練習を始めて二週間。

 柳さんが私たちに会いに来たあと、すぐ国内の楽器工場でトラブルが起きたらしく、帰国早々バタバタしていたという。

 「本当に大変だったよ。ニュース見たでしょ?」

 「見ました……部品の取り違えって。うちの父も、あ、今は北海道までツアー同行してるんですけど……“新しく買ったばかりなのに〜”って嘆いてました」

 「それはそれは、大変申し訳ございませんでした」

 柳さんは深々と頭を下げた。私たちはなんとなく、彼の言葉を受け止めていた。彼の誠実さが、少し照れくさいくらいに感じられた。

 「柳さんが謝ることじゃないよ。今日はゆっくりしてって。……バンド練習中だからうるさいかもだけど」

 店内のステージでは海斗くん、大貴くん、幸太が音合わせをしている。常連のお客さんもちらほら。私たちもその一員になっているのが、少し不思議な気分だった。

 「……演奏、うまくなってるけど、クセはまだ治ってないな」

 「やっぱりわかるんだ。さすが」

 「わかるよ。でもまぁ、プロじゃないし、楽しんでやってるのが一番だよ」

 柳さんは穏やかに見守ってくれる。そんな姿を見ていると、ちょっとホッとする。確かに見た目は少し変わったけど、彼はやっぱり変わらない。三年前、バンドメンバーとの口論をきっかけに脱退し、アメリカへ。仲直りはしてからの出発だったけど、それ以来、やっぱり少し寂しかった。あの頃の柳さんが、今でもふっと蘇る。

 「……成美ちゃんが歌うなんて楽しみだな。ギターはどう?」

 「緊張してます。バーディーズ再結成のボーカルが、ズブの素人の私だなんて……」

 「いやいや、新生バーディーズ、楽しみにしてるよ」

 バーディーズ――大貴くんが“モテたい”という動機で始めたゴルフ由来のバンド名。そこに芹香さんが加わり、やがて柳さんの海外転勤と、芹香さんの教師退職&語学留学で解散した。地元では長く人気だったバンドだから、私がボーカルって、プレッシャーがすごい。

 「成美ちゃんは幸太にギター習ってるし、大丈夫だよ」

 テーブルにやってきた海斗くんがフォローしてくれる。

 「幸太くんはセンスあるからな。それは楽しみだなあ」

 「が、がんばります……」

 口ではそう言っても、毎回練習で幸太がため息つくくらい、うまくいってないのが現実。私、どうしてこんなにも自信が持てないんだろう。

 「そういや、柳の奥さんになる人って……誰なんだ?」

 ズバッと聞いてくれる海斗くん、ナイス。

 「僕も気になるなぁ。もしかして現地の人?」

 見た目も少し変わってるし、まさか国際結婚……?

 柳さんは照れたように笑って、首を横に振った。

 「一度か二度、現地の女性と付き合ったけど、僕みたいな日本男児は合わなかったみたいでね。それに、ビジネス英語じゃ、彼女たちを満足させられる会話もできなかったし」

 「え、さらっと“一度か二度”って言った! じゃあ、日本人とか? 仕事で知り合った?」

 さすが海斗くん、もっと聞いて!

 だけど柳さんは少し困った顔をする。昔からプライベートなことはあまり話さなかった。

 「……実は妻が体調を崩してね」

 「えっ、大丈夫なんですか?」

 「熱とかではないんだけど……その、お腹に子どもがいるんだ」

 「ええええっ!?」

 「ダブルおめでた!?」

 柳さんは照れくさそうに、頼んだスパゲッティを食べはじめた。その瞬間、私たちは言葉を失った。

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 別の日の昼休み。

 毎日、幸太からギターを教えてもらっているけど、歌とギターを同時にやるのはほんと難しい。

 「あーもう、歌だけに専念するしかないな、成美」

 「……手がムズムズするっていうか……なんなら幸太が歌ってよ」

 「嫌だよ。僕はクラシックギター専門だし、ああいうゴリゴリのロックとは方向が違うんだってば」

 そう言いながらも、幸太はちゃんと教えてくれる。柳さんにギターを習っていたのもあって、みんなから“幸太なら”って言われるのも納得。彼は本当にプロフェッショナルだ。

 「でもギター二人いると音に厚みが出るし。結婚式まではまだ時間あるし、頑張ろう」

 本当申し訳ないくらい、プレッシャー。私のために、みんな時間割いてくれてる。

 「芹香さん、あれ以来会ってないね。店にも来た?」

 あ、そういえば……先生たちの話では、帰国のお土産だけ渡しに来て、それきりらしい。

 「来てないな。柳さんの結婚、知ったら驚くだろうな」

 「メンバーだったしね。知ったら“私が歌いまーす!”とか言いそう」

 「それなー。だったら私はギターに専念したい」

 「はいはい、現実逃避終了。練習練習」

 「はぁい」

 幸太とこんなに話すのも初めてだなあ。ギター部のセンターで弾いてたの、すごいって思ってた。

 将来は、父や母みたいに全国のツアーに同行して、楽器に関わる仕事がしたい。そう思ってたけど、まだまだだな、私。

 いつかは、柳さんみたいに海外も目指したい。ここで挫けてる場合じゃない。

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 その日の夕方、バイト先。

 郁弥お兄ちゃんが、今日も賄いのスイーツを出してくれる。パインジュースとココアムース。従兄妹の私だけの特別サービス。嬉しい。

 でも最近、郁弥お兄ちゃん、どこか元気がない。

 ……芹香さんの帰国の話をしてから、特に。

 「郁弥にいちゃん、体調悪い?」

 「……いや、別に」

 「余興の練習、最近よく失敗してるし」

 「……バーディーズ再結成で緊張してるんだよ」

 「だけじゃないでしょ。芹香さんのこと……」

 その名前を出した瞬間、郁弥お兄ちゃんの顔が変わった。

 「もし気にしてることあるなら、連絡取ればいいのに」

 「……連絡したって、どうにもならないよ」

 「でも……」

 ガランガラン!

 荒々しくドアベルが鳴る。

 大貴くんと海斗くんが、慌てて入ってきた。

 「おい、今さっき駅前のモールでさ」

 「柳と……芹香さんがっ!」

 ……えっ?

 「仲よさそうに歩いててさ。で、ついに……」

 「連れてきた。入ってこいよ!」

 静かにドアが開き、柳さんと芹香さんが現れる。柳さんの表情は昨日と違って少し曇っている。そして隣には――芹香さん。

 「久しぶりね、みんな……本当はすぐここに来たかったけど。あ、成美ちゃんには学校で会ったわね」

 「はい……」

 芹香さんは笑顔でみんなに手を振る。

 「芹香……」

 「郁弥、久しぶり」

 そして、みんなが息をのむなか、芹香さんが言った。

 「私、柳さんと結婚するの」