今日も、両親の間にはピリついた空気で張り詰められていた。私が、幼い頃から両親は喧嘩することが多く、この光景も見慣れているものだと思ってた。
それなのに、父が出す大きな音が、母が吐く言葉が、怖くてたまらない。二人の間に割って入って、和ませようと努めるが、かえって悪化させる原因になってしまう事もあり、遠目で眺めているしかほかなかった。
いつかは、収まると信じ、ひたすら耐えた。
そして、腑に落ちない逆ギレをされたとしても、邪魔な扱いを受けても、大きい心で許す。これを守れば大丈夫だからと心に言い聞かせる。
おかけで、本音を隠すのが上手くなって、自分の感情を出すのが下手くそになった。
だから、助けてと言える人が欲しいと願った。
「翠〜!」
名前を呼ばれた方を見ると、愛花ちゃんが満面の笑みで、駆け寄ってきてくれていた。
「愛花ちゃんは、今日も相変わらず元気だね」
「そうかな?そう言って貰えて光栄です」
そう言いながら、いつものノリで膝まづこうとしたので、流石に外ではやめてと言い止める。
「今日で私たちも、二年生だね〜」
しみじみした表情を浮かべながら、話す愛花ちゃんに釣られて、一年生の頃の記憶を思い浮かべる。
「あっという間だったね、一年生」
「だよね、直ぐに三年生になっちゃうね!」
「いや、二年生になりたてで、そのセリフ言うのやめてよ!」
私の言葉が終わると同時に、二人顔を見合わせて笑いあう。
「今年も翠と同じクラスがいいな〜!」
「私だって、愛花ちゃんと同じクラスがいいよ」
「もし、万が一離れちゃってもお昼は一緒に食べようね!」
「もちろん、私もそのつもりだよ!」
この他愛のない会話が、私には平和に思えて心が熱くなる。
改めて、友だちという存在のありがたさを、痛感させられる。
「翠、昇降口に着いたね!確認したいけど、人が多くて前が見えない!」
愛花ちゃんの言葉通り、人で溢れた昇降口は近づく事が困難で、収まるまで待つ事しかなかった。
「はい、見た生徒は速やかに校舎に入り、各自クラスへいきなさい」
見兼ねた先生たちが、呼びかけを始め、そのおかげでさっきまで人で溢れ返っていた昇降口が少しずつ開けていく。
「良かった〜、さっきのペースだったら全然私たち見れない所だったよね」
「本当にね、後ろからもめっちゃ押されたし」
「がち、先生に感謝だよね!」
「うん!」
クラス表を目の前にし、謎に緊張してきて生唾を飲む。
「あった!翠は、自分の名前見つけた?」
「まだ、見つけれてないよ。てか、そのあった!って受験の合格発表じゃないんだから」
このやり取りのおかげで、緊張が和らいでいく。
そして、やっと自分の名前を見つけることは出来たが、私たちは綺麗にクラスが離れる結果で幕を閉じた。
「まぁ、そんなに都合良くは行かないよね」
「そうだね。」
家に居場所がない私には、唯一愛花ちゃんといる時間だけが安心できる場所だったのに。
負の考えが頭を駆け巡って、話が上手く耳に入ってこない。
「翠、大丈夫?顔色悪いよ」
「うん、大丈夫だよ!」
無理して笑顔を作り痩せ我慢をして見せるが、内心は大丈夫ではなかった。
「じゃあ、私はここだから。また後でね!」
「うん!」
はぁ、小さく息を吐き、不安な気持ちを落ち着かせる。
下に目を向けたまま、一歩ずつ進む。
その途中、何かと当たり、頭を上げると、鋭い目つきをした男の子と目が合う。そして、首を隠すように、制服の下には、タートルネックを着ていた。
「あっ、すみません。前見てなくて、本当にごめんなさい!」
「...」
「あ、あの」
ただ、見てくるだけの彼に対し、少し恐怖を感じ頭を下げて、その場から立ち去った。
さっきの男の子の目怖かったな。
ぶつかった私が悪いのは、分かってるけど、あそこまで睨まなくても良くない。
なんて事を本人に言える訳もなく、心の中で文句を言った。
私はそのまま席に着き、一人ボーッと一点を見た。間もなくして、教室の扉が開く音がして、何気なく見た。
「!?」
驚きのあまり体が大きく反応してしまう。
さっき廊下でぶつかった男の子だ。
変に焦り、席から思いっきり立ち、誰が見ても彼を避けていることがわかるような行動を取ってしまった。
やっちまった、そう思い周囲を見渡した時には、時すでに遅すぎてしまい、ワイワイしていた空気が静まり返る。
いたたまれなくなり、その場から今すぐにでも逃げたくなったが、逃げたら余計な誤解を招いてしまうと思い、動かずじっとするしかなかった。
でも、皆の視線を辿ると私ではなく、彼の方だった。
そんなクラスの視線お構い無しに、私の隣の席へ座り、机に伏せ寝てしまう。
この状況で寝れる彼の神経を疑いたくもなったが、彼の行動のおかげか、静かになっていた教室が再び賑やかになり、数分前の状況が嘘かと言いたくなるほどだった。
「翠、クラスどうだった?」
「ちょっと怖い男の子がいて、不安になった。」
「出だしにそれは、キツいね。」
「うん。これから一年間どうしよう」
「う〜ん、関わらないのが一番だけどね」
「席が真隣なんだよね」
「すご!逆に運命の人とか!」
面白半分で言ってくる愛花ちゃんに、むっとした表情をする。
「ごめん、ごめん!冗談だって」
「何事もなく、平和に一年過ぎてくれたら私は、それだけで幸せだよ〜」
「まあ、それが一番だよね。」
会話に区切りがついた所で目線を前に移すと、少し前を一人で歩く彼の姿が目に入る。
「愛花ちゃん、あの男の子」
そう言いながら、指をさす。
「どれどれ〜、翠の運命の人はー」
途中、言葉が途切れ横を見る。
「どうしたの?」
「あの子ってさ、一年生の頃に噂になってたくない?」
「そうなの?どんな噂?」
言いにくそうな表情を見て、急に不安に襲われる。
「詳しくは知らないんだけど、幼い頃に事故に巻き込まれて、その事故の原因が彼のお父さんだったらしいのね。でも、その父親は事故で亡くなって、お母さんもそのまま、彼だけが生き残ったんだけど、その代償に声を失ったみたい。その後は、グレて同級生をボコボコにしてたみたいな」
「ちょっと待って、声が出ないの?」
「去年、彼と同じだったクラスの子たちが、そう言ってた」
さっきの彼との出来事を思い返す。
無視をされていたのではなく、声が出なかったから、という理由なら納得がいく。
「なるほど」
「何か納得しちゃってるし。」
「自分の中で腑に落ちた出来事があったから」
「なるほど」
「真似しないでよ!」
「してないもん!」
フッと笑いの息がもれて、二人で声を出して笑った。
そして、体育館へ着き愛花ちゃんと別れ、自分のクラスの並び場所へと向かい歩く。
「皆、順番に並んでけ」
先生の掛け声で、一斉に並び始める生徒たち。
並び終え、隣にいる彼に目をやる。
だが、彼がこちらを見ることはなかった。
そして、始業式は無事に終わり、愛花ちゃんとお話しながら教室へ戻る。
「そういえばさ、さっきクラスの子にコソッと聞いたんだけど、さっき言ってた彼ね、あまり関わらない方が良いって」
その言葉に少しの不安を覚える。
「どうして?」
「さっき、話してた内容が、理由ぽいよ」
「そうなんだ。 」
今回、やばいクラスを当ててしまったのでは、そんなことを考えてるせいで、いつもみたいに笑っての会話が困難になる。
