平日の夕方、店内は家族連れと学生が何組かいるだけで、思ったより空いていた。隅の二人席に案内され、ふたり向かい合って座る。タブレットのメニューを見ながら、彼女は注文を決めあぐねている。ああでもない、こうでもないとあれこれ悩んでようやく注文を済ませると、まもなくビールジョッキが運ばれてきた。
「いやあ、ファミレスでビールだなんて、なんか悪いことしてるみたいだねえ」
 彼女は高らかにジョッキを掲げると、豪快にその半分を流し込んだ。
「それにしても、いっくんの彼女さん、ほんと美人! あ、いっくんって呼んでたんだ、付き合ってた頃。あはは、懐かしいなあ」
 初めて会う人と、それも恋人の元カノとファミレスに来ているという謎現象に、現実味が一切湧かない。ぷかぷかと宙に浮かんでいるような感覚だ。
「高校三年間付き合っててさあ。でも私、いっくんと違って馬鹿だし頭悪いから、最初はよかったんだけど結局ダメになっちゃって。そのあとは私も普通に生活してたんだけど、最近いろいろあってね。あ、これはもう聞いてるか。まあとにかく、行くとこなくなっちゃって、それで泊めてもらってたんだけど、先週くらいかなあ、もう面倒見てやれない、もう来るな、なんて言われちゃって」
 次々に運ばれてくるピザやらポテトやらをつまみながら、彼女はひたすら話し続ける。
「ひどいよねえ、急にだよ。それまで普通に泊めてくれてたのにさあ。なんでかなあ。あ、焼きそばのなかに、いっくんの嫌いなにんじんやらピーマンやら入れたから、それで怒っちゃったのかなあ。あーちゃん、どう思う?」
 いつの間にか私を「あーちゃん」と呼ぶことや、私に和哉との昔話を語るその神経に正気の沙汰じゃないと思いつつ、とはいえいちいち反応していてはきりがないし癪なので、私はかまわず質問にだけ答える。
「私が、そうするようにいいました」
「ええっ、なんで?」
 くるみは心底驚いたという様子で目をぱちくりさせている。
「だっておかしいじゃないですか、彼女いる人の家に元カノが転がり込むなんて」
「え? 知ってて許してくれたんじゃないの? やだ、もしかしていっくんてば言ってなかったの? あちゃー、それはだめだよいっくん」
「……あと、そのいっくんっていうのもやめてください」
「えー、ずっとそう呼んできたからなあ。今更なんて呼べばいいかわからないよ」
 くるみはジョッキに残ったビールを飲み干し、もう一杯おかわりをした。
「でもごめんね? 彼女いるっていうのは聞いてたけど、いっくんが私のこと秘密にしてたなんて知らなくて」
 くるみは顔の正面で手を合わせる。
「連絡とった時も、ちょっと考えさせてって言われて、それからしばらく経ってから、いいよって言われたからさ。彼女、許してくれたんだって思ってた。もう、バレたならバレたって、はっきり言ってくれればよかったのに」

 バレた。
 バレたって、なに?

 私に知られたらまずいような言い回し。それは紛れもなくそうなんだけど、やけに癪に障る。普通の感覚であれば、彼女がいると知った時点で身を引くのが常識だとわかるだろう。
 そう言いたかったけれど、言葉にはならない。このくるみという人を、責める気持ちになれないのだ。今すぐ彼女の赤い頬をひっぱたき、「彼女がいると知っていて転がり込んだ卑しい女」と罵ることができれば、私はこのモヤモヤした気持ちから解放されるだろう。くるみが飲んでいるビールのジョッキを奪って、頭からそれをかけてやれたなら、私は今よりもっと楽になれるはずなのに。
 そんなことを考えているうちに、くるみは二杯目のビールをすっかり飲み干していた。目はもうすでにとろんとしていて、いい具合に酔いが回ったのか、気持ちよさそうにニコニコと笑っている。私だけが得体の知れない黒々としたものと戦っているようで、そしてそれが自分には無関係だとでもいうようなくるみの表情に、私はますます苛立つ。
「私も飲みたい、ビール」
 タブレットを握ると、張り合うように「私ももう一杯!」とくるみが空のジョッキを私に差し出す。私が「だめ」と言うと一周ムッと顔をしかめたが、すぐにへらへらと笑った。