文芸部には、備品として古いノートパソコンが置いてある。
分厚くて、重くて、起動中はブーンと小さな音を出し続ける年代物。
しかも部室にはネット環境なんてないからウェブページの一つも見られない。
そんな置物を、怜先輩はいつも自席で広げている。
そしてキーボードをカタカタと鳴らし続けている。
少し前、西町さんが怜先輩に訊いたことがある。
『何を書いているんですか?』と。
怜先輩は『小説だよ』と何てことのないように応えた。
僕は思わず『おおー』とか声を出してしまった。
だってそんな堂々と宣言するなんて。
僕だったら恥ずかしくて『適当な文章、日記みたいなもんだよ』とかはぐらかしてしまいそう。
そんな怜先輩だけど、いつもノートパソコンとにらめっこをしているわけではない。
本を読んでいることもあるし、くらら先輩の振った雑談に応えることもあるし、何なら自分から僕や西町さんに話しかけてきたりもする。
「環、最近どうだ?」
いまもそうだ。
ノートパソコンの画面から顔を上げた怜先輩が、僕に話しかけてくれる。
思春期の娘をもったお父さんみたいだとか少し思ってしまうけれど、実際のところ怜先輩は一つ年上なだけとは思えないほどに落ち着いていて大人っぽい。
「こないだ教わった『われはロボット』、おもしろかったです。SFは難しいってイメージだったんですが、さらっと読めました」
「もう古典だが、おもしろいものはおもしろいだろう」
と、満足気にうなずく怜先輩。
先輩はSFやミステリに造詣が深く、そうしたジャンルの本をよく紹介してくれる。
その他に最近の文芸や近代文学なども読んでいるらしい。
何だろう。どれも似あい過ぎていてしゃれにならない。
「アシモフがいけるなら、そうだな。確かこのあたりに……」
怜先輩が立ち上がり、隙間という隙間まで本で埋め尽くされた本棚へと向かっていく。
「次はこれなんてどうだ」
「ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』、ですか。分厚いですね。読めるかな……」
「合わなかったら途中でやめればいいさ」
と、怜先輩は古くて分厚い文庫本を僕に手渡した。
「なんか途中でやめるのって敗北感があるんですよね」
「気にするな。読者が途中で読むのをやめたなら、そのとき負けたのは作者のほうだ。読むか読まざるか、選ぶ権利は読者にある。そしておもしろい本なんて世の中ごまんとある。合わなかったらさっさと次にいけばいい」
この優しさ。
面倒見のよさ。
読書初級者の僕に対してプレッシャーをかけまいとする気遣い。
思わず『先輩ついていきます!』と告白してしまいそうになる。
ふと気になって隣の席を見る。
西町さんは今日もこっそり文庫本から怜先輩を覗き見していた。
「それにだ。心配しなくていいぞ、環。ハインラインは負けないからな」
「じゃあ、読めるところまで読んでみます。先輩、ありがとうございます」
「環くんは素直でいい後輩だよねえ」
くらら先輩が、満面の笑みをこちらに向ける。
「怜先輩のプレゼンが上手なんですよ」
そして西町さんはさりげなく……いや、あからさまにおべっかを使っている。
こないだまでだったら、いまのセリフに対しても『西町さん大人のコメントだなあ』としか思わなかっただろう。
でもいまとなっては、彼女の背後に巨大なハートマークが浮かんでいるのが見える。
昨日西町さんから『環くんの好意はバレバレ』とか言われたのを思い出す。
目の前に鏡を置いてやりたい。
と、スマホの震える音。
反応したのはくらら先輩だった。
「あ、おばさんからだ。『怜にスマホ見させて』だって」
「またか。というか怜ちゃんはやめろ」
嫌そうな声で怜先輩が応じる。
「サイレント・モードにしてるのが悪いんだよ。おばさん、何だって?」
「……買い物リストだ。『五時までに帰れ』ときた」
「お店のほうで品切れかな。じゃあ早く行かないと。ほら、怜ちゃん」
「くららは来なくていいぞ。僕だけで十分だ」
と、怜先輩はノートパソコンを閉じ、カバンを手にとった。
「そんなこと言って、こないだもお買い物間違えたじゃん。いいから、早く行くよ」
リュックサックを背負い、怜先輩の腕を引っつかむくらら先輩。
「……あの、『おばさん』、『お店』って?」
小さく手を挙げた西町さんが、おずおずと尋ねる。
すごい。勇者だ。
僕にはここで質問を挟む勇気がなかった。
「あ、言ってなかったっけ。あたしたち従姉弟なの。うち『おきつや』って定食屋なんだけど、怜ちゃんのお母さん、あたしのおばさんがお手伝いしてくれてるんだよ」
「へー。幼なじみとは聞いていましたけど。へー。従姉弟どうしって……。へー」
西町さんは『へー』を繰り返すロボットになった。
とりあえず三原則には抵触していない。
でも西町さん、いまとんでもないこと言おうとしてなかった?
