電話をかけようか迷っているときは死ぬほど緊張していても、いざ通話ボタンを押すと存外冷静になれるものだ。これならとっとと覚悟を決めればよかったと、今になって思う。
樹との別れ際、私は「最後のお願い」と称してくるみの携帯番号を訊いた。元カレの元カノと、それも破局の原因となった相手と連絡をとるなんてあり得ないことだけれど、まあそれは今に始まったことではないと思い直し、私は会いに行くことを決めた。
はじめて会った日に訪れたファミレス。あの日と同じ席。それでも窓の外は以前とは様変わりで、木の葉は皆一様に黄色に染まっている。三ヶ月ぶりに会ったくるみは心なしか痩せていて、あの華やかな笑顔は見る影もない。
「あんたのせいで、樹と別れる羽目になったんだけど」
無遠慮な私の言葉に、くるみは眉尻をグッと下げて「ごめんなさい」と首を垂れる。もう一度会ったあかつきには口酸っぱくつついてやろうと思っていたけれど、くるみの表情を見てそんな気はすっかり失せ、それどころか罪悪感さえも湧いて出てきた。
「うそ。いや、うそではないけど。でもくるみだけのせいじゃない。あのままじゃあ潰れてた。私も樹も」
くるみが困ったような表情で私を見つめる。
「元気……だったわけないか。……この三ヶ月ちょっと、なにしてた?」
「……あの家では暮らせないから、引越した。あとは、噂とかいろいろ広まっちゃったから、バイトもやめた。今は、なんにもしてない」
「そっか。体は大丈夫なの?」
「うん、大丈夫」
「ひとりで住んでるの?」
「うん」
「落ち着いた?」
「……元カレ、生活費は全部払ってくれてたからさ、バイト代と、仕事してたころのお金はそのまま貯金してたんだ。だから今のところは大丈夫。まあ、長くはもたないだろうからなにかしなくちゃ、とは思ってる」
「ふうん」
「今日はどうして……?」
くるみが気になるのはそこだろう。くるみにとって私は、恨まれるような相手ではあっても、こうしてお茶をするような関係ではないのだ。まあそれは、今に始まったことではないのだけれど。
「樹からさ、連絡あった?」
「あ……うん。何度か電話きたよ。でも出てないや」
「なんで?」
「だって……」
「別れたよ?」
「うん……でもそれだけじゃなくて。なんていうか、電話に出ちゃったら、またおんなじことになっちゃう気がして」
「おんなじこと?」
「私、やっぱり最低なんだよ。たとえ、誰かが私のことを好きって言ってくれたとしても、私は言えない。言うだけなら簡単だけど、ちゃんとした気持ちでは言えない。結局私はまた、その人の好意に甘えるだけ。そんでまた、こうなっちゃう」
くるみのなにもかも諦めたような口ぶりに、私は意を決して言う。
「ねえ、あんたの実家行こう」
「え?」
「今から」
「えっ、なんで?」
「実は今日、はじめから誘うつもりだったんだ」
「まってまって、どういうこと?」
「私が言うのもなんだけど、くるみがいつも一人ぼっちなのは、愛してくれる人を身代わりにしてるからなんじゃない?」
「身代わり……?」
「そう。愛されたい人に愛してもらえなくて、その人といつまでも訣別できないから、他の人で穴を埋めようとしてる」
くるみは首を傾げる。
「くるみが愛したいのは、愛されたい相手は、お母さんなんじゃないの?」
「え、なんでそうなるの。違うよ。別にそんなんじゃないって。前に話したじゃん。私のママは、パパに捨てられてからおかしくなって、それで――」
「それで、寂しかった」
この三か月、ずっとくるみのことを考えてきた。今なにをしているのか、どんなふうに過ごしているのかを想像した。想像のなかのくるみは、いつもさみしそうだった。私はどうにかして、くるみを助けたいと思うようになった。そして今日この瞬間こそが、その答えなのだ。
「ママと同じなんじゃないの? 好きでもない人と付き合うようになったのはママみたいになりたくないからじゃなくて、ママから愛してもらえなくなって、寂しかったからじゃないの?」
「違うよ! だってママは、母親として最低な人なんだよ! そんな人に……私は……」
くるみの目から涙が溢れ落ちる。
「ねえ、会いに行こうよ。それで、ちゃんと伝えようよ。今までのこと、苦しかったこと」
「……ママ、なにも言わないと思うよ」
「そしたらもう、終わりにしよう」
「できるかな」
「できるよ。私だってできたんだから」
「……一緒に来てくれる?」
「ま、言い出しっぺだしね」
くるみの方へまわり、手を取る。その手を、くるみがきつく握り返す。
「あーあ。なんでこんなに優しいんだろう、私」
「ほんとに」
「……まあ、くるみの料理、また食べたかったし」
「あっ、餌付け成功してた?」
くるみが笑う。私はもうとっくに、くるみという存在に取り憑かれてしまっているのだ。本当に、不思議な人だ。
日がすっかり短くなって、店の外は夕焼けに染まっていた。冷気をはらんだ横風がすうっと私たちの間を吹き抜け、背筋が伸びる。
「さあ、行こう」
くるみの実家に寄って、帰るころにはもう夜になっているだろう。そしてその夜が明けさえすれば、私たちはますます強くなれる。暗闇から光に代わる、そんな美しい朝を迎えられる。そんな気がした。
