それから何日かして、くるみが事件に巻き込まれたというニュースを見た。あの日からくるみが樹の前に姿を現すことは一度もなく、私の生活は、何事もなかったかのように元に戻ったはずだった。午後から天気が崩れるという予報を見て、家でまったりしようと樹と話していた矢先。つけっぱなしのテレビからこぼれるくるみの名前。私も樹もものすごい勢いでテレビに目をやった。
くるみは、彼氏のもとへ戻った。このまま彼氏と一緒にいてはいけない、そう思って家を出ただろうに、くるみは結局戻った。樹に頼ろうと思ったけど、私がいたから、戻ったのだろう。寂しい、一人になるのが怖い、くるみはそう言っていた。いつかのニュースを見て「逃げられない」と言ったくるみの声が、頭の中で反芻する。くるみは逃げられなかったのだ。くるみは、付き合っていた二十七歳の男に刺された。幸い命に別状はないが重傷を負ったと、ニュースで見た。男は逮捕された。
そのニュースを見た途端、樹はスマホを取り出し、なんの迷いもなくキーパッドに数字を打ち込んだ。スマホを耳にぎゅっと押し当て、くるみの声を待っている。拭えたはずの不安が再び私を襲い、底知れぬ闇をのぞき込んだような気持になる。
「出ない」
樹が電話を切る。
「番号、覚えてるんだ」
「え? あ、うん……」
「そうなんだ」
沈黙が流れる。それに耐えられなくなった樹が無理に言葉を探し重ねる。
「あ、でも別に、好きだからとかそんなんじゃないからね。ただほら、昔付き合ってた人だし、こんなニュース見ちゃったら、気にはなるでしょ。だから一応ね」
語尾がだんだんと小さくなり、樹はもにょもにょと口を動かしている。
「ふうん。……でも、仕方ないんじゃないかな」
「え?」
「あの子、彼氏の気持ちを利用してたんだから」
「どういうこと?」
「好きでもないのに付き合ってたんだって。単に寂しいからって。そういうのってさ、わかるじゃん。透けて見えるっていうのかな。ああ、この人私のこと好きじゃないんだなって。さすがに刺すのはアウトだけど、でも、彼氏もつらかったんじゃないかな」
「なにそれ。ていうか、なんでそんなこと知ってるの」
「聞いたから。孤独を埋めるために人の好意を利用したこと。樹と付き合ってたときもそうだったって。でもその結果暴力を振るわれるようになったって、可哀想だけど、ちょっと自業自得なところあるよね。でも仕方ないって、彼女も言ってたよ。罰が当たったんだって。だから、戻ったんだろうね」
いつもみたいに、私の機嫌を伺うように、「そうだね」と賛同してほしかった。でもそんな期待は散らばっていく。
「なんで?」
彼の声色には、怒りがこもっている。
「なんでって?」
「それを知ってて、なんで止めてあげなかったの?」
「止めるって、なにを?」
「戻っちゃだめだって」
「私が言ったところで、どうなるわけ?」
「それは、わかんないけど、でも言ってあげるだけで」
言いかけた樹の口を、唇で塞ぐ。樹は一瞬目を真ん丸にして、でもすぐに信じられないといった様子で顔をゆがめる。
「樹こそなんで?」
「え?」
「なんでそんなに元カノに固執するの? 今付き合ってるのは誰? 私でしょ? なんで私にこんな思いさせるの? くるみのことなんて、樹にはもう関係ないじゃん。おかしいって思わないの?」
「それは」と言ったきり、樹は俯き何も言い返せないでいる。
「樹、くるみのこと好きなんでしょ」
樹は顔を上げ、「そんなことない」と力強く言う。
「あるでしょ」
「ない! それはほんとに違うって」
もう聞いていたくない、と強く思った。
「私が初めてくるみと会った日、くるみ、樹と寝ようと思ってたんだって。くるみはまた樹を利用しようとした。それができるって、バレてるんだよ。くるみにも、私にも」
樹はぐっと唇を噛み締め、私が「ねえ」と急かすと、樹は絞り出すように「ごめん」と言う。心がすうっと冷たくなっていくのを感じる。莉子の影がちらつき、申し訳なく思う。私は今はじめて、私の友達は私のことを一番に考えてくれていたのだと気づく。それと同時に私は、絶対に口にすることはないと思っていた言葉を投げつけていた。
