これは今から一ヶ月前のこと。
高校二年生の夏、私は兄・郁弥にいちゃんの経営するライブバーで、開店前の掃除バイトをしていた。もともとは母の兄、つまり私の叔父さんがやっていたお店だったけれど、お兄ちゃんが引き継いだ。料理人でもあるお兄ちゃんは、なんでも作れるし、ピアノも得意で、しかも優しい。まさに自慢の兄だ。
掃除といっても、椅子のセッティングや食器の用意、ライブがある日には席の配置替えまで。なかなか地味に大変な作業だ。店が開けば、大学生のバイトが二人やってきて、私はその前にちょっとした掃除と準備を担当する。それが毎週のルーチンになっていて、他の学生たちが目の前で働く姿を見ながら、私はまだまだ未熟だなと感じることも多い。土日は日中のウエイターの仕事もしているから、それなりに良いお小遣いにもなっている。高校を卒業したら、夜の仕事にも入りたいな、なんて、ちょっと淡い夢も抱えている。
私は料理担当じゃないから、簡単な手伝いしかできないし、お兄ちゃんと一緒に店をやるつもりもない。でも、毎週のようにライブがあって、音楽をすぐそばで感じられる環境が好きだった。家に帰っても、親は共働きでいないけれど——それはそれで、慣れている。
そんなある日、いつもよりも少し静かな開店前の店内で、私は何気なく雑誌を手にしてページをめくっていた。カランカラン、とドアのベルが鳴る。音を聞いて、私は無意識に顔を上げる。
「まだ開店前ですよ……あっ」
その声を聞いて、思わず驚いた。
「いらっしゃいませ……って、久しぶりです!」
「おお、成美ちゃん! 三年ぶりかな? 大きくなったなぁ」
現れたのは柳さん。ロン毛に髭、サングラス、高身長に水色のスーツ。少し印象は変わったけれど、あの特徴的なハスキーな声ですぐに分かった。
「郁弥は?」
「あ、呼んできます! 今、奥で仕込み中だから——」
私は駆け足で、兄を呼びに奥へ向かう。その瞬間、郁弥にいちゃんが厨房から出てきた。
「……柳」
「おっす」
「おおう……」
ふたり並ぶと、やっぱり身長差がすごい。
「なかなか連絡できなくてごめんな。こないだアメリカから帰ってきて、ようやく昨日SIM届いてスマホが開通したとこなんだ」
柳さんは約三年前、仕事でアメリカに行っていた。楽器メーカーに勤めているギタリストとして、彼の演奏をこのバーで見たときは、あまりに上手すぎて、思わず感動したものだ。
「インスタ見てたよ。向こうの音楽はどうだった?」
「うん。いろいろ大変なこともあったけど、楽器を弾きたい人は世界中にいるんだなって思った。刺激的だったよ」
その後、また扉が開き——
「え、柳さん!?」
「うそ、帰ってきたの!?」
入ってきたのは、ベース担当の大貴くんと、ドラムの海斗くん。機材を抱えて、驚いたような笑顔を浮かべながら。
以前は、明るくてやかましいこの二人に対して、柳さんは少し地味でおとなしい印象だった。しかし、今の柳さんはロン毛にスーツに髭にサングラス。……なんだか、とてもかっこよく見える。
「本当は去年帰る予定だったけど、もう一年修行してましたっ」
柳さんが敬礼すると、他の二人も冗談めかして敬礼。……バンドメンバーが再集結。でも——ひとり、足りない。
ボーカルがいないと、バンドは成り立たない。そう、芹香さん。
彼女の伸びやかな声、ライブで見せる素顔。学校じゃ絶対に見せない、あの表情が忘れられない。
芹香さんは、みんなの憧れだった。男子も女子も、彼女を見つめる。だけど、なぜか彼女は私に、とても優しくて——。
大貴くんは、今、実家の楽器店を継いで店主になった。女の子に人気があって、告白されても断れなくて、とりあえず付き合うけど、すぐ別れちゃう。でも、それはたぶん、ずっと芹香さんのことが好きだから。
海斗くんは、幼馴染で、今は若くして幼稚園の園長先生をしている。ずっと芹香さんに片思いしているのが、見ていてわかる。
柳さんも……多分、芹香さんのことが好きだったと思う。でも、他のふたりに押されて、いつも少し遠慮がちだった。でも、ステージでは芹香さんと息がぴったり合っていた。
そんな彼女を「落とした」人——それが、私の兄、郁弥にいちゃんだ。
「柳、久しぶり」
「おう、郁弥。店を残してくれて、嬉しいよ」
「ここ数年、大変だったけど、みんなに助けられたよ」
「……そうか」
