強制的に始まるものが嫌いだ。
たとえば動画広告。物欲やコンプレックスを掻き立て消費行動を取らせようという態度が癪に障る。
たとえば世界。こちらが涙やら鼻水やらを垂らしてグズグズになっている時でさえ、世界はまざまざと美しい星空だとか、美しい日の出だとかを見せつけてくる。
たとえばいじめ。それはある日突然始まり、終わりの見えないトンネルに放り出されたように、心許ない道を一人歩む羽目になる。
*
黒い学ランに足跡がついていく。砂の茶色、埃の灰色が、まるで校庭に引かれた白線のように背に刻まれていく。
陸上部、サッカー部、野球部、みんな違ってみんな鍛え抜かれた蹴りが容赦なく俺を襲う。
「おいビリ、遊んでやるよ」
アイツらは休み時間になる度、俺を廊下へ連れ出し暴行を加えた。
見かねた教師に指摘されていれば「(ボールは)トモダチ(笑)ですよ」「遊んでるうちにテンション上がっちゃいました」「遊んでただけだよな、な?」と背中を抓る。
痛みに「イッ」と声を出せば「はい」だと受け取りたい教師は「ほどほどにしなさい」と言って立ち去っていく。……随分と都合の良い耳をしているものだ。
チャイムが鳴ると、蜘蛛の子を散らしたようにアイツらは居なくなる。俺は学ランの汚れを払ってから教室へ入る。黒い生地に押された生贄の烙印は払ったくらいでは消えてくれない。
「……大丈夫?」
後ろから声を掛けてきたのは一倉《いちくら》だった。一倉は廊下に転がった松葉杖を拾って差し出した。俺は礼も言わず黙ってそれを受け取った。顎先で教室の扉を指し示す。
「先に入れよ、つるんでると思われたら厄介だから」
一倉は何か言いたげな顔をしながら、その小動物みたいな体を扉の隙間に滑り込ませた。俺は少し間を置いてからその後に続く。
授業が始まると安心する。これで五十分間は誰にも手が出せない。
中学三年、高校受験を控えた秋、突然いじめは始まった。
原因は体育祭のクラス対抗リレーだった。俺以外は運動部で活躍していた奴らで、アンカーは陸上部の元部長。勝利は約束されていて、一組はぶっちぎりの一位をキープしていた。
俺が転ぶまでは。
その上ただ転んだだけではなく、足を痛め救急車を呼ばれ退場。アンカーの陸上部はゴールすら出来ずにビリ。未だに他クラスの奴らからは「イチビリ」などと揶揄われている。
受験のために夏で部活を引退した奴らの発散の場のはずが、行き場を失ったストレスはいじめという形で表出した。
大人に相談したかって? したよ。真っ先に。
「アイツらも部活を引退して、持て余してるんだ。体育祭で発散できなかった分大目に見てやれ」
だけど担任の体育教師は加害者側の脳筋人間だった。
もちろん、親にも相談したさ。
「卒業までの我慢だよ。どうせ半年後には違う学校に行くんだから」
ところが、親もそっち側だった。そうだよな、俺より教師の方が歳が近いもんな。
「だからこそだろ。内申点下げてやらないと」
「アンタはいつからそんな卑怯者になったの。正々堂々実力で勝負して、良い学校に行けばいいの。波風立てて良いことないんだから」
……十数年生きてきて分かったことがある。
この世界は正義と悪だけで出来ていない。悪を是正する訳でもなく、世界はそんなものだと追随する、いわゆる傍観者の方が多い。
罪には罰を。悪には裁きを。大人がやっていることは問題を先送りにしているだけだ。取り返しのつかないことになってからでは遅いのに。