『従姉弟同士って結婚できるんですよね』とか、『従姉弟同士って鴨の味ですよね死にたい』とか。
「環、西町さん。悪いが部室の鍵を頼めるか」
怜先輩は鍵を僕に放り投げ、「じゃあな、すまん」と部室を出ていった。
「二人はゆっくりしてていいよ。あ、でも下校時刻は守ってね。バイバーイ!」
半オクターブは高い明るい声でそう言い残し、くらら先輩は部室のドアを閉めた。
「……お気をつけてー」
閉ざされたドアに向けられた西町さんの声が、室内に虚しく響く。
窓の向こうの空は暗い。
まだ雨は止んでいないようだった。
「西町さん」
「うん」
僕が立ち上がると、西町さんもカバンを手にとった。
先輩たちのいない部室にいてもしょうがないだとか、ここで静かにしていると二人の親密なやり取りが脳内無限リフレインで拷問だとか、理由はいろいろあるけれど。
「帰りましょっか」
雨が降っていようがここにいるよりはまし。
その気持ちは、声に出さずとも伝わった。
分厚くて、重くて、起動中はブーンと小さな音を出し続ける年代物。
しかも部室にはネット環境なんてないからウェブページの一つも見られない。
そんな置物を、怜先輩はいつも自席で広げている。
そしてキーボードをカタカタと鳴らし続けている。
少し前、西町さんが怜先輩に訊いたことがある。
『何を書いているんですか?』と。
怜先輩は『小説だよ』と何てことのないように応えた。
僕は思わず『おおー』とか声を出してしまった。
だってそんな堂々と宣言するなんて。
僕だったら恥ずかしくて『適当な文章、日記みたいなもんだよ』とかはぐらかしてしまいそう。
そんな怜先輩だけど、いつもノートパソコンとにらめっこをしているわけではない。
本を読んでいることもあるし、くらら先輩の振った雑談に応えることもあるし、何なら自分から僕や西町さんに話しかけてきたりもする。
「環、最近どうだ?」
いまもそうだ。
ノートパソコンの画面から顔を上げた怜先輩が、僕に話しかけてくれる。
思春期の娘をもったお父さんみたいだとか少し思ってしまうけれど、実際のところ怜先輩は一つ年上なだけとは思えないほどに落ち着いていて大人っぽい。
「こないだ教わった『われはロボット』、おもしろかったです。SFは難しいってイメージだったんですが、さらっと読めました」
「もう古典だが、おもしろいものはおもしろいだろう」
と、満足気にうなずく怜先輩。
先輩はSFやミステリに造詣が深く、そうしたジャンルの本をよく紹介してくれる。
その他に最近の文芸や近代文学なども読んでいるらしい。
何だろう。どれも似あい過ぎていてしゃれにならない。
「アシモフがいけるなら、そうだな。確かこのあたりに……」
怜先輩が立ち上がり、隙間という隙間まで本で埋め尽くされた本棚へと向かっていく。
「次はこれなんてどうだ」
「ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』、ですか。分厚いですね。読めるかな……」
「合わなかったら途中でやめればいいさ」
と、怜先輩は古くて分厚い文庫本を僕に手渡した。
「なんか途中でやめるのって敗北感があるんですよね」
「気にするな。読者が途中で読むのをやめたなら、そのとき負けたのは作者のほうだ。読むか読まざるか、選ぶ権利は読者にある。そしておもしろい本なんて世の中ごまんとある。合わなかったらさっさと次にいけばいい」
