あの時からだ。瀬名君を好きになったのは。

 私の歌を聞いてくれたから。臆することなくさらりと人の長所を褒めることができる素敵な人だと思ったから。
 顔だけじゃない、私は瀬名君の中身も好きだ。

 「ちゃんと中身も好きだよ」
 「だろうな。お前ならそうだと思ったぜ」

 妙に大人びた微笑。優しく見守るような顏に胸が温かくなる。

 好きだな、茜のこと。
 ぼうっと茜に見惚れる。
 いつもは人の心の機微に鋭いのに、彼は私の熱視線には少しも気付かない。

 ああ、気付かれなくてよかった。
 私は一瞬芽生えた気持ちをすぐに摘み取る。
 だって、彼を好きになってもしょうがない。住む世界が違う。彼は春風と共に去ってしまうのだから。

 「好きだって言わねぇと手に入らないぜ」
 「わかってる。別に、手に入れたいなんて思ってないよ」
 「好きなのにか?」
 「遠くからじっと見ているだけでじゅうぶんなの」
 「はっ、無欲なことで。俺には無理だな。好きな物は手に入れたい」
 「ぜったいに手に入らないから」

 そう、私なんかじゃ無理だから。なら、最初から手を伸ばさなければいい。そうしたら少なくとも傷付くことはない。
 もしかしたらいつか、瀬名君から「君が好きだ」と告げられるかもしれない。そんな甘い妄想だけで、じゅうぶん退屈な毎日は輝くから。
 ローコストローリターン。地味女にはこれが一番優しい生き方だ。

 臆病な私の心を見透かしたのか、茜が少し呆れた顔をする。

 「なんでやる前からそう決めちまうんだよ」
 「宝くじは買わない派なの。だって、一等なんて当たるはずないから」
 「瀬名は宝くじの当たりじゃねぇだろ」
 「手に入らないっていう点では共通してるでしょ」
 「自分が瀬名の好みのタイプかもしれねぇとは思わないのか?」
 「ありえない。だって瀬名君、すっごく可愛い子やきれいな人とばかりいるから。美女なんて選び放題の人だよ。万が一にもないって」
 「つまり、顔に自信がないから告白できないってわけか?」
 「そうだよ」
 「この先、また好きな奴が現れても同じ理由で逃げるんだろうな」

 図星だった。

 小学校の時もそうだ。かっこいいと評判の同い年の男の子を好きになった。ぶっきらぼうだけど実は優しい彼のことが、ずっと好きだった。彼とはわりと仲がよかったのだけれど、やっぱり告白できなかった。
 彼は五年生の時に転校して、なにも動かないまま初恋は終わってしまった。

 茜の青い瞳がじっと私を見つめる。

 澄んだ水鏡は私の心の奥底までぜんぶ映し出している。そんな気がして怖かった。
 私の恐怖を感じとったのか、茜は首ごと視線を空に向けた。

 そのまま頭の後ろで腕を組むと、口をくあっと大きく開けてあくび混じりに言う。

 「顔に自信がないって、整形でもしなきゃ一生告白できねぇってことじゃねぇか」

 呆れた声で吐かれた言葉が胸に刺さった。
 本当にその通りだ。顔は整形でもしなければ変えられない。
 じゃあ、整形してとびきり可愛くなったら、私は自信をもって瀬名君に好きと言えるのだろうか。
 なんだか、それはそれで違う気がする。

 逃げているだけなのかもしれない。
 告白してふられるのが怖い。私は拒絶されて傷付くのを恐れている。

 でも、たぶんそれだけじゃない。いちばん怖いのは、身のほど知らずだと笑われること。瀬名君だけじゃない。もしも周囲の人にまで私が瀬名君に告白してふられたのを知られたら、きっといい笑い者になるだろう。

 恥をかく。私はそれが一番怖いのだろう。

 「わりぃ、余計なこと言っちまったな」

 茜が悲しげな顔でこちらを見る。
 深刻にしたくなくて、私はわざと明るく笑った。

 「本当にそうだよ。乙女心は複雑なの!」

 乙女心なんておよそ自分には似つかわしくない言葉で誤魔化した私に、茜は「そうだな」と静かに笑っただけだった。

 「暗くなってきちまったな。とっとと帰ろうぜ」

 ゆっくりと歩き出した茜の横顔は大人びていて、どこか遠かった。

 淋しい。
 規則的に揺れる茜の右手を捕まえて握りしめたい。
 そんな衝動に駆られたけれど、意気地なしの私には、そんな大胆なこと、とうていできなかった。
 彼の隣に並んで一緒に歩くことが、私にできる精一杯だった。


 家に帰ると茜は人間の姿まま、庭から二階の私の部屋のベランダにジャンプした。
 さすが狐だ。普通の人間では考えられない運動神経だ。

 かっこいいけど、やっぱり彼は人間じゃないんだと思うと、ほんの少し残念だと思った。
 茜の正体が狐だなんてことは、わかっていたのに。

 「ただいま」

 私は一人、玄関から家に入る。
 居間からテレビの音が聞こえる。ドアのガラスの部分から中を覗くと、テレビを見つめる母の後ろ姿があった。うちはあまり家族間ではあいさつをちゃんと交わさない。ただいまという声に返事がないのもいつものことだ。
 洗面所で手を洗って、二階の自室に直行する。
 ベランダを開けると人間の姿のままの茜が入ってきた。

 「ただいま、美守」
 「おかえり、茜」

 律儀にあいさつする茜に面食らいつつ、私は嬉しかった。
 こういうのって、なんかいいなあ。自然と口元が綻ぶ。
 茜は貸してあげた紺色のコートを脱ぐと、胸の前で二回柏を打った。
 茜が人間からもふもふの狐の姿に戻る。

 「今日はありがとな、美守。楽しかったぜ」
 「私こそ。すっごく楽しかった」

 楽しかった。それだけじゃない。
 茜のぶつけてきたたくさんの疑問に答えながら、自分の中にあったけどフタをし続けてきた感情に目を向けることになって、少しだけ苦しかった。
 でも、苦しみだけじゃない。
 私は自分が何を恐れているのか知った。そして、私がすごく臆病であることも。

 「茜、ありがとう」

 ふわふわの背中を撫でながらそう言うと、茜は静かに目を細めた。