結局、担任は加害者と被害者を同じ部屋に集め、事実確認と言う名の言い訳大会が開かれ、形だけの謝罪をされた。謝ったから許しましょう、なんてのは幼稚園くらいでしか通用しない綺麗事だ。反吐が出る。綺麗事や正論でいじめがなくなるなら、自殺者数が増える訳がない。
喧嘩両成敗でこの話は終わり、なんて無理矢理片をつけたところで得をするのは残業をしたくない教師と仕事を休みたくない保護者だけで、いじめは隠れて繰り返され、一度押された烙印が消えることはない。
子供にとっての一日が長いことを、大人は忘れている。学生時代の三年、あるいは六年と言うのは、子供にとっては一生に等しい。たとえ残り半年のことだったとしても。
卒業するまでの我慢だからと言うのも所詮、生存者バイアスだ。卒業する前に死んだ奴らの言葉はない。死人に口無しだ。
ああ、またチャイムが鳴ってしまう。五十分の天国より、たった十分の地獄の方が、耐え難いほど長い。
*
アイツらの行動パターンは決まっている。休憩時間は廊下、放課後は校舎裏。やることはいつも同じ。よく飽きもしないものだ。
野球部に突き飛ばされて地面に這いつくばる。布越しに膝を刺す小石の鋭さに顔を歪める。
野球部が言う。
「お前のせいだよ、ビリ」
そうかもな。俺が転ばなければ、今こんなことにはなっていない。
サッカー部が言う。
「自業自得じゃん?」
そうかもしれない。でも全部俺のせいな訳ないだろ。
陸上部が言う。
「救急車呼んだのだって責められるのが嫌だからだろ? 大袈裟に松葉杖までついて恥ずかしくないのかよ、ビビリ」
だけどその言葉には、カッと顔が赤くなった。
実際、数日前に病院で俺の足は既に治っていると医者に言われた。だけどギプスが外れてからも俺の足は動かなかった。精神的な問題、と言われた。
だから図星だ。俺がビリになったビビリなのは本当のことだ。
だけど、それは責められることなのか?
そもそも、クラス対抗リレーに出されたのだって無理矢理だ。
立候補制で決まるまで帰れない帰りの会。押し付けられた走者。任されたからにはそれなりに練習もした。
だけどその結果がこれだ。裁かれない加害者。這いつくばる俺。窓越しに見下ろす視線。笑い声。
押し付けた癖に結果に文句を言うなよ。笑うなよ。ならお前が走れば良かっただろ。なんで俺なんだよ。
地べたに這いつくばっていると、一匹の蟻が目に入った。自分の体よりも大きな虫の死骸を巣に持ち帰ろうとしている。働き蟻だ。
働き蟻を集めると、一定の割合で働かない蟻が生じる。働き蟻だけにしてもその中から働かない蟻が発生し、働かない蟻だけにしても一定の割合で働き蟻が産まれると言う。
同じように、広い海の中ではそれぞれが自由に泳ぎ回るのに、狭い水槽に入れた途端、いじめが発生する。いじめられている一匹を救い出しても、また別の一匹がいじめの対象になる。
つまり、どんな生物でも構造上の問題で、狭い環境に押し込められれば一定の割合で加害者と被害者に分かれる。共同体の生存率を上げるためではなく、ただ集団の憂さを晴らすために。だからと言って耐えられる訳がない。
「いじめは悪いことだからやめよう」なんて言ったって、「お菓子を食べ過ぎたら虫歯になる」と言ってるのと同じで、悪いことだと自覚しながらちょっとだけ、をやめられなくてエスカレートしていく。「いじめられる側も悪い」なんて言うのは「お菓子が甘くて美味しいのが悪い」と言うようなものだ。