そんな私を見兼ねた愛花ちゃんは、背中にそっと手を置き優しく声をかけてくれた。
「まあ、噂の全てが本当とは限らないし、深く考え過ぎないようにね!教室違えど、友達な訳だし!不安になったり、逃げたくなったら、私の教室にきな!」
「うん、ありがとう」
愛花ちゃんのくれた慰めの言葉のおかげで、不安が和らいでいく。
だから、深く考えることをやめた。
教室へ戻り、自分の席へと向かう。
「ねえ」
「ねえってば!」
二回目の呼び掛けで、ようやく気づき、足を止める。
「さっきさ、あいつに何かされたりした?」
「あいつって、誰ですか?」
「あなたの隣の人」
「いえ、何もされてないです。」
「本当?朝の行動見て、何も無いは信じられないんだけど」
周囲からも視線を感じ、周りを見る。
「本当に何も無いです。私が朝ぶつかったので、謝りたかっただけです。」
それだけ言い残し、彼女たちに背を向けて自分の席へ着き、最悪なクラスに来ちゃったかもと心の中で呟く。
「はい、じゃあみんな席に着いて」
担任の先生が、座ってない子たちに注意をしながら、入室をする。
「じゃあ、皆居るみたいなので軽く先生の自己紹介をさせてもらいます。名前は渡辺太一です。今日から一年間、5組の担任として頑張るので、よろしくお願いします。」
先生の短い自己紹介が終わり、それに対し拍手で応える生徒たち。
「先生は、皆にも自己紹介をして欲しいんだけど、いいかな?嫌な人は挙手」
こういう質問をされて、手をあげれる人がいるなら、大きい拍手で称えてあげたい。
「いないな!よし!」
結局こうなるよねと、心で諦めの声を漏らす。
私にとって、自己紹介そのものが、本当に苦痛でしかない。
何故なら、話してる間、あの少しの時間で皆からの向けられる目が怖いからだ。
他人の心の中が見えないし、分からないからこそ、恐怖を感じる。
そんなことを考えている間にも、ジワジワと、自分の番が迫ってくる。この待機してる時のドキドキ感が、堪らなく大嫌いで、逃げたい。
「ありかとう。じゃあ、次、高橋」
ついに、自分の番が来てしまい、頭の中が真っ白になっていく。
「えっと、はい。高橋翠です。よろしくお願いします」
「はい、ありがとう」
こんな短いセリフでさえも、緊張してしまう自分を呪いたくもなるが、今は何よりも終わったことへの安堵感で、それどころでもなく、一息ついて、ゆっくり腰を下ろした。
「次に、成瀬と言いたいところだが、確か声が出ないんだよな?」
隣の彼を見ると、表情一つ変えることなく頷く。さっきの、寝た時も思ったけど、彼の肝の据わり方は異常だ。
だけど、本当に声が出ないんだ。
「じゃあ、成瀬は飛ばして次」
何を考えているか分からない彼が気になり、その横顔を、ただジーッと見た。
でも、その視線がうるさかったらしく、ムッとした表情をされ、すぐに自分の机に目を移す。
驚きのあまり目逸らしちゃったけど、変な人とか思われてたらどうしよう。
そんなこんなで、進級しての一日目は終了し、帰り支度が出来鞄を肩にかけた。
「翠!一緒に帰ろ!」
名前を呼ばれ、声のした方を見ると、愛花ちゃんが笑顔で手を振り、待ってくれていた。
「迎えに来てくれたの?」
「当たり前じゃん!」
「ありがとう!すごく嬉しい!」
「結構待たせてたよね?ごめんね」
「全然!私も今さっき終わったところだから!」
下駄箱に着くと、丁度靴を履き替えてる彼を見つけた。そして、何となく彼の行動を、目で追ってしまった。
「ねえ、翠もしかして気になってる感じ?」
ただ見てるだけの私の横で、唐突にそんな事を言う愛花ちゃんに対し、体が大きく反応する。
「気になってない!」
「いや、バレバレだよ」
「いや、本当に気になってるとかではないけど」
呆れたような顔でこちらの顔を覗き見てくる。
「けど?」
「けど、何か目で追っちゃうというか」
その発言を聞くや否や悪い笑みで私の顔を見てきた。
「目で追うってことは、それは気になってる証拠だよ」
「そんな事ないよ!」
「進級早々、いい人に会えて良かったね!」
親指を立て、からかいの笑みを作られる。
「もう、だから違うってば!」
「もう~翠ちゃん分かったてば、そんなに意地張らないの~」
羞恥心から、顔が火照り、何も反応出来ず無視をする。
「無視しないよ〜!」
「茶化さないでよ」
「まあ、でもあの人はやめた方が良いんじゃない?」
一気に真面目なトーンになったせいで、拍子抜けする。
「何、急に?さっきまで、人をからかって喜んでたのに」
「いや、さっきは翠のこと不安にさせないようにと思って、あんなこと言ったけど、よくよく考えたら、クラスの人たちに目付けられないか心配」
「そうかな?」
「結構、一年生の頃から悪い噂で有名だったぽいし」
「確かに、皆から距離置かれてる感じはしたかも」
そう言いながらも、何故か少し寂しくて、落ち込む。
「まあ、翠がさどうしたいかだから、私は止めないけどね。クラスの人よりも、圧倒的に、自分の気持ちを優先すべき」
「そうかな?」
「そりゃそうだよ!だって、翠の人生は翠のものだもん!」
思いがけない言葉たちに鼻がツーンとして、視界がほんの少しぼやけて見えた。
「まあ、でも気をつけてね。さっき翠の教室行った時、周囲の女子たちに見られた気がして、嫌な感じがした?みたいな」
「愛花ちゃんもそう思った?私も、あそこの教室居心地悪くて苦手なんだよね」
「一年、あのクラスだもんね。クラスは、離れちゃったけど私は、いつでも見方だから!何かあれば、すぐに言って」
「ありがとう。愛花ちゃんがいてくるだけで、心強いよ!」
諦めないことを教えてくれた、唯一無二の存在だと心の底から思っていた。
愛花ちゃんと別れ、一人家を目指し歩く。
建物の隙間から覗かせる、夕日があまりにも綺麗で、心に染みる。
ありふれた日常生活に、隠れた感動を見つけるのが、幼い頃から好きで、高校生になった今でも探してしまう。
いわゆる、プチハッピーというやつだ。
だけど、今は彼のことが頭から離れなかった。何を考えているのか分からない目に、感情が読めない表情なのに、何処か寂しそうにも見える彼の事が、ほっとけないだけなのかもしれない。ただ、それだけなのかも。
「ただいま」
家の中は静まり返り、返事はなく、誰も家に帰って来てない事を教えてくれる。
私の家族構成は、父と母、一つ下の弟がいる。
両親は共働きで、いつも帰りが遅く、家の家事全般は、私の仕事だ。
弟は、いつも自由人で自分の為にしか行動しない人間だ。だから、時々そんな弟を見ていて、羨ましいと思う時もある。
「はあ、疲れた~」
ぽつりと独り言を零し、肩にかけていた鞄を床に落とす。
一人でいられるこの少しの時間が、何よりの幸せだ。さっきまでのうるさい教室、両親のうるさい喧嘩がないこの時間だけが、唯一の居場所。
それでも、悩みが消える事はなく、大きい溜息が出る。
すると、玄関の方から、ガチャッという音が聞こえ、扉が開き「ただいま」という母の声が聞えた。
「おかえりなさい」
仕事疲れで、脱力状態のまま家へ入ってくる母に対し、労いの言葉をかける。
「今日も一日お疲れ様!」