その言葉に、樹が顔を上げる。なにを言われたのかわからないのだろうか、驚いたのであろうその表情は、ぽっかりと穴が空いているようだった。
「樹のことは、今でもどうしようもないくらい好き。でも私、好きな人を殺そうとするほど狂いたくない。くるみみたいにもなりたくない。それに、樹がどんなにくるみを好きでも、くるみは私のようには人を愛せないし、二人がうまくいくわけないって思える」
「だからもういい」と強く言い、そしてもう一度「別れよう」と繰り返したときには、樹は泣いていた。
「なんでそっちが泣くかな」
そういう私も、樹に負けないくらい泣いていた。まったく、私たちは似たもの同士だ。こういうときにつられて泣いてしまう私の弱さが、樹の嘘をこんなにも大きく育ててしまったのかもしれない。それでもいまこの涙は、樹の嘘を綺麗に流してくれる。
「ほんと最悪」
私はありったけの力を込めて、できるだけいやみったらしく言った。そうしてもなお、私は私のなかで育ちすぎてしまった樹への愛情を捨てきれない。《《怖い夢》》を見ているだけだと、あの日とは違うだれかがささやく。樹の両腕が私のほうへ伸びてくる。その腕の中にすっぽりと収まってしまえば、私はまた樹を許してしまうだろう。それじゃあ誰も変われないままだ。
私は樹の手をとって、私からそっと引き離す。
「樹、やめて」
「天音ちゃん、本当に別れるの?」
なんてずるい人なんだろう。樹は最後まで私まかせだ。私がここで「やっぱり別れない」と言えば、本当にそうなるんだろう。くるみに別れると言われたときはどうだったんだろうと考えて、すぐにやめた。
「うん、別れるよ」
「天音ちゃん……」
私はこんなに好きなのに、終わりにするのは、私。そのことが、私にはたまらなくつらかった。好きな人がいるから別れたい。今までずっと、そう言われるのを怖がってきた。でも、言われた方が何百倍も楽だったかもしれないと、今では思う。
「ねえ樹。お詫びとして、最後のお願い、聞いてほしい」
それでも、私はこれでちょっとは変われるんじゃないか。みんな、少しはまともに動き出せるんじゃないか。私は祈るような気持ちで樹を見据えた。
くるみは、彼氏のもとへ戻った。このまま彼氏と一緒にいてはいけない、そう思って家を出ただろうに、くるみは結局戻った。樹に頼ろうと思ったけど、私がいたから、戻ったのだろう。寂しい、一人になるのが怖い、くるみはそう言っていた。いつかのニュースを見て「逃げられない」と言ったくるみの声が、頭の中で反芻する。くるみは逃げられなかったのだ。くるみは、付き合っていた二十七歳の男に刺された。幸い命に別状はないが重傷を負ったと、ニュースで見た。男は逮捕された。
そのニュースを見た途端、樹はスマホを取り出し、なんの迷いもなくキーパッドに数字を打ち込んだ。スマホを耳にぎゅっと押し当て、くるみの声を待っている。拭えたはずの不安が再び私を襲い、底知れぬ闇をのぞき込んだような気持になる。
「出ない」
樹が電話を切る。
「番号、覚えてるんだ」
「え? あ、うん……」
「そうなんだ」
沈黙が流れる。それに耐えられなくなった樹が無理に言葉を探し重ねる。
「あ、でも別に、好きだからとかそんなんじゃないからね。ただほら、昔付き合ってた人だし、こんなニュース見ちゃったら、気にはなるでしょ。だから一応ね」
語尾がだんだんと小さくなり、樹はもにょもにょと口を動かしている。
「ふうん。……でも、仕方ないんじゃないかな」
「え?」
「あの子、彼氏の気持ちを利用してたんだから」
「どういうこと?」
「好きでもないのに付き合ってたんだって。単に寂しいからって。そういうのってさ、わかるじゃん。透けて見えるっていうのかな。ああ、この人私のこと好きじゃないんだなって。さすがに刺すのはアウトだけど、でも、彼氏もつらかったんじゃないかな」
「なにそれ。ていうか、なんでそんなこと知ってるの」