いじめなんて言葉で矮小化するから、この世からいじめはなくならない。暴行罪、傷害罪、脅迫罪、恐喝罪、強要罪、正しい名前がある。罰で抑止しなければ、自分が不利益を被ると学習しなければ、人は他者を傷付けることを止められない。それが生物としての本質だ。
目の前に居るのは動物だ。人間じゃない。善性を獲得しようと足掻こうとしない奴が、理性的な人間であるはずがない。
「……お前のその目が」
陸上部が口を開いた。
「お前のその人を見下したような目が気に食わないんだよ」
陸上部は俺の髪を掴み上げた。
「お前さ、俺らがバカだから分からないって思ってるんだろうけど、勉強できない奴のこと見下してるだろ?」
そうだよ。俺はお前らのことを見下してる。だからお前らの名前も覚えてないし、覚える価値もないと思ってる。
「俺らは運動できない奴のこと見下してる。どっちも相手を下に見たいからマウント取り合うしかないだろ? そしたら結局フィジカル強い奴が勝つんだよ。お前らがどんだけ大層な才能を持ってたとしても、物理的に潰しちまえば無意味、ってな」
陸上部は俺の髪を力任せに引き抜いた。ブチブチと髪が抜ける感覚がして思わず声が出た。
「あーあ。ストレスでハゲちゃったよ」
野球部がゲラゲラ笑っている。
「頭がいいなら賢く生きなきゃな? 見下すにしたって目にも入ってませんよって態度を取らないと。まぁお前と違って、俺ら目立ちすぎて無視できないだろうけどさ」
サッカー部が耳元で囁いた。
惨めだった。その通りだったから。声が大きいヤツ、体が大きいヤツの言葉ばかりが通る世の中で。努力が公正に評価されるのは勉強しかないと思った。
だけどこの世界は全然公正なんかじゃなくて。発展途上の今、生物としての強度が低いヤツは、ヒエラルキーの最底辺に追いやられる。一度沈めば二度と浮き上がれない——。
不意に足音がして、俺は視線を上げた。
「もうやめなよ」
そこに立っていたのは一倉だった。
「一倉じゃん。何しに来たの?」
「ゴミ捨てだよ。他のクラスの当番も近寄れなくて迷惑してる」
俺よりも小柄で、声も小さくて、手も震えている。なのに、一倉は立ち向かおうと言う。
「いい加減にしなよ。僕ら受験生だよ? こんなことしてる暇あるなら勉強しなよ」
「ハイハイ出たよいい子ちゃん」
「なに? お前も遊んでくれんの?」
サッカー部が一倉に手を伸ばす。俺は片足で立ち上がってその間に割り込んだ。
「今更、しゃしゃってくんなよ」
だけど俺が声を張り上げたのはサッカー部ではなく、一倉の方だった。
「お前みたいな偽善者が一番腹が立つんだよ! 教室では傍観してる癖に今更味方面して! 卑怯なんだよ!」
嘘だった。一番腹が立つのは自分だ。
心配してくれた唯一の友を巻き込まないように、離れていくようにとわざと酷い言葉を投げつけて傷つけた。
それが言い訳に過ぎないことは、俺自身分かってる。俺は一倉みたいにはなれない、ただその劣等感をぶつけただけだった。
「……そう。ならもう何も言わないよ。ゴミ、捨てといてね」
一倉はそう言って背を向けた。
「あーあ、なんか冷めちゃったな」
「もう行こうぜ」
「ゴミ、お前捨てとけよ」
アイツらが去った後、残されたのはゴミと、ちっぽけな俺だけだった。
……俺って、何のために生きてるんだっけ。生き物として弱くて。正しくもなれなくて。ゴミじゃん。
このまま擦り減ってしまうだけの命なら。せめて最期くらい、誰かの役に立って死ねたなら。俺の命にも、意義は見出せるのかな。
俺のせいで一倉を巻き込んだ。告発しないと。大事にしないと。
