好きな人の好きな人を好きな人

 サッカー部の練習後は、反省会という名目で学校前のジョリーパスタに行こうという話になった。

 けれど、僕はお断りして文芸部の部室に顔を出すことにした。
 打ち上げの場は大事だけど、文芸部の方ももちろん大事。

 特にいま、部室には西町さんと先輩二人がいるはずだ。
 西町さんを引っ張り戻しておいて僕だけいないというのは申し訳がなさすぎる。

「お疲れさまで、す」

 開けたドアからは、凍てつく冷気が溢れかえってきた。
 思わずそのまま帰りそうになった。

「環くん、おつかれさま! 練習で疲れてるだろうに、来てくれてありがとね」

 天使の笑みで出迎えてくれるくらら先輩。
 だがその笑顔は一瞬で影を潜め、先輩の顔には沈鬱な表情が現れる。

「おつかれさま」

 ぽつりとそれだけ漏らす西町さん。
 たった一言ではあるが、その声音からは歓迎と安心が感じられる。

 彼女は、一瞬僕に目線をやったあと、すぐに前を見た。
 見遣っているのは怜先輩、ではなく、くらら先輩。

 その目に浮かぶのは、疑心と警戒。
 くらら先輩の動向を窺っているような。

「環、見てたぞ。頑張ってたな」

 文芸部の良心、怜先輩がねぎらいの言葉をくれる。
 いつもいつでも、先輩は周囲の空気から超然としている。

 あなただけが僕の癒やしです。
 お兄さんと呼んでもいいですか、
 何ならお父さんでも。

 自分の席に着くまでの間に、状況を整理する。

 怜先輩はいつも通りだ。
 穏やかな表情でノートパソコンのキーを叩いている。

 問題はくらら先輩だ。
 俯いて考え込んでいるかと思ったら、いきなり悲痛ともいえる目線を怜先輩に向ける。
 悩んで、決意して、やっぱり怖気づいて。
 そんな心情が見てとれる。

 西町さんも、くらら先輩の尋常ならざる様子には気づいている。
 何をしでかすのか警戒し続けている。

 要するに、いま部室内に不穏な空気を醸し出しているのはくらら先輩だ。

 先輩は、何をしようとしているんだろう?

 目線で西町さんに問いかける。
 彼女は、微かに顔をしかめ、くらら先輩と怜先輩を交互に見た。

 だよね。
 くらら先輩が思い詰めるとなったら、怜先輩のことを措いて他にない。

 でもどうして急に?
 何をそんな焦っている?

 思い当たるところ。
 ……なくは、ない。

 くらら先輩の立場になって考えてみよう。

 昨年、文芸部はほとんど二人だけで活動してきた。
 先輩たちの更に上の代、いまの三年生部員も所属はしていたらしいけれど、名ばかりの幽霊部員だったとか。

 二人だけの文芸部に、今年は一年生が入部した。
 前島環と西町英梨。
 男子と女子が、一人ずつ。

 問題なのは、女子の方。
 くらら先輩からしたら、愛しの怜ちゃんについた悪い虫だ。

 実際、西町さんは入部依頼ずっと憧れの怜先輩にアプローチし続けている。
 下手っぴ、空振り続き、当の怜先輩には届いていなくても、すぐ隣で見ているくらら先輩からしたら、目について仕方がない。

 くらら先輩はジレンマに陥っている。
 怜ちゃんを泥棒猫は近づけたくない。
 でも小説家志望である怜ちゃんの世界を広げるために、文芸部の一年生は大事にしたい。

 くらら先輩のジレンマは、膠着状態にあると思っていた。
 西町さんに対し『大人しくしておきな』と牽制は続けながらも、いざ彼女が来なくなると心配する。
 揺れ動きながらも、振り切れないままになっていると、僕は勝手にそう思っていた。
 いま、そのバランスが崩れかけている。

 くらら先輩の思い詰めた視線。
 その視線の意味するところ。
 考えられるのは、ただ一つ。

 くらら先輩は、怜先輩との関係に、名前をつけようとしている。

 どうして突然こんなことになった?
 何かきっかけがあったか?

 僕が来なくなって、戻ってきて、西町さんが来なくなって、戻ってきて。
 どれも破綻を呼び込むファクタになるとは思えない。

「あ」

 酷すぎる気づきに、思わず声を漏らしてしまう。

 くらら先輩も、西町さんも、怜先輩までもが僕を見る。

「すみません、何でもないです。ただ、忘れものに気づいただけで……」

 慌ててごまかす。

 そうだ。
 あったじゃないか。
 くらら先輩のバランスを崩すようなできごとが。

 西町さんが来なかった時期、この部室を訪れた闖入者。
 文学青年のイケメンの顔を拝みに来たミーハーな野生の小悪魔。

 もしかして、今までは意識していなかったのかもしれない。
 自分の隣りにいる男の子が、とてもクールなイケメンであるということを。

 気づいてしまったのだ。
 同じ部活の後輩だけじゃない。
 縁もゆかりも無いギャルが粉をかけに来るくらいモテるのだということに。

 くらら先輩は麻利衣のせいで最後のバランスを崩した。
 もう、勘弁してよ。

 ふとした瞬間。
 張り詰めていた空気が動き出した。

 くらら先輩が天を仰ぐ。
 そして何かを迎え入れるように、自身の喉に手をやる。

「怜先輩!」

 思わず立ち上がり、声に出していた。
 再び僕に視線が集まる。

 今度は、何でもないでは済まされない。
 済まされないし、済ませない。

「どうした、環?」

 静かな笑み。
 穏やかな声音。
 怜先輩はあまりにもいつも通りで、この異常な空気の中ではむしろおかしいくらいだった。

「……いま、サッカー部って十人しかいないんです。女子二人も入れてそれしかいなくて。怜先輩って小説のために色々経験をつもうとしてるんですよね? 取材も兼ねて、サッカー部に入ってくれませんか? 未経験者も大歓迎です。そもそも試合すらできないような状態ですし」

 脳細胞をフル回転させ、それらしい言葉を紡ぐ。

 偉いぞ僕。
 見切り発車の割には、それらしいことが言えた。

「そうだな。悪くない話だ。興味深い」

 顎に手をやり、考え込む怜先輩。

「だが、すまん。兼部となるとやはり時間がな。ただ興味があるというのは本当だ。環、今度ゆっくり話を聞かせてくれるか」

「はい、もちろんです。よければ時間があるとき見学だけでもしていってください」

「それはありがたい。ぜひ行かせてもらおう。な、くらら、西町さん」

 突然話を振られた二人が、目をあちこち踊らせながら言葉を紡ぐ。

「はい。見学、楽しみですねー」

「そうだね、怜ちゃん。今度、行かせてもらおうかー」

 くらら先輩と西町さんが「あはは」と乾いた笑いを交わす。
 一方の僕はといえば、笑いすらこぼす余裕もなく、しなだれ落ちるように自席に腰を下ろした。

 サッカー部の練習の何十倍も疲れる、一瞬の攻防だった。