1/fゆらぎというものがある。
理屈はよく知らないけれど、心地よい音に含まれているものらしい。
この音は人間の心拍音にも含まれている。
生まれる前に母親のお腹の中で聞いていた音に似ているから、1/fゆらぎの音を聞くと安らぐのだとか何とか。
1/fゆらぎを含む音は自然界にも数多く存在している。
雨がシトシト降り注ぐ音。
焚き火がパチパチと燃える音。
小川がサラサラとせせらぐ音。
波がザアザアと寄せては返す音。
僕のスマホにはそうした環境音がたくさん入っている。
リラックス用の環境音は、動画サイトで探せばたくさん見つかるし、音源を集めたCDが百円ショップでも売られている。
外では雨が降っている。
本当なら生の雨音が理想だけど、僕の耳には届いてこない。
僕の席は廊下側だし、五時間目を終えた教室には、眠気を織り交ぜた気怠げな声たちが行き来している。
いつもどおり耳掛けヘッドフォンを装着し、雨の音を流している。
遠く窓の外を見ていると、自分が教室の外、雨がしたたる縁側にでもいるような気分になる。
でも、そうして窓の外を見ていると、どうしてもあの人が視界に入る。
西町さんは、今日も教室のぬるま湯のような空気から一人浮かび、文庫本を読んでいる。
「……きち、たまきちー」
目の前でヒラヒラと手が振られる。
環境音を聞いていても、そばで呼びかけられれば声は聞きとれる。
普段から、周りのみんなには『ヘッドフォンしてても気にせず声かけて』と言っている。
僕は耳を休めたいだけであって、休み時間におしゃべりしたくないわけではないからだ。
「どうしたの、麻里衣?」
耳掛けヘッドフォンを外し、前の席に座る麻里衣に返事をする。
鍋平麻里衣は昔からつるんでいる仲間だ。
小学校、中学校とずっと一緒にやってきた。
やる気のないハスキー・ボイス。
校則違反ギリギリにまでブリーチした髪。
濃いめのメイク。
制服のリボンはダルダル下がり、ブラウスのボタンは開いていて、スカートは腰の上で折り曲げている。
昔から麻里衣はバッチリキメるのが好きだった。
しかし、よく入学一ヶ月でそこまでするものだ。
「さっきからずっと向こう見てるに。 たまきち、西町のことそんなに気になるんけ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべ、親指で窓の方を指す麻里衣。
「うん。同じ文芸部員なんだけど、よくわからなくてさ」
「西町、あんましゃべらんもんね。しゃべらんつーか心の壁築いてるつーか」
と、視界が濃紺の制服で埋め尽くされる。
「環くん、麻里衣。何話してるの?」
机の横に立った希恵ちゃんが、笑顔で僕たちに問いかけてくる。
涸沢希恵も同じ中学校に通っていた仲間の一人だ。
小学校は別だったけれど、中学で校区が同じになった。
少し低めだけどよく通る声。
毛先の整った長めのボブカット。
リボンもスカートも学校案内のパンフレットに載っていそうなくらいキッチリ定位置に収まっている。
いまは一年三組の学級委員。中学時代はサッカー部のマネージャを務めていた。
キッチリ整えるタイプの女子。
それが希恵ちゃんだ。
「ほれ、向こう。西町ってよくわからんにっつー話。希恵ち、何か知らん?」
顎で教室の反対側を指し、麻里衣はそう尋ねた。
「西町さん? うーん」
希恵ちゃんは髪をかきあげながら向こうへと顔を向けた。
「……お嬢さま、お上品、ものしずか? あんまりちゃんとしゃべったことなくって」
麻里衣も希恵ちゃんも人見知りはしないタイプだ。
クラス内の女子男子問わずたいてい誰とでもうまくやれるし、他のクラスにも顔が広い。
食堂ではいつも、僕たち男子テーブルの隣のテーブルで、女子ばかり十人くらい集まってワイワイガヤガヤとご飯を食べている。
そんな二人でも、西町さんについてはろくに知らない。
いまの口ぶりからして、彼女に変態リアクション芸人の一面があるなんて想像すらしていないだろう。当たり前か。
「環くん。西町さんと何かあったの?」
首を傾げ、僕の顔を覗きこんでくる希恵ちゃん。