教師に言っても、親に言っても解決しない。なら、人ひとり分の命の説得力をもって、問題提起をしてやる。
*
「おかえり……それどうしたの」
学ランに着いた足跡に母は眉を顰めた。普段は砂を払ってから帰宅するのに、今日はそうしなかった。
人はどこで線引きをするのだろう。薄くても濃くても、汚されていることに変わりはないのに。
俺は母を無視して自室の鍵を掛けた。外から母が何かを言う声がしたが、ヘッドフォンで耳を塞いだ。存分に気を揉めばいい。今まで俺の声を聞こうとしなかった罰だと思った。
机に向かってノートを開く。書くのは遺書だ。いじめを苦にして自殺したことを印象付けなければならない。何度も消しゴムで消して書き直して、書き損じをゴミ箱に投げ入れた。
『これは遺書です。いじめを苦にして自殺します。主犯は体育祭でリレーを走った三人です。だけど見て見ぬフリをしていた奴らも同罪です。クラスメイトも担任も親も、全員。一倉だけは俺を庇ってくれました。でも一倉も俺のせいでいじめられそうになっています。だから俺の死は告発であり、問題提起です。いじめられている側の口を塞ぎ、いじめをする奴を野放しにしておくことが本当に正しいことなのか。流石に人が死ねば大人も動くでしょう。俺の心はもう死んでいて、自分の命の価値を信じることができません。だからせめて意味があると思うことに使います』
書き終わる頃には、夜が明けようとしていた。午前四時過ぎ。まだ誰も起きていないようだ。
俺は遺書をポケットを捩じ込み、そっと扉を開け部屋を出た。扉の脇にラップを掛けられた食事が用意されている。少しだけ罪悪感を覚えるが、死を決意した俺にはもう不要なものでしかない。
音を立てないように家を出るため、鍵も掛けず松葉杖を持ち出すこともなかった。塀伝いに進めば、時間は掛かっても学校へは辿り着くだろう。
冬の早朝は流石にまだ冷える。冷えた塀から伝わる温度は、俺の体も、頭も冷やしてくれる。
ああ、なんて澄んだ空気だろう。なんて美しい世界だろう。なのにどうして、俺だけがこんなに汚い。
朝練のために開けられた門の近くに人は居ない。俺はなるべく死角を選んで校舎裏へ向かう。
学校は丘の上にあり、ゴミ捨て場の向こうには森が広がっている。フェンスに穴が空いていることには、おそらく俺以外、誰も気付いていない。
そう思っていたのに。
「……何で居るんだよ」
俺が飛び降りようと思っていた場所に、一倉が居た。いつからそこに居たのか、鼻の頭と耳の先が赤くなっている。
「昨日、様子がおかしかったから。何もなければそれに越したことないし。……でも、来てよかったよ」
一倉は立ち上がりズボンを払うと、俺に向かって手を差し出した。
「さぁ、遺書を出して。破るから」
「……何だよ、それ。人の覚悟を何だと思ってるんだよ」
「必要がない覚悟だからだよ」
「お前が決めるな」
「僕のためだろ。次の標的にならないように。僕が要らないって言ってる。口実に使うなよ」
「じゃあどうすればいいんだよ! ずっといじめられてろってか? 止まない雨はないじゃなくて、今傘をくれって話をしてるんだろ!」
何言ってるんだろ、俺。一倉だけは傘を差してくれたのに。
「一緒に濡れてやる、って言ってるんだよ!」
一倉は負けじと声を張り上げた。
……一倉はバカだ。俺なんかのために自分まで犠牲にする必要はないのに。
一瞬の隙を突いて、一倉は俺のポケットからはみ出た遺書を奪い取った。取り返そうとした手が宙を切る。クソ、精神的な問題って言うなら、何で今動かないんだよ!
