狐の恩返し

 あれは四月の半ばのこと。

 今年の桜は遅咲きで、まだ少し枝で薄紅の花弁を広げていたのが音楽室の窓から見えていたのを、やたらと鮮明に覚えている。
 それだけあの日は私にとって、特別な一日だったから。

 うちの高校では芸術の科目は、音楽か書道か美術のどれか一科目しか選択できない。それも授業は一週間にたった二限だけ。
 進学校の目標は志望大学合格一色だから、受験に関係ないむだな授業はできるだけ削減されているのだろう。音楽も美術も大好きだったので、そのことが寂しかった。

 選択科目の希望届を見て散々迷った。絵を描くのが好きだったので美術も捨てがたかったけれど、私は音楽の授業を選択した。加奈はもちろん美術を選んでいた。

 授業は二クラス合同で行われる。もしも加奈が一組だったら私も美術を選んでいたかもしれないが、残念ながら加奈は五組だ。入学したばかりで友達もいなかったので、私は一人寂しく大好きな音楽を選択した。

 音楽の授業は好きな席に座ってよかった。一人で音楽室に移動した私は、窓際の前から四番目の席に座った。
 偶然にも、私の前の席に座ったのが瀬名君だった。

 音楽の授業に熱心な生徒は少なく、みんな眠たそうに先生の話を聞いていた。中にはひそかに単語帳を見ている子もいた。たぶん、音楽を選択した人は最初から内職する気満々で、音楽が好きだからという理由で選んだ人は少なかったのだと思う。
 中年の女の先生はまったく気にすることなく、授業を続けていた。

 授業の終わりに楽譜が配られて、全員で合唱した。教科書の曲ではなく、去年流行ったバラード調のJPOPだった。

 知らない人はほぼいなかっただろう。だけど、歌声はひどくまばらだった。

 そんな中、私はここぞとばかりに思い切り声を出して歌った。どうせピアノと先生の声にまぎれて誰の声かわからないだろうし、誰も人の歌声なんて聞いていないだろう。基本的にはシャイで前に出ない性格だけど、歌う時だけは恥ずかしいと思わない。

 「素敵な歌声だね、聞き惚れてしまったよ」

 授業が終わってみんながゾロゾロと音楽室を出ていく中、まだゆったりと前の席に座っていた瀬名君が私を振り返って言った。

 「あ、その。歌うの、好きだから……」

 いきなり男の子、しかも入学早々話題の王子様に話しかけられて、焦った私はしどろもどろに答える。
 彼はそんな私に優しく微笑んだ。

 「それなら、音楽の道を目指してみたらどうかな?」
 「そ、そこまでは考えてないよ。私、才能ないし」
 「才能があるかないかなんて、やってみなければ分からないよ」

 柔らかな声で、でもきっぱりとそう言うと、瀬名君は立ち上がって颯爽と去っていった。