「おかえり、はやかったねえ」
私のトレーナーを着たくるみが出迎える。ついまじまじと見つめていると、くるみが慌てて口を開く。
「あ、ごめんね、服借りた」
「……別にいいけど。暑くないの? 半袖もあるよ」
「いいのいいの」と笑うくるみを横目にキッチンに足を踏み入れると、玉ねぎが煮詰められたような香りが鼻いっぱいに広がる。
「なに作ってるの」
「ふふ、なんでしょう」
四畳ほどの狭いキッチンに二人並ぶ。二口コンロの片方ではきれいに形を整えられた生の肉がふたつ仲良くフライパンに並んでいて、もう片方ではじゃがいもとにんじんが弱火でぐつぐつと煮詰められている。
「あとは焼くだけ。もうちょっとだから、ゆっくりしてて」
うん、とぬるく返事をして洗面所で手を洗い、部屋へ向かう。無造作に鞄を置いて、そのそばに腰を下ろし、なんとなくテレビをつけた。そこでは、連日メディアを騒がせている殺人事件のニュースが取り上げられていた。若いニュースキャスターはなんの感情もなさそうに、淡々と事実を読み上げている。
「これ、今朝のニュースでもやってたよ。殺されちゃった男の人、何人もの女の人と遊んでて、そのうちの一人とマンションから出てくるところを狙ってた彼女が、ぐさっと。刺された女の子はなんとか助かったけど、彼氏は死んじゃった」
「……へぇ」
なんとも笑えない話だ。くるみは人ごとのように、ケタケタと笑っている。
「逃げられなかったね」
「え? 犯人、逃げてたの?」
「いや、その場ですぐ捕まってる。殺されちゃった男の人が、逃げられなかったってこと。」
「どういうこと?」
「ええ? うーん。悪いことしたら、それなりの報いが返ってくるってことかな」
「ああ。まあ、そうだね」
「逃げてみたって、逃げられないんだぞぉ」
それは、殺された男を茶化すような、同情するような、悲しいような、どうでもいいことみたいに繕うような、なにか含みのある物言いだった。
「さ、できたよ。食べよ食べよ!」
くるみはテレビをバチっと消し、「お皿運ぶの手伝って」とつけ加えてキッチンに戻る。大人しく立ち上がって、できたてのハンバーグと白いご飯、熱々のポトフを運び、箸を二膳、テーブルにつけた。
いただきます、と手を合わせ、口へ運んだ。くるみが「どう?」とこちらをのぞき込んでいる。美味しい、と言うのはなんだか癪なので、うん、と頷くだけで誤魔化す。
「よかったあ。今日は時間かけて作ったからさあ、自信はあったんだけどね。よかったよかった、喜んでもらえて」
その笑顔を見て、なんていうか――私は考える。
くるみは憎むべき相手で、そんな人と食事をしていることはとんでもなく異常なことなのだが、そう思わせないくらい、くるみはこの場に適応している。ほんの小さな埃が知らないうちに部屋の隅にたまっていって、でも掃除するほどではないかと思いながら暮らしていくような。この部屋には、そういう空気が流れている。
「料理、するんだね」
「まあね! 私、昔からいつも家で一人ぼっちだったから、うまくなるしかなかったんだあ」
「へえ。親が仕事で?」
いや、まあ、と、くるみは言葉を濁す。一瞬微妙な雰囲気が漂い、地雷を踏んだと思ったが、くるみは続けた。
「パパ、会社の若い女の人と不倫してさあ、その人と結婚するから別れてほしいってママに言ったの。そしたらママ、大激怒。もう手もつけられなくなるほど怒っちゃって。絶対別れない、幸せになんかさせてやらないって、怒って暴れてもう大変。そうしたらパパ、ますますウチに寄り付かなくなっちゃって、ママも、夜出かけるようになった。たぶん、男の人と会ってたんだろうね。酔っ払ってルンルンで帰ってきたと思ったら、次の日には泣いて帰ってきて、家でもまたお酒飲みながら、なんでなのよ、なんで私がこんな思いしなくちゃいけないのよ。なんで、なんでって繰り返して、パパの写真とか服とかビリビリにしてた。なんていうかママは、そういう人なんだよ。だから私、ママみたいになりたくないって――人を本気で好きになって、裏切られて喚くような人になりたくないって思ったんだ」