「うん、ありがとう。」
「疲れたでしょ、今お風呂沸かしてくるから入っといでよ!」
「翠は、いいわね。毎日楽しそうで」
この言葉で、表情が少し歪んだ気がして、笑顔を作る。
「そうかな~」
そのまま、軽く母の言葉を流しながら、自分のやるべきことに集中する。
「そうよ、誰が見ても羨ましいほどに、幸せそうで、頭の中がお花畑そう」
嫌味の言葉にも何とか持ちこたえ、笑顔のまま耐える。
「そう言えば、今日進級したのよね」
「うん」
「クラスはどう?友達出来そう?」
「まあ、ぼちぼちかな~」
「そう、翠のその明るい性格ならどうにかなるんじゃない?」
「そうかもね、アハハハ...」
母は、話を終えると、自分の部屋に行ってしまった。
そして、再び静けさを取り戻した部屋に自分だけが、ポツンと取り残される。さっきとは、打って変わり幸せの気持ちはなく、虚しさだけが残された。
それでも、自分の役目はこれだからと、何度も何度も言い聞かせた。
私は、明るくて、家族の事が大好き。大好きって、違和感しかないこの言葉を、一体誰が生み出したのか。
この生活に、ストレスが溜まらないと言えば嘘になる。けど、この家に生まれてきてしまった以上、抗う事は出来ない。
「仕方がない」
小さい声で吐いた言葉は、誰に届くでもなく、消えてしまう。
晩御飯の時間になり、食卓へ向かうと、既に父の姿はあり、弟だけが見当たらなかった。
「あれ、陽介は?」
「まだ、帰ってきてないみたい」
不満そうに言う母に対し、父は携帯に目を向け、無関心といったところだ。
「そうなんだ、また遊びに出かけっちゃったのかな?」
「知らない!」
「まま、仕方ないよ。陽介だって、高校生だしさ遊びたい時期なんじゃない?」
怒りをなだめてみるが、効果はイマイチ。
「ねえ、ちょっと!」
父に狙いを定め始める母を、阻止しようとしたが、手遅れだった。
「聞いてんの?携帯ばっか見てないでさ、こっちの話も聞いてくんない?」
「だから、聞いてるって。本当うるさいな」
「はあ?うるさいって何?あんたが呼ばれても返事しないからでしょ!何の為に耳があるのよ!」
恐れていたことが、始まってしまった。一度火が付くと、誰も手が付けられない為、見守るしかない。
父が、しつこいと声を荒げ、私の方を睨む。
「大体、お前が陽介の事なんて聞かなければ、こんなことにはならなかった。全部、お前のせいだ」
「私は、ただー」
「うるさい!喋るな!」
「ごめんなさい」
私たちには、家族という形があるだけで、絆とかそういう物自体は、とうの昔に死んでいる。
だから、家族愛とか絆って単語に冷めてしまっている。だって、それを信じるだけ逆に辛くなるから。どうせ、報われないなら、始めから信用するだけ無駄じゃん。
それに、深追いして、今が崩れてしまう方がもっと嫌だから。
「ご馳走様。」
行き場のない気気持ちのまま、食器を片付け、リビングを後にする。
そして、自室へ着き、ベットへ体を預けた。
勝手に、涙が次から次溢れて止まることを知らない。
その時、昔のある事を思い出した。小学二年生だった頃、公園で泣いていた私に、男の子が優しく声をかけてくれた。
「ねえ、何で泣いてるの?」
「お母さんたちが、お家で喧嘩してて、私も怒られたの」
その男の子は何も言わずに、頭を優しく撫でて、泣き止むまで、ずっと傍にいてくれてー。
「涙が出るってことは、助けてが言える素直な子。僕、凄く泣き虫だから、お母さんがいつもこう言ってくれるんだ。」
「君のお母さんは、優しいんだね。私のお母さんは、ほとんど怒ってるよ」
「じゃあ、これをあげる」
「これ何?」
「ダンゴムシだよ」
「虫やだ!」
「アハハ!」
楽しそうに笑う男の子を見て、つられて一緒になって笑う。
「やっと笑顔になった」
「えっ」
「じゃあ僕が、秘密にしてる事、特別に教えてあげる」
耳を貸してと言われ、男の子の口元に耳を近づける。
「僕はね、ちょっとした幸せも見逃さない。今、こうやって話せてる事も幸せ!」
一点の曇りもない無邪気な笑顔が、あまりにも眩しくて、直視できない程だった。
それから、しばらくの間は、二人でよく遊んでいたが、突然公園に来なくなり、その子とはそれっきりだ。
ずっと一緒にいられると思ってた。だから、お互いの名前すら知らない。
あっちは、私のことなんて忘れてしまっているだろうけど。
そっと目を閉じ、意識を手放す。
カーテンの隙間から覗く、眩しい光で目が覚める。
横に置いていたスマホに手を伸ばし、今の時刻を確認をする。
そして、朝の支度をする為、寝起きで重たい体を無理やり起こし、下へと向かう。
「だから、朝からやめてよ!」
「うるさいな、甲高い声で叫ぶな!」
また、朝から喧嘩してるし、朝からやめて欲しいのは、こっちのセリフだ。
「また、何が原因なの?」
仕方がなく、いつも通り喧嘩に割って入る。
「翠、起きてたの?聞いてよ、本当にこの人と来たら、文句ばっかり言ってくるの!」
「お前こそ、あれやれこれやれって、うるさいんだよ」
「私の方がやること多いんだから、ちょっとくらい聞いてくれてもいいじゃない!」
「二人の言い分は分かったから、落ち着いて」
「離婚しましょ、あなたと一緒になんて、やってらんないわ」
「それは、こっちのセリフだ!」
最終的に、この結論で片付けようとする両親に、飽き飽きする。
「私、上で支度してくるから、喧嘩しないでね」
「こいつと、同じ空気吸いたくないから、仕事行ってくる」
父はそう言うと、鞄を持ち足早に家を出た。
「翠、あなたも今日学校でしょ!何ボーッと突っ立ってんのよ!」
「ごめんなさい」
玄関の方から、思いっきり強く扉が閉まる音がして、体が大きく反応してしまう。幼い頃から、音に過敏な方で、その中でも大きい音が一番怖くて、苦手だ。
「じゃあ、私も行くから」
「うん、気を付けてね!」
朝から、気持ちが重くなり、一気に今日一日が不安でしかたなくなる。
「考えても仕方ない。私も、支度しよ!」
気合を入れ直し、学校に行く支度を始めていく。
全ての準備が終わり、家を出ようとした時、階段を下りる足音が聞こえてくる。
「はああ~、眠て」
「陽介、今起きたの?」
「姉ちゃん、もう行くん?」
「行くよ、陽介も早く準備して行くんだよ」
「真面目だね~。俺、そういうの無理だから」
弟の発言に、反発したくなる気持ちをグッと堪え、家を出た。
駅に着き、電車を待つ。何も考えずに、一点をただ見つめ、昨夜の記憶の中の男の子のことを思い返す。
今まで、忘れていたのに、何故このタイミングで思いだしてしまったんだろう。今更、遅いって分かってるのに。
待っていた電車が到着し、座っていた椅子から立ち上がり、電車に乗る。
朝という事もあり、電車内は沢山の人で満たされていた。色んな人に押され、それに耐えるが、徐々に苦痛が襲ってきて、顔が歪む。
扉横の隅の方に体を寄せ、身を極限まで縮めて、下に顔を向けた。
また、人の波がきてしまう。瞬間、目を思いっきり瞑った。
だけど、思いのほか人にぶつかられずに済み、そっと胸を撫でおろし、前を見ると、彼が私を庇う様にして立ってくれていた。
「えっ」
状況が理解できないまま、フリーズしてしまうが、やっぱり彼の表情は何の変化もないまま。
