「将来が楽しみですね」

 その言葉は、将来がある人に向けられたもの。
 将来がない人間にとっては、残酷な言葉でしかない。
 この世界は、才能のない者に未来を与えない。

羽澤(はねさわ)さんの成績なら、十分に鐘木(しゅもく)高校を狙えますよ」

 高校受験の進路相談で使われる部屋は、真っ白な色で覆われている。
 白い壁に囲まれた狭い部屋に、私と両親。そして、塾の進路指導の先生が詰め込まれる。

「ここまで頑張ってきた甲斐があったわね」
「羽澤さんは、本当に努力家で感心しますよ」

 大人たちの騒音が、脳を突き刺してくる。
 濁りのない白で囲まれた部屋に息苦しさを感じたところで、それを口に出すことができない。
 朗らかな笑みを浮かべた先生と、眩しさを感じる両親の笑顔を見ていると、酸素が欲しいのに上手く息を吸い込めなくなる。

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 まるで母は、高校に合格するのが確定したかのように涙を浮かべていた。
 何度も感謝の言葉を繰り返す母と、安心した様子で頷く父。
 まだ合格は決まっていないのに、みんながみんな感慨深げに私の未来を語っていく。

「鐘木高校は県内で一番、進学率が高い高校ですから」

 なんで、決まっていない未来に向けて笑顔を浮かべることができるのか。
 高校受験を控えている私の心の中は不安だらけで、その不安を解消する術もない私はただただひたすら黙り込む。

(県内で、一番……)

 頭の中で反響する先生の言葉。

(進学率が高い……)

 先生と両親の会話が、遠くから聞こえてくるように感じる。
 自分の未来の話をしてくれているはずなのに、他人の話をしているような感覚。

(鐘木高校に行けば、私は幸せになれるの……?)

 見えない未来に、不安と恐怖が入り混じる。
 胸が締めつけられるような気持ちになって、心臓のあたりを抑え込む。
 でも、この場にいる誰もが、心臓に触れている生徒()に気づくことはない。

(どうして、進学率が一番高い高校を目指さなきゃいけないの……?)

 先生と両親の喜びに満ちた顔が目の前に広がっているのに、自分だけが取り残されているような気がする。

鐘木高校(そこ)に、私の幸せはあるのかな)

 冷たい床に視線を落とす。
 自分の足が震えているような気がしたから、なんとか踏ん張って震えを抑える。

「合格に向けて、頑張っていきましょう」

 先生の顔も、両親の顔も優しいのに、みんなが発する言葉は私の心に響かない。
 未来に対する不安と恐怖は、どうやって拭い去るのか。
 その答えを知らないまま、私は進路相談の時間を終えた。

(終わった……)

 試験会場の外に出ると、息を吐くたびに白い息が宙に昇っていく。
 灰色の空からは今にも雪が降ってきそうなのに、期待に沿った雪だけは降ってこない。
 私から吐き出される息だけが真っ白で、白い色を知っているのは私だけのように思えてくる。

「終わったねー」
「やっと解放されるー」
「落ちたら、まだ受験、続くけどね」

 同じ制服を着ている同士が集って、長かった受験生活が終わったことを一緒に喜び合う。
 私たちが住んでいる地元では、大抵の中学生が中学校の制服を着ながら高校受験を乗り切る。
 初めて会うあの子も、面識のないその子も、同じ制服を着ている同士は次から次へと繋がっていく。

(ライバルじゃないのかな……)

 受験が終わった同士たちは、無邪気に語り合いながら心からの笑顔を浮かべている。
 ようやく、のんびりとした時間を満喫することができたことを一緒に分かち合う。


『周りは、みんなライバルなんだからね』


 受験のプレッシャーから解放され、自由を手にした中学生たちに笑顔が溢れる。
 一方の私は同じ制服を着た同士と繋がらず、両親に言われた言葉を頭の中で繰り返してばかり。

「羽澤さん、お疲れ様」

 受験の結果が出れば、勝者と敗者に分けられる。
 今は一緒に自由になれたことへの喜びを爆発させたところで、みんながみんな同じ高校に通うことはできない。
 みんな忘れたわけではないはずなのに、自由は喜びを共有させる強さを持つらしい。

