急ぎ足で四階の昇降口に向かう。
「西町さん」
よかった。彼女はそこにいた。
下靴に履き替えて、廊下のリノリウムに腰掛けている。
「環くん。部活はいいの?」
振り返った西町さんが、弱々しい声で訊いてくる。
「いまあの部室に居られるわけないでしょ」
「ごもっとも」
そう応えた西町さんが、前を向く。
途方に暮れたように、ガラス戸の向こうを見遣っている。
「環くん。置き傘か折りたたみ傘、持ってない?」
てっきり歩く気力を失って座り込んでいるのか思ったら、そういうことか。
「残念ながら、大きいの一本しかないね」
下靴に履き替え、傘立てからビニル傘を取り出す。
「しょうがない。お母さんにお迎えお願いしようかな」
肩を落とす西町さん。
そんな姿を見ていたら、胸の内にとある選択肢が浮かんできた。
「……よかったら、入る?」
僕の申し出に、西町さんは目を丸くした。
「ほら、この傘安物だけど、結構大きいんだよ」
早口でそう付け加えると、西町さんは口許を綻ばせた。
「『入る?』の一言だけだったら格好よかったのに。変な言い訳つけ加えちゃうんだもんなあ」
「バイバイ。先帰るね」
「ちょっとちょっと。ごめんってば!」
慌てて立ち上がった西町さんは、ガラス戸を押し開け「どうぞ」と僕を促した。
「兄貴、入らせていただきやす」
仁義を切る彼女に、僕は「ようがす」と器の大きいところを見せてやった。
校門を出たところで、西町さんは「歩こうよ」と言った。
遠衛から僕の家までは自転車で約二十分。
歩いたら一時間くらいだろうか。
早く帰ったところで、家で一人悶々とするだけだ。
そう思った僕は「歩こうか」と応えた。
校門前から、秋葉街道を北へ歩く。
この雨だというのに、自転車で走る遠衛生が追い越し際に振り返る。
赤信号で止まると、徒歩で帰る他の生徒と目が合う。
透明なビニル傘で男女の相合い傘。
それはまあ、見るだろう。
カミチュー仲間も、帰路は同じ方向だ。
皆とかち合いませんように。
僕にできるのは祈ることだけだ。
「よりよってこんな日に雨なんてね。朝は降ってなかったのに」
僕の右手で、西町さんが呟く。
水を切る車の走行音。
それでも彼女の声が耳に届く。
左右の並びは部室にいるときと同じなのに、いつもとはやっぱり違う。
肩やカバンが濡れないようにすると、どうしても距離が近くなる。
「自転車で来ちゃったの? 天気予報では降水確率八〇%だったよ」
「ずっと放課後のこと考えてたから、天気なんて気にもしなかったよ」
ぽつりぽつりと言葉を交わしながら歩く。
六月とはいえ、雨の日は冷える。
僕は黒のパーカーを、西町さんはベージュのカーディガンを羽織っている。
中央警察署の交差点を右に曲がり、赤電の線路を目指す。
このあたりは道が狭い割には、車の通りが結構多い。
「環くん。前に、文芸部を辞めようかって話したの、覚えてる?」
「みずべの公園で、そんな話したね」
「本当に辞めてもいいかもね」
後ろから車の音。
二人してブロック塀に身を寄せる。
「環くんにはサッカー部があるでしょ。同じ中学の仲間がいて、新入部員もいて。もうそれでいいんじゃないかな」
「じゃあ、西町さんも入ろうよ」
反射的に、そう応える。
「いまだって人数が少なくて、希恵ちゃんと麻利衣なんてマネージャーって名目だけど一緒に練習してるんだよ。西町さんもやろうよ」
西町さんは、何か言おうとして、ためらってからもう一度口を開いた。
「ありがとう。でも、わたしはいいかな」
「西町さんは皆のこと苦手かもしれないけど、きっとそのうち慣れるよ」
「わたしのこと、人見知りだと思ってる?」