くるみはこれまでになく饒舌に、そのときのことを語りだす。聞いてほしいんだ、と直感的に思う。
「ちょうどママが夜出かけるようになったころ、いっくんと付き合ったの。私、いつもひとりだったから、ひとりじゃなくなると思って、それで付き合った。はじめはそれだけだったんだけど、いっくん、私がなに作ってもおいしいおいしいって喜んでくれてね、そのときはじめて、料理できてよかった、《《こんな家》》でよかったって思ったんだ」
料理にほとんど手を付けないまま、くるみは立ち上がって私の真横にしゃがみ込み、頭をそっと私の肩に乗せた。
「私ね、ものすごく幸せだったんだ。好きっていっぱい言ってくれて、なにしても喜んでくれて。でもそのうち、人気のあるいっくん見てたら怖くなっちゃって。いつもまわりにお友達いっぱいいて、家族とも仲良さそうだったからさあ。私のことなんか、いらなくなっちゃうんじゃないかなって。羨ましくもあったんだと思う。女の子と話してるの見て、泣いたり、責めたり。そんなことしてたら当然、困らせちゃって。そのときのかあくんの顔見たら、なんか、気持ちがすうっと遠くなった。あ、やっちゃった、って。私、結局ママみたいになってるって。それで、卒業前に私のほうから振ったんだあ」
ごめんねこんなこと、とくるみは小さく言う。くるみも、この妙な空気間にあてられているのだろう。
「別れてしばらくは悲しかったけど、でもそんなことすぐに忘れて、卒業してすぐ、会社の先輩と付き合った。その人の事もそんなに好きじゃなかったけど、告白してくれたから、まあいっかって。はじめはよかったよ。職場でも家でもずっと一緒で、私は一人ぼっちじゃないって思えた。でもね、しばらくしたら、その人めちゃくちゃ変わっちゃって。束縛はするし、なにかあるとすぐ怒るしで、ほんと参ったよ。でもね、罰が当たったんだって思った」
「罰?」
くるみはゆっくり体を起こし、長袖を裾を肩まで引き上げ、二の腕を前に出す。その細くて白い腕には、渋く黒ずんだ痛々しいあざがいくつもあって、私は息を呑む。
「人の気持ちを利用した罰」
「利用したって?」
「寂しさを埋めるために」
くるみは腕をしまい、私を見てはふっと笑う。
「変なかお」
「いや、だって」
「いいんだよ、別に」
私の声に、くるみが被せる。
「私が悪いんだから」
そう言ってくるみは向き直り、私の目をじっと見る。
「あーちゃん」
「ん?」
「私、あーちゃんに謝らなきゃいけないことがある」
「え、なに?」
「私ね、昨日、いっくんとどうにかなっちゃいたいって思ってた」
言葉が詰まり、声が出ない。驚いたわけじゃないし、ショックというわけでもない。そうだろうな、と思った。
「……なんで私に言おうと思ったの?」
「うーん……わかんない」
くるみは私の肩を掴み、その手の甲に自分の額を押し当てるようにして私に縋る。なんでそっちが泣くかな。その言葉は、くるみの涙に虚しくさらわれていく。くるみが鼻をすする音だけが、部屋に響いていた。
翌日、私が目を覚ますと、もうくるみはいなかった。ベッドのすぐ傍に敷いていたはずの布団がきれいに畳まれ、ボストンバックもない。テーブルの上に、ありがとうと書かれたメモだけが残されていた。それが意味することを繰り返し繰り返し、私は考えた。くるみがどこへ行ったのかはわからない。彼氏のもとか、それとも別の男の人のところか。
「樹……」
朝八時。樹の家を訪ねる。樹は今起きましたといった具合に寝癖が立っていて、目はとろんと微睡んでいる。それを誤魔化すように目をこすりながら、優しい声で私の名前を呼ぶ。玄関から樹越しに部屋を覗く。そこにくるみはいなかった。
「天音ちゃん、どうしたの」
私は何も言わず、樹をぎゅっと抱きしめる。これでくるみはもう二度と樹のもとへ戻らない、そんな気がした。