「文芸部の一年生、二人だけなんだよ。それなりにうまくやらないと気まずくて」
本当のところは口にせず、人当たりのよい言葉だけを紡ぐ。
お互いがお互いを破滅させるだけの秘密を握り合っている、だなんて言えるわけがない。
「そういうことね。確かにそれは気まずいかも」
希恵ちゃんは苦笑いを浮かべてうなずいた。
「やー、あたしてっきり、たまきちは西町目当てで文芸部入ったと思ってたに」
ニヤリと嫌らしい笑みを浮かべる麻里衣を、希恵ちゃんは「こら!」と鋭くたしなめた。
「違うって。僕、もともと本読むの好きだから」
西町さん目当てじゃないというのは本当。
本を読むのが好きというのも本当。
でも文芸部に入った理由は嘘。
というか言えない。先輩目当てで入ったなんて。
希恵ちゃんに叱られた麻里衣は「冗談だって」と、両手で拝むように謝ってきた。
「おーい。お前ら、いいか?」
と、前方のドアから大きな声が響いた。
教室中の視線を一身に受けた巨漢が、大股で僕の席に歩いてくる。
蒲田航一郎も同中の仲間だ。
小学校では少年団、中学校では部活と、ずっと一緒にサッカーをしてきた。
野太く暑苦しい声。
一八〇センチを超える長身。
ツンツンのショートヘア。
肩幅は広く胸板は厚い。
そんな体育会系全開なコーイチは、頼れるCB。
中学の頃はキャプテンも務めていた。
コーイチは脳みそまで筋肉でできているようなバカではない。
相手の一歩先を読むポジショニングで攻撃の芽を摘むクレバーな守備が持ち味だ。
僕たちはの通っていた市立上島中学校から私立遠衛学園高等部への進学者は数少ない。
サッカー部周りだと五人だけだ。
僕、麻利衣、希恵ちゃん、コーイチ、ここにはいないもう一人。
自称とはいえ進学校である遠衛に受かるためには、そこそこの学力が要るということだ。
高等部という言葉からも察せられるとおり、遠衛学園は一貫校だ。
中等部はもちろん初等部まである。
内部進学者が多くを占める遠衛で、僕たちは少数派に属している。
だからこそ紐帯が必要だと、『カミチュー仲間』と名乗り始めたのが希恵ちゃんだ。
周りと区別したら孤立してしまうのではとも思ったけれど、それは杞憂だった。
希恵ちゃんも麻利衣もコーイチも、孤立するような性格はしていなかった。
「今日も校門前で募集するぞ。一人でもいいから入ってもらわんとな」
と、コーイチがいつもどおり鼻息を荒くする。
「あたし、パス。この雨の中とか正気じゃないら」
麻利衣はヒラヒラと手を振ってそっぽを向く。
「お前、晴れてたって手伝わんだろうが」
「雪が降ったら考えるに」
「希恵は?」
「ごめんね。今日は調理部の活動日だから」
両手を合わせ申し訳無さそうにする希恵ちゃん。
「なら仕方ないな」
腕を組んだコーイチが、ふむと頷く。
コーイチのいう『募集』とは、部員募集のことだ。
昨年度なぜか廃部となったサッカー部を、コーイチは復活させようとしている。
しかし、まだ応募者は一人もいない。
部の新設に必要なのは五人の部員と顧問の先生。
部員はカミチュー仲間の五人で揃っているが、顧問をやってくれる先生が見つかっていない。
それはそうだ。女子二人を含め五人だけでは試合どころではない。
もしかしたら昨年廃部となったことも影響しているかもしれない。
なぜ昨年サッカー部が廃部となったのか、その理由はまだわかっていない。
「環、お前は今日できるよな?」
と、コーイチの矛先が僕に向かってきた。
正直、僕はサッカー部新設にそこまて乗り気ではない。
もちろん高校でもみんなとまたサッカーができればいいと思ってはいる。
でも、だ。
たとえ部ができても勝てる見込みはないだろうなと、そうも思ってしまう。
何しろ部員すら集まらない状態だ。
勝つ見込みがゼロ、ただ仲間うちで楽しくボールが蹴られればいい、ということならわざわざ部活を立ち上げなくてもいい。
「ごめん、コーイチ。僕も今日は文芸部に行かないと」
それにだ。
僕には文芸部という居場所もある。
「環も部活か。なら仕方ないな。今日は俺一人でやってくる。また明日は頑張ろうな!」
力強い笑みを残して、コーイチは教室を出ていった。