「高嶺の花のお嬢さまに擬態した変態リアクション芸人だと思ってる」
「そのうえ『カワイイ』より『キレイ』?」
「……勘弁して」
「また勝ってしまった」
「虚しくない?」
「いつだって戦争は虚しいよ」
赤電の高架をくぐり、更に東へ向かう。
小さな神社の脇を抜け、坂を登る。
土手の上に出ると、視界が開ける。
馬込川だ。
まだここから家までは歩くけど、川を見ると『帰ってきた』という気持ちになる。
舗装された道を、川上へと歩き出す。
「サッカー部、本当に入らない? 真面目な話」
川面を見渡す西町さんは、薄い笑みを浮かべている。
「ありがとう。ごめんね。真面目な話」
西町さんが、アスファルトの上に転がっていた指の先ほどの小石を蹴飛ばす。
「少女漫画原作のデート・ムービー。ロマンスのヒロイン。こっちにくるとき、そうやって自分を納得させたの。浜松には馴染まない。友だちもつくらない。三年過ぎたらすぐに帰る。だってわたしは、杉並区松庵に生まれ育った私立聖マーガレット女学院の子だよ? 『ふるさと』はあっちだし、将来もあそこで暮らすんだよ? だからこっちでは孤独でいい。孤独じゃなきゃいけないの」
「じゃあ、文芸部に入ったのは?」
「ちょっとした事故だよ。だってまさか大正ロマンなイケメンの文学青年がいるなんて」
西町さんは「あれは仕方ない」と首を振った。
「ま、本当の事故は、そのヒーローに別の正ヒロインがいたことだったけどね」
「大事故だね」
「大事故だよ」
「そういうわけだから、誘ってくれて本当にありがとう。これはただの意地。わたしの我が儘。ごめんね」
「ううん。謝ることじゃないよ」
馬込川は緩やかに蛇行している。
十軒橋までは右に曲がり、三浦神社の先からは左に曲がっている。
そして八幡瀬橋の先では二股にわかれている。
右手は狢川という小川。
左手から流れてくる馬込川との合流地点。
この辺りは僕の家のすぐそばだ。
「着いちゃったね」
呟く西町さん。
彼女は以前うちの前まで来たことがあるから、場所を知っている。
「もう少し歩こうよ」
僕は立ち止まらず、土手の道を歩き続けた。
「川が曲がってるとさ」
隣の西町さんが前を見て言う。
馬込川は僕たちの前で大きく左に曲がっている。
「先が見えなくて、別の川に繋がってるような気がするよね」
「西町さんの『ふるさと』の川とか?」
「そう、善福寺川。楽しかったな。友だちとボール蹴って、恋愛っていったら出待ちしたり、うちわつくったり、あとをつけたりで……自分がこんなに醜いなんて、知らなかった」
隣を見る。
西町さんの目は、遠く川の来し方を見ていた。
「帰りたいな」
川の向こうに消えていきそうなその声を聞いた瞬間。
自分が何をすべきかわかった気がした。
川が大きく左に曲がり切った先。
馬込川と土手の道は赤電の線路の下をくぐる。
いつの間にか、雨はほとんど止んでいた。
川のほど近くに立つ大きな家。
「じゃあね。送ってくれて、ありがとう」
彼女は、玄関の軒下まで小走りに駆けていった。
「西町さん!」
その背中に、叫ぶ。
「明日も、文芸部には行こうね!」
振り返った西町さんは、門扉の前に立つ僕に手を振り、それから玄関の向こうへ姿を消した
大きく息を吸って、吐く。
もう傘は要らない。
畳んで歩く。
早足になる。
走る。
西町さんはヒロインみたいな人だ。主人公だ。
コーイチもそうだし、岩切くんもそうだ。
彼らは現状をよしとせず、調和を乱すことを恐れない。
僕は違う。
主人公じゃない。
調和が一番。
いまがいい。
西町さんのロマンスなんて、僕は絶対認めない。