私のトレーナーを着たくるみが出迎える。ついまじまじと見つめていると、くるみが慌てて口を開く。
「あ、ごめんね、服借りた」
「……別にいいけど。暑くないの? 半袖もあるよ」
「いいのいいの」と笑うくるみを横目にキッチンに足を踏み入れると、玉ねぎが煮詰められたような香りが鼻いっぱいに広がる。
「なに作ってるの」
「ふふ、なんでしょう」
四畳ほどの狭いキッチンに二人並ぶ。二口コンロの片方ではきれいに形を整えられた生の肉がふたつ仲良くフライパンに並んでいて、もう片方ではじゃがいもとにんじんが弱火でぐつぐつと煮詰められている。
「あとは焼くだけ。もうちょっとだから、ゆっくりしてて」
うん、とぬるく返事をして洗面所で手を洗い、部屋へ向かう。無造作に鞄を置いて、そのそばに腰を下ろし、なんとなくテレビをつけた。そこでは、連日メディアを騒がせている殺人事件のニュースが取り上げられていた。若いニュースキャスターはなんの感情もなさそうに、淡々と事実を読み上げている。
「これ、今朝のニュースでもやってたよ。殺されちゃった男の人、何人もの女の人と遊んでて、そのうちの一人とマンションから出てくるところを狙ってた彼女が、ぐさっと。刺された女の子はなんとか助かったけど、彼氏は死んじゃった」
「……へぇ」
なんとも笑えない話だ。くるみは人ごとのように、ケタケタと笑っている。
「逃げられなかったね」
「え? 犯人、逃げてたの?」
「いや、その場ですぐ捕まってる。殺されちゃった男の人が、逃げられなかったってこと。」
「どういうこと?」
「ええ? うーん。悪いことしたら、それなりの報いが返ってくるってことかな」
「ああ。まあ、そうだね」
「逃げてみたって、逃げられないんだぞぉ」
それは、殺された男を茶化すような、同情するような、悲しいような、どうでもいいことみたいに繕うような、なにか含みのある物言いだった。
「さ、できたよ。食べよ食べよ!」
くるみはテレビをバチっと消し、「お皿運ぶの手伝って」とつけ加えてキッチンに戻る。大人しく立ち上がって、できたてのハンバーグと白いご飯、熱々のポトフを運び、箸を二膳、テーブルにつけた。
いただきます、と手を合わせ、口へ運んだ。くるみが「どう?」とこちらをのぞき込んでいる。美味しい、と言うのはなんだか癪なので、うん、と頷くだけで誤魔化す。
「よかったあ。今日は時間かけて作ったからさあ、自信はあったんだけどね。よかったよかった、喜んでもらえて」
その笑顔を見て、なんていうか――私は考える。
くるみは憎むべき相手で、そんな人と食事をしていることはとんでもなく異常なことなのだが、そう思わせないくらい、くるみはこの場に適応している。ほんの小さな埃が知らないうちに部屋の隅にたまっていって、でも掃除するほどではないかと思いながら暮らしていくような。この部屋には、そういう空気が流れている。
「料理、するんだね」
「まあね! 私、昔からいつも家で一人ぼっちだったから、うまくなるしかなかったんだあ」
「へえ。親が仕事で?」
いや、まあ、と、くるみは言葉を濁す。一瞬微妙な雰囲気が漂い、地雷を踏んだと思ったが、くるみは続けた。
「パパ、会社の若い女の人と不倫してさあ、その人と結婚するから別れてほしいってママに言ったの。そしたらママ、大激怒。もう手もつけられなくなるほど怒っちゃって。絶対別れない、幸せになんかさせてやらないって、怒って暴れてもう大変。そうしたらパパ、ますますウチに寄り付かなくなっちゃって、ママも、夜出かけるようになった。たぶん、男の人と会ってたんだろうね。酔っ払ってルンルンで帰ってきたと思ったら、次の日には泣いて帰ってきて、家でもまたお酒飲みながら、なんでなのよ、なんで私がこんな思いしなくちゃいけないのよ。なんで、なんでって繰り返して、パパの写真とか服とかビリビリにしてた。なんていうかママは、そういう人なんだよ。だから私、ママみたいになりたくないって――人を本気で好きになって、裏切られて喚くような人になりたくないって思ったんだ」
