文芸部では各自座る席が決まっている。
明文化されたルールじゃないし、口頭で決めたわけでもない。
不文律というほど固いものでもない。
ただ何となくそうなっている。
部室に入ると、目の前には折れ脚のテーブルが二脚並べられている。
向かって右のテーブルを、二年生の先輩たちが使っている。
手前、廊下側に座るのが怜先輩。
窓側の席につくのがくらら先輩だ。
左のテーブル廊下側には西町さんが座る。
そして僕は奥の窓際を自席としている。
これがいつもの配置だ。
「ねえねえ環くん、何かいい本あった? いま何読んでるの? おもしろい?」
そんな問いかけとともに、机の向こうからくらら先輩が乗り出してくる。
「えっと、いまは『ローワンと魔法の地図』読んでます。前勧められたやつです。主人公が身近というか、感情移入しちゃいますね」
「そうでしょ! 環くんならわかってくれると思ってた!」
奥津くらら先輩は、天真爛漫で誰とでも仲よくできるような人だ。
意識しすぎてテンパる僕や、よそよそしい西町さん、そんな一年生二人にも積極的に絡んできてくれる。
好きなジャンルはファンタジー。
幼いころから『ナルニア国物語』や『はてしない物語』に夢中になっていたという。
ちなみに僕も昔からその手の本をよく読んでいる。
妹が『ハリー・ポッター』をきっかけにファンタジーにはまり、最初は図書館で借りてくるだけだった母も次第にのめりこんでいき、ついにはうちに専用の本棚までつくってしまったのだ。
おかげで僕もファンタジーには親しみ、くらら先輩と話ができるようになっている。
ありがとう妹。ありがとう母。
くらら先輩は猫っ毛をサイドの低い位置で括っている。
ヘアスタイルは大人っぽいけれど、高くはない身長と丸くて大きな目が子どもっぽい。
そのギャップがたまらない。
くらら先輩は『カワイイ』人なのだ。
とはいえだ。
先輩の魅力がどこにあるかといえば、これはもう声に尽きる。
そもそも僕が文芸部に入ったのも、くらら先輩の声に惹かれてのことだった。
四月。
入学して二週間ばかりがすぎたころのことだ。
僕は部活選びに悩んでいた。
入ろうと思っていたサッカー部が、入学直前になって廃部となってしまったせいだ。
サッカーは小学校からずっとやっている。
同中から遠衛に進学した仲間もサッカー部に入ると言っていた。
それなのに、まさか部活のほうがなくなってしまうとは。
遠衛学園高等部では、必ず一つは部活動に参加せよ、と校則で定められている。
だが実際のところ遠衛の部活は緩い。
自称進学校にはありがちだけど。
運動部も文化部も、毎日活動しているような部活はない。
何なら週一回の活動すら怪しい部活も多い。
だからこそ部活必須という校則が実効性を持っているのかも。
要するに、生徒の多くが幽霊部員なのだ。
あまり活動していない部活を見つけてお茶を濁そう。
そう考えて放課後の校舎をうろついていたときのことだった。
階段で、僕の耳は微かな声をとらえた。
いや、ちょっと違う。
とらえられたのは、僕の耳のほうだった。
聞こえてきたのは二人分の声。
短いセリフの応酬。柔らかい言葉遣い。
好奇心旺盛で跳ね回る子鹿のような声と、優しく包み込む常緑の森のような声。
女の子とお母さん。二人は親子だ。
最初、僕は本気で部屋には二人いると思ってしまった。
しかし、何十秒か聞いているうちにようやく気づいた。
これは一人芝居だと。
これが演技力というものか。本当に二人いるとしか思えない。
頭でそんなことを考える一方、心は心臓を跳ね回らせていた。
声の響きを称える言葉に『玲瓏』というものがある。
具体的にどういう声なのかは知らないけれど、この声はきっと『玲瓏』だと、そう思った。
連想したのはピアノだった。
アクトシティ浜松の大ホールで聞いたスタインウェイのグランドピアノ。
その音色は変幻自在、千変万化。
ありとあらゆる感情をいかなる表情にも浮かべられるのは、水のようにどこまでも透明だから。
そして思い出した。
この声は、聞いたことがある。
あれは三年前。
まだ僕が中学生になったばかりのころ。
動画サイトで聞いた朗読劇。
おすすめリストに出てきたその動画。
あれは絵本を読みあげたものだった。
幼い女の子とお母さん。
手をつなぎ歩く家路。
地に落ちた星のかけらを拾い集めて持ち帰る。