聞きたい事は沢山あったが、話せない彼に声をかけても迷惑なだけどろう。それにしても、他の乗客もいるので、非常に気まずい。
私の気持ちを察してくれたのか、近かった距離がゆっくりと離れ、彼は反対の扉の方に行ってしまった。
息をするのも忘れてしまう出来事で、頭の中がてんやわんやになる。
学校の最寄りに着くや否や、彼の方に駆けていく。
「あの、さっきはありがとう」
言いそびれたお礼を伝え、足早にその場を去った。
「って事があったの!愛花ちゃんは、今の話聞いてどう思う?」
昼休憩になり、今朝あった出来事を詳細に話した。
「う~ん、今の話だけ聞いたら脈ある様にも感じるけど、会って間もなくそれって遊ばれてる感じもするよね?」
「愛花ちゃんもそう思うよね。私も、遊びかなとか、気まぐれの人助けかなって。」
「でもさ!分からないよね?もしかしたら、本当に気になられてる可能性もあるかも?」
「だったとしても、知り合ったの昨日だよ?去年、同じクラスなら分かるけど。絶対に遊びだと思う」
「翠がそんなに、不安ならクラスの子たちに、そういう噂があったか、さりげなく聞いてみるよ」
教室に戻るの、しんどいな。今朝の出来事のせいで、露骨に避けてしまっているし。
席に着き、お弁当箱を鞄に詰め用事のないトイレへ行く。
意識するな、意識するな。心に強く訴えかける。
「マジさ、あいつ誰だっけ?」
「誰って?」
誰かの悪口を言いながら、トイレへ入ってきたのは同じクラスの女子たちだった。
「あのキモい奴の隣に座ってる女」
「あ~、たか、たか」
「高橋だ!そうだ思い出したわ!うちが、親切に忠告してやってんのに、空気読めって感じ」
そっか、私の悪口だったんだ。頭は冷静なはずなのに、心臓がうるさい。
「それ、めっちゃ分かる!」
「がちさ、うざいし、目障りなんだけど。」
「くっそ、分かる!てか、こっちが親切に教えてやってんだから、従えって感じだよね!」
「それはそう!正直さ、昨日のあの態度、うざすぎて手でそうだったもん!」
楽しく会話してる彼女たちに、ゾッとする。
「でも、正直あいつの噂とか死ぬほどどうでもいいんだよね」
「あいつって、成瀬だっけ?」
「そうそう、去年とか皆であいつの事ハブにしてやってさ、それが超面白かったんだよね」
「何それひっど!」
「あいつさ、今では無表情じゃん、最初の頃とか半泣き状態で抵抗してきてたの!」
耳に入れたくもない汚い言葉が、鼓膜に直接響く。彼は、こんなのに耐えていたの。
「あいつ、早く死ねば良いのに」
自分の事じゃないのに、はっきり聞こえた「死ね」の二文字に、耐えていた心の蓋が外れてしまい、自然と涙が目から零れる。
嗚咽しそうになる声を、押し殺す。
その後、彼女たちは言いたい事を言い終えると、トイレから去っていき、静寂に包まれる。
ゆっくりと、個室の鍵を開けてから鏡に映る自分の顔を見る。
目は赤く充血し、誰が見てもさっきまで泣いてたと分かってしまうほどだ。
どうしよう、もうそろそろ授業始まるのに。
どっちの意味でも焦り過ぎて、頭が上手く働いてくれない。
目をとりあえず冷やそう。
蛇口を捻り、水を目に当ててみる。何度か繰り返し試してみるが、効果なし。
諦めて、蛇口を占めた。誰の何の為にこんな事してるんだか。
戻りたくもない教室に、戻らなきゃ行けない。
陽介だったら、どうするんだろう。都合が悪くなると、自分じゃない誰かになりたくなる。
もう、覚悟を決めるしかないか。
逃げたい気持ちをグッと我慢し、憂鬱な気持ちのまま教室へ戻る廊下を歩く。
彼にはこの世界が、どう映ってるんだろう。
扉を開けるのが怖くて、渋る。意を決して、扉に手をかけようとした時、横から伸びてきた手に邪魔をされた。
「っ!?」
その正体は彼だった。私の手を取り、手のひらに文字を書き始める。
『に・げ・た・い・?』
互いの目がバッチっと合い、私は大きく頷く。彼は、優しく微笑むと私の手を握り、一緒に学校から飛び出した。
ただ、ひたすらに二人で走った。目的とかは何もなく、ただひたすらに。
学校から、大分離れたところで彼の足は止まり、握られてた手も離れる。
上がった息を整え、傍にあったベンチに二人そろって腰をかけた。
あれから、十分くらいが経っただろうか。二人の間には沈黙しかない。周囲の静けさも相まって、世界には私たちしか居ないんじゃないかって勘違いしてしまうほど。
優しい暖かさに包まれ、心地の良い眠気さがやってきて、そっと瞼を閉じる。
今何時だろう。起きて直ぐで、目が霞んでいてよく見えない。目を擦ろうと、手を上げようとした時膝から何かが落ちた。
「ん?何だろう」
よく見たら、カーディガンだった。落としたカーディガンを拾い上げ、隣に座っている彼に目を移すと、無防備な姿で寝ていた。
その顔が、あまりにも無邪気だったから、思わずクスッと笑う。目線を持っていたカーディガンに落とす。
彼の優しさに触れれば触れるほど、心が幸せになっていく。不安から安心へと変わる。
あなたの事が、もっと知りたいって言ったら、困りますか。
空が茜色一色に染まり、今日一日の終わりを告げる。
あの日、あの逃げた日から、話す事がなくなった私たち。
お互い何事も無かった様に学校生活を過ごしている。理由は、学校から逃げ出した私たちの事を先生が、親に報告してしまったから。
その事で、両親は酷く怒り私ではなく、彼にそれをぶつけた。
「俺たちが育てた翠が、自らこんな馬鹿な事はしない!」
「あなた、本当にどういうつもりなの?親の教育がなってないんじゃないの?」
「お二人のお気持ちは理解できますが、もう少し抑えてください。」
先生の言葉が、この二人の耳に届くわけがない。どうせ、私が何を言ったって、無駄だ。
成瀬くんは、私の両親に向かって深々と頭を下げ、謝罪の意志を示す。
「おい、お前それで謝ってるつもりなのか!」
「翠が見つからなかったら、あなた責任取れてたの?」
ただ、ひたすら頭を下げてる彼を見て、胸が痛くなった。
私に、反抗できる精神が備わっていたら、話し合える家族だったら、ここまでの騒動にはなっていなかっただろう。
「約束しろ。金輪際、うちの娘には関わるな」
「あなたの噂は、耳にしています。両親もいらっしゃらないそうね。そんな、あなたのせいで、私の娘が万が一いじめ何かにあったら、たまったもんじゃないわ!」
それでも、彼の表情は何一つ変わることはなかった。
教室に戻る前の廊下で、私は彼に対して、頭を下げて謝ることしか出来なかった。言い返せなかった自分の弱さが憎い。
「ごめんなさい。あなたを傷つける言葉を吐かせたのは、私のせいです。あなたは、何にも悪くない。悪くないです。全てはー」
肩に大きい手が置かれ、泣きそうな笑みを向けられるた。
「なんで、わた、し、私、は、おこ、れな、かったんだろ。ほんと、うは、いい、かえ、した、かった、のに、のど、に、なにか、が引っか、かってるみたいで、諦めたの。いつも、すべ、てを、あき、らめ、ちゃうの。」
彼の優しい手が、体温が、見つめてくれる目が、表情が、あまりにも暖かくて、その全てに甘えてしまう。