この優しさ。
面倒見のよさ。
読書初級者の僕に対してプレッシャーをかけまいとする気遣い。
思わず『先輩ついていきます!』と告白してしまいそうになる。
ふと気になって隣の席を見る。
西町さんは今日もこっそり文庫本から怜先輩を覗き見していた。
「それにだ。心配しなくていいぞ、環。ハインラインは負けないからな」
「じゃあ、読めるところまで読んでみます。先輩、ありがとうございます」
「環くんは素直でいい後輩だよねえ」
くらら先輩が、満面の笑みをこちらに向ける。
「怜先輩のプレゼンが上手なんですよ」
そして西町さんはさりげなく……いや、あからさまにおべっかを使っている。
こないだまでだったら、いまのセリフに対しても『西町さん大人のコメントだなあ』としか思わなかっただろう。
でもいまとなっては、彼女の背後に巨大なハートマークが浮かんでいるのが見える。
昨日西町さんから『環くんの好意はバレバレ』とか言われたのを思い出す。
目の前に鏡を置いてやりたい。
と、スマホの震える音。
反応したのはくらら先輩だった。
「あ、おばさんからだ。『怜にスマホ見させて』だって」
「またか。というか怜ちゃんはやめろ」
嫌そうな声で怜先輩が応じる。
「サイレント・モードにしてるのが悪いんだよ。おばさん、何だって?」
「……買い物リストだ。『五時までに帰れ』ときた」
「お店のほうで品切れかな。じゃあ早く行かないと。ほら、怜ちゃん」
「くららは来なくていいぞ。僕だけで十分だ」
と、怜先輩はノートパソコンを閉じ、カバンを手にとった。
「そんなこと言って、こないだもお買い物間違えたじゃん。いいから、早く行くよ」
リュックサックを背負い、怜先輩の腕を引っつかむくらら先輩。
「……あの、『おばさん』、『お店』って?」
小さく手を挙げた西町さんが、おずおずと尋ねる。
すごい。勇者だ。
僕にはここで質問を挟む勇気がなかった。
「あ、言ってなかったっけ。あたしたち従姉弟なの。うち『おきつや』って定食屋なんだけど、怜ちゃんのお母さん、あたしのおばさんがお手伝いしてくれてるんだよ」
「へー。幼なじみとは聞いていましたけど。へー。従姉弟どうしって……。へー」
西町さんは『へー』を繰り返すロボットになった。
とりあえず三原則には抵触していない。
でも西町さん、いまとんでもないこと言おうとしてなかった?
『従姉弟同士って結婚できるんですよね』とか、『従姉弟同士って鴨の味ですよね死にたい』とか。
「環、西町さん。悪いが部室の鍵を頼めるか」
怜先輩は鍵を僕に放り投げ、「じゃあな、すまん」と部室を出ていった。
「二人はゆっくりしてていいよ。あ、でも下校時刻は守ってね。バイバーイ!」
半オクターブは高い明るい声でそう言い残し、くらら先輩は部室のドアを閉めた。
「……お気をつけてー」
閉ざされたドアに向けられた西町さんの声が、室内に虚しく響く。
窓の向こうの空は暗い。
まだ雨は止んでいないようだった。
「西町さん」
「うん」
僕が立ち上がると、西町さんもカバンを手にとった。
先輩たちのいない部室にいてもしょうがないだとか、ここで静かにしていると二人の親密なやり取りが脳内無限リフレインで拷問だとか、理由はいろいろあるけれど。
「帰りましょっか」
雨が降っていようがここにいるよりはまし。
その気持ちは、声に出さずとも伝わった。