「聞いたから。孤独を埋めるために人の好意を利用したこと。樹と付き合ってたときもそうだったって。でもその結果暴力を振るわれるようになったって、可哀想だけど、ちょっと自業自得なところあるよね。でも仕方ないって、彼女も言ってたよ。罰が当たったんだって。だから、戻ったんだろうね」
いつもみたいに、私の機嫌を伺うように、「そうだね」と賛同してほしかった。でもそんな期待は散らばっていく。
「なんで?」
彼の声色には、怒りがこもっている。
「なんでって?」
「それを知ってて、なんで止めてあげなかったの?」
「止めるって、なにを?」
「戻っちゃだめだって」
「私が言ったところで、どうなるわけ?」
「それは、わかんないけど、でも言ってあげるだけで」
言いかけた樹の口を、唇で塞ぐ。樹は一瞬目を真ん丸にして、でもすぐに信じられないといった様子で顔をゆがめる。
「樹こそなんで?」
「え?」
「なんでそんなに元カノに固執するの? 今付き合ってるのは誰? 私でしょ? なんで私にこんな思いさせるの? くるみのことなんて、樹にはもう関係ないじゃん。おかしいって思わないの?」
「それは」と言ったきり、樹は俯き何も言い返せないでいる。
「樹、くるみのこと好きなんでしょ」
樹は顔を上げ、「そんなことない」と力強く言う。
「あるでしょ」
「ない! それはほんとに違うって」
もう聞いていたくない、と強く思った。
「私が初めてくるみと会った日、くるみ、樹と寝ようと思ってたんだって。くるみはまた樹を利用しようとした。それができるって、バレてるんだよ。くるみにも、私にも」
樹はぐっと唇を噛み締め、私が「ねえ」と急かすと、樹は絞り出すように「ごめん」と言う。心がすうっと冷たくなっていくのを感じる。莉子の影がちらつき、申し訳なく思う。私は今はじめて、私の友達は私のことを一番に考えてくれていたのだと気づく。それと同時に私は、絶対に口にすることはないと思っていた言葉を投げつけていた。
その言葉に、樹が顔を上げる。なにを言われたのかわからないのだろうか、驚いたのであろうその表情は、ぽっかりと穴が空いているようだった。
「樹のことは、今でもどうしようもないくらい好き。でも私、好きな人を殺そうとするほど狂いたくない。くるみみたいにもなりたくない。それに、樹がどんなにくるみを好きでも、くるみは私のようには人を愛せないし、二人がうまくいくわけないって思える」
「だからもういい」と強く言い、そしてもう一度「別れよう」と繰り返したときには、樹は泣いていた。
「なんでそっちが泣くかな」
そういう私も、樹に負けないくらい泣いていた。まったく、私たちは似たもの同士だ。こういうときにつられて泣いてしまう私の弱さが、樹の嘘をこんなにも大きく育ててしまったのかもしれない。それでもいまこの涙は、樹の嘘を綺麗に流してくれる。
「ほんと最悪」
私はありったけの力を込めて、できるだけいやみったらしく言った。そうしてもなお、私は私のなかで育ちすぎてしまった樹への愛情を捨てきれない。《《怖い夢》》を見ているだけだと、あの日とは違うだれかがささやく。樹の両腕が私のほうへ伸びてくる。その腕の中にすっぽりと収まってしまえば、私はまた樹を許してしまうだろう。それじゃあ誰も変われないままだ。
私は樹の手をとって、私からそっと引き離す。
「樹、やめて」
「天音ちゃん、本当に別れるの?」
なんてずるい人なんだろう。樹は最後まで私まかせだ。私がここで「やっぱり別れない」と言えば、本当にそうなるんだろう。くるみに別れると言われたときはどうだったんだろうと考えて、すぐにやめた。
「うん、別れるよ」
「天音ちゃん……」
私はこんなに好きなのに、終わりにするのは、私。そのことが、私にはたまらなくつらかった。好きな人がいるから別れたい。今までずっと、そう言われるのを怖がってきた。でも、言われた方が何百倍も楽だったかもしれないと、今では思う。
「ねえ樹。お詫びとして、最後のお願い、聞いてほしい」
それでも、私はこれでちょっとは変われるんじゃないか。みんな、少しはまともに動き出せるんじゃないか。私は祈るような気持ちで樹を見据えた。