ただそれだけの物語。
何となくでタップした五分の動画のせいで、僕は目を泣きはらし、妹と母さんにドン引きされるはめになった。
忘れもしない。
ドアの向こうから聞こえていたのは、あの物語だったし、あの声だった。
残念ながらその動画は、いつの間にか削除されていた。
声の主を知ることはもうできないと諦めていた。
その人がドアの向こうにいる。
胸の内側で気持ち暴れまわった。
もっと近くで。
もうちょっとそばで。
もう少しでドアに耳がつく。
と、そのとき。
不意に扉が開かれた。
部室から出てきたのが、そう、くらら先輩だった。
「キミ、一年生? あ、もしかして入部希望? だったら大歓迎!」
さっきまで部屋の中にいた女の子とお母さん。
二人の姿も声もそこにはない。
目の前に立ったのは華奢な先輩。
聞こえてくるのは陽光に光るタンポポのような声。
フワフワの髪の毛をくくった『カワイイ』先輩。
ちなみにいっておくと、部室には表札も何も出ていなかった。
だから僕はそこが何の部室で、先輩が何部なのかなんて知らなかった。
ついでにいえば遠衛学園高等部の制服には名札なんて小学生めいたものはないから、先輩の名前だって僕は知らなかった。
でも。
「入部します」
その瞬間、諸々の些細な事柄は頭からスッポリと抜け落ちていた。
幸い文芸部は緩い部活だった。
毎日部室は開いているけれど出席はしてもしなくても自由。
二年生の二人は毎日部室にいるけれど、三年生の二人は実質引退状態。
これまで一回しか顔を合わせたことがない。
時間の拘束はないに等しい。
活動内容も緩い。
基本的には本を読んで雑談するだけだ。
詩を吟じろとか、小説を書けとか、白樺派について論ぜよとかはいわれない。
先輩たちも緩くマイペースに活動している。
二年生で副部長の怜先輩はキーボードを叩いて文章を書いていることも多いけれど、くらら先輩は文庫本を読んでいるか、おしゃべりしているか、何ならスマホをいじっている。
僕が入部したとき、既に文芸部には一年生が一人いた。
それが西町さんだ。
西町さんはいつも背筋を伸ばして本を読んでいる。
先輩たちに話しかけられれば丁寧に応じるし、口許に手をやってコロコロと笑うこともある。
そんな三人を見て僕は思った。
『やっぱり文芸部ってすごい。大正ロマンな文学青年がいるし、神の声を持つ天性の女優がいるし、深窓のご令嬢までいる』。
いまは別の意味でドン引きしている。
まさかお嬢様が変態リアクション芸人だったなんて。
「おっと、もうこんな時間か」
と、それまで右斜め前の席で鳴り続けていたキーボードの音が止んだ。
「そろそろ下校時刻だ。今日はここまでだな」
怜先輩は銀縁のメガネフレームを親指と中指で持ち上げ、「んー」と肩を回した。
ふと気になって隣を見る。
僕の右側で、西町さんは本を広げている。
でも目線は上向き。
開いたページはガン無視で、一直線に怜先輩を見ていた。
と、僕の視線に気づいたのか、西町さんがこちらに視線を向けた。
目があった瞬間、西町さんはピキッと顔を引きつらせ、それからプイっと顔を背けた。
「そういえば図書室の本、返却期限が今日までだ。しまったな。返してくるから、くららは先に帰っててくれ」
怜先輩は机の上にあった本を手にとり、ヒラヒラ見せながらくらら先輩にそう告げた。
「んー? いいよ、あたし待ってるから。返すだけでしょ?」
くらら先輩は、少し低めの、落ち着いた声音でそう返した。
たったそれだけのことで、胸がチクリと痛む。
その声は、僕に話しかけるときのよそ行きの声ではなく、もっと近しい人に向ける無防備で無遠慮な素の声だったから。
くらら先輩と怜先輩は幼なじみで、家が近くて、いまもいつも一緒に帰っていて……。
そして声を聞けばわかる。
二人は心の距離が近いことが。
「その本、帰り際に返しておきましょうか。図書室にはついでの用事がありますので」
と、それまで黙っていた西町さんが小さく手を挙げた。
「環くんも図書室行くって言ってたよね?」
それから急にこちらへ振り向き、これでもかというくらい可憐に微笑みかけてきた。
「ね?」
怖い。
その声音は、任意同行を求めるものではなかった。
「……はい。僕も図書室に返す本が……」
こういうとき美人はズルい。
笑顔だけで僕のような一般人は逆らえなくなるのだから。