「おい、返せよ」
「嫌だ」
一倉は力一杯遺書を破った。雷が貫くように遺書に一筋の線が走った瞬間、痛みにも似た衝撃が胸を貫いた。
「遺書がないとアイツらのせいだって証明できないだろ! だから生きろ! 生きてもう一度遺書を書け!」
ビリビリに破かれた遺書が風に舞う。紙吹雪となったその向こうで、一倉の瞳に浮かぶ大粒の涙に世界が映り込んでいた。
「だから死ぬなんて言うなよ……」
俺も一倉も涙と鼻水でズタボロなのに、まざまざと見せつけられる世界はあまりに美しくて。逆光の内に居る俺の目には、あまりにも眩しすぎるのに。
なのにそれを救いだと思ってしまった、俺が一番のバカだったんだ。
—了—
たとえば動画広告。物欲やコンプレックスを掻き立て消費行動を取らせようという態度が癪に障る。
たとえば世界。こちらが涙やら鼻水やらを垂らしてグズグズになっている時でさえ、世界はまざまざと美しい星空だとか、美しい日の出だとかを見せつけてくる。
たとえばいじめ。それはある日突然始まり、終わりの見えないトンネルに放り出されたように、心許ない道を一人歩む羽目になる。
*
黒い学ランに足跡がついていく。砂の茶色、埃の灰色が、まるで校庭に引かれた白線のように背に刻まれていく。
陸上部、サッカー部、野球部、みんな違ってみんな鍛え抜かれた蹴りが容赦なく俺を襲う。
「おいビリ、遊んでやるよ」
アイツらは休み時間になる度、俺を廊下へ連れ出し暴行を加えた。
見かねた教師に指摘されていれば「(ボールは)トモダチ(笑)ですよ」「遊んでるうちにテンション上がっちゃいました」「遊んでただけだよな、な?」と背中を抓る。
痛みに「イッ」と声を出せば「はい」だと受け取りたい教師は「ほどほどにしなさい」と言って立ち去っていく。……随分と都合の良い耳をしているものだ。
チャイムが鳴ると、蜘蛛の子を散らしたようにアイツらは居なくなる。俺は学ランの汚れを払ってから教室へ入る。黒い生地に押された生贄の烙印は払ったくらいでは消えてくれない。
「……大丈夫?」
後ろから声を掛けてきたのは一倉《いちくら》だった。一倉は廊下に転がった松葉杖を拾って差し出した。俺は礼も言わず黙ってそれを受け取った。顎先で教室の扉を指し示す。
「先に入れよ、つるんでると思われたら厄介だから」
一倉は何か言いたげな顔をしながら、その小動物みたいな体を扉の隙間に滑り込ませた。俺は少し間を置いてからその後に続く。
授業が始まると安心する。これで五十分間は誰にも手が出せない。
中学三年、高校受験を控えた秋、突然いじめは始まった。
原因は体育祭のクラス対抗リレーだった。俺以外は運動部で活躍していた奴らで、アンカーは陸上部の元部長。勝利は約束されていて、一組はぶっちぎりの一位をキープしていた。
俺が転ぶまでは。
その上ただ転んだだけではなく、足を痛め救急車を呼ばれ退場。アンカーの陸上部はゴールすら出来ずにビリ。未だに他クラスの奴らからは「イチビリ」などと揶揄われている。
受験のために夏で部活を引退した奴らの発散の場のはずが、行き場を失ったストレスはいじめという形で表出した。
大人に相談したかって? したよ。真っ先に。
「アイツらも部活を引退して、持て余してるんだ。体育祭で発散できなかった分大目に見てやれ」
だけど担任の体育教師は加害者側の脳筋人間だった。
もちろん、親にも相談したさ。
「卒業までの我慢だよ。どうせ半年後には違う学校に行くんだから」
ところが、親もそっち側だった。そうだよな、俺より教師の方が歳が近いもんな。
「だからこそだろ。内申点下げてやらないと」
「アンタはいつからそんな卑怯者になったの。正々堂々実力で勝負して、良い学校に行けばいいの。波風立てて良いことないんだから」
……十数年生きてきて分かったことがある。