「西町さん」
よかった。彼女はそこにいた。
下靴に履き替えて、廊下のリノリウムに腰掛けている。
「環くん。部活はいいの?」
振り返った西町さんが、弱々しい声で訊いてくる。
「いまあの部室に居られるわけないでしょ」
「ごもっとも」
そう応えた西町さんが、前を向く。
途方に暮れたように、ガラス戸の向こうを見遣っている。
「環くん。置き傘か折りたたみ傘、持ってない?」
てっきり歩く気力を失って座り込んでいるのか思ったら、そういうことか。
「残念ながら、大きいの一本しかないね」
下靴に履き替え、傘立てからビニル傘を取り出す。
「しょうがない。お母さんにお迎えお願いしようかな」
肩を落とす西町さん。
そんな姿を見ていたら、胸の内にとある選択肢が浮かんできた。
「……よかったら、入る?」
僕の申し出に、西町さんは目を丸くした。
「ほら、この傘安物だけど、結構大きいんだよ」
早口でそう付け加えると、西町さんは口許を綻ばせた。
「『入る?』の一言だけだったら格好よかったのに。変な言い訳つけ加えちゃうんだもんなあ」
「バイバイ。先帰るね」
「ちょっとちょっと。ごめんってば!」
慌てて立ち上がった西町さんは、ガラス戸を押し開け「どうぞ」と僕を促した。
「兄貴、入らせていただきやす」
仁義を切る彼女に、僕は「ようがす」と器の大きいところを見せてやった。
校門を出たところで、西町さんは「歩こうよ」と言った。
遠衛から僕の家までは自転車で約二十分。
歩いたら一時間くらいだろうか。
早く帰ったところで、家で一人悶々とするだけだ。
そう思った僕は「歩こうか」と応えた。
校門前から、秋葉街道を北へ歩く。
この雨だというのに、自転車で走る遠衛生が追い越し際に振り返る。
赤信号で止まると、徒歩で帰る他の生徒と目が合う。
透明なビニル傘で男女の相合い傘。
それはまあ、見るだろう。
カミチュー仲間も、帰路は同じ方向だ。
皆とかち合いませんように。
僕にできるのは祈ることだけだ。
「よりよってこんな日に雨なんてね。朝は降ってなかったのに」
僕の右手で、西町さんが呟く。
水を切る車の走行音。
それでも彼女の声が耳に届く。
左右の並びは部室にいるときと同じなのに、いつもとはやっぱり違う。
肩やカバンが濡れないようにすると、どうしても距離が近くなる。
「自転車で来ちゃったの? 天気予報では降水確率八〇%だったよ」
「ずっと放課後のこと考えてたから、天気なんて気にもしなかったよ」
ぽつりぽつりと言葉を交わしながら歩く。
六月とはいえ、雨の日は冷える。
僕は黒のパーカーを、西町さんはベージュのカーディガンを羽織っている。
中央警察署の交差点を右に曲がり、赤電の線路を目指す。
このあたりは道が狭い割には、車の通りが結構多い。
「環くん。前に、文芸部を辞めようかって話したの、覚えてる?」
「みずべの公園で、そんな話したね」
「本当に辞めてもいいかもね」
後ろから車の音。
二人してブロック塀に身を寄せる。
「環くんにはサッカー部があるでしょ。同じ中学の仲間がいて、新入部員もいて。もうそれでいいんじゃないかな」
「じゃあ、西町さんも入ろうよ」
反射的に、そう応える。
「いまだって人数が少なくて、希恵ちゃんと麻利衣なんてマネージャーって名目だけど一緒に練習してるんだよ。西町さんもやろうよ」
西町さんは、何か言おうとして、ためらってからもう一度口を開いた。
「ありがとう。でも、わたしはいいかな」
「西町さんは皆のこと苦手かもしれないけど、きっとそのうち慣れるよ」
「わたしのこと、人見知りだと思ってる?」