樹との別れ際、私は「最後のお願い」と称してくるみの携帯番号を訊いた。元カレの元カノと、それも破局の原因となった相手と連絡をとるなんてあり得ないことだけれど、まあそれは今に始まったことではないと思い直し、私は会いに行くことを決めた。
はじめて会った日に訪れたファミレス。あの日と同じ席。それでも窓の外は以前とは様変わりで、木の葉は皆一様に黄色に染まっている。三ヶ月ぶりに会ったくるみは心なしか痩せていて、あの華やかな笑顔は見る影もない。
「あんたのせいで、樹と別れる羽目になったんだけど」
無遠慮な私の言葉に、くるみは眉尻をグッと下げて「ごめんなさい」と首を垂れる。もう一度会ったあかつきには口酸っぱくつついてやろうと思っていたけれど、くるみの表情を見てそんな気はすっかり失せ、それどころか罪悪感さえも湧いて出てきた。
「うそ。いや、うそではないけど。でもくるみだけのせいじゃない。あのままじゃあ潰れてた。私も樹も」
くるみが困ったような表情で私を見つめる。
「元気……だったわけないか。……この三ヶ月ちょっと、なにしてた?」
「……あの家では暮らせないから、引越した。あとは、噂とかいろいろ広まっちゃったから、バイトもやめた。今は、なんにもしてない」
「そっか。体は大丈夫なの?」
「うん、大丈夫」
「ひとりで住んでるの?」
「うん」
「落ち着いた?」
「……元カレ、生活費は全部払ってくれてたからさ、バイト代と、仕事してたころのお金はそのまま貯金してたんだ。だから今のところは大丈夫。まあ、長くはもたないだろうからなにかしなくちゃ、とは思ってる」
「ふうん」
「今日はどうして……?」
くるみが気になるのはそこだろう。くるみにとって私は、恨まれるような相手ではあっても、こうしてお茶をするような関係ではないのだ。まあそれは、今に始まったことではないのだけれど。
「樹からさ、連絡あった?」
「あ……うん。何度か電話きたよ。でも出てないや」
「なんで?」
「だって……」
「別れたよ?」
「うん……でもそれだけじゃなくて。なんていうか、電話に出ちゃったら、またおんなじことになっちゃう気がして」
「おんなじこと?」
「私、やっぱり最低なんだよ。たとえ、誰かが私のことを好きって言ってくれたとしても、私は言えない。言うだけなら簡単だけど、ちゃんとした気持ちでは言えない。結局私はまた、その人の好意に甘えるだけ。そんでまた、こうなっちゃう」
くるみのなにもかも諦めたような口ぶりに、私は意を決して言う。
「ねえ、あんたの実家行こう」
「え?」
「今から」
「えっ、なんで?」
「実は今日、はじめから誘うつもりだったんだ」
「まってまって、どういうこと?」
「私が言うのもなんだけど、くるみがいつも一人ぼっちなのは、愛してくれる人を身代わりにしてるからなんじゃない?」
「身代わり……?」
「そう。愛されたい人に愛してもらえなくて、その人といつまでも訣別できないから、他の人で穴を埋めようとしてる」
くるみは首を傾げる。
「くるみが愛したいのは、愛されたい相手は、お母さんなんじゃないの?」
「え、なんでそうなるの。違うよ。別にそんなんじゃないって。前に話したじゃん。私のママは、パパに捨てられてからおかしくなって、それで――」
「それで、寂しかった」
この三か月、ずっとくるみのことを考えてきた。今なにをしているのか、どんなふうに過ごしているのかを想像した。想像のなかのくるみは、いつもさみしそうだった。私はどうにかして、くるみを助けたいと思うようになった。そして今日この瞬間こそが、その答えなのだ。
「ママと同じなんじゃないの? 好きでもない人と付き合うようになったのはママみたいになりたくないからじゃなくて、ママから愛してもらえなくなって、寂しかったからじゃないの?」
「違うよ! だってママは、母親として最低な人なんだよ! そんな人に……私は……」
くるみの目から涙が溢れ落ちる。
「ねえ、会いに行こうよ。それで、ちゃんと伝えようよ。今までのこと、苦しかったこと」
「……ママ、なにも言わないと思うよ」
「そしたらもう、終わりにしよう」
「できるかな」
「できるよ。私だってできたんだから」
「……一緒に来てくれる?」
「ま、言い出しっぺだしね」
くるみの方へまわり、手を取る。その手を、くるみがきつく握り返す。
「あーあ。なんでこんなに優しいんだろう、私」
「ほんとに」
「……まあ、くるみの料理、また食べたかったし」
「あっ、餌付け成功してた?」
くるみが笑う。私はもうとっくに、くるみという存在に取り憑かれてしまっているのだ。本当に、不思議な人だ。
日がすっかり短くなって、店の外は夕焼けに染まっていた。冷気をはらんだ横風がすうっと私たちの間を吹き抜け、背筋が伸びる。
「さあ、行こう」
くるみの実家に寄って、帰るころにはもう夜になっているだろう。そしてその夜が明けさえすれば、私たちはますます強くなれる。暗闇から光に代わる、そんな美しい朝を迎えられる。そんな気がした。



