりな」

 お世辞じゃない。直感でそうわかった。嬉しくて、涙腺が滲みそうになる。でも、喜ぶのは早い。まだ、ちゃんと歌声を聞いてもらってないのだから。

 今からでも歌いたい。
 私は自転車の鍵を手に取った。

 「思いきり歌える場所があるの。今から行こう」
 「そいつはいいな。行こうぜ」
 「うん」

 母に茜の散歩に行ってくると告げて、私は自転車に乗って家を出た。
 犬の散歩のふりをしてリードをした茜を連れて、夕暮れの町を歩く。

 「住宅街を抜けたら、後ろの荷台に座って。農業研究センターまで行くから」
 「俺とお前が出会った場所だな」
 「あそこが私のステージなんだ。なんて、かっこつけたこと言っちゃったかな」
 「はは、いいじゃねぇか。格好いいぜ、美守」
 「やめてよ、照れるでしょ」

 住宅街を出て人目が少なくなると、茜の首輪を外してリードを解いた。

 「後ろに乗って、茜」
 「いや、後ろに乗るのは美守だ」
 「え?」

 茜は周囲を見回して人目がないことを確認すると、合掌して目を閉じ、人間の姿に変身する。

 「乗りな」
 「で、でも。茜、自転車とか乗れるの?」
 「ああ。運動神経は抜群だぜ、乗れるさ」
 「二人乗りは禁止だよ」
 「細かいこと言うなよ。それに一人と一匹だ、問題ねぇ」

 いたずらっ子みたいな顔で茜が笑う。

 「屁理屈だよ、それ」
 「はは、口は達者なんでな。ほら、さっさと乗りな」
 「強引だなあ、もう」

 文句を言いながらも、私は自転車の荷台に腰を下ろす。

 「しっかりつかまってな」
 「う、うん」

 横座りして、茜がお尻を乗せているサドルと荷台を掴む。

 「馬鹿、そんなんじゃ落ちちまうだろう。ちゃんと座って、俺の腰に腕を回すんだよ」
 「ええ、恥ずかしいよ」
 「恥ずかしがることじゃねぇよ。いいから早く」

 茜に押されて、私は言われた通りに茜の腰に腕を回す。小柄な茜の腰は女の子みたいに細かった。でも、回した腕にはしっかりとした筋肉の硬さが伝わってくる。それにすごく体温が高い。

 「あったかい……」
 「ほら、行くぜ」

 ゆっくりと自転車が動き出す。
 吐く息が白くとどまるほど外は寒かったけれど、冷たい風を遮るように茜の体が立ちはだかっていたから、あまり寒さを感じなかった。くっついた体は熱の塊みたいで、温かい体温が服越しに伝わってくる。

 男の子とこんなふうに体をくっつけるのなんて、はじめてかも。
 意識すると心臓が早鐘を打った。

 この心音が茜の耳に聞こえてしまうのではないか。くっついた皮膚から伝わってしまうのではないか。そう思うと、すごく恥ずかしかった。

 ガタガタと自転車が揺れる。
 私を後ろに乗せているのに、茜はすこしも苦しそうな様子はなく、鼻歌交じりに自転車をスイスイと漕いでいる。茜って見た目はきれいで下手するとボーイッシュな女子なのに、それ以外はすごく男らしいな。
 ぎゅっとさらに強くしがみついてみた。
 まるで小さな太陽みたい。
 すごく温かいし、安心する。このままくっついていたい。