なんだか、柳さん、前よりもずっと明るくなった気がする。
「今日さ、みんなに報告とお願いがあって……」
「帰国早々? なになに?」
大貴くんと海斗くんは、機材を置いて柳さんの元へ駆け寄る。郁弥にいちゃんはお茶を出して、私はそのお手伝い。
柳さんにお茶を手渡すと、彼はにっこり笑って言った。
「今度、この店で結婚式をしたい」
——その瞬間、私の心は驚きと喜びでいっぱいになった。
結婚の話だけして、仕事が残っているからと柳さんは職場に戻る。その場に残された私たちは、ただただ、そわそわしていた。
「まさか、あのおとなしい柳が……」
「現地の人じゃなくて、仕事先で出会った人とか? ロマンチックじゃない?」
「それより問題は、余興頼まれたことだよ。ここで二次会はよくやったけど……ボーカルがいないじゃん」
郁弥にいちゃんは、ウェディングケーキを作る気満々で、ニコニコしている。
そう、余興を頼まれたバンドメンバーたち。でもボーカルの芹香さんは、もういない。
私が連絡すれば、もしかしたら来てくれるかもしれない。けど……バンドはもう3年前に解散している。
「どうしたの? 柳さんにギター&ボーカル頼まれたの、プレッシャー?」
そう。実は柳さんに言われたんだ。私がギターを練習していることを、覚えてくれていて。
「……一応、あの頃よりはマシになったけど、人前で……しかも柳さんの結婚式でやるなんて」
「芹香が、成美ちゃんには才能あるからって、褒めて伸ばしてあげてって言ってたからなぁ」
海斗に言われて、胸がじんとする。
私がここまでギターを続けられたのは、芹香さんが「才能あるよ」って言ってくれたから。その一言が、私の背中を押してくれたんだ。
「流石に初ステージでギターボーカルは緊張するよね」
大貴くんがにこっと笑う。その笑顔に、少しだけ救われる。
「だったら、成美ちゃんの同級生の……幸太くんだっけ? 彼にギター頼んでみる?」
「それいい! 幸太、歌も上手いし、コーラスお願いしよ……ああ、何歌おうかなぁ、みんな!」
みんな楽しそうに話しているけれど、私は——
(ねぇ、芹香さん。あなたなら、どんな曲を選ぶんだろう)
高校二年生の夏、私は兄・郁弥にいちゃんの経営するライブバーで、開店前の掃除バイトをしていた。もともとは母の兄、つまり私の叔父さんがやっていたお店だったけれど、お兄ちゃんが引き継いだ。料理人でもあるお兄ちゃんは、なんでも作れるし、ピアノも得意で、しかも優しい。まさに自慢の兄だ。
掃除といっても、椅子のセッティングや食器の用意、ライブがある日には席の配置替えまで。なかなか地味に大変な作業だ。店が開けば、大学生のバイトが二人やってきて、私はその前にちょっとした掃除と準備を担当する。それが毎週のルーチンになっていて、他の学生たちが目の前で働く姿を見ながら、私はまだまだ未熟だなと感じることも多い。土日は日中のウエイターの仕事もしているから、それなりに良いお小遣いにもなっている。高校を卒業したら、夜の仕事にも入りたいな、なんて、ちょっと淡い夢も抱えている。
私は料理担当じゃないから、簡単な手伝いしかできないし、お兄ちゃんと一緒に店をやるつもりもない。でも、毎週のようにライブがあって、音楽をすぐそばで感じられる環境が好きだった。家に帰っても、親は共働きでいないけれど——それはそれで、慣れている。
そんなある日、いつもよりも少し静かな開店前の店内で、私は何気なく雑誌を手にしてページをめくっていた。カランカラン、とドアのベルが鳴る。音を聞いて、私は無意識に顔を上げる。
「まだ開店前ですよ……あっ」
その声を聞いて、思わず驚いた。
「いらっしゃいませ……って、久しぶりです!」
「おお、成美ちゃん! 三年ぶりかな? 大きくなったなぁ」
現れたのは柳さん。ロン毛に髭、サングラス、高身長に水色のスーツ。少し印象は変わったけれど、あの特徴的なハスキーな声ですぐに分かった。
「郁弥は?」
「あ、呼んできます! 今、奥で仕込み中だから——」
私は駆け足で、兄を呼びに奥へ向かう。その瞬間、郁弥にいちゃんが厨房から出てきた。
「……柳」
「おっす」
「おおう……」
ふたり並ぶと、やっぱり身長差がすごい。
「なかなか連絡できなくてごめんな。こないだアメリカから帰ってきて、ようやく昨日SIM届いてスマホが開通したとこなんだ」
