翌金曜日。
僕は、とある覚悟を決めて文芸部の部室へと向かった。
「ひぇ」
ドアを開けた瞬間、せっかくの気合いは雲散霧消した。
目の前で、いつかの光景が再演されている。
二度と見たくなかった凄惨な事件現場。
西町さんが、学ランを羽織り、袖を口許に当てている。
「西町さん、二度目はレッド、退場だよ。いや一回目でもダメだけど」
「大丈夫。女子高生がやったら純愛だよ」
部室に先輩たちはいない。当たり前だけど。
ただ、机の上にはノートと筆記用具が広げられている。
二人とも席を外しているだけのようだ。
「今日のわたしは一味違うよ。環くん、見てて。わたしの不退転の決意を」
おまけとばかりに学ランを羽織ったまま自分を抱きしめ、西町さんは「よし」と力強く頷いた。
「よくない。退いてよ。何てもの見せるの」
「ヒロインは冒険するものだから」
そそくさと学ランを脱ぐ西町さん。
「あ、二人とも来てたんだ!」
ちょうどそこに、くらら先輩が戻ってきた。
「英梨ちゃん、その学ランって怜ちゃんの?」
「はい。椅子から落ちちゃってて。ちょっと埃が付いていたので払ってました」
しれっとそう言ってのける西町さん。
そそくさと椅子に学ランを掛け直す。
危うすぎる。
タッチの差で助かったけど、部室が本当に凄惨な事件現場になるところだった。
「留守にしててごめんね。ちょっと図書室に行ってて」
「怜先輩は一緒じゃなかったんですか?」
西町さんの質問に、くらら先輩は一瞬だけピクリと動きを止めた。
「……うん。いまはお手洗い。すぐ戻ってくるよ」
うわ。
たったこれだけのやり取りで、空気が凍る。
「お、久しぶりに部員全員揃ったな」
と、帰ってきたお父さん、いや怜先輩が嬉しそうに微笑む。
しかし空気は元に戻らない。
それは無理。
なぜならば。
「怜先輩」
もう、西町さんは仕掛ける体勢に入っているからだ。
くらら先輩が目を見開き、口をぽかんと開ける。
西町さんは先手を取った。
もう止められない。
普通の手段では、止められない。
「わたし、」
「西町さん、好きです。僕と付き合ってください!」
声を張り上げる。
僕の方へと振り向いた西町さんが、パクパクと口を動かす。
声にならない声。
でも、何と言っているかはわかる。
なんで?
だってもう西町さんは、普通の手段では止められないから。
こうするしかないんだよ。
僕には選択肢が三つあった。
まず一つ目。何もしない。
これはダメだ。
西町さんは怜先輩にフラれ、文芸部に来なくなる。
今のままではいられない。
二つ目。くらら先輩に告白する。
当然ダメ。
僕はフラれるし、その後西町さんも怜先輩にフラれておしまい。
僕も西町さんも文芸部にはもういられない。
三つ目。西町さんに告白する。
これしかない。
我ながら何がどうしてこうなったかわからないけれど、これしかない。
この場合、西町さんの選択肢は二つ。
その一。『他に好きな人がいるので』と断る。
これを選ばれると困る。
その後西町さんが怜先輩に告白する流れになるから。
何が恐ろしいかといえば、この選択肢を選ばれる可能性が非常に高いことだ。
以前イオンのミスドで、西町さんは『わたしに告白して』と言った。
そうしたら『他に好きな人がいるので』と、怜先輩の前で断ると。
今のシチュエーションは、あのときの冗談そのままだ。
そして僕が冗談だと思っていても、西町さんがそうは思っていない可能性がある。
強すぎる。
兎にも角にも、西町さんには選択肢その二を選んでもらわないといけない。
「こないだ言ってたよね。『しばらくは誰とも付き合う気がない』って。今もそうかも知れないけど、考えてみてほしいんだ」
これしかない。
西町さんにはそう言ってもらうしかない。
「東京が懐かしいってよく言ってるけど、文芸部は西町さんにとってもう居場所じゃないの? 浜松にいるのは高校の三年間だけっていうけど、三年は短くないよ。もっと、今居る場所を大事にしてほしいんだ」
だから、言って!