コーイチは覚悟が違う。
部活必須の遠衛にあって、彼はGW明けのいまも未所属を貫いている。
既成の調和なんて知らんといわんばかりの傍若無人ぷりには感心する。
「ほんと、暑苦しいら」
「それがコーイチくんのいいところだよ」
開けっ放しのドアを見やりながら麻利衣と希恵ちゃんが言葉を交わす。
希恵ちゃんの言うとおり。
その熱量はコーイチの美点だと、僕も思う。
コーイチは主人公だ。
現状をよしとしない調和を乱すのをためらわない。
「ほら、始めるぞ。席着けー」
と、そのドアから先生が入ってくる。
途端に生徒たちが自席へと戻っていく。
希恵ちゃんも「またね」と小さく手を振って離れていった。
小さく手を振り返し、首にかけていたヘッドフォンをカバンにしまう。
「……たまきち、さっきのはごめん」
前を向いた麻里衣が、背中越しにそう告げてくる。
さっきの。
何だろう。謝られるようなことがあっただろうか。
ああ、わかった。
『文芸部に入ったのは西町さん目当て』のくだりか。
話が流れてもう随分経つというのに、麻里衣はずっと気にしていてくれたらしい。
「いいって。ただの冗談だってわかってるよ。仲間なんだから」
部活、先輩、片思い。
そうしたワードで紡がれる、中学時代の楽しくない思い出。
僕の黒歴史を、麻里衣も希恵ちゃんも当然知っている。
何しろ僕らは同じ中学校に通っていた仲間だ。
だから麻里衣は思いつきの冗談で僕を傷つけたのではと心配してくれるし、希恵ちゃんもそんな麻里衣のおふざけを本気でたしなめてくれる。
窓の方へ視線を向ける。
背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見る西町さん。
寂しさなんてない。
現地人なんて邪魔なだけ。
僕とは違う感情の仕組みでできた、東京という別の星から来た異星人。
ついこの間まで、そんなふうに思っていた。
でも最近知った西町さんは。
部活、先輩、片思い。
僕は、彼女のことをもう少し知りたいと、そう思っている。
理屈はよく知らないけれど、心地よい音に含まれているものらしい。
この音は人間の心拍音にも含まれている。
生まれる前に母親のお腹の中で聞いていた音に似ているから、1/fゆらぎの音を聞くと安らぐのだとか何とか。
1/fゆらぎを含む音は自然界にも数多く存在している。
雨がシトシト降り注ぐ音。
焚き火がパチパチと燃える音。
小川がサラサラとせせらぐ音。
波がザアザアと寄せては返す音。
僕のスマホにはそうした環境音がたくさん入っている。
リラックス用の環境音は、動画サイトで探せばたくさん見つかるし、音源を集めたCDが百円ショップでも売られている。
外では雨が降っている。
本当なら生の雨音が理想だけど、僕の耳には届いてこない。
僕の席は廊下側だし、五時間目を終えた教室には、眠気を織り交ぜた気怠げな声たちが行き来している。
いつもどおり耳掛けヘッドフォンを装着し、雨の音を流している。
遠く窓の外を見ていると、自分が教室の外、雨がしたたる縁側にでもいるような気分になる。
でも、そうして窓の外を見ていると、どうしてもあの人が視界に入る。
西町さんは、今日も教室のぬるま湯のような空気から一人浮かび、文庫本を読んでいる。
「……きち、たまきちー」
目の前でヒラヒラと手が振られる。
環境音を聞いていても、そばで呼びかけられれば声は聞きとれる。
普段から、周りのみんなには『ヘッドフォンしてても気にせず声かけて』と言っている。
僕は耳を休めたいだけであって、休み時間におしゃべりしたくないわけではないからだ。
「どうしたの、麻里衣?」
耳掛けヘッドフォンを外し、前の席に座る麻里衣に返事をする。
鍋平麻里衣は昔からつるんでいる仲間だ。
小学校、中学校とずっと一緒にやってきた。
やる気のないハスキー・ボイス。
校則違反ギリギリにまでブリーチした髪。
濃いめのメイク。
制服のリボンはダルダル下がり、ブラウスのボタンは開いていて、スカートは腰の上で折り曲げている。
昔から麻里衣はバッチリキメるのが好きだった。