私が泣くなんてお門違いもいい所だ。そう分かっていても、涙が次から次へと、溢れ出して止まらない。
泣き止むまでの間、彼は何も言わずに、ずっと隣にいてくれた。
「翠、大丈夫?最近、食欲がないみたいだけど」
「あっ、うん!大丈夫だよ!私の取柄はなんて言っても元気で明るいだから!」
「やめて、翠!痛々しくて見てられないよ!」
「だって、こうでも言ってないと、しんどいよ。どうしたら」
「翠の気持ちも分かるけど、今回は諦めるしかないよ。噂が広まった以上、あんたも危ないかもしれないんだよ!」
「分かってるけど」
迷惑を沢山かけた。これ以上、かけたくない。そんなの、私が一番知ってる。
「冷静に考えな。いじめられるかもしれないんだよ?翠は、平和主義じゃない。いじめなんかにあえば、耐えられないのは翠の方だよ!それに、あんたとつるんでる、私まで巻き込まるかもしれないんだよ?親友の私より、出会って間もない男子を庇うの?」
正論だ。全て、正しい言葉なのかも。
「そう、だよ、ね。私、ごめん。混乱してたみたい」
「分かってくれれば、良いんだよ」
いつもの優しい顔に戻る愛花ちゃんを見て、これが正解なんだと思った。
だから、私は彼よりも親友を取ってしまった。
「もう大分、暖かいね!」
私の隣で、両手を上げて伸びをしながら話す愛花ちゃんに、そうだねと言う。
家に帰る足取りが、いつもより重い。帰っても居場所何てないのに。
やっとの思いで、家に着き、暗いままの部屋の中で、座り込む。
正解が分からない。どしたらいいのかも、どうしてこんなに苦しいのかも。
諦めるのが、彼の為で、これ以上傷つけたくない。
違うか。傷つけたいんじゃなくて、傷つきたくないだけ。周囲の目を気にしない様にする覚悟がない。
嫌われたくない。これ以上、居場所をなくすのは嫌だ。
「最近、学校はどう?あの変な子とは、関わっていないでしょうね?」
母が唐突に、尋ねてくる。
「関わってない」
冷たく答え、怒りの感情を抑える。
「翠、これはあなたの為なのよ」
こういう時ばかり、母親ずらするなよ。私の為になった物なんて、一つもない。過去もこれからも。
「そうだぞ。翠、お前最近おかしいぞ」
喧嘩付の毎日を、送っているあなたたちの方がおかしい。
「最近、やけに反抗的ね。前までは、良い子だったのに」
それは、ずっと我慢を強いられてきたからだ。どれだけ、辛かったかなんて、この人たちには、到底理解してもらえないだろけど。
「ご馳走様。私、部屋に戻る」
最近、両親と顔を合わせるのが、前にも増して憂鬱だ。
唯一の居場所だと思っていた親友も、自分の事しか考えていなかった。その現実に、誰の事も信用出来なくなる。
次の日学校に行くと、彼の髪の毛と服が濡れていた。男子も女子も関係なく、そんな彼の姿を見て笑ってた。
その光景に恐怖を覚え、一歩踏み出したいのに、足が鎖で繋がれたみたいに動ない。手も小さく震えてしまい、ただただ、その光景を見てるだけしか出来なかった。
お昼休憩、誰も来ない図書室に足を運んでいた。とにかく、人と話したくなかった。
窓を開け、優しい風が吹き、顔にあてる。風と一緒に運ばれる、植物の匂いに、心が浄化されていく。
曇りのない青空が、あまりにも美しすぎて、胸が苦しくなる。
突然、ガラッと扉が開く音がして、咄嗟に物陰に隠れた。扉が閉まり、足音が近づき、誰かがこちらへ来てることを知る。
息を止め、目を強く瞑り、やり過ごそうとしたが、足音は私の前に来て止んだ。
目をゆっくり開け、誰なのかを確認する。
「成瀬くん?」
目の前にいたのは、紛れもなく成瀬くんだった。手に視線を向けると、ノートと筆箱を持っていて、私の横に並んで座る。
「ごめん、私邪魔だよね。出てくね」
誰かに見られるのが怖くなり、その場を立ち去ろうとしたが、彼に手首を掴まれ、私は再び座る。
少しの間、静けさが二人を包んでいたが、先陣を切ってくれたのは成瀬くんの方だった。
ノートには『ごめん』の3文字が書かれていて、頭を下げられた。
「頭を上げて、お願い。成瀬くんは何も悪くないよ。私が全て悪いの。あの時、私が逃げたいなんて言わなければって、ずっと後悔してた。だから、成瀬くんが、自分を責める事なんて一つもない。助けてあげられなくてごめんなさい」
深々と頭を下げ、何度も何度も謝罪の言葉を口にした。
「お願い、こんな私を許さないで。私、成瀬くんのこと、いっぱい傷つけた。私の両親からも罵倒されて、クラスの人たちからも、またいじめの標的にされて、全て私のせい。」
「関わるな」の言葉が、何度も木霊して聞こえてくる。
それだけ伝え、立ち上がろうとすると、ノートを見せられる。
『許す』の短い文字だけが、そこには書かれていた。
「なんで、そんなに、優しい言葉を私なんかにくれるの?」
彼は、優しく微笑むだけだった。
ずるいよ。これじゃあ、いつもみたいに自分を責められない。
どうして、成瀬くんはいつも、私が欲しい言葉をくれるの。
どうして、優しさを与えてくれるの。
すると、唐突にノートを見せられる。
『ねえ、手出して。あげたい物ある』
涙を拭いながら、手を出す。
「うわああ!」
静かな図書室に私の叫び声だけ、響く。
「これ、虫!?」
『正しくは、虫のおもちゃだけど』
私がこの質問をするって分かっていたのか、ページをめくりネタバラシをされる。
相当、私の驚いた顔が面白かったのか、声は出ていないものの、お腹を抱えて笑う彼を見て、自然と笑顔にさせられた。
「あははは!酷いじゃん、騙すなんて!」
笑いを堪えながら、彼はノートに文字を書き始めた。
『やっと、笑った』
彼の言葉に私は、過去の光景が蘇る。でも、そんなまさか、だって彼は、何も告げずに去ってて、それから会えなくなって。
「やっと笑顔になった」
男の子に言われた時の記憶が鮮明に色濃く映る。
「ねえ、成瀬くん、あなたー」
5分前を知らせる予鈴が鳴り、会話は中途半端な所で切れた。
その後の授業は、終始ずっと上の空で、頭に入って来なかった。
学校が終わると、鞄を持ち、そのまま家へ直行した。理由は、あの子との思い出の品を探す為だった。
確か、最後にあの子と会ったのは、私の誕生日の前日の日。その次の日、いつも通りの時間で、公園に行き何時間と待ったが、結局あの子が来ることは無かった。
だから、お別れが言えなかった事が、ずっと心残りだった。
あの頃の男の子が、彼ならとほんの少し期待してしまう。
それぐらい、ずっと会いたい人だから。
あれから、私たちは、関わらないという約束を破り、図書室でこっそり会っていた。
日常的な会話はするものの、お互いの大切なことを言えずにいる。
今日も、彼が待つ図書室へ行く。中へ入ると既に、彼が座っていた。
「お待たせ」
扉を閉めて、少し小走りで駆け寄る。
「そう言えば、前から聞きたかったことがあるんだけど、一番初めて、図書室で話した日あったじゃん。何でここに来てたの?いつも、自分の席で寝てるイメージがあったから、気になって」
彼は、普段と同様にノートとペンを手に取り、文字を書き始める。
『君が、消えたいって顔してたから』
「そんな顔してたの?」
コクッと頷く。
「それで、来てくれたの?寝る時間を削ってまで」
フッと声が聞えた気がして、顔を上げると、笑顔の彼がいた。