『誰とも付き合う気がない』って、言ってくれ!
僕は主人公じゃない。
現状をよしとせず、調和を乱すのを恐れない、そんな主人公にはなれない。
僕は、今を、今の居場所を大事にしたい。
調和を大事にしたい。
西町さん。
ヒロインじゃなくていいじゃない。
ヒロインにならなくたっていいじゃない。
孤高なんてやめよう。
高嶺の花なんてやめよう。
ヒロインみたいではあっても、普通の人でいいじゃないか。
「……どうかな?」
西町さんは、じっと僕を見ている。
最初は口をパクパクとさせていただけれと、途中からはまんじりともせず僕を見据えている。
ぎゅっと唇を結ぶ、その顔に浮かぶ感情を敢えて言い表すなら。
それは、怒りだった。
数秒か、数十秒か。
しばらくの沈黙の後、西町さんは目を閉じ、溜め込んでいた息を吐いた。
そして満面の笑みを浮かべた。
「喜んで。こちらこそよろしくね、環くん」
「はい?」
どうして、こうなった。
突然、僕たちは拍手に包まれた。
くらら先輩が、怜先輩が、満面の笑顔で僕たちを祝福する。
「おめでとー! よかったね。前から二人は仲よしだなあと思ってたんだ!」
「やったな、環。格好よかったぞ」
「いやー、いいもの見させてもらったら。ひゅーひゅー」
「たまきちー、何だよ、いつの間にそんなことになってたんだ。言えよ、水臭いなあ」
何だ今の声。
二人分多くない?
振り返ると、部室の外、開けっ放しのドアの向こうに麻利衣と満がいた。
「何でいるの!」
「やー、怜先輩に会いたくて来てみたら、これだもんで。たまきち、やるじゃん。早速皆に言いふらさんと」
「明日の壁新聞、今から記事差し替えないと。僕、もう行くね!」
そう言い残し、麻利衣と満は走り去っていった。
ドアの脇に立っていた怜先輩が、「まさかだったなあ」と笑いながら自分の席に着く。
「あのね、怜ちゃん」
くらら先輩が、隣の席から怜先輩に呼びかける。
ん?
この流れ、まずくない?
ちょっと待って。
文芸部四人のうち二人がくっついたら、残り二人もくっつくに決まってる!
しかも今なんかおめでたい雰囲気できあがってるし。
告白するなら今かな、なんてくらら先輩の背中押しちゃってるじゃん!
どうしてくれんの、西町さん!
「くらら」
怜先輩が、静かな声で彼女を呼ぶ。
「かたちから始まる物語もあれば、かたちのない物語もある。僕らの物語は、このままでも続いていく。焦ることはないさ」
語りかけられたくらら先輩の、引きつっていた表情が綻んでいく。
「……そうだよね」
朗らかな笑みを浮かべ、くらら先輩が幸福な声で応える。
怜先輩は頷いて応じた後、僕の方に顔を向けた。
そして優しい笑みとともにウインクをくれた。
もしかして。
もしかしてだけど。
怜先輩はすべてお見通し、なんですか?