しかし、よく入学一ヶ月でそこまでするものだ。
「さっきからずっと向こう見てるに。 たまきち、西町のことそんなに気になるんけ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべ、親指で窓の方を指す麻里衣。
「うん。同じ文芸部員なんだけど、よくわからなくてさ」
「西町、あんましゃべらんもんね。しゃべらんつーか心の壁築いてるつーか」
と、視界が濃紺の制服で埋め尽くされる。
「環くん、麻里衣。何話してるの?」
机の横に立った希恵ちゃんが、笑顔で僕たちに問いかけてくる。
涸沢希恵も同じ中学校に通っていた仲間の一人だ。
小学校は別だったけれど、中学で校区が同じになった。
少し低めだけどよく通る声。
毛先の整った長めのボブカット。
リボンもスカートも学校案内のパンフレットに載っていそうなくらいキッチリ定位置に収まっている。
いまは一年三組の学級委員。中学時代はサッカー部のマネージャを務めていた。
キッチリ整えるタイプの女子。
それが希恵ちゃんだ。
「ほれ、向こう。西町ってよくわからんにっつー話。希恵ち、何か知らん?」
顎で教室の反対側を指し、麻里衣はそう尋ねた。
「西町さん? うーん」
希恵ちゃんは髪をかきあげながら向こうへと顔を向けた。
「……お嬢さま、お上品、ものしずか? あんまりちゃんとしゃべったことなくって」
麻里衣も希恵ちゃんも人見知りはしないタイプだ。
クラス内の女子男子問わずたいてい誰とでもうまくやれるし、他のクラスにも顔が広い。
食堂ではいつも、僕たち男子テーブルの隣のテーブルで、女子ばかり十人くらい集まってワイワイガヤガヤとご飯を食べている。
そんな二人でも、西町さんについてはろくに知らない。
いまの口ぶりからして、彼女に変態リアクション芸人の一面があるなんて想像すらしていないだろう。当たり前か。
「環くん。西町さんと何かあったの?」
首を傾げ、僕の顔を覗きこんでくる希恵ちゃん。
「文芸部の一年生、二人だけなんだよ。それなりにうまくやらないと気まずくて」
本当のところは口にせず、人当たりのよい言葉だけを紡ぐ。
お互いがお互いを破滅させるだけの秘密を握り合っている、だなんて言えるわけがない。
「そういうことね。確かにそれは気まずいかも」
希恵ちゃんは苦笑いを浮かべてうなずいた。
「やー、あたしてっきり、たまきちは西町目当てで文芸部入ったと思ってたに」
ニヤリと嫌らしい笑みを浮かべる麻里衣を、希恵ちゃんは「こら!」と鋭くたしなめた。
「違うって。僕、もともと本読むの好きだから」
西町さん目当てじゃないというのは本当。
本を読むのが好きというのも本当。
でも文芸部に入った理由は嘘。
というか言えない。先輩目当てで入ったなんて。
希恵ちゃんに叱られた麻里衣は「冗談だって」と、両手で拝むように謝ってきた。
「おーい。お前ら、いいか?」
と、前方のドアから大きな声が響いた。
教室中の視線を一身に受けた巨漢が、大股で僕の席に歩いてくる。
蒲田航一郎も同中の仲間だ。
小学校では少年団、中学校では部活と、ずっと一緒にサッカーをしてきた。
野太く暑苦しい声。
一八〇センチを超える長身。
ツンツンのショートヘア。
肩幅は広く胸板は厚い。
そんな体育会系全開なコーイチは、頼れるCB。
中学の頃はキャプテンも務めていた。
コーイチは脳みそまで筋肉でできているようなバカではない。
相手の一歩先を読むポジショニングで攻撃の芽を摘むクレバーな守備が持ち味だ。
僕たちはの通っていた市立上島中学校から私立遠衛学園高等部への進学者は数少ない。
サッカー部周りだと五人だけだ。
僕、麻利衣、希恵ちゃん、コーイチ、ここにはいないもう一人。
自称とはいえ進学校である遠衛に受かるためには、そこそこの学力が要るということだ。
高等部という言葉からも察せられるとおり、遠衛学園は一貫校だ。
中等部はもちろん初等部まである。
内部進学者が多くを占める遠衛で、僕たちは少数派に属している。
だからこそ紐帯が必要だと、『カミチュー仲間』と名乗り始めたのが希恵ちゃんだ。