「羽澤さん」
「はいっ!」

 迎えを待っている最中に、私は背後から声を投げかけられた。

「あ……」
「お疲れ」

 寒さでかじかんでいく手を温めるために取り出した手袋が、雪の積もらないアスファルトにぽとりと落ちていく。

「羽澤さん、手袋」

 冷たい風が顔に当たるたびに、頬が痛みを伴う。
 それなのに、目の前には手袋を拾う優しさのある彼が存在する。

「ありがとうございます……」
「どういたしまして」

 彼は拾い上げた手袋に付着したゴミを払おうと、ぱんっと手袋を叩いてから渡してくれた。

「中学で、一度も同じクラスになりませんでしたね」
「だね、小学校のときは六年間も一緒だったのに」

 背後から現れた彼は、小学生のときから付き合いのある河原梓那(かわはらしいな)くん。
 誰も私たちが六年間も同じクラスだったことは知らないだろうけど、私たちは自然と意識していたらしい。

「ってか、なんで敬語?」

 特別、仲がいいわけでもない。
 ただ、小学校の六年間を同じ教室で過ごしただけ。
 私が他人行儀な喋り方をした理由は、そこにある。

「友達なのに」

 でも、彼は、ほぼほぼ他人の私を受け入れる。
 受け入れるだけの、懐の深さがある。
 あまりの寒さに私の表情はかちこちに固まってしまっているのに、今日も河原くんは小学生のときと変わらない朗らかな笑みを浮かべた。

「誰が鐘木高校受けるとか噂になるけど、羽澤さんの噂は聞かなかったなぁ」

 冬の寒さが、頬を刺しにくる。
 それなのに、目の前にいる彼は春の暖かさを感じさせるような笑みを浮かべる。

「一緒に受かるといいね」
「……ですね」

 受験の結果が出れば、勝者と敗者に分けられる。
 それを理解しているからこそ、私と同じ学校に通う河原くんは社交辞令を交わし合う。

「じゃあ、また……って、受からなかったら会えないか」

 河原くんとはまったく話したことがないわけではないけど、特別、親しい関係というわけではない。
 彼は太陽のように暖かい笑顔が特徴で、どんなに悲観的になっても彼の笑顔からは元気をもらえるような気がする。
 クラスの人気者って言葉が相応しい彼は、誰に対しても平等に笑顔を振りまいてくる。

「また、どこかで会えたら……」

 鐘木高校に合格する保証もないのに、彼のような明るい笑みを浮かべることができない。
 河原くんに不快な思いをさせる前に、私は別れの挨拶を切り出そうとしたときのことだった。

「ん……?」
「あ」

 相変わらず、ひんやりとした冬の風が頬を撫でていく。
 あまりの寒さに目を伏せそうになったけど、私も河原くんも目を見開いた。
 遠くから聞こえる美しい旋律に、聴覚すべてを持っていかれた。
 目を伏せている場合じゃないくらいの美しい音色は、受験終わりの中学生たちを引き留めていく。

「なんだろ? 吹奏楽部?」
「違います、管弦楽部です」

 心の奥深くに響く音楽に導かれるように歩を進めるけれど、管弦楽部の姿は見つけることができない。

「近くの聖籠(せいろう)高校に、管弦楽部があるんです」

 目には見えなくても、音を聞くだけで、管弦楽部が息を合わせて真剣に演奏している姿が思い浮かぶ。
 室内で演奏しているのか、屋外で演奏しているのかも分からない。
 でも、冬の寒さにも負けずに楽器を手に添え、一心不乱に指を動かすあの日の姿が、私の記憶から焼きついて離れない。

「私、聖籠高校の管弦楽部の演奏が好きで……」

 まるで受験終わりの中学生たちに、祝福を送るかのようなタイミングで送られてくる音楽の波。
 祝福の調べが世界を包み込んでいく中で、私は今までに感じたことのない感動を拾い上げる。

「進学も……少し考えていたくらい好きで……」

 春の暖かさを感じることはできない。
 それなのに、受験生に贈る演奏をする先輩方の情熱は冬の冷たさを溶かす勢いに感じられる。

「好きで……好きで……好きで……」

 壊れてしまった人形のように、同じ言葉ばかりを繰り返す。
 これじゃあ管弦楽部の感動は伝われないのは分かっていても、強い興奮は同じ言葉を促してしまう。

「大好きです」

 長かった受験の日々を終えたばかりの私に、大きすぎるご褒美が与えられた。

「羽澤さん」
「はい」
「めっちゃいい顔してる」

 試験の重圧から解放されたはずなのに、合格が決まっていないという不安定さは、もともと笑顔が少ない自分をさらに窮屈に縛り上げていた。

「私……笑ってました……?」
「大好きって言葉にしたとき」

 無限に続くような気がしていた受験期間が終わった日。
 私と、ほとんど言葉を交わしたことのない河原くんは、一緒に朗らかな笑みを浮かべた。