「何か面白い事言った?」
『寝る時間を削ってって言った』
「成瀬くんって、意外だね。笑わない子なのかと思ってたから」
私の前だけで表情がコロコロ変わるあなたが、とても愛おしく見える。だって、いつもの、不愛想な下の顔には、年相応の青年の顔があるなんて想像もしてなかったから。
「ねえ、成瀬くんって」
既に書いてあるノートのページを見せられる。
『成瀬呼びは卒業。柊って呼んで』
「これ、成瀬くんの下の名前、しゅうって読むの?」
『ひいらぎ』
「ひいらぎ?とても綺麗な名前」
『そう?』
大きく首を縦に振り頷く。
「ずっと、成瀬くんの下の名前の読み方気になってたんだよね。なんて読むんだろうって」
照れているのか、顔を手で覆い隠し始めた。それを見て、からかいたくなってしまい、彼の手を掴み顔から引き離そうとする。
「ねえ、成瀬くん顔見せてよ!」
いいアイデアを思いつき、彼から離れ、泣きの演技に入る。
「ううう...」
直ぐに、私の方へ来るが、どうしたらいいのか分からず、隣であたふたし始めた。
「フフッ。ごめん、噓泣きしてみた!」
ホッとしたのか、その場に座り込み、ムッとした表情でそっぽを向かれる。
「ごめんね、やり過ぎちゃった。本当にごめん」
そう言った私の方へ、振り向きその表情は笑っていた。
「成瀬くん!酷いじゃん、騙すなんて!」
私たちは、過去に置いてきた笑顔を、今取り戻すかの様に笑い合っている。このまま、一生続けばいいのに。
些細なことで、幸せだと感じたのはいつぶりだろう。
『成瀬じゃなくて、柊ね。』
「あっ、はい。ひ、ひ、いらぎくん。」
私の様子を見て、満足そうに笑っていた。その顔を見て、頬が火照る。
「じゃあ、次私の番ね!」
彼のペンとノートを借り、自分の下の名前を書く。
「これで、なんて読むと思う?」
『みどりとか?』
「よく言われるけど、違う」
『すい』
柊くんに名前を呼ばれた瞬間、胸が大きく跳ね、特別に思えて、過去の男の子との記憶が鮮明に蘇る。
「私、ずっと前に柊くんと出会ってた気がする。」
唐突に出てしまった言葉に焦る。
「間違えた、今言ったこと忘れて。ごめん、変なこと言って。もうそろそろ、時間だね!戻ろっか」
急に手を握られ、何か言いたそうな表情のまま私の目を見た。だが、直ぐに握られていた手が離されてしまい、モヤモヤした気持ちのを残し図書室を後にした。
最近、彼の事でずっと悩んでて、解消されるどころか、増すばかり。
過去が知りたい。でも、違うって言われてしまったらと思うと、踏み込んで聞くのが少し怖い。
次の日、学校に行くと、柊くんが退学したと、先生の口から告げられた。
頭の中が一瞬で真っ白になり、視界がぼやける。
その時、嫌な胸騒ぎがして、居ても立っても居られなくなり、気付けば教室を飛び出していた。
もちろん、柊くんの家なんて知るはずもなかった。それでも、体が勝手に動いて、言う事を聞いてくれない。
先生もクラスの人たちも、家族のことも、今はどうでも良いくらい、彼にただ会いたいと心が訴えかけてくる。
私は、彼と初めて逃げた日の場所へと向かって、一直線に走った。居るか居ないかよりも、行動してみたくなった。
彼が、そうしてくれたみたいに。
ようやく到着するも、彼の姿どころか、誰の姿もなく、ただ一人立ち尽くす。
始めから居るわけがないのは、知っていた。
ほんの少しの期待を持ちたかっただけ。それだけなの。
柊くんと、走り疲れて座ったベンチ。もう、一緒には来られない。
頭が冷静になればなるほど、柊くんが消えた現実がより色濃く感じた。
それでも、希望を捨てる事が出来ず、ベンチに座って待つことにした。
あれから、何時間も待ってみたが、彼が姿を現す事は一度もなく、空があの時と同じ茜色になる。茜色は、私の状況何てお構いなしに、綺麗に輝きを放っていた。
あの日、彼が眠る横で、見た景色と同じはずなのに、全然違って見えた。
どうして、大切だと実感した途端、私の目の前から消えていくの。
ここでの記憶を思い出せば出すほど、涙が溢れ出して止まらない。初めから、消えるくらいなら優しくなんてしないで欲しかった。
私の心何て見透かさないで、ほっといてくれれば良かったのに。
暗い気持ちが晴れないまま、家に向かって歩く。家に着いた時には、辺りは暗くなっていて、両親は既に帰宅していた。
「こんな時間まで何処に行ってたの?心配してたんだから」
母の心配も耳に入らない。
「それと翠、先生がさっき電話を下さって、あなた教室を飛び出したそうね!」
「そうだけど」
「また、あのろくでもない奴と一緒だったんだろう!関わるなって言わなかったか!」
父は、声を荒げながら言ってきたが、そんなの今の私には無傷だ。
「聞いてるのか!あいつと今後も関わる様なら、こっちにも考えがある!」
うるさい。うるさい。
「翠、これはあなたの為に言ってるのよ」
「うるさい!私の為って何?今まで私のことなんて見てもくれなかったくせに、今更親ずらしないでよ!」
「親に対してなんて口を利くの!」
「これも全て、あの男が原因なんだろ!だから、関わるなと言っていたのに」
「彼は、何の関係もない!それに、前の時も私を庇ってくれただけ!逃げたいって私が言ったの!彼は、それを守ってくれただけ!何も知らないくせに、知った事ばっか言うな!」
両親は、呆気にとられた表情のまま。
「私、本当は良い子なんかじゃないよ。演じてただけ。ママとパパにガッカリされたくなくて、嫌われたくなくて我慢してただけ。本当は、ずっと笑うの辛かったし、二人の事が憎かった。ずっと、陽介みたいに自由に生きてみたいって思ってた。」
でも、出来なかったのは、あの日母が陽介の背中を見て、手が離れてく我が子を見て、寂しそうに泣いていたから。
それに、柊くんと関わりたいと、どれだけ願っても無駄だ。だって、もう会えないから。
涙を抑えれば抑えるほど、声が震えて上手く話せない。
「安心して、二人が思うような問題は、今後はないから。」
両親に反抗したって、ぽっかり空いた心の穴は埋まらない。
自室に行くと、堪えていた今日一日分の涙が、次から次へと溢れて、止まることは無かった。
柊くんがいなくなった春は終わりを迎え、今は梅雨。
湿気が多く、どんよりとした日が続く。
探しに行ったあの日以来、私は探すこと自体を止めた。退学したと聞いた時、驚きとショックで、辛かった。
でも、それは彼の為ではなく、自分の為だ。辞めるほど追い込まれていた彼を、再びここへ連れ戻すのは地獄以外ないだろう。
「翠、帰ろ」
「うん」
私自身は、何の変哲もない生活に戻った。
「今日も、雨凄いよね!湿気のせいで髪の毛うねりまくり~」
「そうだね。」
「ねえ、最近話してる時、ずっと上の空だよね」
「そうかな」
「私と話してても楽しくないの?」
「別に、楽しいよ」
「別にって何?翠さ、変わったよね!彼といて変わったよ!それも悪い方に」
まただ。自分に都合の悪い態度を取られると、皆、口を揃えて言ってくる。
「彼のせいじゃない。私の元々の性格だよ。これが、本当の私だよ」
「なんで?なんで、そこまでして彼を庇う発言ばかりするの?」
不満そうに、眉をしかめてくる愛花ちゃん。