この世界は正義と悪だけで出来ていない。悪を是正する訳でもなく、世界はそんなものだと追随する、いわゆる傍観者の方が多い。
罪には罰を。悪には裁きを。大人がやっていることは問題を先送りにしているだけだ。取り返しのつかないことになってからでは遅いのに。
結局、担任は加害者と被害者を同じ部屋に集め、事実確認と言う名の言い訳大会が開かれ、形だけの謝罪をされた。謝ったから許しましょう、なんてのは幼稚園くらいでしか通用しない綺麗事だ。反吐が出る。綺麗事や正論でいじめがなくなるなら、自殺者数が増える訳がない。
喧嘩両成敗でこの話は終わり、なんて無理矢理片をつけたところで得をするのは残業をしたくない教師と仕事を休みたくない保護者だけで、いじめは隠れて繰り返され、一度押された烙印が消えることはない。
子供にとっての一日が長いことを、大人は忘れている。学生時代の三年、あるいは六年と言うのは、子供にとっては一生に等しい。たとえ残り半年のことだったとしても。
卒業するまでの我慢だからと言うのも所詮、生存者バイアスだ。卒業する前に死んだ奴らの言葉はない。死人に口無しだ。
ああ、またチャイムが鳴ってしまう。五十分の天国より、たった十分の地獄の方が、耐え難いほど長い。
*
アイツらの行動パターンは決まっている。休憩時間は廊下、放課後は校舎裏。やることはいつも同じ。よく飽きもしないものだ。
野球部に突き飛ばされて地面に這いつくばる。布越しに膝を刺す小石の鋭さに顔を歪める。
野球部が言う。
「お前のせいだよ、ビリ」
そうかもな。俺が転ばなければ、今こんなことにはなっていない。
サッカー部が言う。
「自業自得じゃん?」
そうかもしれない。でも全部俺のせいな訳ないだろ。
陸上部が言う。
「救急車呼んだのだって責められるのが嫌だからだろ? 大袈裟に松葉杖までついて恥ずかしくないのかよ、ビビリ」
だけどその言葉には、カッと顔が赤くなった。
実際、数日前に病院で俺の足は既に治っていると医者に言われた。だけどギプスが外れてからも俺の足は動かなかった。精神的な問題、と言われた。
だから図星だ。俺がビリになったビビリなのは本当のことだ。
だけど、それは責められることなのか?
そもそも、クラス対抗リレーに出されたのだって無理矢理だ。
立候補制で決まるまで帰れない帰りの会。押し付けられた走者。任されたからにはそれなりに練習もした。
だけどその結果がこれだ。裁かれない加害者。這いつくばる俺。窓越しに見下ろす視線。笑い声。
押し付けた癖に結果に文句を言うなよ。笑うなよ。ならお前が走れば良かっただろ。なんで俺なんだよ。
地べたに這いつくばっていると、一匹の蟻が目に入った。自分の体よりも大きな虫の死骸を巣に持ち帰ろうとしている。働き蟻だ。
働き蟻を集めると、一定の割合で働かない蟻が生じる。働き蟻だけにしてもその中から働かない蟻が発生し、働かない蟻だけにしても一定の割合で働き蟻が産まれると言う。
同じように、広い海の中ではそれぞれが自由に泳ぎ回るのに、狭い水槽に入れた途端、いじめが発生する。いじめられている一匹を救い出しても、また別の一匹がいじめの対象になる。
つまり、どんな生物でも構造上の問題で、狭い環境に押し込められれば一定の割合で加害者と被害者に分かれる。共同体の生存率を上げるためではなく、ただ集団の憂さを晴らすために。だからと言って耐えられる訳がない。
「いじめは悪いことだからやめよう」なんて言ったって、「お菓子を食べ過ぎたら虫歯になる」と言ってるのと同じで、悪いことだと自覚しながらちょっとだけ、をやめられなくてエスカレートしていく。「いじめられる側も悪い」なんて言うのは「お菓子が甘くて美味しいのが悪い」と言うようなものだ。
いじめなんて言葉で矮小化するから、この世からいじめはなくならない。暴行罪、傷害罪、脅迫罪、恐喝罪、強要罪、正しい名前がある。罰で抑止しなければ、自分が不利益を被ると学習しなければ、人は他者を傷付けることを止められない。それが生物としての本質だ。