僕らがドタバタしていても、いつも一人のほほんとしている怜先輩。
世俗の諍いなど我関せず、ずっと何も気づいていないのかと思っていたけれど。
実は、何もかもわかった上で、僕たちを踊らせていたのかもしれない。
何のためか。
それは、人間観察のため。
人生経験のため。
小説に書くために。
そんな恐ろしい想像を働かせているところ、不意に肩を叩かれた。
思わずビクリと反応し、振り返る。
そこには、人工的な笑顔を貼り付けた西町さんの顔があった。
「この後、みずべね」
僕だけに聞こえる抑えた声で、西町さんはそう告げた。
音量は抑えられていたけれど、感情は抑えられていない声だった。
『ヤキを入れてやるから首を洗って来い』。
言外に、西町さんはそう言っていた。
僕は、とある覚悟を決めて文芸部の部室へと向かった。
「ひぇ」
ドアを開けた瞬間、せっかくの気合いは雲散霧消した。
目の前で、いつかの光景が再演されている。
二度と見たくなかった凄惨な事件現場。
西町さんが、学ランを羽織り、袖を口許に当てている。
「西町さん、二度目はレッド、退場だよ。いや一回目でもダメだけど」
「大丈夫。女子高生がやったら純愛だよ」
部室に先輩たちはいない。当たり前だけど。
ただ、机の上にはノートと筆記用具が広げられている。
二人とも席を外しているだけのようだ。
「今日のわたしは一味違うよ。環くん、見てて。わたしの不退転の決意を」
おまけとばかりに学ランを羽織ったまま自分を抱きしめ、西町さんは「よし」と力強く頷いた。
「よくない。退いてよ。何てもの見せるの」
「ヒロインは冒険するものだから」
そそくさと学ランを脱ぐ西町さん。
「あ、二人とも来てたんだ!」
ちょうどそこに、くらら先輩が戻ってきた。
「英梨ちゃん、その学ランって怜ちゃんの?」
「はい。椅子から落ちちゃってて。ちょっと埃が付いていたので払ってました」
しれっとそう言ってのける西町さん。
そそくさと椅子に学ランを掛け直す。
危うすぎる。
タッチの差で助かったけど、部室が本当に凄惨な事件現場になるところだった。
「留守にしててごめんね。ちょっと図書室に行ってて」
「怜先輩は一緒じゃなかったんですか?」
西町さんの質問に、くらら先輩は一瞬だけピクリと動きを止めた。
「……うん。いまはお手洗い。すぐ戻ってくるよ」
うわ。
たったこれだけのやり取りで、空気が凍る。
「お、久しぶりに部員全員揃ったな」
と、帰ってきたお父さん、いや怜先輩が嬉しそうに微笑む。
しかし空気は元に戻らない。
それは無理。
なぜならば。
「怜先輩」
もう、西町さんは仕掛ける体勢に入っているからだ。
くらら先輩が目を見開き、口をぽかんと開ける。
西町さんは先手を取った。
もう止められない。
普通の手段では、止められない。
「わたし、」
「西町さん、好きです。僕と付き合ってください!」
声を張り上げる。
僕の方へと振り向いた西町さんが、パクパクと口を動かす。
声にならない声。
でも、何と言っているかはわかる。
なんで?
だってもう西町さんは、普通の手段では止められないから。
こうするしかないんだよ。
僕には選択肢が三つあった。
まず一つ目。何もしない。
これはダメだ。
西町さんは怜先輩にフラれ、文芸部に来なくなる。
今のままではいられない。
二つ目。くらら先輩に告白する。
当然ダメ。
僕はフラれるし、その後西町さんも怜先輩にフラれておしまい。
僕も西町さんも文芸部にはもういられない。
三つ目。西町さんに告白する。
これしかない。
我ながら何がどうしてこうなったかわからないけれど、これしかない。
この場合、西町さんの選択肢は二つ。
その一。『他に好きな人がいるので』と断る。
これを選ばれると困る。
その後西町さんが怜先輩に告白する流れになるから。
何が恐ろしいかといえば、この選択肢を選ばれる可能性が非常に高いことだ。
以前イオンのミスドで、西町さんは『わたしに告白して』と言った。
そうしたら『他に好きな人がいるので』と、怜先輩の前で断ると。
今のシチュエーションは、あのときの冗談そのままだ。
そして僕が冗談だと思っていても、西町さんがそうは思っていない可能性がある。
強すぎる。
兎にも角にも、西町さんには選択肢その二を選んでもらわないといけない。
「こないだ言ってたよね。『しばらくは誰とも付き合う気がない』って。今もそうかも知れないけど、考えてみてほしいんだ」
これしかない。
西町さんにはそう言ってもらうしかない。
「東京が懐かしいってよく言ってるけど、文芸部は西町さんにとってもう居場所じゃないの? 浜松にいるのは高校の三年間だけっていうけど、三年は短くないよ。もっと、今居る場所を大事にしてほしいんだ」
だから、言って!