「庇ってないよ。」
「嘘だ!だって、翠優しかったじゃん!ずっとさ、笑顔で幸せそうだったじゃん!彼と出会ってから、変だよ!」
一呼吸置いてから、愛花ちゃんの目を捉え、ゆっくり話す。
「変わっても無いし、変でもないよ。私は、本当にただ、良い人を演じてただけ。内心、愛花ちゃんに彼の事を否定されるたび、はらわたが煮えくり返りそうだったもん。愛花ちゃんの心の奥が、自分しか分からない様に、私が隠してる部分は私にしか分からない。だから、決めつける言葉を言ってくるのはやめて。」
「私は、ただ親友として」
「ありがとう。愛花ちゃんの元気にいつも救われてたよ。進級早々、励ましてくれた言葉、本当に嬉しかった。私は、私で良いんだって認めてもらえた気がして、愛花ちゃんが私の居場所だった。」
「だったって?過去形?」
「愛花ちゃんの口から、私を否定する言葉を聞くまでは、大好きだった。今、愛花ちゃんの隣で笑ってる私は、無理してる私なの。前みたいに、心から笑顔になれないです。ごめんなさい」
深々と頭を彼女に下げる。
「ちょっと、待ってよ。こんなの酷くない?だって、だってさ、親友じゃん私たち」
「...」
「何とか言ってよ、翠」
「私が、もっと勇気のある人だったら、こんな形にはならなかったと思う。いつまでも、心に仕舞って、溜め込んでいた私が全て悪いの。だから、愛花ちゃんは、何も悪くない」
「はっ。ずるいよ、翠。その言い方は、ずるい。良い子ちゃんぶってんじゃねえよ」
手に持っていた傘を捨て、私の胸ぐらを掴んだ。
「翠のさ、そういういい子ちゃん過ぎるところ、本当に嫌いだった。目障りだと何回も思ってた。それに、何を考えてるか分からなかったあんたに、ずっとムカついてた。」
大きい雨粒が、愛花ちゃんの頬を伝い地面に落ちていく。
「口では、親友とか言ってる割にはさ、毎回一番大事な事教えてくれないじゃん」
愛花ちゃんの言う通りだ。言わずに我慢して、勝手に落ち込むのは違う。だからこそ、愛花ちゃんとも向き合わなくちゃいけない。
「私、前に言われた愛花ちゃんの言葉が嫌だったの。」
私が、話し始めると、強くつかまれていた手が、離れた。
「愛花ちゃんに親友か彼か選択を迫られた時、正直、どちらも大切にしたかったから。それに、私のこと本当に大切に思ってくれてる事も知ってたから。でも、それが凄く重荷で、愛花ちゃんの言った事が正解だと言い聞かせればするほど、一緒にいるのが苦痛に感じていったの。」
私が言い終わると、「ごめんなさい」と謝罪と共に頭を下げられた。
「翠から、本音を奪ってたのは、私の方。翠は何も悪くない。それでも、一緒にいてくれてありがとう。」
曇り空には、似合わない笑顔を向けられ、「本音を聞かせてくれてありがとう」と一言、私に伝えると落としてた傘を拾い上げ、一人歩き出す。私は、その背中に向かって呼び止めた。
もう、間違えた選択を一生したくない、私自身の心の現れの、行動だと思う。失って後悔するくらいなら、ダメもとでもやれ。
「待って、愛花ちゃん!」
呼びかけに応じて、足を止めてくれた彼女の方まで、走って距離を縮める。
「これから、本当の親友になることは出来ないですか?我儘を言ってるのは分かってる!けど、なりたいの!本音を言い合えた仲だからこそ、もっと知っていきたいの」
私のあまりの勢いに驚いたのか、少しの間黙り込んでしまった。
「翠は、それで良いの?私、酷い事言ったんだよ。気づ付ける言葉を」
「私も、愛花ちゃんの気持ちに気づいてなかった、今日初めて聞けて、嬉しかったの。」
染み込ませていた、自分への無理という諦めの言葉が、そんな簡単に消えるのは難しい。それでも、変わっていきたい。
「愛花ちゃんと、もっと色んなお話をしたいと、心から思えたの。だから、お願いします」
「お願いするのは、私も一緒だよ。翠、ありがとう。引き留めてくれて」
雨の音が辺りに響く中、幸せで静かに涙を流した。
「翠~!帰ろ~!」
「今、行くね!」
愛花ちゃんとは、本当の意味で親友になれてから、前よりも仲が深まった。
「はあ~!来週から期末テストだね。翠は勉強してる?」
「ぼちぼちかな~」
「翠は、頭良いから勉強しなくても行けそうだけど、私なんて、毎回赤点ギリだもん」
「愛花ちゃんは、ギリギリにならないと勉強しないからでしょ」
「しなきゃいけないとは分かりつつ、出来ないのが私の悩みです」
「分からなくはないけどね~」
思い出したかのように、急に目を大きく見開く。
「そう言えば!うちのクラスの女子が言ってたんだけどね、翠が気になってる彼見たって言ってた!」
「ッ!?」
驚きのあまり、声が出なくなる。
「本当に?成瀬くんって言ってたの?」
「うん、彼ぽかったって言ってた」
「何処で見かけたって言ってたの?」
あれから私は、正直に気になってることを打ち明け、愛花ちゃんにも探すのを手伝ってもらっている。
もちろん、両親には秘密にしている。
「場所まで、言ってなかったの。ごめん」
「むしろ、私こそごめん。変なことに巻き込んで」
「全然!翠の恋愛話とか聞くの、超新鮮だったから嬉しかったし、気にしないで!あっ、後さ、話すの大分遅くなったんだけど、前電車で助けられた話してくれたじゃん」
「うん」
「その時に、遊んでそうとか、じゃなさそうと言ってたじゃん。あれね、去年同じクラスだった子たちに聞いてみたの。彼、いじめが原因でほとんど学校に来てなかったみたいで、その辺は分からないって」
愛花ちゃんの話に、安堵する。
あれから、愛花ちゃんと別れた私は、一人で図書館に来ていた。
自分が座る席を決め、教科書とノートを取り出す。家で、勉強してもはかどらないから、テスト前になると、図書館に来る。
勉強に夢中になってるせいで、時間を気にするのを忘れていた。鞄からスマホを取り出す。
そろそろ帰らなくちゃ。机に広げていた用具類を全て鞄に詰め、椅子から立った。
明日は土曜日というのもあって、居酒屋の前を通ると大人の人たちで賑わっていた。
中々の騒がしさに、人酔いしそうだ。
「おっ!高校生じゃん」
知らない男性に話かけられ、無視をする。
「ねえ、無視しないでよ」
しつこく来る男性から逃げる為に、少し速足で歩く。
「待ってよ~!一緒に飲もうよ」
こういう人と一度でも口を聞けば、中々離してくれないのは目に見えて分かる。
「待てよ」
腕を掴まれ、咄嗟に振りほどこうとした手が、男性の頬に当たってしまった。
「すみません」
「おい、人が下に出てればつけあがりやがって。」
後方から、仲間の様な人たちまで来てしまい、囲まれた。
「この女子よ、俺の顔殴りやがってよ」
「当たっただけです」
私が訂正すると、鬼の形相になる男性。でも、少しでも弱さを見せれば、この人たちは調子に乗ってしまうかもしれない。
「どいてください。私は、ただ歩いてただけです。絡んできたのはそちらからです」
「うるせえぞ!このクソガキ」
油に水を注ぐ結果になり、拳を強く握り私に振りかざす。瞬時に目を強く瞑り、頭に強い衝撃が走った。
私、今殴られたんだ。朦朧とする意識の中、男性たちの「逃げるぞ」という声を最後に意識を手放す。
ここは何処、私どうなっちゃたの?