目の前に居るのは動物だ。人間じゃない。善性を獲得しようと足掻こうとしない奴が、理性的な人間であるはずがない。
「……お前のその目が」
陸上部が口を開いた。
「お前のその人を見下したような目が気に食わないんだよ」
陸上部は俺の髪を掴み上げた。
「お前さ、俺らがバカだから分からないって思ってるんだろうけど、勉強できない奴のこと見下してるだろ?」
そうだよ。俺はお前らのことを見下してる。だからお前らの名前も覚えてないし、覚える価値もないと思ってる。
「俺らは運動できない奴のこと見下してる。どっちも相手を下に見たいからマウント取り合うしかないだろ? そしたら結局フィジカル強い奴が勝つんだよ。お前らがどんだけ大層な才能を持ってたとしても、物理的に潰しちまえば無意味、ってな」
陸上部は俺の髪を力任せに引き抜いた。ブチブチと髪が抜ける感覚がして思わず声が出た。
「あーあ。ストレスでハゲちゃったよ」
野球部がゲラゲラ笑っている。
「頭がいいなら賢く生きなきゃな? 見下すにしたって目にも入ってませんよって態度を取らないと。まぁお前と違って、俺ら目立ちすぎて無視できないだろうけどさ」
サッカー部が耳元で囁いた。
惨めだった。その通りだったから。声が大きいヤツ、体が大きいヤツの言葉ばかりが通る世の中で。努力が公正に評価されるのは勉強しかないと思った。
だけどこの世界は全然公正なんかじゃなくて。発展途上の今、生物としての強度が低いヤツは、ヒエラルキーの最底辺に追いやられる。一度沈めば二度と浮き上がれない——。
不意に足音がして、俺は視線を上げた。
「もうやめなよ」
そこに立っていたのは一倉だった。
「一倉じゃん。何しに来たの?」
「ゴミ捨てだよ。他のクラスの当番も近寄れなくて迷惑してる」
俺よりも小柄で、声も小さくて、手も震えている。なのに、一倉は立ち向かおうと言う。
「いい加減にしなよ。僕ら受験生だよ? こんなことしてる暇あるなら勉強しなよ」
「ハイハイ出たよいい子ちゃん」
「なに? お前も遊んでくれんの?」
サッカー部が一倉に手を伸ばす。俺は片足で立ち上がってその間に割り込んだ。
「今更、しゃしゃってくんなよ」
だけど俺が声を張り上げたのはサッカー部ではなく、一倉の方だった。
「お前みたいな偽善者が一番腹が立つんだよ! 教室では傍観してる癖に今更味方面して! 卑怯なんだよ!」
嘘だった。一番腹が立つのは自分だ。
心配してくれた唯一の友を巻き込まないように、離れていくようにとわざと酷い言葉を投げつけて傷つけた。
それが言い訳に過ぎないことは、俺自身分かってる。俺は一倉みたいにはなれない、ただその劣等感をぶつけただけだった。
「……そう。ならもう何も言わないよ。ゴミ、捨てといてね」
一倉はそう言って背を向けた。
「あーあ、なんか冷めちゃったな」
「もう行こうぜ」
「ゴミ、お前捨てとけよ」
アイツらが去った後、残されたのはゴミと、ちっぽけな俺だけだった。
……俺って、何のために生きてるんだっけ。生き物として弱くて。正しくもなれなくて。ゴミじゃん。
このまま擦り減ってしまうだけの命なら。せめて最期くらい、誰かの役に立って死ねたなら。俺の命にも、意義は見出せるのかな。
俺のせいで一倉を巻き込んだ。告発しないと。大事にしないと。
教師に言っても、親に言っても解決しない。なら、人ひとり分の命の説得力をもって、問題提起をしてやる。
*
「おかえり……それどうしたの」
学ランに着いた足跡に母は眉を顰めた。普段は砂を払ってから帰宅するのに、今日はそうしなかった。
人はどこで線引きをするのだろう。薄くても濃くても、汚されていることに変わりはないのに。