『誰とも付き合う気がない』って、言ってくれ!
僕は主人公じゃない。
現状をよしとせず、調和を乱すのを恐れない、そんな主人公にはなれない。
僕は、今を、今の居場所を大事にしたい。
調和を大事にしたい。
西町さん。
ヒロインじゃなくていいじゃない。
ヒロインにならなくたっていいじゃない。
孤高なんてやめよう。
高嶺の花なんてやめよう。
ヒロインみたいではあっても、普通の人でいいじゃないか。
「……どうかな?」
西町さんは、じっと僕を見ている。
最初は口をパクパクとさせていただけれと、途中からはまんじりともせず僕を見据えている。
ぎゅっと唇を結ぶ、その顔に浮かぶ感情を敢えて言い表すなら。
それは、怒りだった。
数秒か、数十秒か。
しばらくの沈黙の後、西町さんは目を閉じ、溜め込んでいた息を吐いた。
そして満面の笑みを浮かべた。
「喜んで。こちらこそよろしくね、環くん」
「はい?」
どうして、こうなった。
突然、僕たちは拍手に包まれた。
くらら先輩が、怜先輩が、満面の笑顔で僕たちを祝福する。
「おめでとー! よかったね。前から二人は仲よしだなあと思ってたんだ!」
「やったな、環。格好よかったぞ」
「いやー、いいもの見させてもらったら。ひゅーひゅー」
「たまきちー、何だよ、いつの間にそんなことになってたんだ。言えよ、水臭いなあ」
何だ今の声。
二人分多くない?
振り返ると、部室の外、開けっ放しのドアの向こうに麻利衣と満がいた。
「何でいるの!」
「やー、怜先輩に会いたくて来てみたら、これだもんで。たまきち、やるじゃん。早速皆に言いふらさんと」
「明日の壁新聞、今から記事差し替えないと。僕、もう行くね!」
そう言い残し、麻利衣と満は走り去っていった。
ドアの脇に立っていた怜先輩が、「まさかだったなあ」と笑いながら自分の席に着く。
「あのね、怜ちゃん」
くらら先輩が、隣の席から怜先輩に呼びかける。
ん?
この流れ、まずくない?
ちょっと待って。
文芸部四人のうち二人がくっついたら、残り二人もくっつくに決まってる!
しかも今なんかおめでたい雰囲気できあがってるし。
告白するなら今かな、なんてくらら先輩の背中押しちゃってるじゃん!
どうしてくれんの、西町さん!
「くらら」
怜先輩が、静かな声で彼女を呼ぶ。
「かたちから始まる物語もあれば、かたちのない物語もある。僕らの物語は、このままでも続いていく。焦ることはないさ」
語りかけられたくらら先輩の、引きつっていた表情が綻んでいく。
「……そうだよね」
朗らかな笑みを浮かべ、くらら先輩が幸福な声で応える。
怜先輩は頷いて応じた後、僕の方に顔を向けた。
そして優しい笑みとともにウインクをくれた。
もしかして。
もしかしてだけど。
怜先輩はすべてお見通し、なんですか?
僕らがドタバタしていても、いつも一人のほほんとしている怜先輩。
世俗の諍いなど我関せず、ずっと何も気づいていないのかと思っていたけれど。
実は、何もかもわかった上で、僕たちを踊らせていたのかもしれない。
何のためか。
それは、人間観察のため。
人生経験のため。
小説に書くために。
そんな恐ろしい想像を働かせているところ、不意に肩を叩かれた。
思わずビクリと反応し、振り返る。
そこには、人工的な笑顔を貼り付けた西町さんの顔があった。
「この後、みずべね」
僕だけに聞こえる抑えた声で、西町さんはそう告げた。
音量は抑えられていたけれど、感情は抑えられていない声だった。
『ヤキを入れてやるから首を洗って来い』。
言外に、西町さんはそう言っていた。