柳さんは約三年前、仕事でアメリカに行っていた。楽器メーカーに勤めているギタリストとして、彼の演奏をこのバーで見たときは、あまりに上手すぎて、思わず感動したものだ。
「インスタ見てたよ。向こうの音楽はどうだった?」
「うん。いろいろ大変なこともあったけど、楽器を弾きたい人は世界中にいるんだなって思った。刺激的だったよ」
その後、また扉が開き——
「え、柳さん!?」
「うそ、帰ってきたの!?」
入ってきたのは、ベース担当の大貴くんと、ドラムの海斗くん。機材を抱えて、驚いたような笑顔を浮かべながら。
以前は、明るくてやかましいこの二人に対して、柳さんは少し地味でおとなしい印象だった。しかし、今の柳さんはロン毛にスーツに髭にサングラス。……なんだか、とてもかっこよく見える。
「本当は去年帰る予定だったけど、もう一年修行してましたっ」
柳さんが敬礼すると、他の二人も冗談めかして敬礼。……バンドメンバーが再集結。でも——ひとり、足りない。
ボーカルがいないと、バンドは成り立たない。そう、芹香さん。
彼女の伸びやかな声、ライブで見せる素顔。学校じゃ絶対に見せない、あの表情が忘れられない。
芹香さんは、みんなの憧れだった。男子も女子も、彼女を見つめる。だけど、なぜか彼女は私に、とても優しくて——。
大貴くんは、今、実家の楽器店を継いで店主になった。女の子に人気があって、告白されても断れなくて、とりあえず付き合うけど、すぐ別れちゃう。でも、それはたぶん、ずっと芹香さんのことが好きだから。
海斗くんは、幼馴染で、今は若くして幼稚園の園長先生をしている。ずっと芹香さんに片思いしているのが、見ていてわかる。
柳さんも……多分、芹香さんのことが好きだったと思う。でも、他のふたりに押されて、いつも少し遠慮がちだった。でも、ステージでは芹香さんと息がぴったり合っていた。
そんな彼女を「落とした」人——それが、私の兄、郁弥にいちゃんだ。
「柳、久しぶり」
「おう、郁弥。店を残してくれて、嬉しいよ」
「ここ数年、大変だったけど、みんなに助けられたよ」
「……そうか」
なんだか、柳さん、前よりもずっと明るくなった気がする。
「今日さ、みんなに報告とお願いがあって……」
「帰国早々? なになに?」
大貴くんと海斗くんは、機材を置いて柳さんの元へ駆け寄る。郁弥にいちゃんはお茶を出して、私はそのお手伝い。
柳さんにお茶を手渡すと、彼はにっこり笑って言った。
「今度、この店で結婚式をしたい」
——その瞬間、私の心は驚きと喜びでいっぱいになった。
結婚の話だけして、仕事が残っているからと柳さんは職場に戻る。その場に残された私たちは、ただただ、そわそわしていた。
「まさか、あのおとなしい柳が……」
「現地の人じゃなくて、仕事先で出会った人とか? ロマンチックじゃない?」
「それより問題は、余興頼まれたことだよ。ここで二次会はよくやったけど……ボーカルがいないじゃん」
郁弥にいちゃんは、ウェディングケーキを作る気満々で、ニコニコしている。
そう、余興を頼まれたバンドメンバーたち。でもボーカルの芹香さんは、もういない。
私が連絡すれば、もしかしたら来てくれるかもしれない。けど……バンドはもう3年前に解散している。
「どうしたの? 柳さんにギター&ボーカル頼まれたの、プレッシャー?」
そう。実は柳さんに言われたんだ。私がギターを練習していることを、覚えてくれていて。
「……一応、あの頃よりはマシになったけど、人前で……しかも柳さんの結婚式でやるなんて」
「芹香が、成美ちゃんには才能あるからって、褒めて伸ばしてあげてって言ってたからなぁ」
海斗に言われて、胸がじんとする。
私がここまでギターを続けられたのは、芹香さんが「才能あるよ」って言ってくれたから。その一言が、私の背中を押してくれたんだ。
「流石に初ステージでギターボーカルは緊張するよね」
大貴くんがにこっと笑う。その笑顔に、少しだけ救われる。
「だったら、成美ちゃんの同級生の……幸太くんだっけ? 彼にギター頼んでみる?」
「それいい! 幸太、歌も上手いし、コーラスお願いしよ……ああ、何歌おうかなぁ、みんな!」
みんな楽しそうに話しているけれど、私は——
(ねぇ、芹香さん。あなたなら、どんな曲を選ぶんだろう)