明文化されたルールじゃないし、口頭で決めたわけでもない。
不文律というほど固いものでもない。
ただ何となくそうなっている。
部室に入ると、目の前には折れ脚のテーブルが二脚並べられている。
向かって右のテーブルを、二年生の先輩たちが使っている。
手前、廊下側に座るのが怜先輩。
窓側の席につくのがくらら先輩だ。
左のテーブル廊下側には西町さんが座る。
そして僕は奥の窓際を自席としている。
これがいつもの配置だ。
「ねえねえ環くん、何かいい本あった? いま何読んでるの? おもしろい?」
そんな問いかけとともに、机の向こうからくらら先輩が乗り出してくる。
「えっと、いまは『ローワンと魔法の地図』読んでます。前勧められたやつです。主人公が身近というか、感情移入しちゃいますね」
「そうでしょ! 環くんならわかってくれると思ってた!」
奥津くらら先輩は、天真爛漫で誰とでも仲よくできるような人だ。
意識しすぎてテンパる僕や、よそよそしい西町さん、そんな一年生二人にも積極的に絡んできてくれる。
好きなジャンルはファンタジー。
幼いころから『ナルニア国物語』や『はてしない物語』に夢中になっていたという。
ちなみに僕も昔からその手の本をよく読んでいる。
妹が『ハリー・ポッター』をきっかけにファンタジーにはまり、最初は図書館で借りてくるだけだった母も次第にのめりこんでいき、ついにはうちに専用の本棚までつくってしまったのだ。
おかげで僕もファンタジーには親しみ、くらら先輩と話ができるようになっている。
ありがとう妹。ありがとう母。
くらら先輩は猫っ毛をサイドの低い位置で括っている。
ヘアスタイルは大人っぽいけれど、高くはない身長と丸くて大きな目が子どもっぽい。
そのギャップがたまらない。
くらら先輩は『カワイイ』人なのだ。
とはいえだ。
先輩の魅力がどこにあるかといえば、これはもう声に尽きる。
そもそも僕が文芸部に入ったのも、くらら先輩の声に惹かれてのことだった。
四月。
入学して二週間ばかりがすぎたころのことだ。
僕は部活選びに悩んでいた。
入ろうと思っていたサッカー部が、入学直前になって廃部となってしまったせいだ。
サッカーは小学校からずっとやっている。
同中から遠衛に進学した仲間もサッカー部に入ると言っていた。
それなのに、まさか部活のほうがなくなってしまうとは。
遠衛学園高等部では、必ず一つは部活動に参加せよ、と校則で定められている。
だが実際のところ遠衛の部活は緩い。
自称進学校にはありがちだけど。
運動部も文化部も、毎日活動しているような部活はない。
何なら週一回の活動すら怪しい部活も多い。
だからこそ部活必須という校則が実効性を持っているのかも。
要するに、生徒の多くが幽霊部員なのだ。
あまり活動していない部活を見つけてお茶を濁そう。
そう考えて放課後の校舎をうろついていたときのことだった。
階段で、僕の耳は微かな声をとらえた。
いや、ちょっと違う。
とらえられたのは、僕の耳のほうだった。
聞こえてきたのは二人分の声。
短いセリフの応酬。柔らかい言葉遣い。
好奇心旺盛で跳ね回る子鹿のような声と、優しく包み込む常緑の森のような声。
女の子とお母さん。二人は親子だ。
最初、僕は本気で部屋には二人いると思ってしまった。
しかし、何十秒か聞いているうちにようやく気づいた。
これは一人芝居だと。
これが演技力というものか。本当に二人いるとしか思えない。
頭でそんなことを考える一方、心は心臓を跳ね回らせていた。
声の響きを称える言葉に『玲瓏』というものがある。
具体的にどういう声なのかは知らないけれど、この声はきっと『玲瓏』だと、そう思った。
連想したのはピアノだった。
アクトシティ浜松の大ホールで聞いたスタインウェイのグランドピアノ。
その音色は変幻自在、千変万化。
ありとあらゆる感情をいかなる表情にも浮かべられるのは、水のようにどこまでも透明だから。
そして思い出した。
この声は、聞いたことがある。
あれは三年前。
まだ僕が中学生になったばかりのころ。
動画サイトで聞いた朗読劇。
おすすめリストに出てきたその動画。
あれは絵本を読みあげたものだった。
幼い女の子とお母さん。
手をつなぎ歩く家路。
地に落ちた星のかけらを拾い集めて持ち帰る。
ただそれだけの物語。