「高嶺の花のお嬢さまに擬態した変態リアクション芸人だと思ってる」
「そのうえ『カワイイ』より『キレイ』?」
「……勘弁して」
「また勝ってしまった」
「虚しくない?」
「いつだって戦争は虚しいよ」
赤電の高架をくぐり、更に東へ向かう。
小さな神社の脇を抜け、坂を登る。
土手の上に出ると、視界が開ける。
馬込川だ。
まだここから家までは歩くけど、川を見ると『帰ってきた』という気持ちになる。
舗装された道を、川上へと歩き出す。
「サッカー部、本当に入らない? 真面目な話」
川面を見渡す西町さんは、薄い笑みを浮かべている。
「ありがとう。ごめんね。真面目な話」
西町さんが、アスファルトの上に転がっていた指の先ほどの小石を蹴飛ばす。
「少女漫画原作のデート・ムービー。ロマンスのヒロイン。こっちにくるとき、そうやって自分を納得させたの。浜松には馴染まない。友だちもつくらない。三年過ぎたらすぐに帰る。だってわたしは、杉並区松庵に生まれ育った私立聖マーガレット女学院の子だよ? 『ふるさと』はあっちだし、将来もあそこで暮らすんだよ? だからこっちでは孤独でいい。孤独じゃなきゃいけないの」
「じゃあ、文芸部に入ったのは?」
「ちょっとした事故だよ。だってまさか大正ロマンなイケメンの文学青年がいるなんて」
西町さんは「あれは仕方ない」と首を振った。
「ま、本当の事故は、そのヒーローに別の正ヒロインがいたことだったけどね」
「大事故だね」
「大事故だよ」
「そういうわけだから、誘ってくれて本当にありがとう。これはただの意地。わたしの我が儘。ごめんね」
「ううん。謝ることじゃないよ」
馬込川は緩やかに蛇行している。
十軒橋までは右に曲がり、三浦神社の先からは左に曲がっている。
そして八幡瀬橋の先では二股にわかれている。
右手は狢川という小川。
左手から流れてくる馬込川との合流地点。
この辺りは僕の家のすぐそばだ。
「着いちゃったね」
呟く西町さん。
彼女は以前うちの前まで来たことがあるから、場所を知っている。
「もう少し歩こうよ」
僕は立ち止まらず、土手の道を歩き続けた。
「川が曲がってるとさ」
隣の西町さんが前を見て言う。
馬込川は僕たちの前で大きく左に曲がっている。
「先が見えなくて、別の川に繋がってるような気がするよね」
「西町さんの『ふるさと』の川とか?」
「そう、善福寺川。楽しかったな。友だちとボール蹴って、恋愛っていったら出待ちしたり、うちわつくったり、あとをつけたりで……自分がこんなに醜いなんて、知らなかった」
隣を見る。
西町さんの目は、遠く川の来し方を見ていた。
「帰りたいな」
川の向こうに消えていきそうなその声を聞いた瞬間。
自分が何をすべきかわかった気がした。
川が大きく左に曲がり切った先。
馬込川と土手の道は赤電の線路の下をくぐる。
いつの間にか、雨はほとんど止んでいた。
川のほど近くに立つ大きな家。
「じゃあね。送ってくれて、ありがとう」
彼女は、玄関の軒下まで小走りに駆けていった。
「西町さん!」
その背中に、叫ぶ。
「明日も、文芸部には行こうね!」
振り返った西町さんは、門扉の前に立つ僕に手を振り、それから玄関の向こうへ姿を消した
大きく息を吸って、吐く。
もう傘は要らない。
畳んで歩く。
早足になる。
走る。
西町さんはヒロインみたいな人だ。主人公だ。
コーイチもそうだし、岩切くんもそうだ。
彼らは現状をよしとせず、調和を乱すことを恐れない。
僕は違う。
主人公じゃない。
調和が一番。
いまがいい。
西町さんのロマンスなんて、僕は絶対認めない。