くるみはこれまでになく饒舌に、そのときのことを語りだす。聞いてほしいんだ、と直感的に思う。
「ちょうどママが夜出かけるようになったころ、いっくんと付き合ったの。私、いつもひとりだったから、ひとりじゃなくなると思って、それで付き合った。はじめはそれだけだったんだけど、いっくん、私がなに作ってもおいしいおいしいって喜んでくれてね、そのときはじめて、料理できてよかった、《《こんな家》》でよかったって思ったんだ」
料理にほとんど手を付けないまま、くるみは立ち上がって私の真横にしゃがみ込み、頭をそっと私の肩に乗せた。
「私ね、ものすごく幸せだったんだ。好きっていっぱい言ってくれて、なにしても喜んでくれて。でもそのうち、人気のあるいっくん見てたら怖くなっちゃって。いつもまわりにお友達いっぱいいて、家族とも仲良さそうだったからさあ。私のことなんか、いらなくなっちゃうんじゃないかなって。羨ましくもあったんだと思う。女の子と話してるの見て、泣いたり、責めたり。そんなことしてたら当然、困らせちゃって。そのときのかあくんの顔見たら、なんか、気持ちがすうっと遠くなった。あ、やっちゃった、って。私、結局ママみたいになってるって。それで、卒業前に私のほうから振ったんだあ」
ごめんねこんなこと、とくるみは小さく言う。くるみも、この妙な空気間にあてられているのだろう。
「別れてしばらくは悲しかったけど、でもそんなことすぐに忘れて、卒業してすぐ、会社の先輩と付き合った。その人の事もそんなに好きじゃなかったけど、告白してくれたから、まあいっかって。はじめはよかったよ。職場でも家でもずっと一緒で、私は一人ぼっちじゃないって思えた。でもね、しばらくしたら、その人めちゃくちゃ変わっちゃって。束縛はするし、なにかあるとすぐ怒るしで、ほんと参ったよ。でもね、罰が当たったんだって思った」
「罰?」
くるみはゆっくり体を起こし、長袖を裾を肩まで引き上げ、二の腕を前に出す。その細くて白い腕には、渋く黒ずんだ痛々しいあざがいくつもあって、私は息を呑む。
「人の気持ちを利用した罰」
「利用したって?」
「寂しさを埋めるために」
くるみは腕をしまい、私を見てはふっと笑う。
「変なかお」
「いや、だって」
「いいんだよ、別に」
私の声に、くるみが被せる。
「私が悪いんだから」
そう言ってくるみは向き直り、私の目をじっと見る。
「あーちゃん」
「ん?」
「私、あーちゃんに謝らなきゃいけないことがある」
「え、なに?」
「私ね、昨日、いっくんとどうにかなっちゃいたいって思ってた」
言葉が詰まり、声が出ない。驚いたわけじゃないし、ショックというわけでもない。そうだろうな、と思った。
「……なんで私に言おうと思ったの?」
「うーん……わかんない」
くるみは私の肩を掴み、その手の甲に自分の額を押し当てるようにして私に縋る。なんでそっちが泣くかな。その言葉は、くるみの涙に虚しくさらわれていく。くるみが鼻をすする音だけが、部屋に響いていた。
翌日、私が目を覚ますと、もうくるみはいなかった。ベッドのすぐ傍に敷いていたはずの布団がきれいに畳まれ、ボストンバックもない。テーブルの上に、ありがとうと書かれたメモだけが残されていた。それが意味することを繰り返し繰り返し、私は考えた。くるみがどこへ行ったのかはわからない。彼氏のもとか、それとも別の男の人のところか。
「樹……」
朝八時。樹の家を訪ねる。樹は今起きましたといった具合に寝癖が立っていて、目はとろんと微睡んでいる。それを誤魔化すように目をこすりながら、優しい声で私の名前を呼ぶ。玄関から樹越しに部屋を覗く。そこにくるみはいなかった。
「天音ちゃん、どうしたの」
私は何も言わず、樹をぎゅっと抱きしめる。これでくるみはもう二度と樹のもとへ戻らない、そんな気がした。