何となくでタップした五分の動画のせいで、僕は目を泣きはらし、妹と母さんにドン引きされるはめになった。
忘れもしない。
ドアの向こうから聞こえていたのは、あの物語だったし、あの声だった。
残念ながらその動画は、いつの間にか削除されていた。
声の主を知ることはもうできないと諦めていた。
その人がドアの向こうにいる。
胸の内側で気持ち暴れまわった。
もっと近くで。
もうちょっとそばで。
もう少しでドアに耳がつく。
と、そのとき。
不意に扉が開かれた。
部室から出てきたのが、そう、くらら先輩だった。
「キミ、一年生? あ、もしかして入部希望? だったら大歓迎!」
さっきまで部屋の中にいた女の子とお母さん。
二人の姿も声もそこにはない。
目の前に立ったのは華奢な先輩。
聞こえてくるのは陽光に光るタンポポのような声。
フワフワの髪の毛をくくった『カワイイ』先輩。
ちなみにいっておくと、部室には表札も何も出ていなかった。
だから僕はそこが何の部室で、先輩が何部なのかなんて知らなかった。
ついでにいえば遠衛学園高等部の制服には名札なんて小学生めいたものはないから、先輩の名前だって僕は知らなかった。
でも。
「入部します」
その瞬間、諸々の些細な事柄は頭からスッポリと抜け落ちていた。
幸い文芸部は緩い部活だった。
毎日部室は開いているけれど出席はしてもしなくても自由。
二年生の二人は毎日部室にいるけれど、三年生の二人は実質引退状態。
これまで一回しか顔を合わせたことがない。
時間の拘束はないに等しい。
活動内容も緩い。
基本的には本を読んで雑談するだけだ。
詩を吟じろとか、小説を書けとか、白樺派について論ぜよとかはいわれない。
先輩たちも緩くマイペースに活動している。
二年生で副部長の怜先輩はキーボードを叩いて文章を書いていることも多いけれど、くらら先輩は文庫本を読んでいるか、おしゃべりしているか、何ならスマホをいじっている。
僕が入部したとき、既に文芸部には一年生が一人いた。
それが西町さんだ。
西町さんはいつも背筋を伸ばして本を読んでいる。
先輩たちに話しかけられれば丁寧に応じるし、口許に手をやってコロコロと笑うこともある。
そんな三人を見て僕は思った。
『やっぱり文芸部ってすごい。大正ロマンな文学青年がいるし、神の声を持つ天性の女優がいるし、深窓のご令嬢までいる』。
いまは別の意味でドン引きしている。
まさかお嬢様が変態リアクション芸人だったなんて。
「おっと、もうこんな時間か」
と、それまで右斜め前の席で鳴り続けていたキーボードの音が止んだ。
「そろそろ下校時刻だ。今日はここまでだな」
怜先輩は銀縁のメガネフレームを親指と中指で持ち上げ、「んー」と肩を回した。
ふと気になって隣を見る。
僕の右側で、西町さんは本を広げている。
でも目線は上向き。
開いたページはガン無視で、一直線に怜先輩を見ていた。
と、僕の視線に気づいたのか、西町さんがこちらに視線を向けた。
目があった瞬間、西町さんはピキッと顔を引きつらせ、それからプイっと顔を背けた。
「そういえば図書室の本、返却期限が今日までだ。しまったな。返してくるから、くららは先に帰っててくれ」
怜先輩は机の上にあった本を手にとり、ヒラヒラ見せながらくらら先輩にそう告げた。
「んー? いいよ、あたし待ってるから。返すだけでしょ?」
くらら先輩は、少し低めの、落ち着いた声音でそう返した。
たったそれだけのことで、胸がチクリと痛む。
その声は、僕に話しかけるときのよそ行きの声ではなく、もっと近しい人に向ける無防備で無遠慮な素の声だったから。
くらら先輩と怜先輩は幼なじみで、家が近くて、いまもいつも一緒に帰っていて……。
そして声を聞けばわかる。
二人は心の距離が近いことが。
「その本、帰り際に返しておきましょうか。図書室にはついでの用事がありますので」
と、それまで黙っていた西町さんが小さく手を挙げた。
「環くんも図書室行くって言ってたよね?」
それから急にこちらへ振り向き、これでもかというくらい可憐に微笑みかけてきた。
「ね?」
怖い。
その声音は、任意同行を求めるものではなかった。
「……はい。僕も図書室に返す本が……」
こういうとき美人はズルい。
笑顔だけで僕のような一般人は逆らえなくなるのだから。