周りと区別したら孤立してしまうのではとも思ったけれど、それは杞憂だった。
希恵ちゃんも麻利衣もコーイチも、孤立するような性格はしていなかった。
「今日も校門前で募集するぞ。一人でもいいから入ってもらわんとな」
と、コーイチがいつもどおり鼻息を荒くする。
「あたし、パス。この雨の中とか正気じゃないら」
麻利衣はヒラヒラと手を振ってそっぽを向く。
「お前、晴れてたって手伝わんだろうが」
「雪が降ったら考えるに」
「希恵は?」
「ごめんね。今日は調理部の活動日だから」
両手を合わせ申し訳無さそうにする希恵ちゃん。
「なら仕方ないな」
腕を組んだコーイチが、ふむと頷く。
コーイチのいう『募集』とは、部員募集のことだ。
昨年度なぜか廃部となったサッカー部を、コーイチは復活させようとしている。
しかし、まだ応募者は一人もいない。
部の新設に必要なのは五人の部員と顧問の先生。
部員はカミチュー仲間の五人で揃っているが、顧問をやってくれる先生が見つかっていない。
それはそうだ。女子二人を含め五人だけでは試合どころではない。
もしかしたら昨年廃部となったことも影響しているかもしれない。
なぜ昨年サッカー部が廃部となったのか、その理由はまだわかっていない。
「環、お前は今日できるよな?」
と、コーイチの矛先が僕に向かってきた。
正直、僕はサッカー部新設にそこまて乗り気ではない。
もちろん高校でもみんなとまたサッカーができればいいと思ってはいる。
でも、だ。
たとえ部ができても勝てる見込みはないだろうなと、そうも思ってしまう。
何しろ部員すら集まらない状態だ。
勝つ見込みがゼロ、ただ仲間うちで楽しくボールが蹴られればいい、ということならわざわざ部活を立ち上げなくてもいい。
「ごめん、コーイチ。僕も今日は文芸部に行かないと」
それにだ。
僕には文芸部という居場所もある。
「環も部活か。なら仕方ないな。今日は俺一人でやってくる。また明日は頑張ろうな!」
力強い笑みを残して、コーイチは教室を出ていった。
コーイチは覚悟が違う。
部活必須の遠衛にあって、彼はGW明けのいまも未所属を貫いている。
既成の調和なんて知らんといわんばかりの傍若無人ぷりには感心する。
「ほんと、暑苦しいら」
「それがコーイチくんのいいところだよ」
開けっ放しのドアを見やりながら麻利衣と希恵ちゃんが言葉を交わす。
希恵ちゃんの言うとおり。
その熱量はコーイチの美点だと、僕も思う。
コーイチは主人公だ。
現状をよしとしない調和を乱すのをためらわない。
「ほら、始めるぞ。席着けー」
と、そのドアから先生が入ってくる。
途端に生徒たちが自席へと戻っていく。
希恵ちゃんも「またね」と小さく手を振って離れていった。
小さく手を振り返し、首にかけていたヘッドフォンをカバンにしまう。
「……たまきち、さっきのはごめん」
前を向いた麻里衣が、背中越しにそう告げてくる。
さっきの。
何だろう。謝られるようなことがあっただろうか。
ああ、わかった。
『文芸部に入ったのは西町さん目当て』のくだりか。
話が流れてもう随分経つというのに、麻里衣はずっと気にしていてくれたらしい。
「いいって。ただの冗談だってわかってるよ。仲間なんだから」
部活、先輩、片思い。
そうしたワードで紡がれる、中学時代の楽しくない思い出。
僕の黒歴史を、麻里衣も希恵ちゃんも当然知っている。
何しろ僕らは同じ中学校に通っていた仲間だ。
だから麻里衣は思いつきの冗談で僕を傷つけたのではと心配してくれるし、希恵ちゃんもそんな麻里衣のおふざけを本気でたしなめてくれる。
窓の方へ視線を向ける。
背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見る西町さん。
寂しさなんてない。
現地人なんて邪魔なだけ。
僕とは違う感情の仕組みでできた、東京という別の星から来た異星人。
ついこの間まで、そんなふうに思っていた。
でも最近知った西町さんは。
部活、先輩、片思い。
僕は、彼女のことをもう少し知りたいと、そう思っている。


