好きな人の好きな人を好きな人

 三階の部室から一階の職員室へおりて鍵を返却。
 それから四階まで戻って昇降口へ。
 そこそこ長い道程だったが、西町さんとは一言も交わさなかった。

 僕たちはお互いの秘密を知らない。
 事故はなかったし事件もなかった。
 そういうことにした。

 僕たちに共有する過去はなく、もちろん共に見る未来もない。
 となれば話すことなんて何もない。
 昨日と同じく、昇降口では『じゃあね』とお別れするだけ。

 なんて思っていたから、西町さんの発言には少なからず驚かされた。

「環くん、今日も自転車?」

 下校手段。
 それは昇降口の外の話。
 ほんのちょっとではあっても未来の話だった。

「さすがにこの雨だし、今日は電車だよ」

「わたしも電車。じゃあ駅までいっしょだね」

 そして西町さんは傘立てから青い傘を引き抜き、外へと出ていった。
 ワンコイン未満のビニル傘を手にとり、僕も西町さんを追う。

「本当はバスのほうが楽みたい。校門前のバス停からうちの近くまで行けるらしいんだけど」

 踊り場で並びかけると、西町さんは前を向いたままそうこぼした。

「路線も多いし、バスはどこへ行くのかわかりづらいよね」

 僕が後を引き継ぐと、西町さんは「そうなの」と短く応えた。

 外階段の一番下で傘を開く。
 いっしょに帰るとはいっても、雨の中で会話は難しい。
 それに、学校の最寄り駅までの道は並んで歩けるほど広くもない。
 駅までの道のりを、僕は西町さんの青い傘を見ながら無言で歩いた。



 遠衛学園の最寄り駅である遠州(えんしゅう)鉄道八幡(はちまん)駅は高架駅だ。
 大通りの上にポツリと浮いている。

 電車通学の西町さんは定期券を持っているが、普段自転車で通っている僕は切符を買う必要があった。
 改札の向こうで待っていた西町さんに「お待たせ」と声をかける。

 乗る電車は同じ下り方面だというので、同じホームへと階段をのぼる。

 と、すぐに赤い電車がやってきた。
 車内は空いていたけれど、西町さんは席につかずドアのそばに立ち、窓の外に視線を向けた。

「この電車、『赤電』って呼ぶんでしょ?」

「うん。JRは市外とか遠くに出かけるとき乗るもので、『赤電』は普段づかいって感じかな」

「そういう感覚なんだ」

「東京って電車だらけだよね。小学校のとき修学旅行で行ったけど、路線図が絡まった糸みたいだったよ」

「都心は地下鉄とかいっぱい走ってるけど、わたしが住んでた西のほうはそうでもなかったよ」

 西町さんは苦笑いを含んだ声音で応えた。

「うちのあたりは本当普通の住宅街。いま見えてるこの景色、懐かしいな。家の屋根が海みたいに広がってて、ところどころにマンションとかが島みたく浮いてて。うちの近くを走ってる中央線から見下ろすと、ちょうどこんな感じだったよ」

「東京にこんな田舎な光景存在するの?」

「浜松は田舎じゃないでしょう。一面住宅地だし。地方都市って感じ」

「ちょっと行けば田んぼだらけだよ」

「うちのほうだって畑あったよ」

「西町さんがいたのって、本当に東京なの? 埼玉とか千葉じゃなくて?」

「環くんの中の関東どうなってるの……」

 呆れ声でそう言った後、西町さんは小さく笑みをこぼした。

「こうして普通に話すの初めてかもね」

「奇遇だね。僕も同じこと思ってた。これまでは敬語で距離おかれるか、リアクション芸されるかどっちかだったから」

「気のせいかな。わたしが悪いみたいに聞こえるんだけど」

 ブレザー事件は完全に西町さんの罪だよ、と言おうとしたところで電車は上島駅に到着した。

「じゃあね、環くん。わたしここの駅だから」

「そうなんだ。僕もだよ」

 と告げた瞬間、西町さんは「さては後をつける気ね!」と身がまえた。

「違うから! 何なら僕生まれたときからこのへん住んでるから」

 僕の反応に西町さんは相好をくずし、「環くんは生まれながらのストーカーなんだねえ」と笑いながらホームへと降り立った。

「雨やんでるね。助かった」

 西町さんのイジりには応えず、半ばひとり言のようにつぶやく。
 ホームの屋根、その向こうでは雲の切れ間から夕方の紅い空がのぞいていた。

 改札を出て自動ドアをくぐると、通路が左右に伸びている。

「僕こっちだけど」

 東口の方を指さすと、西町さんは「わたしはこっち」と西口のほうに体を向けた。

「別れた後、つけてこないでよ?」

「そのネタいつまで引っぱるのさ。じゃあね、また明日」

 手を振り、踵を返したその瞬間。

「ねえ、環くん」

 西町さんが声をかけてきた。

「どこか寄ってかない?」

 振り向くと、西町さんは落ちつかない様子で、床に突き立てた傘をクルクルと回していた。