俺は母を無視して自室の鍵を掛けた。外から母が何かを言う声がしたが、ヘッドフォンで耳を塞いだ。存分に気を揉めばいい。今まで俺の声を聞こうとしなかった罰だと思った。
机に向かってノートを開く。書くのは遺書だ。いじめを苦にして自殺したことを印象付けなければならない。何度も消しゴムで消して書き直して、書き損じをゴミ箱に投げ入れた。
『これは遺書です。いじめを苦にして自殺します。主犯は体育祭でリレーを走った三人です。だけど見て見ぬフリをしていた奴らも同罪です。クラスメイトも担任も親も、全員。一倉だけは俺を庇ってくれました。でも一倉も俺のせいでいじめられそうになっています。だから俺の死は告発であり、問題提起です。いじめられている側の口を塞ぎ、いじめをする奴を野放しにしておくことが本当に正しいことなのか。流石に人が死ねば大人も動くでしょう。俺の心はもう死んでいて、自分の命の価値を信じることができません。だからせめて意味があると思うことに使います』
書き終わる頃には、夜が明けようとしていた。午前四時過ぎ。まだ誰も起きていないようだ。
俺は遺書をポケットを捩じ込み、そっと扉を開け部屋を出た。扉の脇にラップを掛けられた食事が用意されている。少しだけ罪悪感を覚えるが、死を決意した俺にはもう不要なものでしかない。
音を立てないように家を出るため、鍵も掛けず松葉杖を持ち出すこともなかった。塀伝いに進めば、時間は掛かっても学校へは辿り着くだろう。
冬の早朝は流石にまだ冷える。冷えた塀から伝わる温度は、俺の体も、頭も冷やしてくれる。
ああ、なんて澄んだ空気だろう。なんて美しい世界だろう。なのにどうして、俺だけがこんなに汚い。
朝練のために開けられた門の近くに人は居ない。俺はなるべく死角を選んで校舎裏へ向かう。
学校は丘の上にあり、ゴミ捨て場の向こうには森が広がっている。フェンスに穴が空いていることには、おそらく俺以外、誰も気付いていない。
そう思っていたのに。
「……何で居るんだよ」
俺が飛び降りようと思っていた場所に、一倉が居た。いつからそこに居たのか、鼻の頭と耳の先が赤くなっている。
「昨日、様子がおかしかったから。何もなければそれに越したことないし。……でも、来てよかったよ」
一倉は立ち上がりズボンを払うと、俺に向かって手を差し出した。
「さぁ、遺書を出して。破るから」
「……何だよ、それ。人の覚悟を何だと思ってるんだよ」
「必要がない覚悟だからだよ」
「お前が決めるな」
「僕のためだろ。次の標的にならないように。僕が要らないって言ってる。口実に使うなよ」
「じゃあどうすればいいんだよ! ずっといじめられてろってか? 止まない雨はないじゃなくて、今傘をくれって話をしてるんだろ!」
何言ってるんだろ、俺。一倉だけは傘を差してくれたのに。
「一緒に濡れてやる、って言ってるんだよ!」
一倉は負けじと声を張り上げた。
……一倉はバカだ。俺なんかのために自分まで犠牲にする必要はないのに。
一瞬の隙を突いて、一倉は俺のポケットからはみ出た遺書を奪い取った。取り返そうとした手が宙を切る。クソ、精神的な問題って言うなら、何で今動かないんだよ!
「おい、返せよ」
「嫌だ」
一倉は力一杯遺書を破った。雷が貫くように遺書に一筋の線が走った瞬間、痛みにも似た衝撃が胸を貫いた。
「遺書がないとアイツらのせいだって証明できないだろ! だから生きろ! 生きてもう一度遺書を書け!」
ビリビリに破かれた遺書が風に舞う。紙吹雪となったその向こうで、一倉の瞳に浮かぶ大粒の涙に世界が映り込んでいた。
「だから死ぬなんて言うなよ……」
俺も一倉も涙と鼻水でズタボロなのに、まざまざと見せつけられる世界はあまりに美しくて。逆光の内に居る俺の目には、あまりにも眩しすぎるのに。
なのにそれを救いだと思ってしまった、俺が一番のバカだったんだ。
—了—