「いった」
頭には、鈍い痛みが残っていて、さっきの状況が蘇る。痛さで、上手く体が動かずにいると、誰かが扉を開けた。
音のした方に、顔を向けると、涙を流す彼がいた。
「柊くん?そんな訳ないよね。私、頭殴られたせいで幻覚見てるのかも。だって、君がここにいる訳がないもん」
そう自分に言い聞かせるのに、一歩ずつ、ゆっくり歩み寄ってくる彼の足音が、ここにいる事を教えてくれる。
「ど、うし、て」
涙が、私の視界を邪魔してきて、彼の顔よく見えない。
彼はそっと私の頬に触れる。その、温かさが本物で、余計に涙が溢れた。
「ひ、い、らぎ、く、ん」
活舌が上手く回らず、ただ何度も彼の存在を確かめたくて、名前を呼ぶ。
あれから、少し落ち着きを取り戻した私に、病院だと教えてくれた。
「さっきも、聞いたけど、どうしてここに居るの?」
彼は、自分の鞄に入っていたペンとノートを取り出した。
『人がたくさん集まってて、その人たちどかしたら、すいがたおれてて、死んだらどうしようって』
さっきの光景を思い出し、泣きそうになる彼の手を握ると、彼は私の手を自分の頬まで持っていく。その行動に、ドキドキしながらも冷静なフリをした。
「大丈夫だよ、私生きてるから」
笑顔で答える。
「柊くんと会えたの、すごっく嬉しいのに、こんな形での再会って、運悪いな~」
『おれも、会いたかった』
「本当に?柊くんから居なくなったくせに~」
少し、意地悪ぽく言ってみた。すると、彼の口角が微かに上がった。
「柊くん、理由はまた今度教えてね。会う口実作っとかないと、あなた何処かに行っちゃいそうだから」
私の手をゆっくり離し、ノートに何かを書き始める。
『もう、いなくならない。翠の隣にいる』
「何か、告白みたいな台詞だね」
私に向けてるノートのページを、自分で読み直し、顔が真っ赤になる。
「柊くんて意外と照れ屋さんだよね。」
図書室で見せてくれた表情と同じで、思わず笑ってしまう。
「今回は、手で顔覆わないの?私は、見れて嬉しいけど」
私の言葉に動揺し、余計に顔が赤くなる彼を見て、余計にからかいたくなる。
「翠!」
突然の訪問者に驚き、病室内が静まり返る。
「病院から電話がかかって来た時、心臓が止まるかと思ったのよ」
「心配かけてごめんなさい」
母の目は赤く充血していて、さっきまで泣いていたことを知る。
「あなたも、来てくれていたのね。」
彼をまた、傷つけるのではないかと不安になったが、その逆だった。
「ありがとう。本当にありがとう。先生から、男の子がずっと翠の傍にいるって聞いて、あなたかなって思ったの。沢山、傷つける事を言ってごめんなさい。翠と一緒にいてくれて、ありがとう」
深く頭を下げる母の姿を見て、初めて親らしいと思うことが出来た。
「柊くん、ありがとう。」
その後、父と弟も合流し、着替えなどを届けてくれた。
「翠、私たち本当に家に帰るけど大丈夫?」
「うん、今日は疲れてるのにありがとう。」
「そんなの当たり前でしょ、親なんだから。」
改めて言われると、なんだかむず痒く感じた。でも、不思議とそれが嫌ではなかった。
「じゃあ、成瀬くん翠のことよろしくお願いします。」
柊くんは、母に頭を下げた。
「姉ちゃん、良い男だな」
弟が耳打ちで、からかいの言葉をかけてきたので、「うるさい」と一言添えた。
父は、私の顔も彼の事も、最後まで見ることは無く、病室から出て行ってしまった。
皆がいなくなった病室は、再び静かに戻った。
「柊くん、調子のいい親でごめんね」
首を横に振る彼を見て、「家に帰ってもいいんだよ」と伝える。
『やだ』
ノート一ページに大きく書かれた二文字を見て、笑ってしまう。
「そこまで言われちゃ、断るのも失礼だよね。一緒にいて下さい」
「ねえ、退学してから何してたの?」
『特には』
「そうなの?じゃあ、ゴロゴロとか?」
『まあ、そんな感じ』
「そんな感じって、どんな感じなの?」
会えなかった穴を埋める様に、私は彼にひたすら話しかけた。
「私ね、退学したって聞いた日、あなたを探しに行ったんだよ。何処に行けばいいのかも分からない。柊くんの家も知らないのに、体が勝手に動いてた。逃げた日に行った場所にも行ってさ、何時間もずっと待ってたの」
話してる間、彼は下を向き私の方に目を向けなかった。
「気づいたら、空が茜色に染まってて諦めて帰ったの。その後も、探そうか悩んだけど、連れ戻したいのは私の意思であって、柊くんが戻りたくないと思っていたらって考えて、探すのを諦めたの。諦めれると思っていたの。」
鼻の奥にツーンとした痛みが走る。
「でも、出来なかったの。迷惑だよね。」
こんな事、今更言われても困るよね。
「今の話全て忘れてくれてもいいから」
ノートを見せられる。
『迷惑じゃない』
不思議だな。彼がくれる言葉は信じられる。
いつの間にか、眠ってしまっていたみたい。足が重くて、そちらに目を向けると、彼が寝ていた。
やっぱり、柊くんて寝るの好きだよね。彼の寝顔を、もう一度見れる日が来るなんて、思ってもなかったな。
ゴソゴソ動く彼の姿が、あまりにも普段の彼から想像できなくて笑ってしまう。今なら、言えるかもしれない。
彼の耳に口を近付ける。そして、私の本音を伝えた。
「柊くんの事が好きです。」
顔を離し、布団の中へ潜り込み、火照る顔を冷まそうとするが、全然冷めない。
言っちゃった。言ってしまった。寝てるとはいえ、恥ずかしいくなる。
その30分後くらいに、彼が目を覚ます。
「おはよ、柊くん」
大きいあくびを一度し、ニコッと笑いかけられた。
「もしかして、寝ぼけてる?それに、前髪の寝癖やばいよ!芸術作品になってるよ!」
そう言えば、逃げ出したあの日、起こすのも大変だったけど、起きた後の彼の寝ぼけ方が異常だったことを思い出す。
あの時も、苦労した。
すると、二度目の眠りにつこうとしてるのか、寝ぼけたまま椅子から立ち上がり、私が横になってるベットへ入ってくる。
「ちょ、ちょっと、柊くん!起きて!ここ私がいるよ」
私の横で、完全に二度寝をかましたので、起こすことを断念した。
隣で、眠っている好きな人を見てると、この現実に違和感しか持てない。
無邪気な顔のまま、無防備な姿で眠る彼を見ながら、進級初日の出来事を思い出していた。
ぶつかった時、一番最初に目に入ったのは、光のない瞳だった。それを、見た私は、怖くなって、その場から逃げたっけ。
苦手で、距離を置いたりしてたのに、そんな事にも気に留めず、助けてくれたり、許してくれたり。
そんな、彼の優しさに触れれば触れるほど、幸せな気持ちになれた。
両親や、愛花ちゃんにも本音で話せる様になったのは、なんの考えもなしに、私の手を引いてくれた君がいたから。
柊くんと出会えたから、変わる覚悟が持てたんだよ。
そんな事を思っていると、彼の首に目がいく。進級した時から、ずっと気になっていた。
頑なに、何かを隠すようにタートルネックで覆われている。聞くのも野暮だと思い、その話題は避けてきた。
それでも、いつかは、ちゃんと彼の過去を知りたい。その覚悟が私に出来るまで、もう少し待っててね。
ようやく、二度寝から彼が目を覚ました。
「おはよ、起きた?」
真隣にいる私に驚き、ベットから降りようとするが、焦りすぎて、思いっきり落ちてしまう。
「大丈夫!?そこまで、焦ることなかったのに」
私もベットから降り、転んでる彼をおこす。
「それにしても、よく寝るよね。」
進級した当日も、彼の勇気ある行動に驚かされたっけ。クラスの皆、視線は柊くんに向いていたのに、当の本人は、それに全く気づくことなく、寝ていた。
その事を思い出し、一人で笑っていると、変な人を見る目で、私の顔を覗き込んでくる。
「フフッ。違うの、変な事を考えてる訳じゃないの。柊くんの事を考えて笑ってたの!」
さっきより一層険しい表情になる。
「覚えてないかもしれないけど、進級した日、私の行動のせいで、柊くんに注目がいっちゃったのに、思いっきり寝たの。それが、今思い返すと面白くて、それで笑ってたんだよ」
そんな事あったかなと、考え始めるが本人は、その部分だけ記憶から抜けてるのかもと言い、笑っていた。
昨日まで、会えた喜びで泣いていたのに、今日は笑いあえているなんて、呑気過ぎるのかもしれない。
今、この一瞬、一瞬を大切にしていきたい。そして、いつの日か、彼との思い出を脳内スクリーンに映し出して、これも自分の一部だと思う日がくるだろう。
それが、もし悲しい結末であっても。